第五章 戴冠式⑦

 ◆

 目の前で激しい炎が舞い上がる。御橋神宮周辺の木々が無残に燃え上がって、じわじわと神宮を火に包んでいく。

 壮絶な光景だ。芥たちが放った火種が瞬く間に広がり辺り一面を焼け野原にしていく。自分たちが仕掛けた事とは言え、美しく罪のない木々が死んでいくのは心が痛む。芥は自身の顔を覆う、煙避けの防護マスクに触れた。警察の特殊部隊も使用するこの特注のマスクのおかげで煙の中でも息が出来るが、炎熱だけはどうにも防げず額からダラダラと汗が流れてくる。


「それにしても神宮に火を放つなんて――」


 咲人の仲間の一人が己のやった所業に今更ながら怖気おじけづいた声を上げた。その不穏な空気は仲間たちの間で伝播する。


「なあ、芥。俺たちはいつまでここにいればいいんだ? 退路が断たれる前に俺たちも山を下りた方がいいんじゃ――」


 恐る恐る尋ねる男に芥は冷たい笑いを浮かべた。


「退路? 何を言っている、退路なんてないぞ」


 それを聞いた仲間たちの顔が一斉に青ざめた。


「僕たちの目的は五帝を確実に始末する事だ。火を放っただけでは逃げられる可能性もある。だからここで待ち伏せする」

「なっ、俺たちに殉死しろって言うのかよ⁉」


 既に山道は煙に覆われ視界が悪くなっている。火も徐々に燃え広がってやがてこの地点にも辿り着くはずだ。


「ふざけんなよ! 芥! 俺は死ぬ気なんかねぇぞ!」

「神のおわす神宮に火を放つ策にのっかっておいて何をいまさら」


 むしろこんな大事を仕掛けておきながら、無傷で帰れると思ったのか、と芥は嘲笑あざわらう。味方だったはずの彼らの銃口が一斉に芥に向けられた。


「冗談じゃねぇ! 死んでたまるか!」


 一人の男が芥に向かって引き金を引いた。しかし、その男は突然目を見開き苦しみだすと、銃を取り落とし喉を押さえる。

 まわりの者も同様だった。喉を掻きむしり泡を吹きながらバタバタと倒れていく。


「芥……、てめぇ……!」

「ここまでご苦労だったな、後は僕一人でやる」


 彼らの周囲に立ち込めていたのは芥子色の靄であった。煙とは違う、粘度の高い毒々しい霧に憐れな仲間たちが巻き込まれ、苦悶の表情を浮かべながら意識を失っていく。


(残念だ、お前らと僕と同じ気持ちだと思っていたのに)


 同じ『女郎花』で育った仲間、あるいは、咲人のコミュニティの中で知り合った者。黄檗帝を亡き者にするという芥の提案に賛同し力を貸してくれたのはいいものの、どうやら自分の命をかけるところまでには至らなかったらしい。

 心底残念だ、失望した。だがここまでくればあとはもう彼らの手は必要ない。このまま五帝を亡き者にし、神宮を破壊すれば世間はこの事件を大々的に取り上げる。そして芥も死に、あらかじめ報道局に送り付けておいた己の遺書が公表されれば、これまで奴らが行ってきた所業が明るみにされるだろう。芥は仲間であったはずの彼らが絶命する時を眺め、感慨にふける。


 ――その時だ。

 疾風が芥の霧を払った。強い風に持って行かれそうになった瞬間、空から殺気を感じ芥は脊髄反射で飛びのく。

 霧の晴れたその目の前に光を纏った恐ろしい化け物が降臨した。全身を光り輝く鱗で覆われた小柄な化け物だ。

 息を呑むほど悍ましい姿だが、その面影に見覚えがあり芥は目を見開いた。


「お前……、鶫眞白か……!」


 先日遭遇した、かつての琥珀の親友の女だった。あの時とは姿も表情も明らかに様変わりしている。

 芥は反射的に銃を構えた。引き金にかける指が小刻みに震える。


「なん、なんだよ。お前……」


 こんなところで彼女に会うのは予想外だった。しかもこんな異様な姿で、芥を喰い殺さんばかりに息を荒げている。

 眞白が飛びかかってきた。芥は瞬時に引き金を引き撃った。弾は見事に眞白の身体に命中したが、化け物の鱗は簡単に銃弾を弾きびくともせず、


「――っ!」


 芥は恐ろしい速度で喉を掴まれ地面に引き倒された。

 背中を激痛が襲う。鋭い爪の伸びた手で芥の喉を抑えつけ、怒りを内包した玉虫色の瞳で芥を至近距離から睨みつけている。喉を縫い留められあえぐと、こちらに対して怒っているような、責め立てるような視線に芥はカッとなった。


「放せよ!」


 芥はがむしゃらに暴れた。眞白の腕力は見た目ほど強くない、拘束されながらも眞白を殴りつける。鋭い鱗に皮膚が切られても、芥は殴り続けた。


「なんで! お前がここにいる! 僕の邪魔をするんだ! 放せ!」


 痛みで涙が止まらなかった。顔をぐしゃぐしゃにして、涙声で喚きながら目の前の化け物を殴る。すると、


「こ、はくが、――し、んぱいしてる、の」


 化け物の口からか細い女の声が漏れた。紡がれた名前に芥は頭が真っ白になって、そして逆上した。


「なんでお前にそんな事言われなきゃいけないんだ! 僕たちの事、何も知らないくせに!」

「これ、いじょう、つみをかさねちゃ、――だめ」

「うるさい! うるさい! お前に何がわかるんだ!」


 芥は銃のグリップで眞白の目を殴りつけた。柔らかな眼球を打たれて、眞白が少し怯んだ瞬間、芥はその大きく裂けた口に勢いよく手を突っ込む。牙が食い込むのも構わず、芥は口内で自身の毒を分泌した。

 化け物の絶叫が天に響いた。毒を直接体内に注ぎ込まれた眞白は鱗をまき散らしのたうち回る。地面が抉られ周囲の木々がなぎ倒される。解放された芥は必死に這いずって化け物から距離をとった。

 芥の神経毒は吸った者を錯乱状態に陥れる。それをもろに飲み込んだ眞白は泣いているみたいに悲鳴を上げ自身の身体を傷つけて暴れまわった。


「あ、く、た……!」


 それでも眞白が必死にこちらに手を伸ばしてきた。その瞬間、芥はその姿の奥に別の人物の影を見る。


「――姉さん」


 いつも隣で笑ってくれていた大好きな姉の顔が化け物と重なった。


『私ね、親友がいたの。この店で一緒に過ごした親友』


 芥の脳裏に、いつの日だったか琥珀が嬉しそうに話している姿が浮上した。


『その子はある人に買われてこの店を出て行ったわ。それ以来会っていない』


 嬉しそうにしているけれどその横顔はどこか寂し気に見えたような気がして、芥は目を細めた。


『でも私、あの子が幸せならそれでいいの』


 なんて悲しい事を言うんだろうと、芥は思った。誰かの幸せが私の幸せなんて、ただの強がりか偽善でしかないと思っていたのに。琥珀は心の底からそう思っていたのだ。芥はその眞白という存在に嫌悪した。琥珀にここまで思われておきながら、彼女に悲しい顔をさせる会った事もないそいつが大嫌いだった。

 でも同時に興味を持った。琥珀がそれほどまでに想っている存在がどんな奴か、興味があった。

 その存在が今芥の前でもがき苦しんでいる。もがき苦しみながらも、芥に手を差し伸べ、


「かえ、ろ……、あくた、」


 姉と同じように優し気な顔をして笑っていた。

 芥は情けない悲鳴を上げた。恐ろしくなって膝の笑う足で逃げ出した。


 怖い、怖い。


 自分が何を傷つけてしまったのか、考えるだけでも恐ろしくて、もうその光景を目にする事が出来なくてたまらず逃げ出した。

 麓に向かう山道は眞白の倒した木々で塞がれている。必然的に芥は黒煙の立ち込める山頂への方角へと駆けだした。防煙マスク越しでもわかる周囲に漂う煙の臭い、肌を焦がす熱気。それでも芥はその渦中に飛び込んだ。あの化け物の側にいるより炎にあぶられた方が幾万倍もましに思えた。


 怖い、怖い。


 芥は半ば錯乱状態になって山道を駆けあがった、たどり着いたのは芥が陥落させるはずであった御橋神宮。

 既に火の手は境内に広がっている。轟々と燃え盛る炎をかい潜って、芥は必死に前進する。やがて拝殿が目の前に現れると、その中にまだ取り残されている人間を発見した。


「誰か来た!」「救援か⁉ 助けてくれよ!」


 彼らは神宮に勤めている宮司や巫女たちだ。単身で乗り込んできた芥を見て、すがるような目をこちらに向ける。

 その光景を見た瞬間、芥の中に最後に残っていた理性が強烈な悲鳴を上げた。この期に及んで、芥は自分が何をしようとしていたのかを悟った。

 五帝と神を亡き者にする。そのためなら、自分や仲間の命もどうだってよかった。刺し違えたって、この世界を変えられるのならそれが善だと考えていた。

 ――思いあがっていただけだ。こんな事をしたって芥の自己満足でしかない、それどころか無関係な人間の命すら奪う事になるのに。


(違う、僕は違う!)


 助けに来たんじゃない。芥はむしろこの山に火を放った張本人だ。彼らを今まさに危険な目に遭わせている元凶だ。


 ――頼むから、そんな目で見ないでくれ。


 芥は畏怖と羞恥に押しつぶされそうになって、炎に囲まれた境内で膝を付いた。


 ――ごめんなさい、ごめんなさい。


 拝殿の人々は芥を奇異の目で見ている。咲人である芥がいつも向けられている目だ。彼らは芥が咲人だと知らないはずなのに、芥をそんな目で見る。


 ――そんな目で見ないでくれ、惨めになる。


 だが、彼らが芥の背後にいるそれに気づくと、顔色を変える。芥も思わず振り返って、血の気が引いた。

 そこにあの化け物がいた。全身鱗に塗れた、意識が混濁し正気を失った化け物が芥を追ってきていた。



「ひいっ! 何だあれは⁉」「化け物!」


 眞白の姿を見た途端、拝殿にいた者たちが悲鳴を上げパニックになった。彼らの姿を眞白のぎょろりとした目が捕らえた。錯乱した化け物は周りが見えていないのか拝殿にいる人間たちの方に勢いよく突っ込んでいく。


「止めろ! 頼む! 止めてくれ!」


 芥が泣き叫んでも無駄だった。全部自分のせいだ、芥のせいで何もかもが滅茶苦茶になったのだ。


(頼む、誰でもいいから!)


 芥は必死に祈り、たぶん人生で初めてその名前に縋った。


(神様! 神様!)


 彼の最初の祈りは、一体誰に聞き届けられたのか、


『止まれ!』


 地の底から響くような声がした。地獄の業火に包まれたこの空間に相応しい、傲然ごうぜんたる誰かの声が。

 芥の身体が金縛りにあったみたいに動かなくなる。同時に人間たちに飛び掛かろうとしていた眞白も苦しそうに地面に伏した。

 サイレンの様な音が響く。三半規管を揺さぶられて芥も地面に伏した。

 この感覚はよく知っている。今まで散々あの悪しき男から喰らい続けていた、五帝の力だ。

 視線を境内の隅に向けた。そこに一人の女が立っている。周囲に広がる炎と同じ濃い紅の着物を纏い、頭上には炎の光を吸い瞬く紅玉に縁どられた冠を掲げ、それら装飾品に引けを取らない美貌を持つ女。芥も最近よく見る顔だ。


「……鏡雛、ほむら……」


 いや、緋猩帝と呼ぶべきか。圧倒的な力を放ち君臨する女の後ろには二人の男が立っていた。その内の一人、見覚えのある黒ずくめの男が血相を変えてこちらに駆け寄る。


「眞白!」


 次の光景に芥は目を疑った。

 その男はまっすぐに化け物の元へ駆けつけ、その化け物を――力強く抱きしめたのだ。

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