第一章 雀蜂の僥倖④
目を開けるとまだ外は暗かった。蓮司は薄い布団の中で寝返りを打つ。暗がりで時計を確認するとまだ夜中の十二時、いつもならまだ起きている時間だ。
旅行するといつもの生活のリズムが狂うというのは付き物だが、それにしても蓮司は興奮して眠れなかった。目がさえて再び眠る気になれない。
――ん? 光?
目がさえている理由の一つは部屋がやけに明るかったからだ。横を向くと、廊下側のすりガラスの障子の向こうが淡く光っている。車のライトの様な、でもそれよりもずっとカラフルで複雑な光、――まるで暗い部屋で光るテレビみたいだ。
蓮司はふらふらと起き上がると障子を開けた。縁側から見えるのは昼間と同じ雑草の覆い茂った小さな庭だ。そこにいたのは、
「――あれ、君」
この宿屋で目覚めた時に側にいた少女だった。少女は屈みこんで庭にある花壇を
どうしてこんな時間に、こんなところに少女が。と考えた時、普通ならこっそり家を抜け出してきたとか、そういう事を考えただろう。だが、蓮司は彼女はそういう者ではない事がすぐに分かった。
彼女の身体が暗闇でもはっきりわかるくらい淡く発光していたからだ。障子越しに見た光の源は恐らく彼女だろう。その煌々とした輝きに蓮司はハッとした。
「そうか、君、昼間の――」
あの診療所の奥で見た、霊安室に横たえられていた遺体。あの時、人ならざる身体から放たれた美しい吹雪の色と少女の髪色が同じだった。
だとすると、この少女は――、
「君は、咲人の――幽霊?」
蓮司が尋ねると少女は目を見開いて、それから複雑そうに眉を寄せた。
違うのか。――いや、あの時見た少女は確かに物言わぬ遺体に見えた。
だが少女は少女たる姿でそこにいる。確かに髪も瞳も肌ですらも、虹色に輝いている姿は明らかに普通の人間ではない。だが、霊安室で見た時みたいに、人型をしただけの何か、ではなく、彼女は紛うことなき人間の姿をしていた。
咲人の少女はじっと蓮司を見つめている。蓮司に何かを訴えているようだ。眉を寄せ、熱い視線をこちらに向ける。
「何……?」
少女は答えなかった。何かを言いたげなのに、何も言おうとしない。
すると少女は蓮司の元に近付いてきた。蓮司の横に
冷たい、氷のような手だ。
やはり幽霊に違いないと確信しながらも、愛らしい少女が自分の手を握りしめているという状況に、蓮司は独りでに顔が熱くなる。心臓がどくどくと脈を
ブブブブ
一瞬だけ、ノイズが聞こえた。体の中で何かが蠢いた気がしたが、目の前の少女がぐっと手を握りしめるとそれも鎮まっていく。
「――」
少女は音のない声で何かを呟いた。蓮司はこういう時『
それでも何度も訴えてくる少女の表情や口の動きで、
『こないで』
これだけは読み取れた。
「来ないで、……ってどこに?」
蓮司が聞くと今度は少女が庭の向こう、――外の方を指さした。だが土地勘もなく方角すらわからない蓮司には、彼女がどこを指しているのかわからない。
少女がまた口をパクパク動かした。何度も何度も、同じ単語を繰り返すうちに、
『しんりょうじょ』
それも読み取れた。つまり、
「診療所に来るな、って事?」
ようやく通じた少女は真剣な表情で
満足したのか、少女は立ち上がりあっさりと姿を消した。
「……一体何だったんだ?」
蓮司は今の出来事が幻でなかったかを調べるため自分の頬を
「診療所に来るなってどういうことだ?」
あの切迫した表情は何かただならぬ事情があるに違いない。普通に読み取るのならば、
――診療所は危険だから来るな。
という風に取れるけれど、何分読み取れた単語が極少でわからなかった。
「来るなって言われてもな……」
蓮司の心臓はまだ早鐘を打っている。少女の霊が、蓮司に対して危険を知らせてくれたという事なのだろうか。愛らしい姿である事もあって蓮司は彼女の警告を尊重したい、だが、このまま帰ってもいいのだろうか?
「――いや、今日はもう寝よう」
明日診療所に行くにしても、帰るにしても早めに起きて行動するにこしたことはない。蓮司は布団をかぶると無理やり目を閉じた。
ブブブブ
耳鳴りは相変わらず聞こえる。やっぱり慣れない環境だからだろうか。
だが色んな事があって疲れ切っていた蓮司は再びすんなりと眠りの海に沈んでいく。高ぶっていた身体は徐々に沈静化し、そして、
ブブブ――ブッ
意識が落ちた瞬間、耳鳴りも鳴りやんだ。
◆
翌日、蓮司は再びタクシーを呼んでもらって診療所に向かった。色々悩んだが、やっぱり義足は欲しい。せっかくここまで足を運んだのだから手ぶらで帰るのももったいないだろうと思った。
昨日と同じように部屋の中から顔を表したのは全身に闇を纏った鐵だ。鐵は訪ねてきた蓮司を見るなり、
「……来たのか」
彼は暗に『来るとは思わなかった』と言った。
「まあいい、とにかく入れ」
また鐵に手を貸してもらって診療所に入った。
中は昨日と同じ、おしゃれな内装に相変わらず照明は暗い。
昨日と同様まずは入った部屋のソファに座ると、鐵も向かいに腰を下ろした。
「……あの、鐵さん。昨日はご迷惑をかけてすみませんでした」
まずは昨日倒れてしまったことを謝罪する。わざわざ民宿に運んでくれたというのなら相当手間だっただろう。鐵は相変わらずの無表情で「ああ」と呟いただけだった。
「体調が悪いなら最初から言っておいてもらわないと困る。ここは義肢の診療所だが病院じゃない」
「はい、すみません」
「あと許可なく関係のない施設内に立ち入るのも遠慮してくれ」
蓮司はどきりとして委縮した。まあ昨日の件は完全に蓮司が悪い。部屋にいろと言われたのに、明らかに行ってはいけない所に立ち入ってしまったのだから。だが、知ってしまったからには色々と聞きたい事もあって、
「あの……、ここ咲人の廟だって、宿の人が言ってたんですけど」
途端鐵は例の鋭い眼光で蓮司を
「そうだよ、あそこにあったのは全て咲人の遺体だ。咲人の身体は普通の人間とは違って、生命活動を終えた後も作物の分泌は止まらない。中には可燃性の物を分泌する奴もいるから
「へぇ……」
「だから咲人が死ぬと死体は火葬されずに廟に送られる。ここで咲人の身体に『抑制』をかけて分泌をコントロールし、要望があれば親類に遺体を返却する。……まあ大抵の場合は身寄りがなくてここに埋葬されるんだけど」
「身体に『抑制』をかける?」
聞きなれない言葉に蓮司は首を傾げたが、鐵は構わず説明を続けた。
「加えて咲人の遺体は腐敗の進行が格段に遅い。常人の数倍、下手をすれば数千倍に及ぶ。つまり一年たっても咲人の身体は腐敗しない。だからこそ厳重に管理しなければ不要な二次災害を招くんだ」
「へぇ……、知りませんでした」
「俺からも一つ聞きたい事があるんだが」
そして今度は鐵が
「なぜ昨日霊安室に入った?」
「何故って言われても……」
身体が勝手に動いた、なんて言い訳は通用しないだろう。だがあの時の蓮司は正気ではなかった。頭痛と吐き気に襲われ、耳鳴りがする中で、何かに――呼ばれていたような気がしたのだから。
ブブブブ
その時またしても耳鳴りがし始めた。昨日と同じ頭痛もする、おかしい。朝起きた時も何も問題なかったのに。
――まるでこの診療所に来ると起こっているような。
「……確かめたいことがある。少し来てもらえるか」
すると鐵が立ち上がり、昨日と同じ車椅子を引っ張ってきて蓮司に乗るよう指示した。昨日と同じ酷く長い廊下を進んでいく。
「……あんた、主治医から俺の事を聞いたといったな?」
道中で鐵が
「はい、それが何か?」
「俺がこの村で仕事を始めたのは二年前だ。開業の頃は特に宣伝もせず、俺もまともに稼ぐ気はなかったから客はほとんど来なかった。せいぜい月に一度、訳ありの奴が訪ねてくるくらいだった。俺の評判が広まったのは一年前――一人の咲人が義手を作ってほしいと訪ねてきたのがきっかけだった」
鐵の声には感情がない。ただ静かに過去を語るその声音がどこかおどろおどろしいものに思えた。
「義手を作ってやったその咲人は随分喜んで周りの仲間に俺の事を宣伝して回った。その触れ込みは『咲人に義肢を提供してくれる職人』、つまりこの噂が広まっているのは咲人の間でだけだ。事実俺の所にやってくる患者はほぼ全員が咲人だ。普通の人間なんて近頃
蓮司の中でぞわりと何かが蠢いた。
という事は、蓮司に鐵を紹介した吉川は、
「実はあんたの主治医の吉川葵という男とは面識がある。多分リハビリ関連でそいつと知り合ったんだろうが、あいつは元々咲人専門の医者だ。医科大学附属病院には咲人分泌科という
ズキズキと頭が割れそうになる。
ブブブブ
耳鳴りはますます酷くなっていく。だめだ、聞いてはいけない。この男の話に耳を貸しては――、
「実は昨日あんたを宿に運んだ後気になってあんたの事を少し調べた。藤波蓮司。高校時代に短距離走でインターハイに出場し、日本体育大学に推薦入学、卒業後は某有名企業のスポーツ部に内定が決まっていた。だが、あんたは一年前事故で足を失くし走れなくなった。新聞やテレビでも多少あんたの事がニュースになっていたみたいだな」
聞きたくない、もうやめてくれ。
「あんたはショックで事件当時の事を覚えていない、と言っていたが、吉川に確認を取ったらあいつ白状しやがった。あんたが事件に巻き込まれた日、大型トラックの交通事故なんてあんたの暮らす近隣では一件も起きてない。あんたが足を失ったのは別の理由だ。……そして、あんたが足を失くしたその事故でもう一人死んでいるのを聞いているか?」
思い出せない。思い出せない。思い出したくない。思い出すな。
ブブブブ
次第に男の声も聞こえづらくなってくる。ノイズと共に、身体の奥底からゴボゴボと何かが食い破ってくる気配がする。
やがて昨日と同じ黒い鋼鉄の扉の前に連れてこられると、目の前で扉がゆっくりと開いた。
銀の棺桶が並ぶ霊安室。温度はぐっと低くなり吐く息すら白くなる。
嫌だ。嫌だ。見たくない。見たくない。
「そいつは咲人で一年前にここに搬送されてきた。まだ当時のままで残っている」
ブブブブ
鐵が戸棚から棺桶を引き出した。それは昨日蓮司が最初にここに入ってきたときに食い入るように見つめていた物だった。棺桶は上面にガラスの覗き穴が付いていて棺桶の住人の顔を確認できる。
「お前、こいつに見覚えはないか?」
ブブブブ
見たくない、見たくない。――見ろ見ろ見ろ。
ブブブブブブブブブ
動けない蓮司の前に、無慈悲にもその棺桶が置かれた。ガラスから見えた顔は、
「――美香」
ブブブブブブブブブブブブブ
かつての恋人の安らかな死に顔に蓮司の頭の中の神経が焼き切れた。
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