第十話 ポリティカルコレクトネスはお願いなんだ(2)
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禁止や自粛を求められれば破りたくなるのが人情なのは、風歌にも理解できるところだ。例えばこの日の夕食、ご飯をお代わりしたことを父にからかわれたため、逆にもう一杯、無理を承知で胃に流し込んでやったものだ。
「……日本に限ったことでもないんだろうけど」
そのように、昼間の天祢は前置きした。
「この世の中って、何か大きな不幸があるたびに、動物園から猛獣が逃げ出したとか、誰かが引き起こしたテロだみたいな、根拠のない噂やあからさまなウソが決まって囁かれるんだよね。不安や恐怖をごまかすために、ついつい不確かなことを口にしちゃうこともあるし、本人は軽いイタズラのつもりで、わざと言いふらす場合もある。で、井戸デマだけど、ネトウヨたちも例に漏れず、これはヘイトスピーチの絶好のチャンスということで――」
概略ではあるが、天祢の説明を受け、風歌はひとまずのところを理解した。
今からおよそ百年前、相模湾北部を中心に、関東全域で巨大な揺れと、それに伴う甚大な被害が発生した。ほかでもない。関東大震災だ。震災の犠牲者は十万人以上。加えて、虐殺による犠牲者も数千人いた。殺したのは日本人。殺されたのは朝鮮人、中国人、沖縄県民、共産主義者、被差別部落出身者、そして聴覚障害者や吃音者など。うち、朝鮮人犠牲者が最も多く、朝鮮人と間違われて殺された人も少なからずいた。当時の日本は、北海道の編入や琉球処分、台湾割譲に続いて朝鮮半島をも支配下においた帝国であり、そのため、とりわけ半島から列島に多数の人々が移り住んできていた。そんな移住者たちを、当時の宗主国側の人間が同じ国民として手放しで歓迎したかといえば決してそのようなことはなく、自分たちよりも劣る存在であるとして、結婚や就職、選挙権等、多岐にわたって差別し続けた。
そのような情勢下で震災は起き、街が壊れ、燃え上がった。
おびただしい量の死体と瓦礫、灰燼の上で、運良く生き延びた支配者たちは、おそらく、ふと我に返った。
そして恐れた。
つい昨日まで虐げてきた相手が、この混乱に乗じて報復してくるのではないかと。
彼らの恐怖心は、日ごろひそかに抱いていた後ろめたさの裏返しだったかもしれない。となれば、良心がうずいたともいえる。
しかし、そのうずきは結果的に、当の彼らをして、さらなる非道な行いを犯させることとなった。
「奴ら、井戸に毒を入れ回ってるらしいぞ」
「あっちの通りで暴れてるそうだ」
「火事場泥棒に気を付けて」
誰ともなしに噂し始める者がいて、噂は噂を呼び、新たな噂も続々と産み落とされた。富士山噴火、伊豆諸島水没、時の総理暗殺――後世の者なら即座に荒唐無稽と知れる事柄も当時は裏付けのないまま報道までされ、そうしたメディアの中には官報――国による刊行物すら含まれていた。もっとも、誤報に関しては官民ともに一応は訂正されることになる。虐殺が進行した後にだが。
「あんたたちも聞いたか」
「巡査さんらも言ってる。けど手が回らねえって」
「すると、どうやら本当らしいな」
「こりゃあ、自警団を組織しねえと。おい、こん中に兵隊さんいねえか」
「できれば大陸帰りがいい。三・一暴動鎮圧の経験者とか」
「なに、我らとて護国の一兵卒」
「いざ征かん。殺される前に殺せ」
「わしらの手で女子供を守るんだ」
――。
天祢による細部の補強もあったが、実のところ、ここまでは風歌も小学校や中学校の授業で習ったため、おおむね知っていることではあった。
今回まったく初めて知ったのはこの先、時代を現代に戻してからのことだ。
当時の噂を、ネトウヨたちは今日においても繰り返しているという。
「え、だってウソなんでしょ? ネトウヨは百年も前のウソをいまだに信じちゃってるの?」
「馬鹿って思うでしょ? でも、そうなの。実際、馬鹿なの。もちろん、さすがに本気で信じているネトウヨは少ない……少ないかな?」
自分の言葉に天祢は首を傾げた。
「でもね、たとえ本当は信じていないのだとしても、それでもわざと、あえてウソの噂を広めるのよ。在日コリアンの人たちを貶める百年前のウソをね。ひどいものだと、こちらが自警団を作って――という歴史的事実のほうが作り話だとか。朝鮮人追悼式典でも、都知事によって追悼文を出したり出さなかったりするし」
「ん?」
「ああ、ええとね。毎年九月一日、関東大震災が発生した日にね、震災で亡くなった方たちを弔うのとは別に、虐殺で亡くなった方たちを追悼する式典も開かれるの。ほら、災害で亡くなったのと人に殺されたのとでは、同じ死でも弔い方は違ってくるでしょうからね。歴代の都知事たちは、そちらの式典にも追悼文を送って、もうこんな悲劇なんて起こしませんっていう誓いを新たにしていたんだけど、中には送らない知事もいてね。きっと、自分たちの祖先が犯したこの罪と向き合いたくないものだから。送った知事の中にすら、別件ではどうしようもない差別主義者ってのもいたんだけど、これで追悼文すら送らない知事となると……」
「もっとひどいネトウヨだ」
「……よね。ネトウヨ。たとえば元々はリベラルだったとか新自由主義者だとかは関係なくて。右とか左とかって政治思想がどうだろうと、とにかく歴史修正主義者ならネトウヨ。同時にたぶんレイシスト。大抵の歴史修正主義にはレイシズムをはらむものだからね。実際この件がそうだし。いま言った追悼式典のすぐそばで、虐殺は無かったなんてニセの追悼集会を平然と行うような連中なんだから。そこで飛び出すのは例によってヘイトスピーチで」
「ひどいですね、ホントに……。ぎゃ、虐殺がなかったなんて……井戸デマといい、なんでそんなウソを……」
「それがネトウヨだからね。まあ中には、周りがデマを広めてるから自分も何となくおもしろ半分で――ってのもいるんだろうけど」
「おもしろ半分って……ちっともおもしろくなんか……。それに、そうだとしても許せません。ただ――」
「ただ?」
「さすがに信じる人いないんじゃ? 井戸自体あんまりないですし。それに、小学生でも知ってるような過去の出来事を今さらなかったことになんて、いくらなんでも……」
「無理がある? 事実は曲げられない?」
「うーん……井戸に毒を入れてるってデマを通報するのが間違いとは言いませんけど……」
たとえ、どれほど軽い冗談のつもりだろうと、井戸デマが、この現代においても、やはり悪しきものであることには変わりない。なにせ無実のマイノリティたちを人殺し呼ばわりするものなのだ。
しかし、あまり厳しく当たりすぎるのもどうかとも、風歌は実は思っていた。
ネトウヨのほうとしてもムキになり、いよいよヘイトスピーチに精を出すことになるかもしれない。実際そのようで、だからこそ霧も天祢も真子も、朝早くからネットの書き込みを確認し、それらを見つけ出しては違反報告するハメになってしまったのではないか。
これが例えば、「在日コリアンには、さまざまな在日特権がある」といった、よほどしっかりした知識がないと誰でも容易に信じてしまうようなウソなら話は別だ。ただちに「そんなものは一つもない」と火消しにかからないと、ウソの炎はすぐにも燃え広がってしまう。そちらについてなら理解も実感もできる。
というのも、風歌自身、つい先日まで漠然と在日特権の存在を信じてしまっていたからだ。さすがにネトウヨが主張する内容のすべてがすべて本当だと信じるほど、もはやうぶではなかったが、それでも、もしかして少しくらいなら存在するかもしれないとは、何となくだが思い込んでいた。その少しを過度に誇張し、言い立てているのではないかと。
ある時、何かの拍子でそうした思考を自研部の皆に吐露してしまったが最後、風歌は『「在日特権」の虚構 増補版』をメインのテキストに、寄ってたかってみっちりと詰め込み教育を受けさせられることとなった。
「相変わらず、残念なおつむだな」
あきれる霧に、真子と天祢も続く。
「それも知らないんですかあ」
「大丈夫、しっかりお勉強すればいいだけ、ね」
具体的には、家庭教師の授業さながら、本書の各章ごとにマンツーマンで代わる代わる講義を受けさせられた。実に苦行だった。
「大体ないって分かったから、もういいじゃんねー」
通話の相手は、このごろ回数が増えてきたあゆむだった。この手の愚痴を聞いてもらうには、何かと怠惰で遊んでばかりいる彼女が最適と踏んだのだ。愚痴以外にも、遊びの経験の豊富さから、軽音部のバンド名を何にするかで相談に乗ってもらったこともある。ただ、その時はやたらと濁音の付いたものばかり提案され、大した参考にはならなかったが。
「またガ行……」
「濁音、カッコいいじゃん、強そうで。んじゃ、修応館を濁らせてジュウオウ――」
「カワイイのがいいの!」
ところが今回の会話も、期待した方向へは転がらなかった。
「んなわけあるかボケ」
「ええーっ」
「勉強しろ」
「ヤだよう……。ただでさえ二年になって宿題増えたのに……」
「宿題楽しいだろ。……出すほうはな!」
「ケッ」
「わはは。けど、これに関しちゃあなあ……」
あゆむが、やや声の調子を落とした。
「偏見ってやつ。厄介なんだよなー」
「偏見……。それは、まあ。わたし、この髪だし。あゆ姉たちだって……」
「旧宗主国と旧植民地との関係もなー。昔、日本は朝鮮半島を支配してただろ。これ、インドを支配してたイギリス人にも言えることだけどよー、たとえ昔のことでも、支配者だったころの気持ちよさって、なかなか忘れらんねーんだよ。それでいまだに威張ったり、相手を見下したりしちまう」
「……」
「一度できた偏見がなかなか消えねえってこと、うちらは嫌ってほど知ってるわな。偏見に染まるのは簡単だけど、それを洗い落とすのは何兆倍も大変だっつーの」
「兆もいかないと思います。でも、万くらい……? 大変は大変ですね。はい、確かに」
「んじゃ、大変がんばらねえとな、勉強」
「そう返ってきたー! 遠埜に言われたらムカつくとこでした」
「こほん、あー……」
すかさず、あゆむが霧の声真似をした。
「
「言いそう!」
風歌はきゃっきゃと笑った。
霧の生き霊をわが身に憑依させたあゆむの面白い激励もあり、風歌は一連の勉強をどうにかやり遂げた。さんざん愚痴はこぼしたが苦労の甲斐は確かにあり、ようやく、そうした特権などただ一つの例外もなく存在しないことを、ものの見事に、かつ完璧に、六割ほどの理解度で知るに至った。なお、風歌の頭だと何事も六割が上限であり、よって、それで完遂となる。
霧らの補足も交えつつ――事実はこうだ。
在日コリアンなので税金を納めなくてよい、といったことはない。納めはするが少なくて済む、ということもない。
水道料金の基本料が日本人より安いというのもデタラメだ。もちろん、ガスや電気など、ほかの公共料金も同様だ。
生活保護の審査が通りやすいという話もウソだ。むしろ逆に、日本国籍がないことで通りにくくなっている可能性こそ生じている。「在日外国人への生活保護支給は違法ではない」とする最高裁判決があるそうだが、故意なのかどうか、それをそのまま正反対の意味に取り違え、違法だとするデマがいまだ根強いという。もしも生活保護の窓口で応対する職員がそのデマを信じてしまっていたら……?
それでも在日コリアンの生活保護利用率が少しばかり高いのは、単純に、その分だけ生活困窮者の割合が多いからだ。しかもその多さは、上は官から下は民に至るまで、長年にわたるさまざまな差別によって、かつては年金制度に加入できなかったり、今なお就職や賃貸住宅への入居に支障があったりすることに原因がある。そういえば、朝鮮学校の生徒たちに対してだけ、無償でなく授業料を払うのが当たり前と叫ぶ悪人たちがこの国には少なくないのだ。せめて『朝鮮学校無償化問題FAQ』というサイトくらいは見ておけというんだ。風歌も霧に偉そうにそう言われた。
ちなみに『「在日特権」の虚構』で綴られた真相の多くは、著者一人が調べ上げたものではない。確かかどうかの裏取りは当然したのだろうが、基本的には、ネトウヨと違って心ある、そして名もなき一般の人々がかつてネット内外で調べ、蓄積してきた知識の集大成だった。
それまで盛んに吹聴されてきた特権など実は存在しないということが、初期のカウンタープロテストとも呼べる人々によって暴露されるたびに、当時のネトウヨ側としても、ならばこれはどうだとばかりに、ほの暗い情熱を燃やし、次から次へと新たな「特権」を掲げてみせたのだという。が、そのどれもこれもが、管理者をはじめ誰も責任をとらない匿名掲示板を主な発信源に選んでいたこともあり、やはり明確に虚偽と断定できる代物だった。完全な事実無根もあれば、一応は事実だが、「われわれ日本人と生意気にも同等の権利なので特権と見なす」といった傲慢かつ無理筋のものもあった。一般的な在日コリアンよりもさらにひどい差別を受けている人たちを比較対象に選び出し、「この人たちよりも恵まれているのだから、やはり君たちは特権階級なのだ」という屁理屈に至っては、もはや邪悪を通り越して滑稽だった。ならば、おそらくはネトウヨ自身をも含むマジョリティこそが、圧倒的に、不当に利益を享受する真の特権階級になってしまうだろうに。
いや、どの社会においても、そもそもマジョリティこそが特権階級には違いないのだ。だのに差別をしている側が、各対象によってその加減を変え、比較的手加減している人たちを指して「恵まれている」と憎しみをあおる。滑稽だが、その底には、やはり吐き気をもよおすほどのおぞましさが横たわっていた。
ただ、中には際どい「ネタ」も、日本全国を広く深く過去何十年分にもわたって掘り返してみれば、ごくごく小さなものながら、ようやく一つ二つと特権の片鱗らしきものが、あるにはあった。しかし、それだって本書の著者が現場に足を運び、当時の関係者たちから詳しく話を聞き出してみれば、それらもやはり特権などではなく、差別を是正するための一時的な救済措置――アファーマティブアクションにすぎなかったことが判明した。しかも同様の措置は、日本人であっても、差別を受けている人々ならば広く対象だったのだ。
まごうことなき結論として、在日米軍のそれ以外に「在日特権」なるものはない。それはネトウヨの頭の中にしかない。しかも彼らのうち多少は知識があって悪知恵の回る者なら、恐らくその頭の奥深い所にも存在せず、ただちょこんと舌先に乗せる分しかない。自分より程度の低いウヨ仲間たちを騙してマイノリティへの憎悪を募らせ、せっせとヘイトスピーチを繰り出すロボットとして仕立て上げるための分くらいしか――。
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