第五章 戴冠式①

 ◆

 目覚めた時まだ陽は昇っていなかった。こんな時間に起きるなんて珍しい事もあるものだ、と鐵は寝ぼけ眼で天井をあおぐと、


「……?」


 身体に温かなものがのしかかる。なめらかで柔らかくて、甘い香りを放つそれが鐵の腕の中でもぞもぞと身動みじろぎした。

 薄暗い視界の中に、愛しい人の安らかな寝顔が飛び込んでくる。一瞬で目覚めるほどにそのうるわしさに息を呑んだ。


 ――眞白。


 彼女を起こさないように心の中で名を呼んだ。抱き寄せただけで胸の奥から溢れだす充足感に鐵は息をつく。

 一糸纏わぬ姿で意識を手放す彼女の目元は赤くれていて、身体中のあちこちに赤い花が散っている。


『見ないで』『醜いから』


 折角声が聞けたのに、眞白はそんな事ばかり言うからついムキになってしまった。酷くするつもりなんてないのに、彼女を前にすると理性なんて何の役にも立たなかった。


「……綺麗なのに」


 たまのような滑らかな肌もいびつに輝く硬質な鱗の肌も、どちらも鐵にとっては彼女の魅力の全てなのに、彼女はきっとそれを受け入れる事が出来ていないのだろう。

 名残惜しみつつ鐵は起き上がると衣服を整え始めた。今日は戴冠式だ。菫を紫苑帝として迎え入れる大切な儀式、気を引き締めて行かなければ。


 ――それに、黄檗にも対峙しないといけない。


 眞白の為にも。そう唱えるだけで鐵の決意は強く固まる。

 さあ、正念場だ。と気合を引き締めたその時、鐵の出鼻をくじく無慈悲なベルが鳴る。

 ホテルの備え付けの電話が鳴った。思いがけない事に戸惑いつつも、鐵は恐る恐る受話器を取った。


「はい、もしもし」

『おはようございます、フロントです。早朝に申し訳ありません、鐵洸輔様でお間違いないですか?』

「はい、そうですが……」


 受話器の向こうから若い男の声がした。丁寧な言葉口調だが、なんだか少し焦っているようにも聞こえる。


『北条菫様という方がロビーにお越しになられています。どうも、緊急のしらせがある、と』

「……? わかりました。すぐ行きます」


 鐵は電話を切ると一階のロビーに向かった。そこには確かに先日会った菫の姿がある、が、その顔は蒼白になり焦燥しょうそうゆがんでいた。


「鐵さん! 申し訳ありません、こんな朝早くに」

「構いません、どうしました?」


 今日は菫の戴冠式なのに、わざわざこんな朝早くに飛んでくるなんて、何の事態だろう。すると、菫は一度大きく深呼吸して、


「ついさっき、浅葱帝の吉川さんから連絡があって、昨日の夜、黄檗帝が何者かに刺されたって」

「――え?」


 予想もしなかった事態に鐵も声がうわずった。


「刺された? 黄檗が?」

「はい。今病院にいるそうですが、発見が遅れてかなり危険な状態だそうで……、とにかく一度病院に来て欲しいと吉川さんが」

「――わかった」


 急務の事態に鐵はまだ頭の追い付かないまま菫と共にホテルを飛び出した。




 病院に駆けつけると、ロビーに桔梗と焔、そして葵の姿を発見した。葵は仕事着を着ておりどうやら夜勤だったようだ。桔梗と焔は鐵と同様に突然知らされて駆けつけたのだろう。皆青い顔をしてソファに座り向かい合っていた。


「鐵、ご苦労だったね」


 いつも泰然たいぜんとした桔梗もやや疲れた声をしていた。


「葵、黄檗が刺されたって……」

「ああ、深夜帯に救急車で運ばれてきて、たった今手術が終わった」

「容体は?」

「意識不明の重体、今は集中治療室にいる」


 鐵は唖然あぜんとした、その横で焔があからさまに舌打ちをする。


「刺されたってどういう事よ。あの人も誰かに恨み買ってたっていうの?」

「あの男は商売柄敵を作りやすいからね」


 大手人材派遣会社を経営し、その裏で咲人に関連する法外なビジネスも手掛けていた黄檗の事だ、彼を殺したいほど恨んでいる連中は山のようにいる。だが問題は誰が黄檗を刺したか、だ。単純な商売関連のいざこざならまだ話は簡単だが、


「襲った奴が咲人だという線は?」


 鐵の問いに全員が顔をこわばらせる。咲人が黄檗を襲ったのなら、それは彼が五帝だから襲われた可能性が高くなる。


「ありえないわよ。『咲人は五帝に逆らえない』ってそういう決まりでしょ?」

「いや、どうだが。武装して不意を打たれたらあたしらだって一溜ひとたまりもないよ。神の言う事が絶対に正しいとも言えない」


 焔と桔梗は自身の意見を述べながら唇を青くしていた。もし、黄檗を襲ったのが咲人なら、それは鐵たちにとっても由々ゆゆしい事態だからだ。すると、


「あの……」


 黙っていた菫がおずおずと手を上げた。


「どうしました、菫さん」

「こんな大変な時に言うのもなんですけど……、今日の私の戴冠式は一体どうなるのでしょう?」


 その質問に葵がうなった。


「黄檗帝が出席できない以上、戴冠式は中止せざるを得ないでしょう。神宮の方に連絡して――」

「「「いいえ、その必要はございません」」」


 その時、葵の言葉を切る無機質な声が重なり合って響いた。まだ開院前の誰もいないはずのロビーに三人の白い人影が並んでいる。


「これはまた……、三皇みずからお出ましとは」


 桔梗が皮肉気に笑った。


 三皇。神直属の臣下で冥府側の存在。人間が代替わりに任命される五帝とは異なり、彼らは神格を持った正真正銘の天使だ。彼らはいつも三人一緒に現れる。性別も年齢も不祥な同じ顔をした特徴のない三人の影が、鐵たちに音もなく近づいてきた。


「儀式は本日定刻通りに行います」

「予定の変更はありません」

「神はあなた方の拝来を待っています」


 抑揚のない声、うつろな目。人間の形をしただけの蜃気楼しんきろう


「「「神の意志に逆らう事は許されません」」」


 三人いるはずなのに個性がないものだから一人の生命体が分裂しているようにしか感じられない。三人の人間が一体となった生き物、その影の向こうに潜む強大な力の根源――。


「承知した」


 怖気づく五帝の中で、桔梗が一人頷いた。


「「「では、お待ちしております」」」


 三皇はどこからともなく現れた靄に包まれ、音もなく消えていった。


「……さて、そう言われてしまったら行かないわけにもいくまい。儀式に向かう準備をしようか。菫、行くよ」

「はっ、はい」

「では皆、後程」


 桔梗は立ち上がると菫を伴ってあっさりと帰っていった。


「俺も一旦仕事に戻るよ。もうすぐ夜勤空けるから、終わったら向かう。黄檗の容態も同僚に報告してもらうから」

「ああ、お疲れ」


 普段飄々ひょうひょうとしている葵もさすがに目の下に隈が出来土気色をしていた。彼が去ると、ロビーには鐵と焔が残されて、


「なんだか大変な事になっちゃったね、洸輔」


 焔が憂い顔をしつつ鐵に寄り添ってきた。昨日の所業に苛立ちを覚えた鐵はやんわりとその手を払いのける。


「焔、この際だから言っておくけど」

「なぁに?」

「俺はお前の気持ちに応える気はない。昨日のような事はもう止めてくれ」


 焔の形のいい唇が不満そうに歪んだ。


「お前は五帝として大切な仲間だと思ってる。でも恋愛感情とはまた別だ、言い寄られても応えられない、迷惑だ」


 あからさまな拒絶に焔は顔をくもらせる。普段は威風堂々とした姿で人前に立つ彼女も、今ばかりは年相応の娘の様だ。


「好きだって気持ちも否定されるの?」

「それは好きにしたらいい。でも俺は何も出来ない」

「そんなに……、あの咲人が好きなの?」

「好きだよ、愛してる」


 自分が化け物だと泣く眞白を見たくない。あんな風に傷つく姿をもう一人にしたくない。


「だからあいつを傷つける奴は誰であろうと許さないよ、俺は」

「……わかった」


 焔は小さく呟くと、目を合わさずに去って行った。罪悪感はあるものの、一つ大きな心のしこりが取れた気がした鐵はほうっと息をついた。


「帰るか」


 戴冠式が予定通り行われるというのなら、一度戻って準備をしよう。しかしながら、


「……無事に終わるといいけれど」


 幸先の悪い一日のスタートに波乱めいたものを感じて、鐵は渋面を浮かべた。

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