第十一話 遠埜霧さん(1)
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冤罪であることは誰の目にも明らかだった。
「うちの先生たちって、アホじゃね?」
「けどけど、よくぞやってくれました」
「無期停学処分って、無期懲役みたいな?」
「ある意味、当然の報いだもんねー」
「今までが傲慢すぎたんだ。例の不買運動にしたところで、何でも自分の思いどおりにしようってんだから付ける薬がない。生徒会長を続けるうちに、自分を王様か何かと勘違いするようになったんだぜ」
校内に蔓延する声に、
「そんなんじゃないよ……」
霧は、性格にこそ尊大で傲慢な部分が確かにあるものの、同時に誰よりも無私であり、常に正しい側に自分の身を置いてきた。その正しさがまさに強力な武器だったのだ。霧が正義であればあるほど、また正確であればあるほど、誰も彼女に抗えなくなっていく。
到底不可能と思われた学校改革で着々と実績を積み重ねてこられたのも、まさにその点に理由がある。
王様は命令で人を無理に動かすが、霧は行くべき道を示すことで人をおのずと導くのだ。
唯一、霧が命ずるのは、悪者が誰かを崖から突き落とそうと邪悪な腕をそっと伸ばしたときだ。その際にかぎり、「やめろ」と彼女は叫ぶ。
「レイシスト帰れ!」
「いますぐ、そのヘイトスピーチを削除しろ!」
分からないのは、それほどの人物を、なぜ学校側がむざむざ処分してしまったかだ。本当に、なりすましアカウントを霧本人のものと信じてしまったのか。
「ほかの先生がたからも、そこはどうかなという声は出たんだけどね」
職員室まで乗り込んだ風歌たち数人の抗議者に、公民科担当兼生活指導の教師が言い訳まじりに応対した。
「ただまあ、きちんとした本物のアカウントが別にあるといったって、そちらも凍結されて中身が確認できないんではね……。そもそも凍結されたこと自体が、やはりそちらでも不適切な書き込みを行っていたという動かぬ証拠と言えるんじゃないか」
風歌以外の抗議者たちは、入室以来ずっと縮こまっていた。冷房が普通教室よりも効いているが、そのせいでないことは明らかだ。
周囲の教員たちの視線が、ちらちらとこちらに注がれている。無数の無言の圧力は、職員室を訪うだけでも消費した精神力を、さらに摩耗させるらしい。
その点、風歌には耐性が付いていた。なにせカウンターの現場では、この何十倍もの警官たちから圧力を受けるのだ。
「運営側のミスで凍結されることもあるそうですけど」
「そんな細かい可能性をいちいち疑っていたら社会は回らないぞ。スーパーで買い物すらできなくなる。腐っているかもしれないからな」
「……」
「とまれ、こちらとしては確認できる事実と証拠のみで判断する。それが最も偏見が少なく公正に裁けるというものだ」
「その証拠――間違いなく
「高校生にもなって、そんな小学生じみた屁理屈を言うもんじゃない」
「屁理屈は――」
そっち、と風歌は言いかけたが、わずかに言いよどんだ隙に、すかさず次の言葉を差し込まれた。
「それに証拠というなら、実際、遠埜は幾人もの方たちを捕まえて、差別主義者だのレイシストだのと、ひどい罵倒の嵐だったとの証言があるんだ。この証言してくれた方が一人ないしは少人数なら、まだ誤解や偽証の可能性も残るところだった。が、教師、生徒、保護者を問わず、いろいろな立場から、同じような証言がいくつも来ているんだぞ。これは証拠とするには十分だろう」
「それは十分な証拠です。遠埜はいつも罵倒しまくりです!」
「そら見たまえ」
「それと証言に頼るまでもなく、誰かがスクショ残してるんじゃ?」
「スク……?」
「もういいです。それはもういいですけど――」
風歌はすうっと息を吸い込んだ。
「わ、悪い人に悪口言わなくて、いつ悪口言うんですか!」
いったんよそを向いていた教員たちも含め、室内の全員が一斉に風歌を向いた。
「悪い人ってね、君。多少は政治的に偏ったところがあったとしてもだよ」
「政治のことはよく分からないです。けど、差別はダメ。差別は絶対に悪いです。右とか左とかじゃなくて、モラルが上か下かの問題なんです」
「……右翼の人たちはモラルが下とでも?」
「違います、違います! ヘイトスピーチは違法ってことです。右翼とか左翼とか関係なく」
「左翼は日本人をヘイトしてると聞くが?」
「それは右で下の人のデタラメです。右上の人ならそんなデタラメ言わないと思います。それに日本で日本人は差別の対象じゃないので、日本で日本人をヘイトスピーチするのは無理なんです」
「無理も何も、現にだな」
「耳が聞こえる人に耳が聞こえることを悪く言ったって、何にもならないじゃないですか」
「ん、何?」
「耳が聞こえる人に耳が聞こえることを悪く言ったって!」
「聞こえてる、聞こえてる。大声を出すな。そういうことじゃなくてだな」
「え?」
「ん? そういうことじゃなくてだな」
「え? え?」
「そういうことじゃなくて!」
「何がですか!」
「こっちがだよ!」
「ええと、だから、ヘイトスピーチのあれ……えっと、そう、定義が――」
「それそれ、その定義。これは差別、これは差別でない――君たちが好き勝手に決めてよいのかと」
「わたしたちが決めるんじゃなくて、最初から決まってることで――」
「初めから? いやいや、結局は誰かが決めることだろう」
「せ、先生たちだって遠埜を停学にしたでしょ! それは先生たちが好き勝手に決めたってことですかっ!」
この日、一番の大声で怒鳴る。
瞬間、場が水を打ったように静まりかえった。
静寂の中、耳の奥で自分の言葉がこだまする。
――先生たちが好き勝手に決めたってことですかっ!
あれ?
言い放した顔のまま、風歌は目をぱちくりさせた。
霧を力いっぱい擁護したつもりが、これはかえって全力で彼女にとどめを刺してしまったのではないか?
軽い混乱は風歌以外も同様だったらしい。それが静寂の主な原因だったようだ。
「むろん――」
年の功からか、相手のほうがいち早く我を取り戻した。
「むろん、そんなことはない。ああ、停学処分は妥当な判断だった。誰の目から見ても妥当……妥当だったとも」
「そうなりますよね! 会話の流れ的に!」
「仮に完全な正義、完全な悪というものが世の中に存在しなかったとしても、大体それは正義、大体それは悪というのは、多くの場面で言えることだろう。好き勝手に判断するのとは、違うな」
「はい、はい」
こほんと、教師はせき払いをした。
「その……なんだ。彼女の批判にも一定の正しさはあったのかもしれない。その点は認めよう。そして彼女を思う君たちの友情は実に素晴らしいとも思う。けれども、功績がいくらあったところで、この場合、罪は罪だ。功罪あわせて打ち消せるものではない。打ち消せる例も中にはあるだろうが、この場合に関しては無理だ。社会的に正しいことを書いた分、反社会的なことも書いてよいことにはならないだろう? 例えばの話、慈善団体にお金を寄付した金額分、誰かの財布から紙幣を抜き取ってよいかと言えば――ダメに決まっている。窃盗罪は窃盗罪だ。その理屈は分かるね?」
「その理屈は分かりますけど……」
「分かるなら聞きなさい。我々が彼女を呼び出して事の真偽を問いただしたところ――」
「罪を認めたんですか!」
「聞きなさい。……ま、そのように、こちらとしては受け止めた。なにせ当人がろくに抗弁もせず、分かりましたと素直に停学を受け入れたんだからね」
風歌はまさかと顔を上げ、相手の目をまっすぐ見つめた。
「ああ、こちらが拍子抜けするくらいにな。となれば、もう決定を覆す理由がない」
「あいつ……」
教師の受け止め方と異なり、風歌には、霧が自己弁護しなかった理由に確かな心当たりがあった。以前、霧自身が語った、なりすましアカウントに対する態度だ。
「ボクの名誉を傷つけようとする分にはどうだっていい。偽者がどう振る舞おうと、ボクは自分に恥じるところがないように行動するだけ――」
遠埜、あんたは聖人か何かか?
何でもかんでもカッコつけるな。
ここはさすがに、不格好でもがむしゃらに言い訳しようよ。
いつもいつも悟りきったふうな霧に対し、今更ながら改めて腹が立ってくる。胃の底に怒りのマグマをためこんだ風歌は、しかし、傍目には消沈して見えたのかもしれなかった。
慰めの言葉をかけられた。
「そう気を落とすな。無期停学処分といっても、無期懲役の無期などとは違う。一部、混同している生徒もいるようだが、あちらは期限、終わりが無いほうの無期。罰が一生続くものだ。ごくまれに仮釈放となる者もいるが、なったところで仮は仮。一生涯監視下に置かれ続け、何か問題を起こせば即座に再入所となる」
挙げた例がおっかない。順序を踏まえてのことだろうが、風歌の頭にすんなりと入ったのは、このあとだった。
「対してこちらの停学は、期限がないのではなく、期限が決まっていないという意味の無期。決まっていないのは、状況次第ですぐにも復学できるようにするためだ」
「……じゃあ!」
「彼女次第だな。ただ、さすがに期末考査にはもう間に合わないので、別室で受けてもらうことにはなるだろうがな」
最後の言葉どおり、風歌が学業の怠慢を解答用紙に向かって懺悔する傍ら、霧の机に主の姿はなかった。テストは受けに来ているとのことなので校内のどこかにはいるのだろうが、あれほど普段は目立つ人物なのに、炎天下のかげろうのように、その姿は淡く揺らいで消えてしまった。
テスト期間中、風歌はとうとう霧を見つけることができなかった。
これについては、ある物知り顔のクラスメイトが、ぐいぐいと迫るように解説してくれた。
「停学期間中って、友達とのコミュ、禁止らしいよ。連絡を取り合うのもブッブー。それとフヨーフキュー? の外出もね。自宅謹慎だって」
「破るとどうなるの?」
「もち、復活が遠のいちゃう。沢ちんとしては、早く会いたさマックスだろうけど」
「えー、別に……だよ。けど、そういうことなら、こっちもそっとしておいてやりますか」
ところが、期末テストが終わり、梅雨が明け、返却された答案用紙が風歌の顔を曇らせても、いまだ霧の復学はかなわない。
このまま夏休みに突入してしまうのかと危惧された矢先、悪い予感を強める言葉が、風歌の耳に、再び職員室で飛び込んできた。
「遠埜、お前なあ……そんなこと、いちいち馬鹿正直に報告する奴があるか」
軽音部の部室の鍵を返却しかけた手がぴたりと止まる。
声の主はほかでもない、風歌と霧の学級担任だった。固定電話の受話器を片耳に当てている。が、背はこちらを向いており、しかも双方を隔てるように間に複数の机が並んでいたため、担任が風歌に気づいた様子はない。
「反省日誌には書くなよ。違反動画がないか巡回してたなんて。ああ、ああ……。あ、いやいや……ネットで調べ物をしていたとか、いくらでも書きようはあるだろ。お前、なんで停学になったか本当に分かってるのか? 生徒会執行部の皆にも悪いだろ。みんなひいひい言ってたぞ。お前が手がけてた仕事、全部こっちに回ってきたってな」
どうやら自宅謹慎中の霧は、凍結されたSNSとは別の――おそらくは動画投稿サイトでカウンター活動を続けていたらしい。
以前、凍結後の対応として「しばらくはおとなしく様子見」との言葉を本人の口から聞いていた風歌は、その実、それがそのSNSに限った対応だったことに、今にして気づかされた。
「……じゃ、明日の朝も忘れずにな。おやすみ」
担任は受話器を置き、背中からでも見てとれる動作で、ふうっと息を吐いた。
隣席の教師がすかさず話しかけた。担当は別学年だが、確か情報科の先生だ。
「定時連絡、お疲れさまです」
「あ、どうも」
担任も向き、横顔をこちらに見せる。
とっさに風歌はしゃがみ込んでしまった。机の下で、なんで隠れちゃったのと自分のことながらあきれ返る。
わずかに物音は立ったが、空調の音に掻き消されたのか、またしても担任たちは風歌に気づかなかったようだ。
「相変わらずですか」
「残念ながら……。次の見極めも無理そうです」
「また保留、ですかね」
「そんなに我を張らなくったってねえ……。少しはしおらしくしてくれても……。こちらも鬼じゃあないんだ。何ならふりでいいから……」
「や、それ以上はいけません」
情報科教師がやや語気を強めた。相手に顔を寄せたのか、今度は一転、心持ち声を細める。
「遠埜霧は問題を起こした。である以上、復学には確かな反省が必要なんです。それでみんな丸く収まるんですよ」
どういうことだろう?
風歌はしゃがんだまま頭に疑問符を浮かべた。それを、すぐそばの席にいた生物の教師が、上からしみじみと観察していた。
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