第十話
「あと10人分くらいは有りそうね」
有美は薬品棚の抗インフルエンザ薬の在庫を確認すると『よし』と力強く頷いた。
「ちょっと朱璃、手伝って」
所長室の棚には数種類の薬品が並び、棚の一番下に災害時用の保存食、水がセットになっているダンボール箱も貯蔵してあった。表面には保存期間5年と書かれていて隣に雑な字で去年の日付が書いてある。所長が着任した時に買い揃えた物なのだろう。
有美は所長に承諾をもらい棚から引っ張りだそうとするが、意外に重量があったので朱璃に助けを求めた。が、朱璃が助けに入る前に野間がそれに気付き引っ張り出してくれた。
野間にお礼を言うと、ダンボール箱のフタを開ける。中は食料品の箱と水の入ったペットボトルの箱とに分かれていて、有美はペットボトルの入った箱の取っ手に手をかける。
「それを出せば良いのですか?」
有美が持ち上げようとするのを遮り、野間が箱を持ち上げ外に出す。2リットルボトルが6本入った箱をヒョイと持ち上げると、有美が羨望の眼差しを向けているのを感じたので野間は『これくらい何ともないですよ』と、照れ臭そうに笑った。
「有美。水なんか引っ張り出してどうするの?」
朱璃が不思議そうに訪ねる。
「彼等は水に飢えている。これに薬を混ぜとけば勝手に飲んじゃうと思わない?」
得意気な笑みを浮かべ人差し指を立て軽く振り、ウインクしながらそう言った。
有美は基本真面目で大人しい性格をしているが時々、愛いらしい仕草を自然としてくる。自然な流れでサラっとしてくるので嫌味がなく好感がもてる。男だったらその可愛い仕草にいちころだろう。現に野間は頬が赤くなったように見える。
朱璃はそれを察したのか野間の事を拳で小突いた。それにハッとなり幾分冷静さを取り戻した野間は取り繕うように言った。
「なるほど、感染者の暴走を止められるかもしれないですね」
早速、残ってた者達でコップ一杯分の水を10個小分けにした。
「どれくらい混ぜれば良いのですか?」
薬を手に取り分量を野間が聞いてきた。
「2錠潰して入れて」
「2錠で良いのですか?」
「まあ80キロ以上の人は1回4錠が通常量になるんだけど、今回はいないと仮定して2錠でいきましょう」
有美の手元にある抗インフルエンザ薬は、2錠を単回服用で治療終了のお薬だ。野間は単回服用で治療終了の抗インフルエンザ薬が存在するなど知らなかったので、有美のその言葉に素っ気ない返事をした。それを察した有美は他の人にも聞こえるように少しトーンを上げ説明し始めた。
「抗インフルエンザ薬はね、少し前までは5日続ける事によってウイルスの活性を抑えるものが主流だったんだけど、症状が落ち着いたら5日分きちんと飲み切らずに、そこでお薬を飲むことを止めてしまう人が多かったの。そうすると体内にウイルスが残っちゃって、その残っちゃったウイルスは抗インフルエンザ薬に耐性を持つようになってしまうの」
「きっちり飲み切ってもらって、インフルエンザウイルスをやっつけてもらわないと薬に耐性を持つウイルスが出てきてしまうのね。薬が効かないウイルスが増えると厄介でしょ。だから飲み残しがないように1回飲み切りのお薬が開発されたの。それがこれ」
「ひえー!1回飲むだけで良いのですか?」
いつの間にそんなに進歩していたのだろうと思ったのだろう。野間は目を大きく見開き驚きの表情を向けていた。
「いったい何人が今回のインフルエンザウイルスに感染して発病しているか分からないけど、これで10人は助けられるはず」
作業を進めながら有美はしみじみと言った。
「もっと薬が豊富に有れば、、」
そのやり取りを横目に見ていた岡島がボソリと言う。
「薬なら地下の薬品庫に行けば、数万人分は有るんじゃないか?」
作業を手伝いながら坂口所長がさらりとそう言った。
「数万人分だって!なんで、そんなに備蓄しているんですか?」
坂口所長はその言葉を発した後、一斉に全員から責められる。なぜその事を早く言わないのか?1錠数千円もする薬をなぜそんなに備蓄出来るのか?など的確な指摘なものから、そもそもなぜこんな事になってしまっているのか?や、汗かき過ぎ、暑苦しい、臭いなど感情的な事からくるものまで色々捲し立てられた。
「皆でそんなに責めなくても、、」
さんざん口撃を受けた坂口所長は耐えられなくなり顔を伏せてしまった。
「僕なんか、、どうせ、、臭くて暑苦しいんだ、、家族にも邪険に扱われてるし、、」
拗ねていじけてしまった坂口所長を見て有美が助け船を出そうとする。
「いや、いや、流石にデブで加齢臭がキツイは言い過ぎですよ!」
澄んだ目で皆の前に割って入り、フォローしたつもりなのだろうが、、。
「いや、それ、そこまでハッキリとは誰も言っていないし」
有美の言葉に、朱璃が冷めた目で突っ込みを入れた。
ついつい、日頃から思っている事が口から出てしまったのだろうか?坂口所長はますます陰に入ってしまう。
「有美さん酷すぎです」
「えっ!どうして?」
有美の時々でる天然は恐ろしい。悪気が無いから更にタチが悪い。
皆を冷静にさせ、坂口所長を何とか宥め着かせた有美は、坂口所長を傷付けないよう言葉を選びながら話始めた。
「薬品庫になぜそんなに備蓄してあるのですか?」
「まあ大沢先生の力が大きいかな」
世界的な大流行を危惧し世界中で抗インフルエンザ薬の備蓄は検討されている。日本でも備蓄を増やすことは検討されていて、それで大量に保管されているとの事だ。もし万が一、世界的な大流行が起こってしまっては数万人分の備蓄でも少ないらしい。
ただ大沢先生は薬品メーカーからのキャッシュバックを期待していたからなのだが、大沢先生の名誉のためにもその件は黙っておくことにした。
「岡島さん。取りに行けないですかね?」
有美さんの表情を伺ったあと野間はそう言った。
「敵の動きが読めない以上は、此処を離れるのは危険だろう。もう一人隊員がいれば向かわせても良いところだが、、」
そこで岡島は言葉に詰まった。
班長と柴村が向かいの棟に向かっている以上、現在の坂口所長の護衛は岡島と野間だ。先程はSP二人がついていながら大沢先生を守り切れなかった。二人でも危険すぎるというのにどちらかが離れるなんて言語道断。得策とは思えない。
「班長達が戻って来てから動くべきだろう。取り敢えず我々の任務は此処を死守しておくことだ」
「了解です」
「私、薬品庫に行ってきましょうか?」
朱璃は表情一つ変えずさらりとそう言った。朱璃の事だからあまり深く理由を考えず言ったのだろう。
「何言ってるのよ!?猛獣がいる檻の中に飛び込んで行くようなものなのよ?危険すぎるわ!」
有美は慌ててそれを制する。
「でも、そのパクって人はフラフラな状態なのに薬品庫から、ここまで無事に来てるじゃない」
そうかもしれないが、、。
「サラッと行ってサラッと帰ってこれば大丈夫よ。きっと」
「サラッと行って来れるかしら、、」
だったら薬品庫までの道順を知っている私が行ったほうが良い。そう思ったが『また襲われてしまったら』と、考えてしまうと『私が行きます』と言い出すことは出来なかった。朱璃は勇気あるな、、。
「ここに来る時も何も無かったし大丈夫そうじゃない?」
「確かにそうですけど万が一の事を考えるとですね、、」
私は朱璃の提案に反論が思いつかないでいると、岡島さんが朱璃の事を宥めつかせようとしてくれた。その様子を見ている間に私はまた沢山の疑問点が頭に浮かび上がってきた。
「ねえ!パク君。起きてる?少し話せる?」
おもむろにパクに近づいて話しかけた。パクは目を開け有美の言葉に軽く頷く。
「ねえ。どうやって薬品庫まで行ったの?」
「いや、、どうやってって言われても、、記憶が曖昧で、、」
袖で横になっていたパクは有美の言葉に反応し、少し体を起こそうとしてきたがそれを制する。
「どうかしたの?」
その会話を聞いていた朱璃が有美が難しい顔をしているので除き込みながら聞く。
「だってパク君のこと、暴れるから皆でロープでぐるぐる巻きにしたじゃない?どうやってロープ外したのよ?一人じゃ絶対に外せないくらいぐるぐる巻きにしたよね?」
そう言われるとそうだ。ぐるぐる巻きにして放置してきたはず。なのにこのパクという青年はなぜここにいるのだろうか?なぜここに来れたのだろうか?自分では絶対に外せるはずはない。あれだけ雁字搦めにされていては、いくら暴れてもひとりで外れたとは考えにくい。
「誰か解いた奴がいるって事か?」
独り言のように低い声で岡島さんはそう言った。
「そう考えるのが妥当ですよね」
有美は拳を口に当て、考え込むように虚空を見つめる。
「そう言えば不可解な事が多いですよね。さっきから疑問に思ってたんですけど。僕達がここを出て行って、間髪入れずにここに刺客がやって来たんですよね?どうしてここで待ち伏せ出来たのでしょうか?彼等は我々がここに来るって分かっていたのでしょうか?」
拳を額に当て眉間にシワを寄せ考え込んでいる岡島さんに野間さんはそう言った。
「それにおかしいんですよ。狙撃するなら普通、ターゲットを狙って1発で決めようとしませんか?こんなに滅茶苦茶に撃つ必要なんて無い」
「何が言いたい?」
「さっきの狙撃は我々を殺すためのものじゃない。自分の方におびき寄せるものだったんじゃないでしょうか?」
「つまり陽動だったと?俺達はまんまとアイツ等の手のひらの上で踊らされてしまったという事か?」
戦力を分散させ、確実に暗殺出来る方法をとったという事なのだろうか?
「狙撃なら敵と距離を取れる。反撃されにくいし、逃亡する時間も稼げる。暗殺するなら狙撃という手段を取るのが得策だぞ」
「狙撃の技術が未熟だったとしたら?」
「なるほど!それは有り得るな」
狙撃で暗殺したいが狙撃の技術は無い。ならば護衛は少ないに越した事はない。それで陽動作戦をとったのだろうか?しかし、なぜここに来ると予想できたのだろうか?
「もしかして、全て最初から仕組んだ事だったのかしら?」
「どういう事です?」
私は『これは仮説です』と、前置きしてから話始めた。
「感染者がどういう習性を持っていて、どういう行動パターンをとると予想が出来ていたとします。大沢先生がこの施設を訪れる事は知っていた。それを坂口所長が迎えに出てくる事も知っていた。そこへインフルエンザ脳症を発症しているパク君を解き放つ」
「どこかに縛り付けておいて、時が来たらロープを切断して、私達の方に行くように仕向けたとかですか?」
「いいえ。初めてパク君に会ったとき、身体にロープの後は無かったわ。おそらく部屋に閉じ込めておいて解き放ったのよ」
「まず、第一段階としてパク君を解き放ち、おかしくなってしまっている人間がいると印象付ける」
「そして、第二段階として複数の者を解き放つ。一人取り押さえるのにあれだけ苦労したと知っている私達は当然、逃げることを選択する」
「その時、坂口所長から研究中のインフルエンザウイルスが原因の可能性があるということを告げられる。私達もウイルスに感染したかも知れない、所長室に行けば抗インフルエンザ薬が手に入ることを告げられる。その事を予想しておく」
「もしそうだとしたら。相当頭が切れる奴等ですね?」
全身に鳥肌が立ったのか野間さんは体を摩る。
「でも、感染者は理性を失ってる奴等ですよ。そう簡単にコントロール出来ますか?」
「習性を利用したんだと思います」
「習性と言いますと?」
「水に敏感に反応するって事ですよ」
「彼等は水に対して異常なまでの執着心を見せてくる。水の音を聴けばそちらに必ず向かって行きます。それを利用したんだと思います」
「部屋の中から水の音を出して招き入れ電子ロックをする。各部屋に何人か分けて入れておけば必要な時に必要な人数を送り出すこ事が出来る」
「なるほど!それは考えましたね。でももしそれが本当なら我々は完全にアイツ等の術中に嵌められているって事じゃないですか?」
「そうですね。所長室に招き入れたいので、ここまでの行程には問題無く来れた。もしいま動いたら、薬品庫に向かったら、感染者に囲まれてしまう可能性が高いかもしれません」
「まいったなぁ。予め下準備してあるってことか、、」
「大丈夫よ。こっちには有美がいるんだからそう簡単に向こうの思い通りにはならないわよ」
「しかし、部屋で水の音を出して招き入れるとか命懸けですね。一階なら窓から逃げれるでしょうが、二階では逃げ場確保出来たのでしょうか?下手したら。感染者に囲まれてしまう事になりかねないでしょうに」
「いいえ。本当の水を用意する必要は無いですし、そもそも部屋に入ってないと思います」
「入ってならどうやって水の音を出して、部屋の中に招き入れたのですか?」
有美はおもむろに天井を指した。
「そうか!館内放送」
「ええ。音で反応するなら別に水を流さなくても、スピーカーから水の音を流せばいいだけです」
「スピーカーからの音で招き入れ、電子ロックをし閉じ込める。そして必要なときに電子ロックを外す」
「最初から全て仕組まれていたって事か、、そうするとあと二人殺すっていうのも罠かもしれないな?」
「いいえ。それは間違いない事だと思います」
有美はしっかりと二人のSPを見つめ力強くそう言いきった。
「何か根拠でもあるのですか?」
「飛奈は嘘を付くとき目が泳ぎやすい。あの時の飛奈の目は、嘘を言っているような目には見えませんでした」
「あなたが知っている飛奈さんとは変わっているかもしれませんよ。現に、、」
岡島さんが『現に、、』と言いかけたところで、私はその先の言葉を聞きたくなかったので遮るように言った。
「間違いありません。飛奈は嘘は言っていません」
岡島さんは気圧されしたようで次の言葉を飲み込み、発する事はなかった。
「では幼馴染みのあなたならこれから飛奈がどう動くか検討つきますか?」
「現在、私達は戦力を二分している。飛奈ならそのチャンス逃さないはず」
「ここに来る可能性が高いと?」
有美は力強く頷いた。
「どうします?岡島さん合流しますか?」
「いいや。取り敢えず自分達の身の安全の確保だ。有美さんどこか安全に身を隠せる場所有りませんか?あなたの言葉を信じ所長室に止まっているのは危険と判断し移動することにしましょう」
その時、通路の方から『ピッ』と、ドアロックが解除される音が聞こえてきた。
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