こひすてふ。

ヲトブソラ

こひすてふ。

こひすてふ。


 怠く生温い身体を半分だけ起こして、カーテンの低い彩度と輝度に染められた部屋を見渡してみる。テーブルに放ったらかしにされた緩い炭酸になったお酒の缶。頭を重力に任せて枕に沈め、目を閉じ、耳を澄ませた。聞こえるのは私の心音と呼吸音、鼓膜が音を探す、音。いつの間にか同じ空間にまた君がいない。確か、この辺りに……と、目を閉じたまま探り続けても見つからないものだから、結局、身体を起こしてスマートフォンを探した。


 画面に並ぶ、君の常套句。


 天井に向かって腕を伸ばし、欠伸をしながら乱れた髪をぐしゃぐしゃとかく。洗面所に行こうと手をついたシーツが気持ち悪く湿っているのだけれど、これが私の湿度なのか、君の湿度なのかも分からないのだ。昨晩、ベッドに入った時は君の右側で寝ていた。だけど、結局、朝方まで何度も激しく入れ替わったのだから、二人の水分が混ざっているのかもしれない。シーツに幾つかの君の抜け殻が落ちているのも気にせずベッドから降りると、足で踏み潰す、やさしい色合いの箱から覗かせた丸い不自然な色の連なりが、いつも通り減っていないと眺めてみる。軽く「いいでしょ?」なんてひと言で始まる責任感の無さと、それを簡単に受け入れてしまう自分が馬鹿馬鹿しい。


 外は微熱を冷やすように空気が冷たく、跳ねた髪の毛にいやらしい程、風が絡みついてくる午前だった。階段を降り、昨晩、確認しなかったポストの中を覗いてみると、色欲の捌け口へ案内する広告と友人からの葉書が一枚。筆不精の彼女の手から、つらつらと書かれる文字には遠くない未来に、彼女の左手に光るものが見えた。白い空の下、鼻の高さまでマフラーを巻いた寒がりは、口許が見えないからと言い訳をして「ほんと、くそだな」と、みんなが知らない私の悪い子で友人を妬み、悪態を吐く。それだけでは憂さ晴らしが出来ずに悔しくなっていくから、我慢をする為に唇を噛んで、寒さに鼻をすすった。


 真っ赤な消防車のおもちゃを手に持つ男の子を左腕で抱え、右手はベビーカーを掴んで揺れる床に立つ貴女の姿が美しいと見惚れていた。君の常套句に対して何も言わない私と友人の今にも舞い出しそうな文字に悔しくなるような私が、貴女のような美しさに憧れて良いのだろうか。さほど年齢も変わらないであろう、美しい貴女と私を比べるように周りを見渡す。しかし、そんな刹那すら無いのだと乗客達の視線が言っていた。


「あ!ごめんなさいっ。ぼうっとしていて……ここ、どうぞ使って下さい!」


 ありがとうございます、と、優先スペースに我が物顔で滞在していた私に向けられるやさしい声と感謝の言葉。それ以外は、私に向けられていなくて、それどころか、美しい貴女の心すら向いていないのかもしれない。声と言葉以外の全てが二人の子どもに向けられているように思う。申し訳なく移動する私を、赤い消防車の男の子が無表情に何かを言っていた。その視線が、表情が、私の心を何度も、執拗に刺してくる。美しい貴女と子どもに見惚れ、君を思い出して重ねて、あわよくば自分にもこの光景を期待しているなんて、口が裂けても言えないなんて、情けない。


 東から西に流れていく町を眺めながら『付き合っているのは黙っていて欲しい』と、君に言いつけられている理由を考えるのが日課になっていた。揺れる吊り革を見ながら、また考える。私が言わなくても噂は立っているというのに、それすら『否定していて欲しい』と言った理由も考える。これも大好きだ。


 それから出る答えは、だいたい、毎日、同じ。


 叶わないなら、何もかも全部、滅茶苦茶にしてから、踏み躙るように壊す。


 覚えていない程、記憶が溶けている町が流れて、形を記憶している町に速度が落ちていくと扉の前に立った。美しい貴女と腕の中の男の子、ベビーカーですやすやと眠る女の子を直視出来ないから横目で見る。すると素敵な笑顔で貴女が「ありがとうざいました」と言うのだから、ときめいてしまった。今の私と貴女、変わって欲しいと馬鹿馬鹿しくも強く想う程にときめいてしまったのだ。そのときめきが嫉妬に変わっていき、そいつが暴れ出しそうになって足元から震えだす。しかし、その感情もまた、情けないと思わせるように左腕の中から無表情を刺す男の子が、不器用に赤い車を三回振ったのだから、私も「ばいばい」と返して、丁度、開いた扉から滅茶苦茶に踏み躙るような事をする前に逃げ出した。


 親子を乗せた騒音が去っていく。立ち尽くして、俯いていた私をトートバッグに雑に入れた友人の葉書が睨んでいる。選択する覚悟をうやむやにして、ずるずると叶わない期待と求められる悦びに浸る生温い身体と、熱さをもった重たいお腹の中に、昨日の君が残っている。


おわり。

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こひすてふ。 ヲトブソラ @sola_wotv

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