第一章 雀蜂の僥倖②
◆
「……ここか?」
タクシーに揺られてたどり着いた場所は、荒れ果てた診療所だった。
本当にこんなところに装具士がいるのか。
蓮司は恐る恐るその鉄門に手をかけた。朽ちかけた見た目に反して、門はすんなりと開き蓮司を奥へと手招きする。石畳の浮き出た小道を松葉杖を引っかけないように慎重に歩行しながら、蓮司はようやく診療所らしき建物の前にたどり着いた。
建物は外回りに比べるとまだ
「すみません」
大声で呼びかけるが返事はない。もう一度、今度はより強くドアを叩いた。
「すみません!」
もう一度呼びかけると扉が開いた。正直開くなんて思っていなかったから
「わっ、と……!」
危うく後ろに倒れそうになったところを腕を掴まれて支えられた。蓮司の腕を掴んでいたのは扉の奥から伸びた黒い腕。
「――!」
「大丈夫か、あんた」
その腕の主が暗闇から姿を現す。だが暗闇から日向に出てきたはずなのに、その主は暗闇を身体中に纏わりつかせたままだ。
年は二十代半ばだろうか。蓮司より頭一つ分背の高いその男は、
男は今にも倒れそうになっている蓮司の姿を
「……義足の依頼か?」
またしても何も言っていないのに話が通じた。蓮司がコクコクと頷くと黙って肩を貸してくれた。
「歩けるか?」
「はい」
思いの外紳士的な行動に蓮司は面食らう。そのまま男に身体を支えられて、蓮司は建物の中に入った。
室内は外装よりもさらに綺麗に整えられていた。木を基調としたナチュラルな壁には絵画が飾られ隅には観葉植物の鉢も置かれている。内装だけでいえば都心部にある美容院とかとも遜色ないのではないか。
ただ、――薄暗い。
爽やかな内装に比べて光源が異常に少ない。少し離れた場所にいる黒ずくめの男の姿が暗闇に溶けて見えないほどの暗黒だ。
中央のソファに座らされた蓮司はそわそわと落ち着かずあたりを見渡す。程なくして男がコーヒーの入ったカップとクリップボードを持って蓮司の向かいに座った。
「ん」
「……?」
「問診だ。書け」
ぶっきらぼうな口調に面食らいつつ蓮司はボードを受け取った。仮にもこちらは客なのにその態度はいかがなものかと思いながらも、蓮司は付属のペンを取り必要事項を記入する。書いている間、男は始終無言だった。
この人が運転手の言っていた『鐵さん』って人だろうか?
診療所内には他にスタッフらしき人は見かけられない。となれば、彼が一人で営業している鐵で間違いないだろう。
問診票を書き終わると、鐵が黙ってそれを受け取った。開いているのかよくわからない眠そうな目で紙面を凝視し、ペンで書き込みを始める。
「藤波蓮司。一九七五年六月四日生まれ。東京都
情報を淡々と述べる鐵の声は抑揚がない。まるで機械仕掛けの人形のようだ。
「左大腿部中央から下の欠損。手術による後遺症は無し。……足を失った原因は?」
「交通事故、だと聞いています」
「聞いています?」
「すいません、一種の記憶障害みたいなもので、事故当時の事を全然覚えてなくて」
吉川から聞いた話によれば大型トラックの横転事故に巻き込まれたという。だが、その時の記憶は一切なく、事後処理も彼が用立ててくれた弁護士を通じて行われたため、詳細を深く知る事はなかった。
最も廃人同然になっていた蓮司はそれを知る術も気力もなかったのだが。
「……俺、片足になる前は短距離走やってて、自分で言うのも何ですけど世界大会狙えるくらいの記録保持者だったんです。足を失った時はショックで、しばらく何も考えられずに過ごしてました。正直、もう生きていても仕方がないって、思ってたんですけど……。主治医の先生が、義足を付けたらどうかって……もう一度走れるようになるかもしれないって」
「主治医?」
「はい。医科大学付属病院の吉川先生って人で」
その瞬間、鐵の手が止まった。眉間にこれでもかという程
「……なるほど」
たっぷり数十秒停滞した後、鐵の手がまた動き始めた。
怒っているのだろうか。鐵は人間というよりも鷹や狼に近い鋭い眼光で問診票を睨んでいる。すると、
ブブブブ
耳鳴りがした。と、同時に視界がぶれるほどの頭痛が蓮司を襲う。ノイズの混じる視界の中で、一瞬――誰かの顔が見えた気がした。
「――了解した」
蓮司がハッと顔を上げると、鐵は立ち上がり衣服を正していた。
「あんたの依頼を受けよう」
「は、はい」
あっさりと契約は成立した。まだぼんやりとしている蓮司の元に鐵は部屋の隅に備え付けてある車椅子を持ってくる。
「診察室はこっちだ。これに乗れ」
「あ、はい」
蓮司はソファから立ち上がると、大人しく車椅子に乗る。カラカラと車輪の回る音に揺られ、蓮司は部屋の奥に連れていかれた。蓮司がいた部屋の奥に全長五十メートル程の長い廊下が続いている。
(あれ、この建物こんなに大きかったっけ?)
外観を見た時はそんなに長い建物に思えなかったのだが、装飾の無い薄暗い廊下は奥の奥まで延々と続くような錯覚を覚えた。
(あの奥――)
薄暗い廊下の突き当りは黒い鋼鉄の扉のようだ。数十メートル離れたここからでも、その重厚感がよくわかる。その時、
ブブブブ
また耳鳴りだ、
(どうしたんだ? この村に来てから、何かおかしい)
「今日は接合部の具合を見て、それから義足の――おい、大丈夫か?」
「は、はい」
正直吐きそうなほどきつかったが蓮司は大丈夫だと頷いた。車椅子だからまだましだ。そうじゃなければ動けなかったかもしれない。
鐵は長い廊下の中ほど辺りにある部屋に入った。診療台や机、よく病院で見かけるような部屋だ。
「ここで待っていろ。体調が悪いなら横になっていていいぞ」
部屋奥の固そうなベッドを指し示すと鐵は部屋を出て行った。扉を開け放したまま、彼は別の部屋に向かっていった。
ブブブブ
耳鳴りはどんどんひどくなる。蓮司は思わず
ブブブブ
すると車椅子が独りでに動き出した。カラカラと車輪が回り、蓮司を部屋の外まで連れていく。
廊下は平坦でまっすぐだ。なのに、車椅子は斜面を下るみたいにどんどん速度を上げ進んでいく。椅子に連れられて辿り着いたのは――廊下の突き当りだった。
あんなに遠くに見えた重そうな鉄の扉がいつの間にか目の前にある。蓮司が虚ろな目でそれを見上げると、扉が勝手に開いた。ギィーという擦れる音に更に激しいノイズが被さっていく。
ブブブブ
虫の
開いた瞬間身震いするほどの冷気が肌に
室内は廊下よりもさらに薄暗い。そこは倉庫のようだった。狭い通路に壁一面に取り付けられた硬質なステンレスのラックとそこにぎっしりと詰められた細長い銀の箱。天井の近くまで積まれたその箱はどれも人間一人が簡単に収められてしまうほど大きい。
車椅子は蓮司を中へと導く。薄暗くて不気味な倉庫を静かに、静かに進んでいく。
蓮司はもはや耳鳴りと吐き気で意識が混濁していた。どうして自分はこんな薄気味悪いところにいるのだろうか。早く診療室に戻った方がいい、そう頭ではわかっているのに、車椅子の進行は止まらない。
やがて、車椅子はある箱の前で止まった。周囲と同じ、銀の重厚な箱。だが、この箱は何かが違う。蓮司の体内がざわざわとざわめく心地がした。
ブブブブ
蓮司は箱に手を伸ばした。冷たい金属の感触が指に伝わる。
ブブブブ
体の奥底で何かがはっきりと
ここに入っているものはなんだ?
蓮司は目を見開き目の前の箱に
知りたい、何が何でも、この箱の中身を知りたい。
必死になって箱の開閉部分を探す。だが、つるりとした表面に凹凸はどこにもなくどこが開け口かわからない。その時、
「――おい、何をしている?」
視界が急に明るくなった。室内の蛍光灯を付けた鐵が入り口に立っている。蓮司はひっと声を上げた。鬼の根城に忍び込んだ蓮司は今まさにその根城の主に見つかった。
「今すぐここを出ろ」
鐵は鬼の形相でこちらに近付いてきた。蓮司は怯えて声を出すさえできなくて、少しでも距離を取ろうと慣れない車椅子を必死に動かそうとした。
ガンッ
慌てた蓮司は部屋の中央――蓮司のすぐ後ろにあった診察台にぶつかった。そしてその上に何か白いものが横たえられている事に初めて気が付いた。
――え、
それは人形の様な何かだった。小さな子供くらいの大きさで、でも――明らかに人の形をなしていない。
何も身に纏っていない身体は、複雑な色合いをした光沢を放ち蛍光灯の光で乱反射する。胸の上で祈るように手を組んで、じっとそこに横たえられていた。
顔面の部分にかろうじて人間のパーツがうかがえる。閉じられた目、小さな鼻と口。それは安らかに眠る少女の顔だったが、皮膚と同様に光る硬質な髪が顔全体を覆い隠していた。
まるで生気の感じられない。
「ここは関係者以外立ち入り禁止だ。――おい、聞いているか?」
鐵に腕を掴まれる。が、蓮司はその少女から目を
ブブブブ
身体の中で何かが騒ぐ。ふと、その少女の横に周囲にあるものと同じ銀の箱があるのに気が付いた。箱はふたが開いたままで空っぽだ。
まだ何も入っていない、これから入れるのだ――この人を。
その時少女の体がピクリと動いた気がした。眠った体勢を変えることなく胸部がじわじわと盛り上がる。
ブブブブ
途端に濃い磯の香りが辺りに充満し始めた。夏の海辺を駆けている時の様な、温かい陽だまりと爽やかな風を感じる。
翅音のようなノイズと共に、視界が砂嵐の時みたいにぶれて歪んでいく。
ブブブブ ブブブブ
「……っ! 離れろ!」
鐵が蓮司を庇った瞬間、目の前の少女の身体が弾けた。
『弾ける』
そう表現するしかなかった。そして弾けた体から
――わぁ、
七色に輝くガラス片が冷たい室内で美しい吹雪となって舞い散る。強烈な磯の香りと目も
(――鱗?)
ブブブブ
ブブブブブブブブ
ブブッ――――
強烈な耳鳴りに支配され、蓮司の意識はそこで途絶えた。
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