第九話 パパを悪く言わないで!(5)
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天祢が現在勤める旅行代理店は、実は二社目という。今から四年前、短期大学に入学した年の夏、他の旅行代理店でも働いたことがあったそうだ。
格別に旅行好きだったわけではない。ただ、それに先立つ春の大型連休中に高校時代の友人たちと再会を兼ねて卒業旅行をしてみたところ、近場の一泊二日だったにもかかわらず、思いのほか楽しかったのだ。加えて、卒業した修高ではアルバイトを禁じられていたこともあり、抑圧からの解放感で、新短大生の胸には、まだ見知らぬ世界への期待と希望とが大いに満ち満ちていた。
とはいえ、短大生の生活は想像していたよりも忙しく、前期授業中は日雇いのティッシュ配りなどを散発的に行うのがせいぜいだった。
夏期休暇に入って初めて、待望の、腰を据えた労働の機会に恵まれた。卒業旅行の記憶から旅行関連の仕事をしたいと願い、ずばり旅行代理店の短期アルバイト募集に応じる。
採用後、実際にあてがわれた仕事は、裏方でのデータ入力や伝票整理という、正直にいえば期待外れの作業だった。それでも、まとまった金額を稼げる喜びもあり、天祢は張り切って初日に臨んだ。
膨らんだ胸がしぼんだのは、事務所に第一歩を踏み入れたまさにその瞬間だった。
「なんべん言ったら分かるの、この馬鹿!」
ある正社員が、別の正社員に怒号を飛ばしていた。ひどい洗礼だった。
しかも初日だけが例外ではなかった。同様のすさんだ光景はその後も頻発し、突然椅子を蹴飛ばしたり、物を床にたたきつけたりなどの乱暴な行為が繰り返された。怒鳴られた例の社員も、自分より若い社員にきつく当たった。その若手社員からは、今度は天祢たちアルバイトがいびられた。
「ちんたらしてんじゃねーよ。バイトは気楽なもんだな。遅く来て早く帰ってさ」
「……ね? 雰囲気、最悪っしょ?
休憩中、長期アルバイトの先輩が天祢にそっと耳打ちをした。
「でも、この業界、どこもそうらしいよ。休み少ないし、サービス残業多いし、営業にはノルマあるし。そのノルマったって、店に来る客なんて、はなから旅行いく気満々なんだから、それ以上どうカネ搾り取れっつーの。……ねえ?」
「……」
「体壊して辞めてった人は、まだ幸せ。そんな理由でもないかぎり、転職活動する暇すらなくて辞めれないんだから。辞めたら負けみたいな、ヘンな我慢比べになってる感まであるし。我慢してたら心だって壊れてきちゃうのに。あ、壊れてるから辞めれない? てか、あたしもその口かもって感じで。ヤバいヤバいとは思いつつ、なんだかんだでズルズル来ちゃったのよねえ……」
そう自嘲した先輩も、就活がさらに一段と本格化する盆明けになって、ついに去っていった。その頃には天祢も胃に痛みを覚えるようになり、当時付き合っていた彼氏とも、食事に関する些細ないざこざを機にギクシャクしはじめた。
「あたしも……」
契約期間の満了を待たず辞めようかと思案しつつ、その日もどうにか退勤時間の午後十時まで勤め、ハンドバッグを肩に、社の者しかいない店内へ機械的に挨拶をする。
「お先に失礼します」
店舗をあとにしかけたとき、開いた自動ドアのすぐ外側から声をかけられた。
「もらっていい?」
目と鼻の先にいたのは、ショートヘアでスラリと背の高い人物だった。歳は自分と同じくらいか。ラフで中性的な服装のために性別を把握するまで数秒を要したが、どうやらそちらに関しても自分と同じ女性らしい。少なくとも肉体的にはそうだろう。
その手には、頒布用として店頭に置いてあるパンフレットのうち十冊ほどが収まっていた。ババ抜きでもするかのように広げて持っている。行き先は、北海道と、沖縄と、あとはどうやら海外らしい。
「どうぞ、ご自由にお持ち帰――」
さすがに職歴の長さからか、天祢より先に、カウンター越しに社員が満面の営業スマイルで言いかけた。ところが相手の顔を見るや、途端にバックヤードでのすさんだ表情に戻ってしまった。
「まーた、お前か。冷やかしめ。毎度毎度、新しいのが出るたびに、きっちり漏らさず持っていきやがって。それ、元んとこ戻してとっとと帰れ。シッシッ」
「ひでえ。うちだって旅行いくっつーに。いつかカネ貯めて」
「ずっと口ばっかだろ。本当に貯めたら来い」
「そんときゃ、こんなとこ来ねーよ。パックたけえし」
「帰れ!」
プッと、天祢はつい吹き出してしまった。粗野な社員に向かって客ならではの図々しさを披露したその女性が、やけに心地よく感じられたのだ。
「あの……あたしは、もらっていいですか?」
「ん? ああ……」
天祢は社員から許可を得ると、女性から半ば強奪するようにパンフレットを譲り受け、店舗のやや脇、店内からは見えない死角で再びどうぞと差し出した。
「お?」
女性が、目の前の光景を疑うように目を細めた。
天祢は相手を安心させるべく、意識して友好的に話しかけた。
「旅行、お好きなんですね。特に、海外?」
「んー、どうかな。嫌いなんだよ、世の中が」
「……え?」
「だからさ、どっか、いいトコねーかなーって」
「……」
「探せばあるかもじゃん? 自分の目で確かめねえと分かんねえことってあるし」
「そっか、探せば……」
天祢は視線を宙に這わせた。看板やネオンサインが、夜の繁華街を色とりどりに照らしていた。
「ですね、うん」
天祢は頷き、笑顔を浮かべた。
「きっと見つかりますよ。居心地のいい場所」
「サンキュー」
女性と会ったのは、むろんその時が初めてで、その際のやり取りも、それだけだった。
それでも、天祢には響くものがあった。あの女性とは求めるものこそ異なるようだが、何にせよ旅行は良いものだ。この良いものを提供する仕事が悪いものであるはずがない。
当社自体は契約期間の終了とともにきっぱりと辞め、その後の繁忙期にも再契約はしなかった。が、業界の情報はなおも短大のキャンパス内やネット上で追い、貪欲にかき集めた。ついでながら、労働者の権利、ひいては基本的人権についても調べるうちにカウンタープロテストの存在を知り、かねてよりうっすらと興味を抱いていたプライドパレードとともに、自らもそこへ身を投じることとなる。
やがて、ついに、理想に近い旅行代理店を見つけた。会社の規模こそ小さいものの、同業界にあっては異端といえるまでに労働環境がよく、また不思議なことに業績も好調の会社だった。
そこで再びアルバイトとして働き、短大を卒業すると同時にエスカレーター式に正社員として就職することとなる。社員の誰もが伸び伸び活き活きとしていて、おもしろそうなアイデアが浮かんだら、社長も楽しそうに頷きながら、詰めるところは詰めつつも、まずはやらせてみようとゴーサインを出す社風だった。
「……素敵な会社ですね」
いくらか状態の回復してきた真子が、スポーツドリンクのペットボトルを膝の上に置く。
「でね、警察というお仕事も――」
天祢が、ボトルの中で波打つ液体から真子の顔に視線を移した。
「……きっと同じなの。ううん、絶対そう。確かにカウンターの現場だとアレだけど。今日もそうだし」
「うう……」
「でも、大切は、大切なのよ。悪い仕事のわけない。ただ、組織としてはちょっと不器用なところがあって、本来の役割や一人ひとりの思いとは逆に悪くなってしまってる部分も……ところどころは、ね」
「……」
「それに今日のお巡りさんたちだって。最初の旅行会社の人たちみたく、雰囲気に呑まれちゃったというか、環境に染められちゃったというか。それ以前は――ううん、もしかすると、今でもプライベートでは、やっぱりいい人たちかもしれない」
「……」
「真子ちゃんのお父さんは、まず文句なしにいい方でしょうね。真子ちゃんを見てたら分かるよ。まっすぐで、正直で、ちょっぴり気の小さなところもあるけれど、いつも何事にも一生懸命な真子ちゃんを見てたら」
「
近くで車の止まる音がした。風歌が振り向くと、それは一台のタクシーだった。続いてドアが開き、一人の男性が慌てた様子で降りてきて、周囲に素早く視線をさまよわせたあと、こちらに向かって手を振り上げながら、余裕のない声で叫ぶ。
「真子!」
「パパ!」
真子が呼び返したとおり、彼女の父だった。娘が体調を崩したとの連絡を受け、室内着のまま、取るものも取りあえず急ぎ駆けつけたという。「遠埜」と名乗る若い女性からの連絡だった。
ドライじゃなかった!
あいつ、ああいう誤解されるトコあるよなあ。
「その……」
真子が父にしおらしくした。
「今朝は、ごめんなさい」
「いいんだ。パパこそ、いろいろムキになって済まなかった。警察にも不祥事や問題点があるのは本当なのに。だからさ、これからはこれまで以上に、パパ、しっかり正義の心を持って頑張らないとな。真子が堂々と誇れるように。わたしの父は警察官ですって。……なんてね。カッコつけすぎたか、ハハハ」
「パパ……」
父は、真子を介抱してくれた天祢と風歌に何度もペコペコと頭を下げ、霧にも感謝の言葉を伝えてくれるよう言い残すと、来たときと同じタクシーで娘とともに帰っていった。
「ほら、思ったとおり優しそうなお父さん」
天祢が、満足げにタクシーを見送る。その横顔を、風歌はそっと見上げた。
「……あま姉の笑顔が素敵な理由、分かった気がする」
「あら」
「パンフレットをあげた人って、もしかして……」
いや――。
風歌は小さくかぶりを振った。
「行きましょう。早く遠埜たちにも知らせてあげなきゃ。遠埜なんて、いつもツンってしてるけどホントは……。ヘイトデモも、まだ続いてます」
風歌は天祢の袖を引っ張ると、デモ隊と警察、そして霧とあゆむのいる彼方へ、二人して急ぎ足で向かっていった。
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