第二話 話せば分かる?(4)
4
自分で思うより堪えているという佐藤天祢――あま姉の言葉は、どうやら真実らしかった。
霧に借りを作るのは
階下から夕食を知らせる父の声で目を覚まし、下りていって食卓を囲む。
食欲は普段以上あったこともあり、幸い、両親にも弟の
団欒と入浴の後、再び自室に戻り、ベッドで今度は仰向けになる。
しばらくして。
「しもた……」
風歌はスマホで時刻を確認すると、慌ててイヤホンを装着し、ラジオアプリを起動させた。毎回欠かさず聴いている番組が、とっくに始まってしまっていたのだ。
新進気鋭のシンガーソングライター、
風歌も、無名のころから――とまではいかなかったが、今まさに人気が爆発し始めたという時期にたまたま曲を聴いて好きになり、そのまま熱心なファンとなった。
短文投稿を主とした某SNSでしっかりとフォローもしている。少年少女には不人気なこのSNSのアカウントをわざわざ取得したのも、ほぼそれが目的だったといってよい。
「昼間忙しかった恋人たちも、澄んだ夜空の星々も、この恋のバラードで、今は等しく静かな眠りの国に遊ぶのでしょうか――」
「さすがAGITO様、今夜もおトークがいちいちロマンチック」
風歌はうっとりと聴き入っていた。
やはり、心の癒やしには好きな音を聴くのが一番だ。それが人の声であれ、歌であれ、音楽であれ。
汚い音、騒々しい音はカンベン願いたい。
今日のことは、もう遠い過去。人に誘われて、何とはなしに覗いてみた知らない世界。
明日からは、再びいつもの日常が始まるのだろう。
「そのオレンジと言えば――」
またしても少しばかり寝入ってしまったのだろうか。時間はさほどたっていないようだが、話はすっかり変わっていた。かすかに残っている記憶をたどると、甘い恋の話からスイーツの話題に転じ、最近の柑橘類は甘くなったという流れだったか。
「昔は、日米貿易摩擦というものがあったそうですね。オレンジと、牛肉と――」
「……」
どうしても、また、まどろんでしまう。
「ただね、アメリカとは仲良くしないといけません。何よりも国際平和が一番です」
「ですよねえ、平和が一番。ケンカなんて……」
寝ぼけまなこで相づちを打つ。
「その平和を脅かす、かの国――」
「どの国……?」
「北のあの国。その独裁政治に抗議する催しが本日――正確にはもう昨日ですね――行われたそうですが、この平和を求める声にね、どうにも困ったことに、反対する人たちが現れたらしいんですねえ」
「それは……けしかりませんねえ……」
「いつも妨害しに来るそうです。カウンターとかプロテスト……あ、プロテスタントのプロテストですね。抗議者という意味で。ほかにはアンティファなどと彼らは自称しているそうですが――」
「アンティファ?」
「やはり後ろ暗いのでしょうか。顔を隠し、名前を隠し――」
「あ……それ、誤解。そんなには隠さない。なるべくってだけ」
風歌は、がばと跳ね起きた。
スマホを手に取る。イヤホンからは心の落ち着く美声で「秋葉原」だの「共産主義者」だのと聞こえる中、SNSのアプリを同時に起動させる。
AGITOのアカウントを表示させるのに、ほとんど手間はかからなかった。慣れた手つきで瞬時に果たす。
最新投稿は、ほかならぬ当番組の宣伝だ。
「いつも楽しみに聞いてます」
「イケボすこ♪」
「新曲インヴィンシブル・サン買いましたー。ギガエモいですー。リピート再生しまくりー。」
などといった返信が、その投稿の下に何十件と連なっている。うち次の一件は、今朝の風歌による書き込みだった。
改めて読むと、誤字がひどい。
「今週も1秒も聞き逃さしませんー!アギト様遠江!」
アカウント名は、「ういんどそんぐ」。アイコンは、飼ったこともない手書きの猫。デートにオシャレに愉快な友人たちとのスイーツ店巡りに忙しい私立の高校二年生とのことだ。
「はい! 三十分以上、聴き逃しました! わたしのバカァ……」
番組の進行は、短いトークを終え、また次の曲に移っている。乾いた都会であがく人々に、人間本来の強さと勇気を説くシティポップの隠れた名曲らしい。風歌も初めて鑑賞する。
実に心地よい曲だ。AGITOは、選曲のセンスもやはり抜群のようだ。
「りすにんぐなう ところでさっき言ってたカウンターのことですけど」
今朝の投稿の続きとして、まずはそのように文字を入力する。
下書きを見つめながら、風歌はしばらく沈思した。
自分ごときが間違いを指摘するのは、もしかすると、大変な失礼に当たらないだろうか。崇拝するアーティストに恥をかかせることになりはしまいか。
ためらったが、曲がサビを迎えたところで勇気が湧き、やはり書き続けることにした。カウンターに関する事柄など、おそらく知らないほうが普通だろうと思い至ったからだ。それに恥というなら、間違えたままでいるほうが、よほど恥ずかしいことだろう。熱烈なファンとして、推しにはなるべく無謬でいてもらいたい。
霧から聞き知った情報を、風歌はできるだけ丁寧に自分の言葉で再構築した。
カウンター参加者の全員が正体を隠しているわけではない。また、隠すといっても面倒だからなるべく知られたくないという程度の動機であり、後ろめたさは一切なく、そこまで必死でもない。で、それなりに正体を隠す理由はというと――。
投稿は図らずも長文となり、風歌は数度に分けて送信した。
すべてを書き終えたころには番組も終了しており、放送内容もあまり頭に入っていなかった。
もしも当ラジオアプリに、放送終了後の一定期間は聴き直すことの可能なタイムフリー機能がなければ、風歌は果たしてこのような世話を焼いただろうか。もしもリアルタイムでの鑑賞を優先させていたなら、間違いを指摘する意欲など時間経過とともに萎み、どうでもよくなっていたかもしれない。
しょせん、その程度のことだった。
ほどほど真面目に、そこそこいい加減に。
あるいは、理由は何でも良いから、推しと関わりを持ちたいという動機が一番だったかもしれない。いや、きっとそれだ。
夜はすっかり更けていた。
風歌は今度こそ朝までの眠りに就き、この日の疲れをようやく完全に癒やしたのだった。
癒やしたはずだった。
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