第五章 戴冠式⑧

 ◆

「――雨さえ降れば」


 その声の主は狼狽ろうばいする鐵たちの中で、一人正座し瞑想めいそうにふけっていた。


「……桔梗さん」

「全員が助かる道があるなら、雨を降らせて火を消す以外にないだろうね」


 桔梗は静かに話す。水のように染み渡るその声は、すでに何かを掴んでいるような口ぶりだった。


「雨を降らすって、そんな簡単に言いますけど、今日は降水確率十パーセント以下です。空気も乾燥して到底雨は降らない」

「いいや、降らすんだよ」


 桔梗が静かに立ち上がった。一切に動じない姿勢で皆を見渡す。


「雨いの儀を知っているかい?」

「雨乞い……、神に祈って雨を降らす儀式ですか?」

「ああ、北条家は元々神道の大本を司る家系でね。紫苑帝を継承することの他に、古来の儀式を後世に伝える役割も担っている。五帝としての神通力を高めるとともに、その神祇じんぎの様式と手順を教え込まれるんだ」


 そう言えば以前に菫が五帝となるために幼い頃から英才教育として神通力を高める訓練をしてきたと言っていた。


「出来るんですか⁉」

「上手くいくかどうかわからないけどね、でも幸いなことにここは霊山。神の世界に一番近いところだ。神への頼み事ならよく届くよ」


 桔梗はにやりと笑った。


「だが私にはもう無理だ。私はもう五帝じゃない。神の力を使う資格はない。それが出来るのは――」

「私がやります」


 先ほどまで気を失っていた菫が勢いよく手を挙げた。


「菫、起きてたのかい?」

「ええ、勿論もちろんです。状況は理解しました」


 菫は儀式後眠っていた事を気恥ずかしそうにしながらも、意志の強い瞳で皆を見た。


「私が雨乞いの儀を執り行い雨を降らせます」


 鐵はしばし黙り込む。雨乞いの儀式がどんなものか、成功率もわからない。神頼みが果たして功を奏するのかどうか。だが、


「……任せていいか?」

「ええ、お役目を果たしてみせます。五帝としての最初の仕事ですから」


 菫が強く頷いた。


「ならば外の事はあんたたちに任せるよ。邪魔が入ったらちゃんと食い止めるんだよ」

「桔梗さんたちは? 儀式はどこでするつもりですか?」

「付け焼刃の儀式だからね。本当は霊山の頂上にある神門磐座いわくらの前がいいんだけれど、……ああ、いいものがあるよ」


 すると桔梗は内座の方を振り返った。戴冠式の際神が降臨した天幕の奥をじっと見つめて、


「……なあ神様、あんたの聖域ちょいと貸しちゃくれないか?」


 桔梗が尋ねると、室内にすうっと風が吹いた。天幕が勝手に畳まれ、神のいる御簾があらわになる。

 その御簾がまた独りでに上がって、奥の虚空がこちらを手招いていた。


「――入っていいそうだ。菫」


 まだ身体の強張っている菫の手を取ると、桔梗はゆっくりとその虚空へと足を踏み出す。

 あの先は神の領域だ。どこに繋がっているかわからない、あるいは冥府へ通じているのかもしれない。人が立ち入ることが許されないはずのその奥に、神様は侵入を許可した。


「さあ、五帝の腕の見せ所だよ」


 桔梗はその身体が奥に消える瞬間まで、不敵な笑みを絶やさなかった。


「どうせ死ぬなら最後まで精一杯足掻こうじゃないか、若人わこうど




 激しい音がして境内に踏み込んだ、その目の前に広がる光景に鐵は目を疑った。拝殿の前にいたのは絶望の表情をして崩れ落ちた芥と、――七彩の鱗を持つ化け物だった。

 鐵はすぐにそれが眞白だとわかった。でも彼女は明らかに様子がおかしくて、全身が変異しているのは勿論動きがやけに緩慢かんまんで明らかに様子がおかしかった。


『止まれ!』


 共に駆けつけた焔がすぐさま二人を拘束した。動けなくなった二人のうち、鐵は真っ先に眞白の元に駆けだした。


「眞白! 眞白! しっかりしろ!」


 抱き上げると皮膚に強烈な痛みが走り礼服が破けた。眞白は五帝の『抑制』に押さえつけられながらも必死に抵抗する。


「眞白! どうしたんだ⁉ 俺がわからないのか⁉」


 必死に呼びかけるも、彼女は奇声を発しながら見えない何かを掴むように痙攣けいれんを繰り返す。鐵の腕から逃れようとするので、鐵は彼女を抑えつけるように腕に力を込めた。

 眞白が暴れる度に鐵の身体に傷がつく。鮮血が散り激痛が走りながらも、鐵は彼女を放すまいと縋りつく。


「眞白、……大丈夫だから。……落ち着いて」


 眞白の身体を抱き込み静かに詠唱を始めた。黒煙に覆われた境内にさらに暗い闇が立ち込める。一瞬にしてそこは夜のように暗くなる。


『我は五帝、烏羽からすば帝。なんじは弱き咲人の子』


 眞白の身体が強張こわばった。苦しんでいる事が痛いほどわかる。


『我は汝の守り人。汝の憂いを、汝の危難を、ことこどはらう者なり』


 血だらけになった己の手を小さな額に添えて、


『――あるべき姿に戻れ。我が愛しき咲人よ』


 力の解放と共に闇が晴れた。辺りはまた濛々と黒煙のたちこめる炎熱の地獄となる。

 だが、眞白の玉虫色の目に少しずつ光が灯る。その焦点がゆっくりとこちらにあった。


「こ、う、すけ、くん」

「――うん」


 鐵が微笑むと眞白がようやく笑った。そのまま力尽きて気を失う。息をしている事を確認し、鐵は安堵した。


「……芥、何故ここにいる?」


 それから鐵は眞白を抱いたまま、放心している青年を睨みつけた。芥の顔は土気色になり覇気がない。

 なんとなく、鐵は事の経緯を察している。


「……僕が、山に火を放ったんだ」


 芥は震え声で吐き出した。


「五帝を全員殺すために。神がもうこの世に降臨しないために、全部、壊してやろうと思って」

「こいつはどうしてここにいる?」

「……止めに来た。僕を連れ戻しに来たって……。襲ってきたから抵抗して――」

「抵抗して――?」

「僕の毒を飲ませた」


 鐵の身体は勝手に動いていた。眞白を抱えたまま、芥の頬に拳を叩き込む。芥の身体は力なく吹き飛んで転がり、


「洸輔! よせ!」


 駆け寄ってきた葵に止められなければ、もう一発入れていただろう。鐵は視界が怒りで赤く染まるのを感じて、それでも最後の最後まで理性の手綱を放さなかった。


「……俺たちを殺そうとするのはいい。俺たちは、それだけの事をお前らにしてきた」


 黄檗帝だけでなく、彼を黙認していた鐵たちも同罪だ。何より咲人を『保護』するという立場で、彼らを縛っていたのは紛れもない事実だ。


「だが無関係の奴まで巻き込んで傷つけた! その時点でお前のやった事は絶対に許される事じゃない!」

「洸輔、――もう十分だ」


 怒鳴る鐵に対し、芥は大粒の涙を流し首を垂れていた。

 ごめんなさい、ごめんなさい。と壊れたように呟いていた。

 鐵の中の怒りは徐々に冷めていく。この憐れな咲人を生み出してしまったのも、全てが力不足でやるせない。


 だが郷愁きょうしゅうに浸っている場合ではなかった。すぐ近くで境内の壁が倒壊する派手な音が響く。気が付くと周囲一帯逃げ場のない火の海になっている。


「洸輔! 葵! まずいわよ、鳥居が崩れた……!」


 焔が指し示した先には無残に燃え盛る鳥居だったもの。退路は断たれた。もう外には出られない。だが、


「――いや、もう大丈夫だ」


 葵が空を見上げて呟いた。鐵もつられて上を見上げる、すると――、

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