第四章 鱗剃り⑧
◆
腹を刺されて一週間ほど入院した。本当はもう少し安静にしていなければいけないところだったが、搬送された病院は当時鐵の職場でもあったので、患者として休んでいるのが居心地悪くて、主治医を言いくるめて早期退院した。
早く家に帰りたかったのは眞白が心配だったのもあった。眞白はこの一週間一度も見舞いに姿を見せなかった。寂しいというより、少し違和感を抱いた鐵は葵を問いただし、鐵が刺された日の事の
タクシーに乗って大急ぎで帰宅すると、眞白は寺の縁側で放心していた。昔よく玄一郎が物思いに
「眞白」
声をかけると少女は何故か幽霊を見たみたいに驚いて固まった。小動物のように目を大きく見開く彼女に思わず吹き出して、
「ただいま、眞白」
鐵は眞白の側に腰かけた。逃げるかと思ったけど、彼女は鐵の服の裾を躊躇いがちに引っ張って、
(怪我はもういいの?)
「うん、ほんとはもう少し入院してろって言われたけど、無理やり出て来た」
「……!」
「大丈夫だよ。この通り――っ、いて」
試しに肩をまわしてみたら、脇腹の皮膚が突っ張って激痛が走ったので慌てて止める。顔面蒼白になった眞白が絶望的な顔をする。
「や、本当に大丈夫」
そんなに心配しなくていい。鐵は眞白の頭を優しく撫でた。でも
「――ちゃんと寝てたか」
彼女の目元に
「食事は?」
眞白は気まずそうに目を反らした。やっぱりか、と鐵はため息をついて、眞白を抱きしめる。
「――心配かけてごめん」
出てきた言葉は本当に単純で、さっきタクシーの中で言う事を色々考えていたはずなのに。
彼女を前にした瞬間、何もかも吹き飛んだ。
「俺が刺された日の事、葵に聞いた」
ショックで動けなかった事、すぐに駆け付けられなかった事。彼女はきっと自分を責めていたに違いない。
「眞白は何も悪くない。気にする事なんか何もない」
それよりもずっとたくさんのものを眞白に貰っている。出会ってから過ごした日々の中で、鐵は誰かを愛する喜びを知った。朝起きて一番におはようと笑ってくれる事も、一緒にご飯を食べてくれる事も、月を見ながら寄り添って眠る事も。玄一郎の孤独な背中を追い続けてきた鐵が、初めて感じた愛おしさを。初めて誰かを守りたいと思った事を。
与えてくれたのは眞白だ。
「眞白、前から考えていた事があるんだ。聞いてくれるか?」
時期を見て話そうと思っていた事がある。今がその時だと思った。
「俺、東京を離れようと思うんだ」
意外な事だったのか、眞白は
「独立して、自分の診療所立ち上げようと思っててさ。佳賀里って村に咲人の廟守やってる知り合いがいるんだ。歳だから引退しようかって言ってて、なら廟守も兼任しながらそこで開業してもいいかなって」
その廟守は玄一郎の古い知り合いだった。地方の村なら
それにこの街は、眞白に厳しすぎる。
「眞白、俺と一緒に来てくれないか?」
生まれてからずっと人間としての生き方が出来なかった眞白にとってこの街は、毒だ。
ホテルに戻った時、陽は沈み煌々とした満月が浮かんでいた。鐵と眞白は始終無言で部屋まで帰ってきた。蛍光灯をつけるとその光に眞白の肌が
先程街中で彼女を保護した時に比べ、明らかに鱗の量が増えていた。眞白の鱗の
「とりあえず鱗、何とかしよう。そのままじゃ服に引っかかって危ない」
鐵は荷物の中から大ぶりの
「あー、……脱がしていいか?」
流石に無理やりはまずいだろうと尋ねてみるが、眞白は自分で服のボタンに手をかけた。全く躊躇いもせずに眞白は裸になる。見るのは初めてではないとはいえ、恥じらいもなく素肌を晒す彼女にこちらが逆に当惑した。
出会った時はやせ細った子供のような姿をしていた眞白は、いつの間にか女らしい丸みを帯びた身体付きに変化していた。確かに葵の言う通り彼女は少しずつ成長していた。
流石に目のやり場に困った鐵は、なるべく直視しないように眞白をバスタブの
「腕出して」
鐵の命ずるままに眞白は右腕を突き出した。細い腕に武骨な剃刀を
「……俺のせいだな、ごめん」
花びらの様に散る鱗はため息が出るほど美しい。けれど、これのせいで眞白がこれまでの半生をどんな思いで過ごしてきたか、鐵だって想像できるものではない。今日、彼女にまたそんなものを生やしてしまったのは自分のせいだ。
「焔が俺に好意を抱いてるのはわかってたから、出来るだけ会わないようにしてたんだけど……。俺も応える気ないし」
鐵ははっきりと断言した。焔は確かに五帝の一員として大切な仲間だ。でも、それ以上にはきっとならない。
「だから、俺の妻はお前だけだよ」
周りからどう見られようが、どんな
人形だった眞白の目がようやく揺らいだ。ようやく息を吹き返した彼女は、浅く呼吸を繰り返し、そして、
「――わ、たしで、いい、の……?」
雷に打たれたみたいだった。
「眞白、声……」
「わ、たしっ……、なにも、で、きない」
眞白は喉を押さえて咳き込んだ。ずっと使っていなかった声帯が悲鳴を上げ、苦しそうに
「無理するな、眞白……」
鐵が制止するが眞白はいやいやと首を振った。涙をこぼして喉を押さえながら必死に口をはくはくと動かした。
「わた、しは……みにくい――。ひとじゃ、ない……、ばけもの」
「違う、お前は人間だ」
「こ、う、すけ、くんに、め、いわく、ばっ、かり、か、けて、る」
「迷惑なんて俺は思ってない。俺はお前好きだから側にいるんだ」
「こ、はくを……、おい、て、った。――ひどい、ことした」
琥珀――、彼女の親友だ。鐵は彼女の手を握ってそれを否定する。
「置いていってなんかない。お前は何も悪くない」
「こはく――、こ、はく……っ、きっと、わたしのこと、うらんで――る」
「恨んでなんかない、彼女はお前の幸せを願っていた」
鐵に『琥珀』を託したあの女は、眞白の名を愛おしそうに語った。鐵に頭を下げた、『眞白を救った』とこんな自分に感謝していた。
「し、あ、わせ、に……なる、しかく、ない。……でも、――でもっ」
鱗の剥がれた赤子みたいに柔らかく
「こう、すけ、く、んと……いっしょ、に、い、たい……!」
「ああ、俺もお前といたい」
「……っ、ごめ、んなさい、――ずるく、て、みに、くく、て……ごめ、んな、さ――」
「ずるくても
鐵は眞白をきつく抱きしめた。彼女の鱗に
溢れ出て止まらない衝動に身を任せて、鐵は眞白の唇を奪った。
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