第十話 ポリティカルコレクトネスはお願いなんだ(1)


     1


 夢を見た。

 風歌ふうかは同校や他校の生徒たちとともに登校中で、電車の中でつり革を握って立っていた。現実と違ってなぜか隣にきりもいたが、その時の風歌にはそれが自然で、特に疑問に思わない。

 やがて駅に着き、修高の生徒たちがぞろぞろと降りていく。風歌も霧に続いて下車しようとしたが、寸前で車内が大きく揺れて足もとがふらつき、その間にドアが閉まってしまった。

 ――待って。

 とっさにドア窓越しに霧に向かって叫んだが、こちらに気づかないのか、彼女は構わず一人でさっさと歩いていく。

 なおも車内は小さく揺れ続けていた。

 起床後、制服に着替えてあくび混じりに下りてくると、忙しい朝の食卓で、父と母がつかの間、テレビのニュースに注目していた。

「この地震による津波の心配はありません」

 アナウンサーが淡々と告げていた。

 画面に表示されたテロップによると、この自宅付近は「震度3」とのことだった。震源地である千葉県北部だけが最大の4だ。マグニチュードは5・0。何人か、負傷者もいるという。

「最近、多いわねえ」

「今に大きいのが来るぞ」

 両親のそうした会話も、今朝にかぎらず何度も繰り返されてきたものだ。

 関東は、地震が多い。

 登校すると、クラスは地震の話題でもちきり――のはずはなかった。まだ制服の衣替えを済ませていない子と同程度で、話題にする子もちらほらと見受けられる、といった程度だ。

 その一人が霧だった。いつもは一、二を競う早さで登校してくると風の噂で伝え聞く生真面目な生徒会長が、今朝にかぎって朝のショートホームルーム直前で教室に飛び込んできたのだ。

 奇貨おくべし。

 最近、漢文の授業で覚えた言葉だ。

 さっそく風歌はからかった。

「遅刻じゃーん」

「ちょっと、地震の後始末でね」

「え? 遠埜とおのんち、そんなに揺れたの?」

「別に……。あ、君のご自宅と比べればそうかも。いつも遅刻するかしないかの遠距離通学みたいだから」

「そんなに遠くないよ!」

 霧は相変わらず毒舌だったが、いささか眠たげなのは常にないことだった。それでも授業にはしっかりと臨んでいたようで、この日は教師に計三度さされたが、三度ともすらすらと答えてのけたのは何とも癪な気分だった。

 霧の眠気の原因が明らかとなった。

 明かしてくれたのは、指導員として自研部に出勤してきていた天祢あまねだ。

「見たら早いかな」

 天祢は一人うなずくと、両者の間に広げられていた本――『「在日特権」の虚構 増補版』をいったん裏返した。某事情により、近ごろめっきり憎らしい一冊だ。風歌がホッと安堵したところへ、天祢がスマホを取り出し、何やら操作してから本の隣に置く。

 突如差し出されたスマホに、風歌は一瞬、校則違反を疑った。が、天祢は本校の生徒でないことを思いだし、真子まことともに上から覗き込む。

 表示されていたのは、SNSにおける霧のアカウント「遠埜霧」だった。

 霧の返信だけが、投稿時間の逆順で上からずらりと並んでいる。最新の投稿は、朝のショートホームルームが始まるわずか十数分前のものだった。

「お前もどさくさに紛れて井戸デマを吐くんじゃない。運営に違反報告したぞ。」

 以下、同様の文言が何十件と続いている。

「これって……?」

 顔を上げると、天祢もこちらを見つめていた。

「今朝、地震あったでしょ? その直後から、ずらっとこんな感じ。霧のことだから、すぐに飛び起きてネットのチェックを始めたんでしょうね。かくいうあたしも、まあまあ同じように通報作業してたもんだから、濃いめのコーヒーを二杯も飲んじゃった。おかげでお肌に悪い悪い」

「お疲れさまです。わたしも何件か、通報しておきました」

「あら、真子ちゃんもお疲れさま」

「いえいえ。これから夏休みの間、お父さんから、外でのカウンター、禁止されちゃいましたし」

「夏休みいっぱい?」

「はい、夏休みが終わるまで」

「仕方ないか。暑いし」

 先日、カウンターの途中で体調を崩し、警察官である父親にタクシーで迎えに来てもらった真子だ。確か、霧は別の小難しい症状名を口にしていたはずだが、二宮にのみや宅では、どうやら熱中症ということで話が進んだらしい。天祢も自然にその前提を受け入れている。風歌にも特に異存はなかった。もしかすると霧の見立てのほうが正しかったのかもしれないが、なにせ熱中症のほうが分かりやすい。正確さよりは理解のしやすさだ。

「遠埜先輩からも、熱中症を甘くみてはいけないよって」

 あれ? 遠埜も熱中症派に転向?

 いや、もう済んだことだから、無駄なちゃちゃは入れなかっただけだろう。基本は何かと理屈っぽい霧だが、方便の使いどころも心得ている彼女だ。まして自己満足のために知識を誇示するような彼女ではない。

「……でも、カウンターに参加すること自体は許してくれたのね? 警察官として断固認めるわけにはいかない、とかじゃなくて」

 ここが肝心とばかり、天祢が尋ねた。

「その辺ですよねえ。わたしも念を押して聞いてみたんですけど、『うーん、何が?』って感じでした。そもそもヘイトデモとかカウンターとかが何なのか、よく分かってないみたいです。ただ、デモで何かを訴える自由があるなら、その意見に反対する自由もあるだろう、ということで」

「ヘイトスピーチする自由のほうはないんだけど……うーん、行政が許可しちゃってるからなあ……。まあ、もしもお父さんが公安か機動隊員ならカウンターのほうがダメっておっしゃってたかもしれないから、ひとまずは、それでよしとしますか。交番勤務でいてくださったことに感謝しないとだね」

「フフ」

「禁止されたのは、炎天下に外出することだけなのね」

「ですです。だからその分、せめてネットくらいは頑張らなきゃって。何だか、楽してるみたいですいませんけど」

「そんなこと、ないない。ネットは孤独だし、ヘイトスピーチと自分との間に遮るものがないし、二十四時間三百六十五日続くものだし、たまに路上に出てくるだけのカウンターより、正直キツいと思う」

「そ、そうなんですか?」

「あたし的には、街に出て、無告知の街宣やデモが行われていないかを見て回るヘイトパトロールよりも、さらに一段とキツいわね。パトロールは半分お散歩だから、知らないお店とか発見できて、ちょっと楽しいし。ただそれでも、いざヘイトの現場を見つけてしまったら、応援が駆けつけてくれるまで味方は自分だけだから、その時はやっぱりすごくキツいんだけど」

「ヘイトパトロールかあ……。そっちは、まだしたことないです」

「とにかく、ネットを監視するほうは、ネトウヨのライブ配信とか、しっかりコメントでしばかないと単に向こうのアクセスを稼ぐだけになっちゃうし、重圧がすごいんだよ」

「はあ……。真子、できるかなあ……。井戸デマの通報だけでもちょっと胃のあたりが……」

「だよね。実態はヘイトスピーチだし、ヘイトスピーチって、マジョリティでも目を通すのはそこそこ苦しいし」

「マイノリティの方たちなら、なおさらですよね。ヘイトスピーチ禁止法案、また先送りになったそうですし、あんまり甘えたこと言えませんね」

「国会、閉幕しちゃったね。野党の延長要請にも与党は応じず……。でも、政治が不甲斐ないからって、こっちも無理は禁物。辛かったら休んでいいんだよ。無理しないで自分のペースを保つことが大事」

「国会?」

 話についていけない風歌が、ひとり取り残される不安感から、今さらながら二人に尋ねた。

「いえ、ホントは知ってます。国の会ですよね。ホントに聞きたかったのは井戸デマ」

「え、井戸デマは井戸のデマですよ?」

「井戸のデマって?」

「ホントのホントに知らないんですか? ……二度ボケ?」

「二度ボケじゃないよー」

「二度……井戸デマというのはね」

 天祢が言い直しつつ、どうやら真子に代わって説明してくれようとした。ただ、その表情からは、平易な言葉遣いと裏腹に朗らかさがすっかり消えている。普段は温厚な彼女だが、レイシストとじかに対峙するときや、差別問題に少しでも深く切り込もうとする際は、決まってそのような顔つきになる。

「ネトウヨが、地震のたびに、ね」

「地震……」

 当部室の前方、黒板の脇に収納棚がある。棚には例の差別問題に関する本が納められており、いま机上にある一冊を除いて、すべてきれいに揃っている。それらの背表紙を、半ば無意識に風歌は見やった。確かタイトルに「地震」――いや、「震災」の語の付く本があったことを、まだ覚えていたのだ。

『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』が、それだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る