第一章 雀蜂の僥倖①

 ◆

 西暦一九九七年。日本 中部内陸の村、佳賀里


 東京から電車に揺られて早半日が過ぎた。硬い皮張りのシートは車輪の振動を直に伝えてくるせいで尻が痛い事この上ない。だが、目的地もそう遠くない所まで来ているはずだ。

 藤波ふじなみ蓮司れんじはふと窓の外を眺めた。底の見えない渓谷の上を頼りない線路が一本走っている。窓からぐっと身体を乗り出せば谷底に吸い込まれてしまいそうでゾッとした。強烈な突風でも吹けばこの車両はぐらりと揺れて奈落の底に真っ逆さまではないか。


(ああ、なんで俺はこんなところに来てしまったのだろう)


 ため息をついても仕方がなかった。これは蓮司自身が決めた事で、蓮司が必要だと思った旅だから。


「まもなく、佳賀里かがりに到着いたします」


 車窓は森と渓谷しかないのに、車掌は次の到着の合図を車内に触れて回る。本当かよ、と蓮司が内心半信半疑で苦い顔をしていると、


「お兄さん、次で降りられるんですか?」


 蓮司の脇を通り過ぎようとした車掌が蓮司に話しかけてきた。ニコニコとした車掌には全く邪気は無かったが、一乗客である蓮司に話しかける意図がわからず蓮司は眉を寄せた。


「そうですけど……」

「良ければ荷物をお運びしましょう。一人では大変でしょう」


 車掌は隣の席に乗せたままのスーツケースを指示した。ちょうどその時、電車は佳賀里の駅に着いたらしくゆっくりと速度を落として停止した。

 スーツケースを抱えた車掌の後をついて蓮司は降車する。駅というには大層質素なところだった。狭いホームと小さな待合室と駅長室しかない、そんな駅だ。駅周辺にも店という店はあらず、車一台通っていない。


「タクシーをお呼びしましょう。すぐに配車してくれる知人を知っておりますので」


 車掌は待合室に蓮司の荷物を置くと意気揚々と駅長室に入っていった。蓮司は仕方なく古いささくれ立った木のベンチに座り、車掌の電話が終わるのを待つ。


「あと十分ほどでこちらに到着するそうです」

「ありがとうございます。……あの、」


 蓮司はさすがに気になって、車掌に問いかける。


「なんで俺がこの駅で降りるってわかったんですか?」

「……ああ、いえ。最近よくいらっしゃるんですよ。その――」


 車掌は少し躊躇ためらった様子で、蓮司の足をちらりと見た。


「気を悪くしてしまったら申し訳ないのですが、お客様のような――義肢ぎしをお求めの方が」


 彼が蓮司の左足に視線を注ぐ。


 ――いや、この表現は間違いだ。正確には蓮司の左足があった場所だ。


 蓮司は何だか複雑な思いで左ももをさすった。足を失ってしまったのは一年ほど前になるが、未だにこの腿の先に伸びる足があるのではないかと錯覚を覚える時がある。


「この村に住む装具士さんはとても腕がいいと評判です。きっとお客様にも合う義足を作ってくれるでしょう」

「そう、ですか」

「おっと、私はもう車内に戻らねば。ではお客様――良い旅を」


 車掌は脱帽して一礼するとなめらかな足取りで車内に戻ってしまった。結構歳はいっていると思うのだが、ピンと背筋の張った後姿はまだまだ若々しい。


(俺は、あんなふうに歩くことすら出来なくなった)


 車掌の眩しい後姿が車内に消えるまで彼を目で追っていると、十分も立たぬうちにタクシーがやってきて、さっきの車掌と似たような雰囲気の気のいい男が降りてきた。


「……ああ! くろがねさんの所だね? ささ、乗りな兄ちゃん。荷物は俺が運んでやるからさ」


 またしても行き先を察せられた蓮司は運転手の肩を借りてタクシーに乗り込んだ。


 ◆

 きっかけは主治医の吉川よしかわの勧めだった。


「蓮司君、もう一度走れるようになりたいと思わないか?」


 そう問いかけられた時も、蓮司は特別に希望を抱いたわけではなかった。

 高校時代に陸上部で短距離走のインターハイに進出し、輝かしい成績を収めた。推薦で東京の体育大学に進学し、在学時の活躍は時折全国紙の片隅にも載るほどだった。某大手電機メーカーのスポーツ部の内定も決まって、世界選手権の出場も夢ではないと言われた。蓮司の人生は順風満帆じゅんぷうまんぱん、少なくとも一年前までは蓮司は人生に何の不安も抱えていなかったと思う。

 そんな蓮司を神様は不意に絶望の断崖絶壁に追い込んだ。蓮司は事故に巻き込まれ、気が付いたら病院のベッドの上だった。何があったのか思い出せない、記憶がない。ただ、一つそれまでと違った事は、蓮司の左大腿部だいたいぶから下が忽然こつぜんと消えていた事。


「君は交通事故に遭ったんだ」


 蓮司を担当してくれた吉川は大学時代から蓮司の活躍を知っていたらしい。その眼鏡の向こうで気の毒そうに目を細める姿に、蓮司は現実を突き付けられ目の前が真っ暗になった。

 それから数か月はベッドの上で抜け殻のような生活を送っていた。機械的に食事をして、日がな一日窓の外を眺めて一日が終わる。もう生きている意味がなかった。


 もう走れない。


 そう唱えるだけで、このまま呼吸が止まってしまっても蓮司はどうでもいい気がしてきた。

 そんな彼を親身になって支えてくれたのが主治医の吉川であった。退院した後も、吉川は定期的に蓮司の様子を見に来てくれたり、相談に乗ってくれたり。そうした日々の中で、ふと吉川が勧めたのが『義足を作ってはどうか』という提案だった。



「いやぁ嬉しいねぇ、この村は見ての通り田舎で観光名所になるものなんて一個もないから、中々他所の人が来なくてさ」


 タクシーの運転手は久しぶりの客だからなのか上機嫌でハンドルを切る。

確かに車窓から見える風景は田んぼ、田んぼ、時々民家、そして田んぼ。長閑のどかな風景といえば聞こえはいいが、わざわざこんなところに足を運ぶ人間はそういないだろう。


「おまけにここ昔から妙な噂というか……まあ半分事実なんだけどそういうのがあってね。――お兄さん、『咲人さきびとの墓』って知ってるかい?」

「咲人の墓?」


 蓮司は首を傾げた。

 咲人とは、この国で生まれる人間の姿をした人間でない者たちの事だ。体内で様々な物質を生成分泌し体外に放出する。ある者は花や生き物、ある者は鉱石やその他の有機物。まるで普通の人間が汗をかくのと同じように、排泄するのと同じように。新陳代謝の一環として彼らは特定の物質を分泌し続ける。創生神話では神の気まぐれで作られた『異物』だと言われているが、近年では遺伝子変異、あるいは疾患の一種なのではと分析されていた。

 そしてこの国の人口の一パーセントにも満たない彼らは長年迫害の対象とされ忌み嫌われてきた。


「この村にはね、迫害で死んだ咲人たちのびょうがあるんだよ」

「廟……?」

「昔から咲人ってのは境遇のせいか天涯孤独の奴が多くてね。どこの墓にも入れられずひっそりと死を迎えるものが多い。それで彼らをしずめる廟がこの村に作られたんだけど」


 運転手は前方を見たまま苦笑を浮かべる。


「余所の人間からしたらやっぱり気味の悪いもんみたいでね。この村には『咲人の幽霊が出る』だの『咲人のたたりに遭う』だの、一昔前はこの村の村民も迫害に遭ってたんだよ」

「それは……気の毒に」

「でも最近はそういう偏見も無くなってきてるけれどね。それに、鐵さんのおかげでこうやって人も来るようになったし」

「鐵さん?」

「二年ほど前からこの村で義肢づくりをやってる装具士さんだよ。君が今から会う人だ。腕がいいって噂が立って、それからちょくちょくお客さんが来るようになったんだ」


 鐵。それがこれから会う義肢装具士の名前か。蓮司は急に緊張し始めた。喉がカラカラになって鞄の中から水の入ったペットボトルを取り出し一気に飲み干した。

 その人が蓮司の義足を作ってくれるのだろうか? どんな人だろう? 信用に足る人なのだろうか?


 ブブブブ


 あまりの緊張に耳鳴りまでしてきた。と、


「そんでもってその鐵さんって人が今の――うわっ!」


 突然運転手が叫び声をあげブレーキを踏んだ。蓮司は思わず前につんのめって前方のシートに顔をぶつける。


「ど、どうしたんですか?」

「ああ、いやすまねぇ。こいつが――ひっ!」


 運転手は道路の脇に慌てて車を止めると、近くにあった自身の鞄を掲げて顔をガードしつつ車の窓を開けた。何かを必死に追い出そうとしている。


「蜂?」


 運転手の周りを飛び回っているのは体長三センチ程度の雀蜂すずめばちだった。運転手は刺されないように窓まで誘導すると鞄を使って窓の外に蜂を追い出した。


「ふう、危なかった。まったく、一体どこから入ってきやがったんだ?」


 田舎だからなぁ、とため息をついて運転手はまた車を発進させる。


「虫苦手なんですか?」

「いやぁ、昆虫は別に平気なんだけど、あいつだけは別だな。ガキの頃に一回やられちまって次刺されたらやばいって医者にも言われてるんだ」

 

 いわゆるアナフィラキシーショックって奴だ、と運転手は冷や汗をかきながら笑った。

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