我が愛しき咲人よ

三木桜

序章 暮れ六つ時

 ◆

 洸輔こうすけを育ててくれた先代の『烏羽からすば帝』、げん一郎いちろうは無口で物静かな男だった。独り身で、友と語り合う姿も見た事がない。寡黙で、いつも眉間に皴を寄せて他者を拒む、孤独な男だ。

 ある晩夏の日、血を思わせる真っ赤な夕暮れにひぐらしが寂しく鳴く境内の縁側に、黒い袈裟けさを着たその男が相も変わらず座っている。地縛霊の様に虚ろで青白い顔をした男は、魂が抜け落ちた様に動かない。


「玄一郎、食事が出来たよ」


 洸輔が彼に声をかけると玄一郎は覇気のない目でこちらを見た。黒曜石の瞳は夕暮れの光を浴びているはずなのに、その光すら吸い込んでしまうほど深く濁っている。

 今日は昼頃にこの寺に来客があった。玄一郎が応対し、洸輔は何の用か分からず奥に引っ込んでいたけれど、


(パッと見えた感じ咲人さきびとだったし、五帝の仕事だったんだろうな)


 小さな寺に暮らす玄一郎の元にはよく客がやってくる。大抵は法事を頼む近所の檀家だんかさんが大半だが、時折寺に迷い込んでくるのが、何か深い悩みを抱えて思いつめた顔をした咲人達だ。常人とかけ離れた体質を持つ彼らは、その内に秘めた多くの悩みを玄一郎に打ち明けにやってくる。

 法事の仕事は洸輔も手伝った事があったが、咲人との案件が来ると玄一郎はすぐに洸輔を遠ざけた。故に彼らがどんな理由で玄一郎の元を訪れたか、洸輔はいつもわからずじまいだった。

 玄一郎は立ち上がると無言で食堂へと向かった。洸輔もその後についていく。


「なぁ、今日咲人のお客さん来てたけど、何かあったのか?」


 大股で歩いている玄一郎の背に向かって尋ねたが、


「お前には関係あらへん」


 突き放すような言い方に洸輔はムッと口を歪める。不器用で不愛想な人ではあったが、その言い方はどうにもしゃくさわった。


「なんでだよ、五帝の依頼だったんだろ? 俺にも関係あるじゃん」

「お前は五帝やない」


 玄一郎は取り付く島もなかった。目の前に広がる黒くて大きな背中は頼りなさげで、どうしてそう思うのかと言われれば、単純に年老いたからなのか。


「なんだよ……、まだ『お前は五帝になるな』なんて言うつもりか?」

「……」

「いい加減認めてくれよ。俺はあんたみたいになりたいんだ。そのために修行だってこなしてきたのに」

 

 両親を早くに亡くした洸輔は幼い頃、遠い親戚筋の玄一郎に拾われた。親族の間で危うくたらい回しになりかけた洸輔を救ってくれた恩人の玄一郎。大きくなるにつれて、彼の担う使命も知った。烏羽帝の号を持つ玄一郎に憧れて、幼い頃からずっと彼の元で修行して、少しずつ五帝の役割についても理解してきたつもりだ。


「俺もう十八だよ。そりゃああんたに比べりゃ餓鬼かもしれないけどさ」


 もう物事の分別もわかる。それなのに、玄一郎はいつまでも洸輔を子ども扱いする。

 ふと、玄一郎が立ち止まった。


「……お前、そんなに五帝になりたいんか?」


 振り返った玄一郎の顔がよく見えない。影に沈んで彼が何をおもんばかっているのかがわからなかった。


「なりたいんか、って……。当然だろ」

「なんでそんな五帝にこだわる?」

「……っ、こだわってるわけじゃ――」


 玄一郎は今や洸輔にとって唯一無二の家族だ。洸輔を救ってくれた唯一の人間。

 そんな玄一郎に恩返しがしたい。彼の様に誰かを救える人間になりたい。そう思っているだけなのに、


「お前は五帝にならんでええ、洸輔」


 段々夕暮れの空が暗くなっていって、光は儚く消えていく。目の前の玄一郎の姿は益々黒く濁っていった。


「お前はなんもわかってない。五帝がどんな残酷な存在か」

「な、なんだよ……、それ」

「五帝はヒーローやない。誰かを救えるなんてそんな甘い考え、持ったらあかん」


 苦しそうに吐き捨てる玄一郎の声が洸輔の身体に突き刺さる。そして彼は悲しそうに告げるのだ。


「洸輔、よう覚えとけ。五帝はな、誰も救えんのや。咲人も、――人間もな」


 やめてくれ、そんな事言わないでくれ。

 俺はあんたに救われたんだ。あんたに憧れたから、あんたのような人間になりたいと思ったんだ。その想いを否定するような事を言わないでくれ。

 だが、洸輔の言葉は玄一郎には届かない。そしていつも最後に、玄一郎はこう言い締めて話を終える。


「洸輔、俺はな。――もう誰も救えへんのや」


 黒い影に覆われたその養父の顔を、洸輔はもう思い出すことが出来なかった。

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