第三章 群芳の憂い②

 シャワーの温度を上げずに頭からかぶった。冷たい水が滝のようにしたたり落ちる。汗が洗い流されて気持ちが落ち着いてくると同時に、喉の奥からよどんだ泥の塊が吐き出されそうになった。

 目を閉じると、まぶたの奥にまだあの悲しい墨の色が浮かんでくる。殺してくれと懇願する悲痛な叫び声が聞こえる。鐵が救えなかった魂が、今もまだ鐵の肩に憑りついて離れない。


『お前は誰も救えんのや』


 夢の中で玄一郎が告げた言葉が頭からこびりついて離れない。

 鐵はため息をつくと両頬を痛いくらいに張り手した。

 目の前の鏡を見る。そこに立つ男の顔は青白く、目はうつろで黒ずんでいる。


 ――夢の中の玄一郎にそっくりだ。


 五帝となった以上、この先こういう事は山のように遭遇するはずだ。その度に神経を擦り減らし、落ち込み、眞白を心配させる気か。

 自分の情けなさに反吐へどが出る。鐵は冷たい滝に打たれ続けぐっと目を閉じると、


「――?」


 浴室の外で派手に何かが割れる音がした。誰かが何かを割った、この家にいるのは、鐵と眞白しかいない。


「眞白⁉」


 鐵は慌てて浴室を飛び出すと、急いで服を引っかけて音のした方に向かった。

 キッチンをのぞき込むと、少女が床に座り込んでいた。彼女の周りには派手に散らばった皿の破片が落ちている。


「眞白! 何してるんだ!」


 破片を素手で拾おうとするので慌てて止めた。幸いにも眞白の肌には怪我はなく、うっすらと鱗の生えた皮膚が光っている。


「皿割ったのか……。ここはいいから、ほうき塵取ちりとりとってきてくれるか?」


 放心状態の眞白はふらふらとキッチンを出て行った。いったい何をしていたのだろう、と、コンロの方を覗くと、


「……」


 コンロの方も惨状さんじょうだった。幸いにも火は止められていたが、フライパンの上で何か黒い炭状のものがブスブスと黒煙を巻き上げている。

 委縮した眞白が箒と塵取りを持ってきてくれたので、それを受け取り皿の破片を片づけた。その間、眞白はキッチンの入り口でうつむいたまま立っている。


「……朝食作ろうとしてくれたのか?」


 散乱している卵の殻に切りかけのいびつな野菜。多分黒焦げになっているのは目玉焼きか何かだろうか。卵を焦がして慌てた際に用意していた皿を引っかけて落とした、そんなところか。


「無理しなくてよかったのに、いつも俺が作ってるだろ」


 幼い頃から料理をするような境遇になかったせいか、眞白はこういう作業が壊滅的に苦手だった。少しずつ覚えようとしているが、元々不器用なたちでもあるのかまだまだ独り立ちには程遠い。だから家での炊事は大抵鐵の役割だった。

 すると眞白は大きな瞳に大粒の涙を溜め始めた。慌てて鐵は彼女の背中をさする。


「どうしたんだ?」


 眞白は震えていた。悔しがっているのか、あるいは怒っているようにも見える。やりきれない思いをぶつけるように鐵の胸を弱弱しく叩いた。


「……もしかして、心配してくれてたのか?」


 ここ最近気鬱きうつになっていた鐵をはげまそうと思って、苦手な料理を頑張ろうとして、……でも結局うまくいかなかった。


「……」


 顔を上げた眞白の瞳は物憂ものうげな幼い少女の様だ。眞白は鐵の頬をペタペタと撫で、白い指で鐵の輪郭をなぞっていく。それが終わると今度は鐵の前髪をかき上げて額にキスをした。まるで愛おしむようなその仕草に、鐵はどきりとしつつも仄かに伝わる彼女の体温に全身の緊張が解けていく心地がした。


 ――全く、この子は。


 適わないなと思った。あんなに暗闇の底に沈んでいた気持ちがあっという間に浮上する。彼女が側にいてくれることが、鐵にとってどんな薬事療法よりも特効薬になる。


「……ありがとな、眞白」


 鐵は頬に添えられていた眞白の手を握るとその掌にキスを返した。眞白の肌にはうっすらと鱗が生えざらついている。けれど確かに血の通った温かさがあった。


「……食事、外でとるか」


 気づくと時計の針はまもなく正午を指そうとしていた。今日は日曜日でクリニックも休業だ。せっかくだし、眞白と二人で外に出かけよう。


「買い物もあるし、折角だから町の方まで行こう」

「……、……」

「じゃあここ片づけたら車出すよ」


 鐵は眞白を立たせると、二人で朝食になるはずだったものを片づけた。

 少し予定とは違う休日だがこれはこれで良しとしよう。嬉しそうにする眞白の背を眺めてそんな事を想いリビングに向かうと、


「――おや、遅かったね」


 リビングにはすでに先客がいた。鐵と眞白は硬直する。

 クリニックの応接室も兼ねたリビングに座っていたのは上品な薄紫の婦人服に身を包んだ老婆だった。その顔を見た途端に鐵の頭から血の気が引く。


桔梗ききょう、さん――」


 その老婆、桔梗は鐵と眞白の姿を見てにんまりと目を細めた。


「もう少し遅かったら様子を見に行ってしまうところだったよ。若い二人のたわむれを邪魔するのは気が引けるからねぇ」


 桔梗の含み笑いに鐵は何も返せずに天を仰いだ。

 どうやら午後の計画も大幅に変更しなければならないようだ。

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