第42話 魔王の覚悟は止まらない
その静かな部屋の中、賢者はカレを見守っていた。
無機質な白の空間に囲まれたその場所に、彼女は独り佇んでいる。
他の四人は全員が眠りにつき、安らかな呼吸を小さくたてていた。
勇者パーティーの隊員たちは、まるで真昼の草っ原で昼寝でもしているように、気持ちよさそうに床に寝転んでいる。反対に魔王の身体をもつ彼は、苦悶の表情を浮かべ、何度も悶えている。
それもそのはずで、彼は今、自分の心に潜む悪夢と決闘し、足掻いているのだ。
賢者は少しでも彼の助けになろうと、杖に祈りを込めては彼の魂に浄化の力を施す。
それでも、この魔法が魔王に対し効果的かと言えば、きっと擦り傷にすらならないだろう。
それは賢者も十分承知している。
だが、自分が今できることを考えたとき、他に方法が思い浮かばない。
「……天才なんて呼ばれても、所詮この程度の事しかできないのかしらね」
自分の才能を誇っていた彼女にとって、助けるべき相手に力を貸せないという事実は、余りにも辛いものだった。
こんなに不甲斐ないと思ったことは、人生で一度も無かったはずだ。
他人よりも優れている筈の知力が敗北した、それは普通なら初めての挫折になっていただろう。
けれど、彼女の想いは別の所に存在していた。
後になって賢者は、この時の気持ちに驚く事になるだろう。
彼女が自らの才能の無力さを知ったこと、それは彼女にとって重要ではなかった。
世界を掛けての決戦の真っ只中にいることも、今この瞬間は忘れかけていた。
……不思議な人かしら、と賢者は思う。
初めて会ったとき、彼は単なる無知の少年にしか過ぎなかった。
優れた技術も知能もなく、突然異世界に迷い込んだ哀れな子羊としか見ていなかった。
彼を魔王ごと封印しなかったのは、後味の悪さをなくすためであった。
だからこそ、その時になったら一思いに殺してあげよう、苦しむことのないように、そう考えていた。
けれど彼は、自ら険しい荊棘(いばら)の道を歩み進むことを決めた。
何度死ぬことになろうが、その身を焦がす苦痛を受け入れ続けた。
彼の泣いた顔を幾度となく見てきた。無理に虚栄を張る姿を、痛々しいと感じながらも見届けてきた。
そして、彼は自らの運命に打ち負けたところを、一度も見せなかった。
気付けば、彼女の心は彼の成長に期待していた。
もしかすると……彼の中には魔王以上の不屈の闘志が燃え盛っているのではないか。
それは、彼を包む絶望を討ち払ってしまうほどに。
彼は魔王に挑む寸前、賢者に笑いかけた。
助かる見込みも、一発逆転の計略も持たず、魔王に勝てる要素は一切ないのにも関わらずだ。
気づくと彼女は、ただ何よりも、彼の無事を祈っていた。
「……うぅ」
沈黙した部屋に、突然の唸り声。
目の前の彼に集中していた彼女だが、素早く警戒態勢をとる。
音の方向を振り向き、声の主を探し出す。
「……勇者?」
その寝言は、彼女の手によって眠らせていた筈の、勇者の口から出たものだった。
穏やかな表情で目を閉じていた筈の彼は、何故か眉間にしわを寄せ身体を捩っている。
しかも、これが寝相の悪いという訳ではないようで、彼の左腰に装着された聖剣が青く光り出している。
「……聖剣が勇者を護ろうとしてる?」
何故今さらなのだ。勇者が魔王にの魔力支配されたときですら反応しなかったというのに。
だが青光の意味を考えたとき、賢者に一つの記憶が蘇った。
「……違うわ、この光は守護の光じゃないかしら。この青は…… 召還の魔法……だったはず」
それは聖剣の持つ特異な力の一つ。
端的にいえばテレポート、つまりどんな場所からでも持ち主の手元に戻すことのできる魔法である。
例えば敵に聖剣を盗まれたり、崖から落としてしまったとき、所持者が念じるだけで手元に帰ってくる。
そして勇者の場合、聖剣に呼び掛けると、剣が青い光を放って飛んでくるといったものだった。
その剣が今再び輝いているのだ。
まさか勇者が寝ぼけたせいで……なんてことでは済まないだろう。
彼の夢に異常事態が起きていることは確かだ。
そして、賢者に思い当たる節は一つ。
「まさか……勇者も魔王の魂に接触している……?」
ありえない話ではない。
何しろ魔王の魔力は未だ勇者の体内に残っているのだ。
いや、既に染み渡っているといっても過言ではない。
ループを繰り返し二度も暴走をしたことを考えれば、当然勇者は魔王の魂の一部が溶け込んでいる。
ならば精神的な影響を受け、魔王の魂と繋がることもあるだろう。
ともかく、勇者が突然魔王の精神世界に入ったとすれば、警戒して聖剣を持とうとするだろう。
だが現実にある剣が、心象で形作った空間に入ることはできない。
この聖剣の輝きは、そのジレンマの結果ではないのか。
その疑問を解決するため、賢者は眠る勇者の胸に手をかざし、彼の身体に溢れる力を感じ取る。
するとやはり、魔王と彼自身の魔力が彼の中で不自然な動きをしていた。
どうやら推測は正しかったようだと、賢者は溜め息をついた。
「……なんてことかしら。……勇者が余計なことをしなければ良いのだけれど、大丈夫かしら……」
けれども、正義を地で行く勇者のことだ。
下手にあの熱弁を振りかざし、魔王を触発させることになれば、今までの努力を無駄にしかねない。
心配ごとが更に増えたことに頭を悩ませながらも、賢者は魔王の身体の方を向いた。
彼が成功することを願って。
「こんなに人を心配するのなんて、いつ以来でしょうね……」
そうは言いながらも、賢者の口元は自然と笑みを浮かべていた。
彼女はその理由を知っている。
全くおかしなことだが、彼のことを心配していると同時に、信頼しているのだ。
賢者は彼の頬を撫でながら、届かぬ声で語りかける。
「貴方は……私が今まで出会った人の中で、一番変わっているわ。誰かのために、何かのために戦おうとしないで、戦い続けるために戦おうとするのだもの。ねえ、そうでしょう?貴方の言ったことはそういうことよ」
彼は常に『諦めない』と自らに言い聞かせていた。
それは永遠に前に向けて歩み続けるということ。
多くの人は時として人生に迷い、目的を見失い、絶望し、立ち止まってしまう。
だが、それが普通なのだ。
現在地を確認し、過去を振り返り、新たな道標を見定めて、再び進み出す。
それこそが成長ということであるはずだ。
けれども、彼の場合は逆なのだ。
諦めないために、目標を作り上げ、希望を見出そうとする。
ゴールがあるから走るのではなく、走るためにゴールを作りあげようとする。
まさに目的と手段が逆転している。
それはある意味、何よりも強靭な心を持った人間である。
彼にとっては、進み続けることが生きる意味であるのだ。
夢と現実との距離に嫌気がさすこともなく、辿り着いた瞬間には次の地点を目指している。
道から外れていようと
届かぬ大望を持とうと
窮地に立たされようと
死が眼前に広がろうと
進む先が絶望だろうと
決して心が折れることはない。
それは例え魔王と対峙し、絶望の波が被さったとしても変わらない。
彼の軸がブレない限り、何度足が止まりかけようとも前に進むだろう、
傷ついた心を抉られようとも立ち直るだろう。
逃走本能が囁いても感情でねじ伏せるだろう。
理屈も論理も関係ない。ただ『諦めない』ことが成し遂げられればいいのだ。
その意志は誰よりも固く、魔王すら敵にならない。
故に、彼は絶対に諦めない。
賢者は、彼女は、それを知っている。
「貴方はきっと、何よりも残酷な道を歩こうとしているかしら。諦めのない人生は、進んだ道を二度と引き返せない。間違っていると知っても、前に進むことしかできない。それを理解してもなお、貴方はこの生き方を選んだ。だったらもう、貴方のことを誰も止められないわ」
例え貴方が何度死ぬことになろうとも
そう呟き、賢者は彼を見た。
「……だったら貴方が何をすべきかなんて、簡単な話でしょう?」
「……簡単なことだったんだ」
そう、答えなんてもう決まっていた。
迷う必要なんてなかったんだ。まして絶望することも。
本当、下らないことで時間を潰してしまったものだ。
危うく心が折れてしまうところだった。
けれど、俺は自分で賢者に伝えたじゃないか。
俺の決意を、そして覚悟を。
だったら魔王とか過去とか未来とか、そんな難しいことを考える必要なんてない。
俺のやるべきことは、それを貫き通すだけだ。
この先どうなろうが、魔王が何だろうが関係ない。
俺が決めた唯一つの意志、それに従うだけで良かったんだ。
「俺は前にしか進めない。例えどんな結末を迎えようと、そんなの知ったこっちゃない。俺は勝つことを、生きることを、闘うことを、全て引っくるめて『諦めない』って誓ったんだ」
そう、それはどんなに困難な事だとしても。
俺にとって不可能なんて、何の意味も持たない。
諦めなければ全てはいつか手が届く、それ以外の事実は存在しないし認めない。
「欲望に負けるとか、魔王になるとか、俺はそんなふざけた結末で終わらない。絶対にだ。
そしてこの俺の意志を止める事は、誰にだってできないのだ。
それが例え自分自身だろうと、魔王が何をしようと、俺が死ぬまで諦めさせることはできないだろう。いや違うな、死んでしまえば一生俺を絶望に落とすことなどできやしないだろう」
俺は真っ直ぐ前を見つめ、魔王に向かって言ってやった。
よく聞け、これが俺の決意の証だ。
「お前は……死んでも俺を止められない」
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