第四章 鱗剃り⑨

 ◆

 今日の満月は妙に明るい。心なしか赤く見えるのがなんとも不快で、黄蘗は空に向かって舌打ちした。

 なんだか無性に腹が立つ。自社ビルの玄関で黄蘗は肩を鳴らして迎えの車を待っていた。

 黄蘗の会社は都内のビル街にある。残業を終えたサラリーマンたちが疲れた顔で巣に戻っていくのを同じく憂鬱ゆううつな顔で見届けた。


「そういや明日戴冠式だったな」


 そう呟くと身体の疲労が一気にふくれ上がった気がしてまた舌打ちをする。五帝の役目とはいえ、ああいう堅苦かたくるしい儀式というものは黄蘗の最も嫌悪するものだった。


(確かあの小娘、紫苑の婆さんの親戚なんだっけか?)


 先日菫とかいう若い女が桔梗と二人で挨拶に来た事を思い出す。つまらなさそうな奴だと思った。少なくとも黄蘗のビジネスの分野では一文にもならなそうな女だ。


「ああっ! うざってぇ!」


 周囲に人がいなくなったのをいい事に黄蘗は大声で悪態をつく。誰かいれば不審者に見られただろうが構うもんかと、黄蘗は投げやりに天を仰ぐと、


「――黄蘗様」


 黄蘗を呼ぶ声がした。


「あ? 何だよ」


 振り返ると静かな通りに若い青年が幽霊のように立っていた。その顔は見覚えのあるもので、


「何だよ芥か」


 見覚えがありすぎてむしろ飽き飽きする顔だ。彼は黄蘗が使役している咲人の一人。金色に染めた髪に鼻や耳に無造作に開けられたピアス穴。一見すると若者の街でたむろしていそうな外見だが、この青年は今の今まで一度たりとも黄蘗に笑顔を向けた事がない。まあ、向けられたところで気味が悪いだけなのだが。


「定期報告か?」


 彼には黄蘗が所有する店舗の一部の経営を任せている。姉と慕っている琥珀という咲人と共に、黄蘗の手足となって働いていた。

 芥は押し黙っていた。一体何なんだ、とイライラを募らせていると、


「黄蘗帝、明日、五帝の戴冠式があるそうですね」

「あ? お前に言ってたっけ」


 黄蘗は顔を歪めた。


「ああそうだよ。ったく、面倒な事この上ないね。なんでわざわざ小娘のために俺が参列しなきゃいけないんだ?」


 再び戴冠式に対する億劫おっくうさに愚痴をこぼすと、


「――戴冠式、出なくてよろしいのでは?」


 まるで悪魔のささやきの様に芥はのっぺりとした声で告げた。黄蘗が立ち止まる。


「あぁ?」


 脳内で血管が二、三本切れたかもしれない。黄蘗は怒りの形相ぎょうそうで芥に近づくと、襟首を思い切り掴んだ。


「なんでお前にそんな事指図されなきゃいけねぇんだよ?」

「……っ! だって、出たくないのでしょう?」


 苦痛に顔を歪める芥をさらに締め上げる。こいつが窒息しようがお構いなしだ。

 黄蘗は痛烈に腹が立っていた。戴冠式が億劫なのは同意だがなんでこいつなんかに指図されなくてはならないんだ、と。


(ああ、糞。イライラする)


 八つ当たりにと言わんばかりに黄蘗は芥の首を締め上げ続けた。芥は黄蘗には逆らえない、何故なら芥は咲人で、黄蘗は彼を使役する五帝だからだ。芥の意識が落ちるぎりぎりのところで、彼を解放する。苦しそうにせき込んで倒れるそれは道端に落ちたゴミと大差がなかった。


「さっさと巣に帰れよ。俺は疲れてるんだ」


 そのみじめな姿を目にいれるのもわずらわしくなって、彼をおいて立ち去ろうとする。が、


 ――笑い声が聞こえた。


 明らかにこちらを小馬鹿にする、邪気に満ちた笑い声が。

 黄蘗は振り返る。そこにはいまだに地面に這いつくばる憐れな青年がいて、


「くっ……、くはは」


 笑っていた。今まで一度たりとも笑顔を見せた事のない咲人が肩を震わせて笑っていたのだ。


「――おい、何が可笑しい」


 黄蘗にしては珍しく声が震えていた。壊れた人形のように笑うその咲人に、黄蘗は初めて恐怖を抱く。芥は立ち上がった、その掌に月夜を受けて光る鋭利な刃物が握られているのを黄蘗は見逃さなかった。


『止まれ!』


 とっさに黄蘗が叫んだ。人のいない通りに強烈な電撃が飛ぶ。電撃はまっすぐに芥を捕らえ彼を吹き飛ばし、ビルの壁に叩き付けた。


 バチバチ


 周囲に帯電した電流が皮膚を刺激した。黄蘗は我知らず息を荒げる。


(こいつ……、こいつ!)


 今まさにこの哀れな咲人が自分に刃を向けようとしていた事に、襲われそうになった恐怖と共に激憤げきふんした。大股で芥に近づくと、


「お前! 今俺を殺そうとしたな⁉」


 側に転がっている刃物を踏みつけた。医療用のメスに似た薄い刃物をこれ見よがしに粉砕する。


「咲人が五帝に歯向かえると思ってんのか? あぁ⁉」


 うずくまる芥を無理やり立ち上がらせると今度こそ殺す気で首を絞めた。


「ふざけやがって! 咲人の癖に! 俺に楯突く気か⁉」


 芥は答えない。――いや、答えられるわけがない。五帝の強力な『抑制』をかけられているうえに、首を絞められて呼吸などできないのだから。――だが、


「……そうだ」


 命の危機にひんしているというのに、その咲人は笑った。今まで見たこともないあざけりの視線を主人である黄蘗に向けて。

 黄蘗を逆なでする行為に、ますます目の前が怒りで赤く染まっていく。


「上等だ。覚悟は出来てるんだろうな!」


 黄蘗の手にかかれば咲人の一人や二人、闇にほうむってしまう事などたやすい。一撃で身体を粉砕し跡形もなく消す事だって、じわじわと毒に犯し何時間もかけて苦しめる事だってできる。こいつの代わりなんていくらでもいる、死んだってかまわない。

 だが、それでも優位に立っているのは黄蘗ではなく、――咲人だった。


「確かにお前は咲人には強く出れるかもしれない。でも、――」


 その時、黄蘗は目の前の咲人がこちらではなく、こちらの背後に目をやったのに気づいた。いつもの冷静な彼であれば気づけたかもしれない。しかし今の黄蘗は自分より下に見ていた所有物に反抗され逆上し周囲が見えていなかった。

 それこそが芥の思うつぼだったことに、気づくのが遅かった。


 強い衝撃が背中を穿うがった。冷たい、そう感じたのは一瞬の事で、


「――あ?」


 次の瞬間激痛と灼熱しゃくねつが全身を襲った。痛みで声が出ない。膝の力が抜けて、意図せず黄蘗の身体はがくりと崩れ落ちる。

 苦しい、息ができない。肺は通常以上に動いているのに息苦しさが収まらない。激痛に腹を押さえた。視界の一面に広がり始める、暗がりでもよくわかる真っ赤な海。

 ――自身の身体から流れる血だ。


「……っだ、誰……だ」


 黄蘗は薄れる視界の中で自分の背後にいた人物を振り返る。月明かりで照らされるそいつの顔は、全く見覚えがない。知らない。誰だ、こいつは。


「僕の協力者です。普通の人間ですよ」

「人、……間」

「僕では貴方に傷一つ付けられませんから、彼に協力してもらいました」


 地面に這いつくばる黄蘗を今度は芥が冷たい目で見降ろした。道端に落ちたごみを見るような目で黄蘗を見ていた。


 ――なんで、なんで俺がこんな奴に。


 気づくと黄檗の周囲を複数の男たちが取り囲んでいた。見覚えのある顔もある、黄檗の飼っている咲人だ。だが、知らない顔も大勢いる。そしてそいつらは一人残らず正気を失った顔をしていた。


(人間……、普通の人間だと……?)


 憤怒ふんぬと屈辱と、死が間近に迫る恐怖に黄蘗は頭が真っ赤に染まる。


「貴方は僕が何の咲人かご存じでしたよね?」


 芥がこちらに向けて手をかざした。その掌から薄い芥子けし色の靄がジワリとにじみ出る。


「神経毒です。成分は調べたことないけど、吸えば脳の細胞が破壊され時には死に至る。これ結構応用効くんですよ、脳の前頭連合野をおかせばその人の人格、意識、行動まで支配できる」


 知らなかったでしょ、と芥は嘲笑ちょうしょうした。彼の隣には黄檗を刺した男がふらふらとおぼつかない足取りで立っている。意識が混濁こんだくしている、中毒症状におちいっているのだ。


「貴方の力は強力だ。でも人間には無力です。そして僕は人間を使役する力を持っている」

「てめえ……、なんで、こんな事を……」

「決まってるでしょ、あんた達を殺すためだ」


 芥の顔から感情が消えた。


「僕は五帝を許さない。我々を管理する存在なんかこの世にいらない」

「……っ」


 ののしろうとした黄蘗の口から血の塊が吐き出された。


「あんたが死ねば僕らは解放される。――姉さんも自由になるだろ?」


 芥の目は暗くよどんでいるが、それでもその奥にただ一つの揺らぎない光が見えた。


 ――こいつ、こんな目ができたのか。


 死期の迫る中で、黄蘗は妙に感心してしまった。芥は間違いなく正気で、そして本気で事をなそうとしている。とどめを刺そうと周囲の男たちがにじり寄ってきた。芥と同様憎悪をむき出しにする咲人、毒に犯され正気を失った人間。その両方が、黄檗を亡き者にしようと取り囲む。


「さようなら、りんさん。このご恩は一生忘れません」

「……その名で呼ぶな!」


 黄檗は最後の力を振り絞って、周囲に雷撃を落とした。暗闇で閃光がほとばしり、直撃を受けた何人かの咲人がった瞬間、その隙を突破した。


「――! 逃がすな!」


 芥が食らいつこうとしてももう遅い。稲妻が弾けた瞬間、黄檗の姿はそこになく、黄檗はまんまと逃げおおせた。


「……はっ、……ざまあ見やがれ」


 現場から五百メートルは離れているであろう路地に瞬間移動した黄檗は脂汗を搔きながらにやりと笑った。本当ならあそこにいた咲人を全員殺してやりたかったが、腹の傷が思いの外重傷だ。


「ああ……、糞。俺、も耄碌もうろくした、な……」


 精一杯の強がりももはや声に出すことが出来ない。視界がぼやけてきた。

 自分がこんな終わり方をするなんて。人間というものは本当に貧弱で、――愚かだ。

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