第十話 ポリティカルコレクトネスはお願いなんだ(3)
3
地震の翌日。
新たな動きが、スマホの向こう側で起きていた。
しかもあろうことか、きっかけは、またしてもあの忌むべき人物だった。
ウソと見抜くことが困難な「在日特権」とは対照的に、こちらはさすがに誰も信じないだろうと風歌がある意味たかをくくっていた例の井戸デマ。その拡散に、どういうつもりか、この大物ネトウヨが参戦したのだ。
SNSでの書き込みだった。
「先日、田舎の叔父が井戸の水を飲みましたところ、運が悪いことにおなかを壊してしまったそうで。皆様、くれぐれも井戸水にはお気を付け下さい。」
以上。
腹痛の原因が毒だとも、毒だったとして誰が入れたとも言及していない。おまけに言葉遣いも丁寧で、「心配です」「大事がなければいいですね」などといったファンたちの声に、これまた無難な感謝の言葉や「いいね」で返しているだけだ。
ただ、冒頭の報告だけでも十分に問題なのだと、カウンターたちの間でAGITOへの批判が相次いだ。
「生活用水としての利用ならともかく井戸水を飲むという行為。地方なら珍しくないのかもしれんが、お前のことだ。どうせ叔父の腹痛まで含めて嘘なんだろう。が、万に一つ事実だったとして、実際その真偽は関係ない。地震があったこの折、井戸デマがはびこるこの最中に、なぜそんな発言をあえてしたかだ。」
「こいつ、今の今まで田舎の叔父とやらについて一度でも言及したことあったかよ。ねーよなあ? 実在すら怪しいぜ。」
「もち、ヘイTOの狙いは一つでしょうね。差別扇動になってるこのデマを、さらに盛り上げるため。実際この発言を受けて、やっぱり井戸は怖いとか、外国人の怪しい動きには要注意とか、悪いのは叔父の運じゃなくて○○人――といった反応が相次いでいます。」
「ヘイTO ()笑」
「どさくさに紛れてヘイトスピーチしやがってなあ。火事場泥棒はお前らネトウヨどもじゃねえか。」
「ほんとそうだよ。ったく。一方で保身のためか、アギト本人の発言自体はデマとは言い切れないもので、それでいて猟犬をけしかける犬笛としては十分に機能してる点も卑怯なところ。まずもって批判をかわすためだろうね・・・」
「一応、違反報告しておいたけど、どうせ運営側は、聞こえませーんってことで取り合わないんだろうなあ。これよりよほど露骨なヘイトスピーチでも滅多に取り締まらない糞運営だし、犬笛なら尚更。」
「犬笛ってそういうものだからね。何の違反にもならないし、聞こえない人には聞こえない。そこはアギトも計算して吹いてる。」
そこまで分析しつつ、いや、だからこそか、カウンターたちは振り上げた拳を下ろそうとはしなかった。かねてよりAGITOの歌詞には極右的な成分が、発言に至ってはこのごろ弱めのヘイトスピーチまで散見されるようになってきていたことも、今回の行動の強い後押しとなった。たまり続けたエネルギーが、ついに臨界点を超えた形だ。一回一回はわずかな一しずくでも、したたり続けたことで、コップの水はいつしか表面張力の限界を迎えていたのだ。
そこへ、ついに最後の一滴が垂らされた、ということだろう。
均衡は破れ、水は大きくあふれ出した。
カウンターたちはまず、AGITOの楽曲や、楽曲を提供した映像作品を、買うべきではないと世間に呼びかけた。さらには販売側にも自粛を要請。また、AGITOを広告塔にしている企業や自治体に、AGITOを降板させるよう抗議のメールやファックスを書き送った。署名サイトではキャンペーンを立ち上げ、やはり自治体に対し、差別を煽る人物とは手を切るよう求め、賛同者を順当に百人、千人単位でかき集める。
かくして、自身のファンをけしかけてマイノリティを攻撃させつつ、それでいて我が身への反撃だけはしっかり回避しようとしたAGITOのもくろみは、防御面においては完全に外れたのだった。
ただ、カウンターのほうも無傷では済まなかった。不買運動の対象となった商品の購買層から、大なり小なり反発を受けてしまったのだ。とりわけ熱心に反発したのが、AGITOが主題歌を担当した邦画の公開を心待ちにする人々だった。天祢宅のテレビで風歌が目を逸らした洗剤のCM――それとタイアップしていた例の作品だ。
「映画見たいのに邪魔すんなよ」
「関わった人に罪はあっても、作品は無罪でしょ」
「わたしもヘイトスピーチは良くないって知ってるし、AGITOのあれもヘイトスピーチというのは理解してるけど、この映画自体がヘイト作品ってわけじゃ全然ないからねえ……」
「そんなやり方じゃ支持は得られないよ」
「正直、横暴と思う。昔のカウンターはこれほどじゃなかった」
本当に「昔のカウンターはこれほどじゃなかった」のかはさておき、ネトウヨならずとも反発の声が少なくなかった。ましてネトウヨならばどう反応したかについては、わざわざ確認するまでもない。
さらに同様の反発の声は、風歌が通う修高の中においても上がっていた。
これには、もともとAGITOのファン層が十代を中心としたものであることに加え、SNSアカウント「遠埜霧」の影響が大きかった。
先日の「逮捕」騒動を機に、ネットユーザーとしての霧も、本校内においてはっきりと意識されるようになっていた。ネトウヨへの罵倒の数々、どのようなデマや詭弁をも即座に論破できる豊富な知識と頭の回転の速さ、ヘイトスピーチに対する毅然とした態度と強い正義感――いずれも生身の本人と同じく、一度その存在を知ると、敵味方の区別なく誰にとっても忘れがたいアカウントとなる。
そのネット上の霧が、一連の不買運動に当然のように賛意を示し、また自らも広く呼びかけたのだ。
「レイシストを儲けさせてはならない。」
霧を崇拝する者たちの半数は、その信仰のまま迷うことなく霧に同調した。
「同意 悪い人がお金を稼ぐのはダメー」
しかし普段は無邪気に霧を慕うその子たちでさえ、逆にいえば残り半数は支持を躊躇した。霧を敵視する生徒たちにいたっては、初めて感情論以外で霧を非難する口実ができたと、おそらく全員が内心で小躍りした。
「レイシストだから不買って・・・ んじゃ、古典とかどうすんの。昔の人たちは大抵レイシストなんですけど?」
「反差別なんてご大層な事言ってるけど、結局、自分が気に入らないものを排除したいだけでしょ。バレバレ」
また、レイシズムやヘイトスピーチの正確な意味を解さず、霧たちこそがレイシスト、AGITOにヘイトスピーチをするな、などと半端な知識に基づいた非難をする者さえいる。これは例えば窃盗の疑いをかけられた者に対し、放火魔と罵るようなものだ。嫌疑が事実であるか以前に、まずその罵り方が間違えている。
彼らはさらに世間のネトウヨとも歩調を合わせ、川崎でのヘイト集会をカウンターが中止させた件についても、今更ながら深刻そうに騒ぎ立ててみせた。
「そんなことまでやってたんか」
「表現弾圧!」
「完全にテロじゃん」
「大義名分さえありゃ、いくらでも叩き潰していいってか? まあ、野蛮なことで(笑)」
「カウンターは自由の敵!」
何にせよ、総合的にはまずもって不支持者のほうが多そうだった。明らかに悪である差別やヘイトスピーチですら、黙認する者が少なくない世の中だ。これが、いくら悪人が関わっているとはいえ、それ自体は決して悪ではない映画だの何だのとなると、さらに認めて許す者が増えるのは当然の成り行きだったろう。
実のところ、どちらかと言えば風歌の心情もまた不支持の側だった。
「AGITOのことなんて、もう考えるのも……。だけどね……」
もはや校内のどこにいても、霧には敵意の視線ばかりが目立って集まっている。ある時、風歌が霧の背に向かって次の言葉を投げかけようとし、思い直して飲み込んだ。
「遠埜、わたしも前はAGITOのこと好きだったんだよ。だから遠埜に反発する子たちの気持ち、すごく分かっちゃうんだ――」
髪のことで今よりずっと悩んでいた日々、眠気をこらえながら受験勉強に打ち込んだ夜更け――イヤホンから伝わるAGITOの楽曲に、どれほど慰められ、励まされてきたことか。
確かにAGITOはヘイトスピーチでマイノリティを傷つけるが、その曲に救われてきた子たちがいることもまた、もう一つの真実なのだ。
差別をなくすのは大事だが、差別でないところにまで踏み込んで、良い部分まで潰してしまうのは行き過ぎではないのか。
「わたし、分かんないよ……遠埜……」
そうした風歌の複雑で繊細な心境は、自身、過不足なく的確に言い表せる気がしなかったため、霧にも、ほかの誰にも打ち明けることはなかった。そのためか、世間的には、風歌は引き続き、霧と考えを共有する同志と見なされていたようだ。
「あなた誰ですか! もう、いい加減にしてください」
階段下の廊下で、母が乱暴に受話器を置いた。リビングに戻ってくるなり、くつろぐ家族たちへ、問われる前に短く答える。
「いたずら電話」
「またか。このところ地震より多いな」
父がうめくように嘆息した。
「ヘリウムを吸ったみたいな甲高い声で、娘にこう伝えろ、生徒会長とは手を切ってカウンターをやめるんだ、さもないと……だって」
「脅迫じゃないか!」
「やっぱり通報したほうがいいかしら。警察? 学校?」
「ごご、ごめんなさい! わたしのせいで……」
風歌は思わず立ち上がってしまった。
「風歌」
母の声には、ぴしゃりと咎め立てる色があった。そのため、ますます肩身の狭くなる思いがする。が、続く言葉は、風歌の予想に反するものだった。
「あんたが謝ることじゃないの」
「母さんの言うとおりだ」
父も、再び大きく息を吸った。
「……本気で正しいと信じてやってるんだろ?」
「一応……」
「なら、続けなさい。余計な遠慮も心配も要らないから。あとのことは父さんたちに任せて」
「そうよ。あんたが子供だろうと大人だろうと、親には親の役割があるの。自分の子だけを頑張らせる親なんて、格好つかないでしょ」
「お母さん、お父さん……」
風歌は、はにかみながら少し涙ぐんだ。
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