第一章 雀蜂の僥倖⑤
そして蓮司は全てを思い出す。
「……どういうことだよ、美香?」
その日蓮司は怒り狂っていた。いつもみたいに蓮司の家のテレビの前で
「どういう事って、何が?」
「とぼけるなよ! 見ろ!」
蓮司は手に持っていたものを叩きつけた。床にばらまかれた写真、それは美香が蓮司以外の別の男と映っている写真ばかりだ。
「やだ……なんであんたがこんなもの持ってるの?」
美香は不快そうに顔を歪めた。
「浮気してたんだな、それもこんなにたくさん……っ!」
「浮気……?」
「今更とぼけるなよ! こんなの出てきてまだ潔白だなんて言うのか⁉」
信じたくなかった。大好きな美香が他の男と関係を持っていたなんて、蓮司を裏切っていたなんて。信じたくなかったのに――。
すると美香はあろうことか声を張り上げて笑い出した。ベッドの上で腹を抱えて身をよじる。
「何が可笑しいんだ……?」
「可笑しいに決まってるじゃない! あなた、まさか私が一人の
従僕?
蓮司の呼吸が止まった。
「そいつらはあんたと同じよ。私の匂いに誘われて寄ってきたんでしょ? だから相手してあげたのよ」
彼女の言っている意味が分からなかった。蓮司は怒っているのに、何を返したらいいのかわからず硬直する。何かおかしいと悟ったのは美香の方だった。
「ああ、あなたひょっとして――」
するりと美香がにじり寄ってきた。途端、強烈な甘い香りが鼻を突く。
「自分が何者か知らないの?」
美香が蓮司の足を撫でた瞬間、
ブブブブ
身体の奥で何かが蠢いた。生まれて初めての感覚だった、内臓が動くのとは違う、まるで、身体の中に無数の生命が閉じ込められているような――。
「そういえばあなたが
美香に身体を撫でられる度に蓮司の中で何かが蠢く。呼吸が荒くなり視界が乱れる。
嫌だ、やめてくれ。
「じゃあ、私が手伝ってあげる」
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
目の前で女が舌なめずりをした。
「だって私、――あなたの女王様だから」
◆
藤波蓮司の身体がはじけた。鐵は思わず後退し顔を
「……おい、まじかよ」
目の前の光景に
ブブブブブブブブブブブブ
部屋中に響く不快な
「雀蜂か……!」
靄の正体は雀蜂の大群だ。それが藤波蓮司の身体から無尽蔵に放出され、彼とそして彼の前に置かれた、彼が美香と呼んだ女性の棺桶に群がる。雀蜂は室内を縦横無尽に旋回しどんどん蜷局を大きくしていく。
松葉杖も車椅子もなく蓮司が立ち上がった。彼の左足はズボンが裂けそこに黒い足が生えていた。表面はでたらめに蠢き、周囲と同じ不快な翅音を響かせて――。
「なんだよ、自力で歩けるじゃねえか」
蜂の塊で出来た足以外にも、彼の身体中の皮膚から蜂の翅や脚が無数に飛び出ていている。まるで皮膚を食い破り体外に出ようとするその様は、さすがの鐵も
ブブッ
蓮司の虚ろな目が鐵を捕らえた瞬間、部屋にいた雀蜂が一斉にこちらを向いた。翅音が一瞬止まる、何千何万という蜂の目が鐵を敵として捕らえ、尻の針を突き出して鐵に襲い掛かった。
鐵はあっという間に竜巻に飲み込まれた。顔に首に腕に胸に腹に足に、身体中を雀蜂が這い回る。蠢く脚と皮膚を
あっという間に拘束され鐵は指一本動かせなくなった。少しでも動けば群がる無数の蜂の毒針が突き刺さる。
「ぐっ……!」
文字通り身体中を指されて蜂の巣にされるかと思われたその時、――虹色の光が鐵と蜂の間に割って入った。
薄暗い部屋に突如舞い降りる強力な光源。稲妻が
突然身体が軽くなり、ぐらりと傾きかけた鐵を誰かが支える。目を開けるとそこに七彩に輝く少女が
「
鐵は目の前の少女を見つめ返した。
薄暗がりの霊安室の中で七色の輝きを発するその少女。彼女の周辺を取り巻くように彼女と同様に輝く破片が舞っている。床を見ると、同じ破片に身体を貫かれた蜂がぼとぼとと雨のように降り注ぎ絶命していた。
眞白は鐵の頬や頭を撫で大事はないかと目で訴えかけてくる。彼女を安心させるように鐵は彼女の頬を同じように撫でた。
「大丈夫だ、助かった」
彼女の頬はわずかにざらついている。人間の柔らかな肌に薄い鱗が張り付いている。それらが僅かな光源の中で
鐵に怪我無い事に
ブブブブブブ
またしても部屋中を埋め尽くす蜂の大群。蓮司の皮膚からボコボコと無尽蔵に湧き出てくる。
眞白が腰を低くし臨戦態勢を取った。彼女の肌が一段と強く光り始める。その肌からぺりぺりと鱗が一枚一枚剥がれ落ち、宙を旋回し始めた。
眞白が飛び出すのと、蜂が再び蜷局を巻いて襲い掛かるのは同時だった。衝突する光と闇、強い衝撃に鐵は思わず目を覆う。
「眞白!」
鐵の叫びは轟音にかき消され、空気が鋭い疾風となって周囲の棚を揺らす。その嵐が収まった時中心に立っていたのは、虹色の光を放つ少女だった。
少女の周りを身体を貫かれた蜂が落ちる。だが、落ちる寸前の一匹が最後の力を振り絞り軌道転換した。鋭い針を眞白の細い首に向け突撃する瞬間を鐵は見逃さなかった。
鐵の身体が勝手に動いた。自分でも驚くほどの
「――!」
二の腕に鈍い痛み。注射を刺された時のような、それよりも何倍も強い痛みが身体を襲う。
すぐさま二の腕に止まった蜂を掴むと容赦なく握りつぶす。激痛に身体が震え額から脂汗が
「――平気」
その痛みを押し殺し、鐵は腕の中で青い顔をする眞白に笑いかける。彼女を解放すると、おぼつかない足取りで蓮司の元へ向かった。
蓮司は目の焦点があっておらずもはやこちらを見てはいなかった。だが彼の中に蠢く蜂はまだ絶えず
鐵はゆっくりと近づくと蓮司に向かって右手を突き出した。蓮司の口がガバリと開き、そこからまた蜂が飛び出してきたが、
「止まれ」
鐵の一言で蜂たちは停止した。先ほどまで勇猛果敢に針を突き立てようとしていた彼らが、確実に委縮し蓮司の体内に戻っていく。
蓮司の身体が
霊安室の蛍光灯がパチパチと音を立てて点滅を始めた。薄暗い部屋が一層暗闇に包まれ、周囲の明度が極端に下がっていく。構わず鐵は目の前の男を抑えつけた。
ブブ――ブブ――
周囲に漂う闇が蓮司の身体を拘束していく。周囲の蜂たちの翅音が闇の中に吸い込まれ消えていった。
「事情は後で訊く。今はとりあえず眠れ」
鐵は蓮司の目元を掌で覆うと、静かに詠唱を始めた。
『我は五帝、
自分のものとは思えないおどろおどろしい声。
『我は汝の守り人。汝の
蓮司の身体がでたらめに暴れだす。
ブブブブブ
翅音を鳴らす雀蜂たちの最後の抵抗も全て抑えつけ、
『――あるべき姿に戻れ。我が愛しき咲人よ』
瞬間、蓮司の体内で暴れまわっていた雀蜂たちが動きを止めた。周囲に散っていた残党たちが
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