第三章 群芳の憂い③

 ◆

 紫苑しおん帝、名は北条ほうじょう桔梗ききょうよわい八十を超える老婆は現在就任している五帝の中では最古参であった。

 彼女は五帝としての強い誇りと美学を年月が経っても衰える事無く追及してきた。どんなに年老いても自身を着飾る事に手は抜かないし、彼女が見せる所得顔ところえがおは歴戦を生き抜いた女傑じょけつのそれだ。

 そんな食えない婆が鐵の前に突然現れることは初めてではない。彼女は神出鬼没、いつだって自分が最優先なので人の意見などまるで聞きやしない。


「まったく、せっかくこんな田舎に足を運んでやったのに、馳走ちそうの一つもないとはね」

「ご馳走してもらいたかったら来る前に来るって連絡ください」


 不敵に笑う老婆に鐵は悪態をついた。

 今鐵たちがいるのは、佳賀里の村から車で十キロほど離れた駅前のデパートのレストラン。食べ物がないと告げると、桔梗が鐵をおどして無理やり車に乗り込んできた。


(本当は二人で食事のはずだったのに……)


 心の中で愚痴ぐちってももう遅い。桔梗は運ばれてきた懐石料理に手を付けると満足そうに舌鼓したつづみを打った。鐵の隣では眞白が同じものを珍しそうに眺めている。

 そしてテーブルにはもう一人、桔梗の隣に若い女が座っていた。桔梗が診療所に現れてからずっと隣にいた女で、初めて顔を合わせた彼女は、鐵に丁寧にお辞儀をした。


「初めまして烏羽帝。北条ほうじょうすみれと申します」


 ライトグレーのリクルートスーツに一括ひとくくりにされた黒髪。化粧も薄く幼さも残す顔立ちは、年の頃も合わせて就活生の様な出で立ちだ。

 菫は桔梗のかたわらに付き添い桔梗の世話を焼いていた。五帝がはべらせるのは大抵が咲人か、あるいは、


「ひょっとして、次代候補か?」


 その質問に菫は頷いた。次代候補とは、次の五帝を継承する人間の事だ。

 しかし鐵の目の前に座る菫は、はたから見れば桔梗の孫か、あるいは仕事の秘書的な立場に見える。礼儀正しい立ち居振る舞いに、物静かだが笑みを絶やさない物腰の柔らかさ。桔梗とは正反対だ。


「それで、次代候補連れてきて何をしにいらしたんです?」


 食事があらかた済むと鐵は本題に切り込んだ。食後のお茶を片手に桔梗はふん、と鼻を鳴らす。


「あたしもそろそろいい歳だからね。近いうちに譲位を考えてるんだ。それで彼女、菫に『紫苑帝』の名を譲り渡そうと思ってね。挨拶に連れてきたのさ」

「譲位? それはまた……」


 なんとなく桔梗は自身の命が尽きる瞬間まで使命を全うするタイプだと思っていた。確かに五帝の継承は生前退位と譲位も認められている。その譲位をされる菫は始終ニコニコと桔梗の話に相槌あいづちを打っていた。


「菫の戴冠式は来月だ。来られるだろう?」

「ええ、それは構いません」


 五帝の戴冠たいかんは東京の御橋みはし神宮で執り行われる。神宮関係者も参列できない、現行の五帝だけが集い、神と謁見えっけんする特秘とくひの儀式だ。戴冠式の参列は五帝の義務、であれば鐵に断る権利はない。


「そういうわけで鐵、その子に戴冠式の事を教えてあげな」

「え、なんで俺が?」

「私よりあんたの方が最近だろう? あたしはもう大昔の話だし、歳も近いんだから心得こころえとか教えてやりなよ」

「心得と言われても……」


 鐵の脳裏に思い出したくない記憶がよみがえってくる。

 鐵もかつて玄一郎の死後五帝の戴冠式を行ったが、鐵はどちらかというとイレギュラーで、急死した玄一郎に一切戴冠式の事を聞かずに本番に望んだからアドバイスできる事など正直ない。

 ちらりと目の前に菫に目をやる。キラキラとした曇りのない眼、想像以上の期待に鐵はたじろいだ。


「……やれやれ、手間のかかる奴だね」


 すると、桔梗は立ち上がり彼女の向かい――鐵の隣に座っていた眞白を立ち上がらせると、


「食事も終わったし、あたしはこの子と買い物に行ってくるよ」

「!」


 目を丸くしたのは鐵だけではなく眞白本人もだった。鐵もつられて立ち上がると、


「ちょ、ちょっと待ってください」

「ちょいとこの子と話したいこともあるんだよ。あ、ここはあたしがおごってやるよ。――じゃ、後はお若い二人に任せて」


 そんな見合いの常套句じょうとうくじゃないのだから、と突っ込む間もなく、戸惑う眞白と伝票を持ってその老婆は嵐のように去っていった。テーブルには呆然とする鐵と、相変わらずニコニコと笑う菫が残された。

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