第一章 雀蜂の僥倖⑥
◆
蓮司は絶叫した。
美香が
痛みはない。だが、皮膚のすぐ下を尋常じゃない数の何かが
「やめろ! やめろ! やめろ!」
ブブブブ
耳障りな翅音が部屋中にこだました。この音はどこから出ている? 身体中に響き渡るこの不快な音色はどこから?
「あはははっ! 本当に初めてだったんだ。蓮司」
床の上でのたうち回る蓮司を見下ろして笑う美香の高らかな笑い声、
こんな美香知らない。
蓮司の知っている彼女は、もっと明るくて
――こいつは誰だ?
不快な感触に
こんなの美香じゃない。俺の知っている美香じゃない。
声にならない叫び声をあげたその時、左足の表面から何かがすり抜けるような感触がした。
ブブブブ
蓮司の左足に一匹の蜂が止まっていた。黒と黄色の縞模様の身体に大きな眼、そして尻についた巨大な針。
蜂と目が合った。その蜂はまるで指示を待っているかのように、じっと蓮司を見つめている。
次の瞬間、左足の表面がボコボコと脈を打って同じようにお仲間が皮膚を食い破って現れる。
蜂は蓮司の足に止まっていたのではない、蓮司の足から生えてきた。
蓮司は発狂した。床を這いずりながら必死に辺りに手を伸ばす。
ブブブブ
翅音はどんどん大きくなっていく。
「あははは!」
不快な女の笑い声がこだまする。
こうしている間にも蜂たちは蓮司の左足から生み出され、部屋中を旋回していた。
早く、早く。
この不快な物を取ってくれ。
早く消えてくれ! 早く!
蓮司はキッチンに辿り着いた。流しには先ほど料理に使って洗ったばかりの包丁が置かれている。蓮司は
早く、早く、早く、早く――!!
視界を埋め尽くす黒い渦、不快な翅音。
もはや精神の限界に達していた蓮司は、手にした包丁を
何度も何度も何度も何度も。
辺り一面が血の海になっても、ひざから下の感覚がなくなっても。
何度も何度も何度も何度も何度も。
どれくらいそうしていただろう。蓮司はようやく手を止めた。けれども蓮司の身体は興奮冷めやらず、収まる気配がなくて。
「……蓮司?」
今度は自分を引き気味に見下すその女に包丁を突き立てた。
「それからの事はやっぱりよく覚えていないんです」
診療所のソファに腰かけた蓮司は
「気が付くとベッドの病院にいて、左足はすでに切除されていました。ベッドの
「なるほど」
鐵は淡白な
「俺は自分が咲人だってことを知らなかった。あの時まで俺は生まれて一度も咲人の力を発症した事が無くて、美香に無理やり叩き起こされて、怖くて――」
「咲人にも色んなタイプがいるからな。生まれてから無意識に分泌活動を行う者もいれば、意識しなければ分泌活動を行わず、それこそ死ぬまで自分が咲人だと気づかない者もいる。お前の場合は後者だった。だが、雀蜂の咲人だったお前は不運にも
すると鐵は蓮司に一枚の紙を提示した。添付された写真には静かに眠る美香の顔が映っている。
「
ああ、やはり。
蓮司は美香の浮気の真相を知り肩がずしりと重くなった。彼女はやはり潔白ではなかった。愛らしい無邪気な顔をしながら、彼女に群がる雀蜂たちを手当たり次第に従僕にしていた。
「俺は、それが許せなくて、彼女を」
自分の足をズタズタに引き裂いた後、錯乱した蓮司はその包丁で、
「彼女を――殺したんだ」
自分の知らない顔をする美香を拒絶するために、必死で己が愛した美香を
「鐵さん、俺は殺人鬼です。今日までずっとその事を忘れてのうのうと生きてきた。――どうして誰も俺を捕まえないんですか? 俺は、ショックで記憶を失っていたとはいえ、取り返しのつかない事をしたのに……!」
「事件のもみ消しを図った奴がいたんだ。咲人が
「揉み消しって……一体誰が」
「多分吉川だ」
思わぬ名前が飛び出して蓮司は面食らった。
「吉川、先生……?」
「吉川
「どうして、そんな事を?」
「事を荒立てたくなかったという理由もあるが、恐らく一番の理由は――貴重なサンプルであるお前を警察に引き渡したくなかった、だろうな」
蓮司は絶句する。今まで献身的に世話をしてくれた吉川が、蓮司を利用していた?
理解が追い付かない。いや、それよりもまず気になるのは、
「あの、鐵さん。吉川先生と知り合いだって言ってましたけど、あの人本当は一体何者なんですか」
そしてあなたも、という言葉の前に、鐵は静かに口を開いた。
「俺たちは『五帝』だ」
「五帝――」
どこかで聞いた事がある。と、蓮司は必死に記憶の引き出しを探った。
――そうだ、昨日民宿の
神話の中に出てくる咲人を守る五人の人間。
「五帝って、実在するんですか?」
「するよ。大昔から、代替わりを繰り返しながら今も存在する」
鐵はさらりと告げ、
「五帝が一、『烏羽帝』。これは代々継承される位だ。五帝に任じられた人間は咲人に対してのみ抑止力を持つ。咲人がこの世に害を及ぼさないよう監視し、保護管理を行う」
「保護管理……それって」
「神話では五帝は咲人を守る者と書かれているがそれは少し
「そんな……じゃああなたは」
「俺は別にどちらでもない。ただ今は
では蓮司は、この一年間吉川に
「
世界での活躍を期待された陸上選手が、咲人である事にショックを受け自身の左足を切断した挙句、逆上して恋人を手にかけた。これが世間に公表されれば、確かに蓮司は社会的にも
「まあそう悲観的になるな。お前はまだ若い、ここからやり直す事だってできる」
「……」
「……すぐには受け入れられないかもしれないが」
蓮司は顔をあげられなかった。頭の中がぐちゃぐちゃで、何を信じていいかわからなくて、それでもこうして生きて呼吸をしているという事実が、自分の中で何よりも信じられなくて。
「――義足、作るか?」
そんな蓮司に優しく声をかけてくれる人間もいて。
「前みたいに走れるかはお前次第だが、人生やり直すっていうなら、俺がお前の足を作ってやる。――どうだ?」
顔をあげると、そこには不愛想で表情の硬い、黒ずくめの男が座っている。
『あの人は優しい人だよ』
昨日そう言った老婆の言葉がようやく理解できた気がして、蓮司は涙を流しながら首を縦に振った。
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