第二章 墨殺し⑧

 ◆

 翌日、鐵はもう一度観音寺の屋敷を訪れた。出迎えたのは麻耶で鐵の姿を見ると顔を輝かせる。


「まあ、ようこそいらっしゃいました」


 麻耶は嬉しそうに昨日と同じ客間に鐵を案内しようとしたが、


「旦那さんに会わせていただけますか?」


 開口一番に鐵は感情を押し殺して麻耶に頼み込む。麻耶は一瞬ほうけたような顔をしたが、


「え、ええ。勿論もちろんです。主人は昨日と同じ奥の座敷で寝ていますわ」

「今日は真人さんは?」

「出かけております。……あの、真人様に何か?」

「いいえ、いないのなら結構です」


 鐵はそれ以降黙り込んだ。黙々と麻耶の後をついていく。麻耶は何だか心配そうにこちらをちらちらと垣間見ながら奥座敷へと向かっていた。

 再び邂逅かいこうする襖の龍。鐵はじっとそのおどろおどろしいたたずまいを観察した。


「主人はこちらです」

「ええ、ありがとうございました」


 麻耶に礼を言って襖を開けようとしたが、


「……麻耶さん、一つ伺ってもいいですか?」


 その前に鐵は麻耶に一つだけ質問をしておこうと思った。


「なんでしょうか?」

「もしどんなに手を尽くしても、旦那さんが死ぬことが避けられなかったとしたら、貴女はどうしますか?」


 麻耶は意外そうな顔をした。けれどしばらく目を伏せた後、


「一緒に死にます。……と言いたいところだけれど、多分そうはならないでしょうね」

「何故です?」

「心中する事があの人の望みではないからです。あの人の望みは、きっと『自分の分まで生きろ』だから」


 麻耶はまっすぐな瞳で鐵を見据えた。凛とした笑みで確信をもってそう言った。


「どうしてそんな事聞くのですか?」

「……いいえ、なんとなく」


 鐵は言葉をにごして、観音寺正明が眠る襖に手をかけた。


「……俺は違います」

「え?」

「俺はあいつが死んだら、――きっと一緒に死ぬと思います」


 どうしてそんな事を口走ってしまったのか、後にも先にもわからなかったけれど、鐵は確かにそう答えた。そして返答を聞かぬまま、襖を閉めたのだ。




 再び暗いうろの中に舞い戻ってきた。光源の無い闇に沈んだ床の間に、白く干からびたおきなが眠っている。視界の覚束おぼつかない暗闇の中に浮かび上がるその姿は、やはりピクリとも動かない、ただの死体だった。


「観音寺正明」


 枕元で鐵は正明に呼びかける。表面上正明の様子に変化は見られなかった。だが、確かに彼の身体の奥底で何かがうごめく気配を感じる。

 鐵は正明の額に手を当てた。


『起きろ』


 昨日と同様鐵が呼びかけると、再び墨の塊が姿を現す。最初は得体のしれないものに見えていた鐵だが、その不安定でおぼろげな姿はどこかこちらの胸を締め付けてくるような虚しさを感じてしまう。


「今日はお前の願いを叶えに来た」

『……』

「お前は昨日俺に『殺してくれ』と言った。あれがお前にとっての本当の願いであるなら、俺がお前を殺してやろう」


 墨は揺らめいたまま、何も言わずにこちらを向いていた。


「ただ一つ、最後に頼みがある。お前のこれまでの人生を俺に見せてくれないか?」


 幼い頃、咲人というだけで両親からうとまれ、いないものとしてこの部屋に閉じ込められた。暗がりの部屋をよく見ると、部屋には古びた子供のおもちゃや絵本が散らばっている。彼を閉じ込めた両親が、せめてもの温情として彼に与えたものなのだろう。

 そうやって孤独の世界で暮らしながら、彼は自分の生み出す墨で絵を描き続けた。心の安寧あんねいであったその絵が彼の人生をさらに激変させていく。


「お前は弟に強要され絵を描き続けた。お前にとっては嬉しかった事なのかもしれないな。生まれて初めて必要とされたんだから。――だが、観音寺真人はお前を金稼ぎの道具としか見ていなかった。お前の延命を求めていたのはお前がこの家にとって有力な資金源だからだ」


 墨がゆらゆらと揺れる。彼は動揺していた。『そうだ』と肯定しているのか、『違う』と否定しているのか、鐵にはわからなかった。


「お前はもう金儲けの道具にならなくていい。ここで命を絶てばお前は自由になれる。でもその前に、お前が生きていたころの事を俺に教えてほしい」


 そして鐵は彼に手を差し伸べる。

 墨がゴポリと蠢いた。心臓部に大きな空洞が空き、大きく膨れ上がったと思えば、次の瞬間墨は鐵の身体を飲み込む。


 闇の世界からさらに深淵しんえんの闇へ。――いや、闇ではない。微かににび色の混じる黒とは違う色――墨色だ。

 鐵は墨の世界を揺蕩たゆたう。どこからか、人の声が反響した。


『化け物! 私に近寄らないで!』『どうしてだ? 俺もお前も普通の人間だったはずなのに』『決して世間に知られてはいけないわ』『この子は絶対に、家から出すな』


 遠くで彼の両親の声がした。


『正明様は小学校も行かずにずっと一人で――』『お可哀かわいそうに』『でも身体から墨が出るって』『妖怪にとりかれてるそうよ』『奥座敷に近付いてはいけないわ』


 これは女中の声だろうか。ひそひそと紡がれる言葉は、ナイフのように墨の身体を切り刻んだ。


『化け物』

『人間じゃない』

『近づいちゃダメ』

『気味が悪い』


 何度その言葉を浴びせられたら気が済むのだろう。何度罵倒ばとうされれば、自分は許してもらえるのだろう。

 墨はどこか許しを請うように、命を紙面に叩きつけた。やがてそれが一枚の絵になって、暗闇に落ちる部屋に降り積もる。

 絵を描くことは墨にとって唯一の存在証明だった。化け物とののしられた元凶げんきょうであるそれが、憎くてたまらなかったそれが、別の何かに昇華しょうかしていく事を望んで、ただひたすらにそれを吐き出した。


 するとある日、暗闇に光が灯った。


『兄さんは凄いよ』


 光の中に、若い真人がいた。


『こんなに芸術性の高いものを描けるなんて。兄さんは絵の才能があるよ。兄さん、もっとたくさん絵を描いて。兄さんを馬鹿にしてた奴らを見返してやろう』


 墨は喜びの声を上げた。生まれて初めて、誰かに求められた喜び。化け物と罵られた自分がようやく生きる意味を見出すことが出来たのだ。


『また高値で売れたよ、兄さん』

『凄いよ、個展を開かないかって誘いが来てるんだ』

『もっと描いて、もっと描いてよ。兄さん』


 請われるままに絵を描いた。自分の身体からあふれ出る墨はまるで歓喜に踊るように紙の上を滑った。墨の意思を、訴えを、その紙面に載せ表現した。

 だが墨は描けば描くほど段々と力を失くしていった。

 自身のくびきであり、心のよりどころであったものが、見ず知らずの他者の元へ買われていく。墨の意思などお構いなしに、それは意図せぬ価値を付けられ売られていく。


 本当にこれでいいのか?

 これが自分の望んでいたことか?


 そんな疑問が一度でも生まれれば、墨は止まり、絵は描けなくなった。


『どうして描いてくれないんだよ、兄さん』


 賞賛していた弟の声が非難の色に変わった。


『いいから描いてくれよ。みんな兄さんの絵を待ってるんだよ』

『何が不満なんだ? 取り分だってちゃんとやってるだろ⁉』

『つべこべ言わずに描け!』


 強い怒りが墨の身体をあおる。それは罵倒だけに留まらず、時に墨自身の身体にも攻撃が加わった。視界が揺れて、激痛が身体を襲う。


『せっかく利用価値を見出してやったのに!』

『俺は化け物のお前を更生させてやってるんだぞ』

『お前なんか絵を描くこと以外何の価値もない汚物の癖に!』


 嵐はどんどん強くなる。目も開けられず、耳も聞こえないほどの衝撃に墨は唯々耐え続けた。

 耐えて、耐えて、ひたすら耐えて、そしてある時、――感覚がぷつりと途切れた。


 再び静かな暗闇が訪れた。見えない。聞こえない。感じない。――もう何も考えたくない。

 全身で外界の全てを拒絶した。もうこのまま、静かに眠りたい。それが墨の願いだった。


『――私が側にいます』


 遮断しゃだんしていたはずの五感が、また息を吹き返した。


『私がこれからずっと、貴方のお側にいます。貴方は一人じゃない』


 それは嘘のように優しい声。墨が初めて掛けられた、嘘も打算もない、本当の愛の声。


『愛しています、正明さん』


 それは墨が初めて知った人間の愛。熱くて温かい、人をいたわる心。墨は初めて涙をこぼした。こんなに綺麗で美しいものを最期に見ることが出来たのは本当に嬉しかった。


 でも、――もう遅い。


 墨にはもう自分の人生の終焉しゅうえんを迎えている事はわかっていた。自分はもう生きてはいない、ただの残滓ざんしに過ぎないから。


 ――殺してくれ。


 彼女を解放するために。


 ――殺してくれ。


 彼女を不幸にしないために。


 ――殺してくれ。


 それが墨の最期の願い。どうか、彼女を自由にしてくれと。


「――わかった」


 鐵は墨の世界の中心にある小さな核に手を伸ばした。掌に収まるその核を強く握りしめ、


『我は五帝、烏羽からすば帝。なんじは弱き咲人の子』


 鐵は詠唱した。


『我は汝の守り人。汝のうれいを、汝の危難きなんを、ことごとはらう者なり』


 世界が揺れる。もうすぐここは崩壊する。


『我が愛する咲人よ。――どうか、来世は安らかな人生を』


 核が弾けた。ガラスが割れるような音と共に、周囲の世界も歪み割れた核に吸い込まれる。そして、

 バシャンと墨が力なく崩れた。鐵は暗い部屋の中で布団にぶちまけられた墨を眺める。白い翁は相変わらず静かに横たわっていて、彼の身体は全身溢れた墨にまみれていた。

 呼吸音は聴こえない。心臓も動きを止めた。


 ――観音寺正明は、死んだ。


 永眠した翁の顔は、どこか微笑ほほえんでいるみたいに安らかだった。

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