第一話 まっすぐ怒れ(4)
4
その後も霧の抗議活動は、光化学スモッグ注意報が発令された日や猛暑日、そして夏休みの一時的な中断を除いて続けられた。天候が悪くなければ同志たちの姿も復活し、霧を取り巻くように校門前に立つ。色とりどりの私服姿に、心ない者らが、ナンパ目的だの、自意識過剰だの、誰に雇われているのかなどとさんざん好き勝手に中傷したものだが、風歌としては、「学生の本分は勉強」という教師の苦言を、自宅でスナック菓子をつまみ、弟とボードゲームをし、長風呂に浸かりながら支持したものだった。
活動の場所が校門前だけに、毎日そこを通らざるをえなかったが、あの豪雨の日以来、風歌は霧と、言葉はもちろん視線すら交わそうとせず、取り巻きたちの配るチラシにも決して触れることはなかった。
一陣の突風が吹き、舞い上がったチラシのうち一枚が、風歌の顔面に悪意でもって貼り付くまでは。
「あ、ごめーん」
やや日焼けした派手めの子が、屈託のない笑顔を向けた。
風歌は顔から剥がした一枚を返し、その流れで仕方なく、散乱した他のチラシを一緒になって拾い集めた。
「あざーっす」
最後の一枚を渡して立ち上がり、風歌はそそくさと立ち去りかけた。
「あれ? もしかして……」
その子が、食い入るように風歌の横顔をまじまじと見つめた。
風歌も見返してみると、中学で見た覚えのある顔だった。ただし同じクラスになったことはなく、名前までは思い出せない。対して、先方は風歌のことをそれ以上に知っているようだった。なにせ、風歌は有名だったのだ。
悪い予感がした。
「やっぱ、沢本さんだあ。おっひさー。髪、黒いから気づかんかったよー。ねえ、あたしのこと覚えてる?」
ごめん、覚えてない。髪の話題はよして。
風歌の願いもむなしく、彼女の体内に点いた火は、どうやら燃え広がる一方だった。
「霧っちー、ほら、このコこのコ、沢本さん。前に話した、髪赤いコォ」
その声に応じたのは、呼び掛けられた霧本人でなく他の仲間たちだった。
「え? 赤い?」
「ああ、噂の。ホントにいたんだ」
「それ、染めてるの? そっか、校則かあ」
「校則ひどいよねえ、やっぱり」
風歌を取り囲むように集まってきて、口々に言い立てる。
霧を呼んだ子が今一度、一人まだ奥にいる彼女に声をかけた。今度のそれは、風歌には極めて不穏な呪詛だった。
「霧っち、このコ前面に立てたらさー、イケてるくないー?」
反応したのは、取り囲んでいるうちの一人だった。
「どゆこと?」
「ほら、校則の被害者がここにいますよーって。ネットにもアップして。したらさ、同情票わんさか集まってさ」
「あーね」
「なるなる。SNSでバズるかも。そだ、ネット署名とか」
「いいね、いいね」
「いいねしました」
「……やめて!」
風歌は思わず声を上げた。
「誰もそんなこと頼んでない。わたしは今のままがいいの。余計なことしないで」
抑圧された者の言葉にしては、完全に意外に思えたのだろう。わずかの間、場が水を打ったように静まり返る。
静寂を破ったのは、ひとり奥にたたずんでいた霧だった。氷のように美しくも澄んだ顔つきだった。
「本当に、今のままでいいと思うか?」
「……そだよ。助けなんて求めてない」
あなたたちは人助けをしていい気になりたいのかもしれないけど、わたしは誰かを喜ばせるための道具じゃない。見下さないで。
「よくある誤解だ」
霧が一蹴した。
「ボクたちは、善意や親切心で動いているんじゃない。前にも言ったね、あの雨の日。君という一個人がどう思おうと、何に興味があろうとなかろうと、それはどうでもいいんだ。……人違いかな?」
「覚えてたんだ……。でも、じゃあ、何なのよ。男子にもてたいから? 美人って得だよね」
つい口を滑らせてしまった。言い終えないうちから風歌は後悔し、このうえなく自分を惨めに感じた。
しかしその劣等感も、霧のあまりにも尊大な自尊心によって
「ああ、ボクは美人だとも。おかげで羨望のまなざしや性的な視線を、常にこの身に受けている」
照れも躊躇もなく、それが世界の
「だからこそだ。容姿で目立つボクが率先して動けば効率的なんだ。この学校に通う者としての義務を果たすことに」
あきれるのみで、まるで意味が分からない。
義務を果たす?
嫌々やってるってこと? 毎日あれだけ熱心に活動しておきながら?
「君が立ち上がれば百人力には違いない。が、義務は人に求められて果たすものではないので、こちらから助力を乞うことはない。さらに言うと、ボクたちは君にすがらなくてはならないほど非力でもない」
あれ? わたしが上? わたしのほうが強いの?
何だか頭が混乱してきた。霧の言葉が、いよいよもって理解できない。
あきらかに狼狽する風歌に、ようやく霧が黒いロングストレートの髪をなびかせながら近づいてきた。静かな歩みなのに威圧され、風歌は半歩ほど後ずさりする。
霧の形の良い顔が、すぐ正面まで差し迫った。
「そうだな……君としては、自分が何を理想とするかだ。誰でもそう。それが一番大切なんだ」
「わたしの理想……」
霧の瞳の奥に、かつての光景がよみがえる。
風歌をからかう子どもたち、それを注意する先生、注意をかいくぐってなされるイタズラ、対策としてかぶった帽子、染めた髪。同情に羨望、好奇の視線――。
すべて要らない。すべてノイズだ。最初からただそこにあったのは、カッパーブラウンの髪だけだ。
美を誇る霧の傲慢と、己の髪に絡んできた一切合切とに、何だか無性に腹が立ってくる。
霧の涼やかな瞳には、最後に、風歌の怒れる顔が映っていた。
その自分の顔を見た瞬間、ついに心の一部が氷解してしまったらしい。自分でもなお信じられない言葉が、自然と口から溶け出していた。
「そんなに言うなら抗議の協力……ううん、参加……してもいいよ。ちょっとくらいなら」
「歓迎だ、沢本」
霧が爽やかに笑い、一同もそれに続いた。
呼び捨てかい。
自分を馬鹿にしない笑い声に、風歌は初めて包まれた気がした。
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