第五章 戴冠式⑨

 リン


 澄んだ音色が神域の隅々に澄み渡る。菫は周囲に神々こうごうしい気配が集まるのを確かに感じた。

 菫は鈴を鳴らしながら立ち上がり、記憶の通りにステップを踏んだ。自分が鳴らす鈴の音に合わせて教えられたように舞う。

 初めて入った神域の中でも菫は決して惑う事はなかった。桔梗が側についていてくれるからだろうか。あるいは五帝としての初めての使命に燃えているからだろうか。


 神域はとても不可解なところだ。案内された場所には大きな磐座いわくらしかなくて、辺り一帯が濃い霧に包まれていて何もない。あけぼのの頃のように明るく、宵の頃のように暗い。時間の進みもわからない、そんなあやふやな世界の中で、菫は一人舞を舞う。


 リン


 手に掲げているのは、先ほど神から賜ったばかりの力を宿した冠。側面の突起を握ると神楽かぐら鈴となり鮮麗な音を響かせる。


 リン


 自身が奏でる美しい音色に身をゆだね、菫は心の中に浮かぶあらゆる感情をありのままに飲み込んでいく。

 今自分が振るう力は本来五帝の力そのものではない。五帝は神から神通力を与えられるものの、それはあくまでも『咲人を保護するための力』であって決して万能の能力ではない。世間でいう超能力でも魔法でもない。五帝は何かを起こす力を持つ者ではない。

 これは五帝にとって本来必要のない能力だ。でも、今菫は幼い頃からおこたらずに鍛錬してきた事を誇りに思った。この不測の事態を収束することのできる力が自分には備わっていたのだから。


『五帝は誰も救えない』


 以前鐵と話をした時、彼は悲しそうにそう言った。それは真実なのかもしれない。一番側にいた桔梗だって五帝として仕事をする時に悲しそうな顔をしていた事をふと思い出した。


 ――でも、それだけじゃないでしょう?


 今、菫の身体は無意識に勝手に動いていた。見えない力に操られているように、自然とすべき事を成し遂げていた。

 確かに五帝は万能じゃない。そもそもこの世に万能な生き物などいない。

 でもその狭い枠組みの中でも自分に出来る事が必ずある。それが世界を変える事だってある。


 ――そう思いませんか、神様。


 何もない虚空に問いかけた時、目の前の磐座に光が灯る。菫はハッとして舞いを止めた。強い光は収束し、やがて大きな一人の男の姿を成した。

 神との再びの邂逅かいこう。儀式の時に天幕越しに見た姿とは少し違う。意思を感じる温かみのあるシルエットに菫は驚嘆した。


『――』


 その男が何かを言った気がした。しかし菫にはその言葉は聞き取れず菫は首を傾げる。

 すると光は何も言わず菫の元を通り過ぎ、菫たちが通ってきた神門へと向かって行ってしまった。


「待って!」


 慌てて菫が呼び止めようとすると、桔梗がそれを制止する。


「大丈夫だよ、菫。神様は何か外に用があるようだ」

「ですが今儀式の途中で――、まさか……、私失敗してしまったんですか⁉」


 菫は青ざめる。その時菫の前に三人の影が音もなく現れた。


「いいえ、儀式は成功です」

「貴女は立派に使命を果たされました」

「神は大層お喜びです」


 三皇は全く抑揚の無い声で菫を賛辞する。その横で、桔梗は空を見上げ、


「――ああ、降ってくるよ」


 桔梗は見えていないはずの現世の様子にいつもと変わらない不敵な笑みを浮かべた。



 ――雨が降り出した。怨嗟えんさの炎を断ち切る清澄せいちょうの雨だ。

 その美しい音色が辺りを包み込むと同時に、鐵は菫が儀式を成功させた事を理解した。


「雨だ!」「本当だ!」「火が消えてく!」


 先ほどまで轟々と燃え盛っていた炎が見る見るうちに鎮火した。息苦しい黒煙は薄い白煙に変わり、熱気のこもった空気も洗い流されて湿った空気に入れ替わる。


「ていうか土砂降りじゃない、張り切りすぎよ、あの子」


 肩を叩く強すぎる雨に、濡鼠ぬれねずみになった焔が悪態をついた。


「ははっ、なんにせよ。大成功じゃないか」

「……だな」


 拝殿で助かった事に喜ぶ人々の声が響き渡る。一先ひとまず炎の脅威は去った。鐵は腕の中で眠る眞白に目をやる。


「それにしてもお前ズタボロだぞ。染みるだろその傷」


 鐵は改めて自分の姿を確認すると、眞白を鎮めたせいで身体のあちこちに切り傷が出来ていた。強い雨が身体に染みるが鐵は大丈夫だと答えた。ふと、何か物言いたげに焔がこちらを見つめているのに気づいた。

 なんだと、問いかけようとしたその時、鐵たちのすぐ近くで小さな爆発が起こり悲鳴が上がった。雷でも落ちたのかと思ったが、そこに現れたのは雷よりもずっと強烈な光源を放つ存在だった。


「――神様」


 本殿の内座にいた姿の見えない神が鐵たちの前に現れた。突然の出来事に周囲は騒然となる。本殿で見たはずの神は強い雨の中で蜃気楼のごとく顕現していた。

 白い影はふわふわと浮遊し、境内に尻もちをついて放心していた芥の方に向かっていく。


「待ってくれ!」


 鐵は神様の進路を遮った。白い影はゆらりと形を曲げる。どこか不機嫌そうな仕草に鐵は目を見開いた。

 ――まるで人間みたいだ。先ほど本殿で会った時は、遠く現実味の無い本当の影の様な存在だったのに。


「こいつに天罰を下すのか?」


 神は答えない。鐵は構わず続けた。


「確かにこいつはあやまちを犯したのかもしれない。憎しみを晴らす術を誤って、多くの人間の命を危機に晒した。……だが、あんたは神だ。神が自ら天罰を下す事はない。咲人を管理するというのなら、それは俺たちの使命だ」


 何も言わない神に鐵は宣言した。


「こいつは俺たち五帝と、この国の法的秩序がしかるべき罰をあたえる。あんたが裁きを下す必要はない。それはこいつの命を奪う事と同義だ――違うか?」


 すると、白い光は少し弱まりうっすらと神の輪郭が垣間見えた。思いのほか小さく、頼りない姿。顔もわずかにわかる。朧気だが人間と同じ顔をしている。

 その口がぽっかりと開かれ、


 ボーン


 儀式で聞いた時と同じ低い耳鳴りの音。理解のできない神の声がした。

 白い影が揺れている。人の姿をした神の顔がはっきりと見えた。


『五帝は誰も救えへん』


 それはかつて夕暮れの中で見た玄一郎と同じ表情をしていた。苦しそうに息をする、憐れな男と同じ顔を。

 あの時の玄一郎のように、神は小さな口をすぼめてもう一度呟く。


『――私は、何も救えない』


 聞こえないはずの声が聞こえた。言葉を理解することが出来た。同時に、鐵の脳裏に鮮明な映像が浮かび上がる。

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