第二章 墨殺し⑨

 ◆

 鐵は暗闇から生還せいかんした。元々黒い服を着ていたおかげで目立たないが、全身はぐっしょりと墨でれ、ぽたぽたと畳に黒い染みを作る。

 別室に控えていた麻耶は、墨を被った鐵の姿を見て顔を青くした。


「鐵さん……、あの主人は――」

「亡くなりました」


 鐵が機械的に告げると麻耶の呼吸が止まった。


「亡く、なった……? どういうことですか?」

「……」

「鐵さん」


 麻耶は鐵を突き飛ばして正明の眠る部屋に飛び込んだ。墨のぶちまけられた小さな部屋で、眠る正明の枕元に駆け寄る。


「正明さん⁉ 正明さん⁉」


 むなしい女の絶叫が響き渡る。何度も何度も夫の身体を揺らし、その名を呼ぶが、


「正明さん! そんな……、嫌……」


 彼女がどんなに叫んでも愛する夫はもう目を覚まさない。

 その慟哭どうこくを聞きながら、鐵はその背中を呆然と見つめていた。と、


「……ありがとうございました」


 ふいに、麻耶が静かな声で礼を言った。鐵は一瞬、何かの聞き間違いかと思った。


「……わかってたんです。正明さんはもう手遅れなんだって。……頭ではわかっていたのに、心が追い付かなくて、だから必死に彼を生き延びさせてあげようって。現実から目を逸らし続けていました」


 振り返った麻耶の顔にはうらみや憎悪のたぐいが一切見えなかった。ただ、純粋に笑っていた。


「だから、これでいいんです」


 そして麻耶は畳に三つ指を立てて、丁寧に頭を下げた。


「――主人を看取みとってくださってありがとうございました」


 鐵は目の前が真っ暗になった気がした。言葉が出ない、そんな風に感謝されるなんて、思いもしなかったから。


「旦那さんは――、」

「……?」

「旦那さんは最期まで貴女を愛していました」


 鐵が言えたのはそのくらいで、逃げるように部屋を後にした。


 鐵はすれ違う使用人たちをすり抜けて玄関へと向かった。墨にまみれた黒ずくめの鐵を使用人たちは気味が悪そうに避けていく。

 鐵は知らずに駆け足になっていた。

 早く、この屋敷から、逃げ出したかったのに、


「お待ちください」


 玄関を抜けこのまま門まで走り抜けてしまおうと思った鐵の背中に声をかける者がいた。

 振り返ると、そこにいたのは昨日遭遇そうぐうした芥と――見知らぬ若い女だった。


「鐵さんですね?」

「……、誰だ?」

「お初にお目にかかります。琥珀こはくと申します」


 琥珀と名乗った女は深々と頭を下げた。琥珀。確か観音寺真人の妻で、黄蘗が観音寺家に放ったというスパイだ。


「観音寺正明様をとむらわれたのですね。英断でございました。これであの方は道具としてしいたげられる苦しみから解放されます」

「……」

「後の処理は私と芥にお任せください。貴方は真人様が御帰宅される前にこの家を出た方がよろしいかと存じます」


 琥珀は淡々と告げた。


「任せていいのか?」

「はい、こういう時のために私たちはこの家に潜入したのですから」

「お前たちはどうするんだ? お前は真人と結婚しているんだろう」

「すぐに黄蘗様が私たちを連れ出すでしょう。どのみちこの家も、真人様も破滅します。幸い子供も出来ませんでしたし、籍を抜く事には支障はありません」


 その女はまるで自分の事をさも誰かの事のように語る。主の策略のために好きでもない男と結婚させられたのに、彼女は平然とそれを受け入れていた。その人形の様な立ち居振る舞いにどこか既視感を抱く。


「なら少し頼みたい事がある、いいか?」

「はい、何なりと」

「葬儀が終わったら、観音寺正明の遺体を佳賀里の村に送ってもらえるよう取り計らって欲しい。俺の廟に埋葬する」


 その頼みに琥珀はすぐに首を振った。


「難しいと思います。黄蘗様があの方の遺体をご所望です。黄蘗様が命じれば、私は逆らう術がありません」

「そうか……」


 死しても尚、まだ利用されることになる正明の処遇を想うと、鐵は拳を強く握りしめても怒りは収まらなかった。


「ならばもう一つ、観音寺麻耶をこの家から引き離してくれ」

「麻耶様を、ですか?」

「ああ、どんな方法でもいい。彼女が新たな人生を歩めるよう取り計らってくれ。――観音寺正明の最期の願いなんだ」


 琥珀は数秒考えた後、


「わかりました。手はくします」


 その返事を聞いて、鐵はホッと胸をなでおろした。そして、


「では私からもお願いしてよろしいですか?」


 思いがけず琥珀の方からそう告げられた。琥珀は鐵に近づくと、自身の掌を上に向ける。


「……っ!」


 彼女の手が淡く光を放ち、そこから美しい石が|咲いた(・・・)。透明で透き通っているが蜂蜜のような濃厚な色と輝きを放つ。

 美しい、純正の琥珀だ。


「これを眞白に渡してください」


 琥珀を生み出した女は、意外にも鐵の妻の名を呼んだ。


「眞白を知っているのか?」

「はい、私と眞白はかつて『女郎花おみなえし』で共に過ごした親友でした」


 その瞬間、鐵の脳裏にかつての古い記憶が蘇る。

 薄暗い回廊、びた鉄格子、光の無い目をしてこちらをにらむ咲人たち。その奥深くに潜んでいた、鱗に覆われた美しくも醜悪な――。


「貴方が黄蘗様から眞白をお買いになった時、私もあの場にいたのです」


 気づかなかったでしょうけれど、と琥珀は鐵を見据える。

 鐵は動けなかった。視界も音も匂いも、あの時の全てが鮮明に浮かんでくる。


「私は貴方を恨みました。あの生き地獄の中で、唯一の私の心のり所を奪っていくのかと、名も知らない貴方にずっと憎悪を抱いていました」


 あの時の凄惨せいさんな記憶が身体の自由を奪っていく。鐵は何も言い返せずに立ち尽くす。


「でも、風の噂で眞白が貴方と幸せに暮らしている事を知り安心しました。あの子が幸せなら、私はもうそれでいいのです」


 琥珀は鐵の手に自身の咲かせた『琥珀』を握らせると、初めて笑顔を浮かべた。


「これを渡して、伝えてください。『私はどんな時も貴女の事を想っています。離れていても、心の中にいつもいます。どうか、幸せな人生を過ごして』と」


 にぎられた手はとても冷たくて、本当の琥珀石の様だ。


「烏羽帝、あの子に安寧を与えてくれた事、そして今回の正明様の事、改めて貴方に感謝申し上げます」


 琥珀の手が離れた。彼女は最後までその笑みのまま鐵に頭を下げた。


 ◆

 鐵が佳賀里の村に到着したのは日も暮れた夜のとばりの降りた頃だった。

 鐵の家からは煌々こうこうと明りがれている。眞白はまだ起きているのか、と苦笑すると玄関の扉を開けた。


「――!」

「ただいま、眞白」


 ドアを開けるやいなや、嬉しそうにこちらに駆け寄ってきた。頬を上気させ息を弾ませた彼女はそのまま鐵の胸に飛び込んでくる。


「留守の間、何もなかったか?」


 眞白はいきおいよく首を縦に振った。


「……そっか」


 小動物のようにじゃれてくる眞白をあやしていると、鐵も強張こわばっていた身体がようやくほぐれていく気がした。

 ふと、眞白が鐵の顔を見上げた。彼女は少し怪訝な顔をして首をかしげる。


「……大丈夫だよ、少し、疲れただけだ」


 そう発した自分の声は想像以上にかすれていて、


「仕事は――終わったよ」


 心配そうに顔を覗き込む眞白を見ていたら、足が覚束おぼつかなくなっていて。

 鐵は眞白を抱えたまま、リビングのソファに倒れ込んだ。


「……⁉ ……、」


 下敷したじきにされた眞白が鐵の腕の中で吃驚びっくりしてもがいている。それを無理やり押さえつけて、鐵は眞白の首筋に顔をうずめた。石鹸の匂いがする。清潔で何にもけがされていない、純真無垢な彼女にすがる。


「……観音寺正明を殺した」


 眞白の身体が強張ったのがわかった。それでも鐵は彼女を解放する気にはならない。


「延命のために会いに行ったのに、結局俺は咲人をあやめただけだった」

「……」

「俺は――何のために」


 仕方のない事だった。観音寺正明を苦しみから解放する術はあれしかなかった。彼自身もそれを望んでいた。

 そしてそれが出来たのは、――あの場で鐵以外に誰もいなかった。


 あの後、正明の死を知った真人は激昂げきこうしただろうか。正明の能力に依存していた観音寺家は遠からず破滅する。その引き金を引いたのは、他でもない鐵だ。

 それなのに、『鐵のやった事は正しかった』と麻耶と琥珀は言ったのだ。


「俺は……、感謝される立場になんかない。俺は、俺のやった事は……救いになんかなってない!」


 正明を死でしか救えなかった事も、彼を愛していた麻耶を一人にしてしまった事も、黄蘗に従僕じゅうぼくする琥珀をあの家に置き去りにした事も。

 これが五帝のやる事か。後悔こそ何の意味もないのに、鐵の心を黒い影が覆い尽くす。


『五帝は誰も救われへん』


 ああ、そうか。あの時玄一郎が言っていた言葉の意味がようやく分かった。いつも寂しそうにしていたあの大きな背中。今の自分は、きっとあの人と同じ姿をしている。

 そんな鐵を眞白は受け入れてくれる。その小さな身体で、細い腕で、鐵を抱きしめて頭を撫でてくれる。


 ――辛かったね、もう大丈夫だよ。


 声にならない言葉が鐵の耳に届く。鐵の傷をいやし、そして同時に深くえぐる彼女の存在に縋って、鐵は涙をこぼした。

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