第二話 話せば分かる?(3)


     3


 コンビニの飲食コーナーから覗く窓の外には、いつもの平穏な光景が広がっていた。自動車が行き交い、歩行者が往来し、自転車やベビーカーも通る。罵声も警察もカメラも旭日旗もない。

 風歌はバナナジュースで人心地をつけていた。

 隣で、女性がホットチーズティーを啜っている。

「ご馳走になっちゃいまして……」

「いいの、いいの。あの子の友達なんでしょ?」

「んー……」

 風歌は虚空を見つめた。

 自分は霧の友達なのだろうか。クラスが違うし、性格も異なるし、打算と成り行きで、たまたまズルズルと今日に至ってしまった印象だ。こういうのを何と言ったか。

きずりの関係……?」

「アハハ、あなた、面白いねー」

 女性が屈託なく笑う。普段なら人に笑われるのは好かないが、この女性に対しては不思議と嫌な気はしない。髪の色をはじめ、風歌のことを何も知らない赤の他人だからだろうか。否、それだけではない気もする。

「あの子にも、もうちょっとユーモアのセンスがあったらねえ……。ほら、アナーキーなくせに堅物かたぶつだから」

「遠埜……を、知ってるんですか?」

「あの子の師匠」

「師匠?」

 霧を滝つぼに蹴り落とし、這い上がってこい、と命じる師匠像が頭に浮かぶ。

「カウンターのね」

「カウンター……。あ、デモの人たち追いかけなくても? わたしはもう大丈夫ですし」

「いい、いい。ほかのことと被ったら、そっち優先。カウンターなんて、しょせん二の次。無理しない。頑張らない。頑張ってあげない」

「はあ……」

 そのわりには、カウンターの人たちは、ほとんどが真剣そのものの顔つきだったように思う。怖いほどに。

「本当は国の仕事だしねー。ヘイターをしばくのなんて」

「ヘイター?」

「ああ、そっか。うんうん。ヘイターっていうのは、ヘイトスピーチする人のこと。ヘイトスピーチっていうのはね――」

「それは聞いたことあります。悪口とか誹謗中傷みたいな……」

「ふーん、辞書にはまだそんなふうに載ってるかもねー」

「違うんですか?」

「違うんだなー、これが」

「……」

「悪口なら、あたしらもあいつらにガンガン言ってるしねえ」

「あ、それですけど」

 風歌はテーブルに視線を落とした。例の、「クソムシ」だの「くたばれ」だのと綴られた段ボール製のプラカが無造作に置かれてあったのだ。

「ちょっと、品があんまし、ないんじゃないかなあ、と。……すいません!」

「気にしないで。よく言われるから。まあ、ね。うん、下品だよねえ。あ、安っぽいのは勘弁して。これは急遽、間に合わせで。前のをヘイターに壊されちゃって」

「壊され……?」

「つい近づきすぎちゃったときにね。向こう、なんか急に怒りだしちゃって。普段はヘラヘラ笑いながらヘイトスピーチしてるのに」

「そりゃ、そんなの書いてたら……」

「だよねえ。ごもっとも」

「じゃあ、なんで」

「なんでだろう」

「悪口で返してたんじゃ、分かりあえない……」

「分かりあえないねえ」

「あの」

 風歌はバナナジュースの容器をやや乱暴へ卓上に置いた。プラクチック製なので音はさほど響かない。

 それでも心の振動は伝わったのだろうか。が、あくまで彼女の顔はにこやかなままだ。

「じゃあ、やっぱりそろそろ……。あなたはもう少し休んでいてね。自分で思うよりこたえてるってことあるし。デトックスが大事。すぐにあの子をよこすから、それまで、ね」

 女性が口もとに微笑をたたえながら、優しげに席を立った。

「デトックス……」

 風歌はつぶやき、ジュースをすする。


 十分ほど過ぎたろうか。霧が血相を変えて店内に飛び込んできた。

「沢本か」

 ざっと見回し、こちらに気づいて安堵の息を吐く。風歌は席でスマホをいじっているところだった。

「あ、遠埜だー。ホントに来てくれたー」

「ホントにって……あまねえから『お友達が倒れた』って聞いたから、ボクは仕方なく」

「ちょっとよろけたのはホントだけど……あま姉?」

佐藤さとう天祢あまねさんだ。去年春に短大を卒業して今は社会人二年生。人からは、あま姉とか、姉さんとか」

「カウンターの師匠?」

「師匠? ……ああ、現場ではいろいろ教わった」

「そうだ、わたし、名前言うの忘れちゃった」

「それはいいんだ。向こうも名乗らなかったろ?」

「そういえば。……すごい。なんで?」

「ほら、デモ隊も警察もたくさんカメラを持っているから。万一、ああいうのに顔と名前が一致するシーンを撮影されたら、裏で密かに共有されてしまうんだ。ネットにさらされることもある。公安も、次から親しげに名前で呼びかけてくるし。お前という個人をしっかり把握しているぞ、とね」

「こう……あん……」

「ああ、公安」

「……ドーナツ」

「ん?」

「何でも」

 風歌は小さく首を振った。

「ふむ……。むろん、こちらは何も悪いことはしていない。だから個人情報をいくら握られたところで、基本的にはまったく不都合はない。現に、いっさい困ることなく平気でカウンターを続ける人も多い。元からの著名人なら皆そうだ。弁護士、政治家、ジャーナリスト、作家――」

「なんだ。じゃ、いいじゃん」

「ところが、そうもいかないこともある。例えば、その人の職場がコンプライアンスを軽んじる所だった場合。労働基準法などにいつも抵触していたり、法令だけはかろうじて守っているが、倫理的に何かと問題がある職場といった場合だ。カウンターであるとの情報がそうした職場に伝わると、そのせいで当人は不利益を被りかねない。会社側は何だかんだと理由をこじつけて、当人を辞職に追い込んだりする。それで辞めさせられたカウンターが過去に幾人もいる」

「はあ……」

 風歌は気の抜けた相づちを打った。

 霧には済まないが、講釈がなかなか頭に入らなかった。職場とか労働基準法とか言われてもピンと来ないのだ。

 目をしばたたきながら空容器を口に当て、ゆっくりとすするふりをする。

 ようやく、とりあえずは雰囲気的に無難とおぼしき言葉が見つかった。

「……ひどくない? なんで?」

「ヘイター――奴らがいわばヤクザで、会社が事なかれ主義だからだ。世の中の悪事は、悪事を働く者と、それを見過ごす者とでできている」

 霧がバッサリと斬り捨てた。凜々しかった。

 凜々しさはさておき、今の言葉については、おそらくわりと理解できた。

 が、内容の理解と納得はまた別だ。

 十分に納得するには、そのための知識も人生経験もまるで足りていない気がする。

 そもそも公安だのコンプライアンスだの、一介の高校生たちが取り上げる話題ではないと激しく思う。

 風歌の沈黙をどのように受け止めたのか、霧が改めて念を押した。

「とにかく、現場ではカウンターどうし、なるべく名では呼ばないことだ。絶対厳守というほどではないが、警察やヘイターに知られると危険性が生じるだけだからね。本名だけでなく、あだ名やハンドルネームも口にしないほうが無難だろう。ほかには、マスクやサングラスで顔を隠すのも有効だ」

「あ……」

 風歌は得心がいった。

 言われてみると、確かにそうした姿のカウンターもまま見かけた。なるほど、あれは用心のためだったのか。

 ただやはり、それも高校生が高校生にするアドバイスではないと思う。

 そこへ、「おっと」と、なぜか霧も声を漏らした。自身の言葉に引っかかる点があったらしい。

「ヘイターというのはだね、ヘイトスピーチをする者のことで、ヘイトスピーカーとも言う。で、ヘイトスピーチというのは――」

 真顔で、律儀に補足しようとする。

 風歌はクスリと笑った。

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