第95話:兵士と戦いの体裁
「熱っちぃな……だども……まぁ、火傷するってほどじゃぁねぇべ! 下の方はどうだぁ?」
「こっちゃ、
帝国本陣に向けて、崖を登り始めたオーク兵たち。
初手、攻撃とは思えない、お湯の直撃を受けた前衛は、怯まずにそのまま突き進む。
周辺の後詰が浴びた飛沫に至っては、もはや熱湯でもなく、文字どおりただのお湯だ。
──お湯? この後に及んで何のつもりやねん……。
シニーは、その無意味にも見えるお湯の飛沫を見つめながら思案する。
温かいお湯に触れると、少しばかり寒さが和らぎ体も温かくなった。
「ひとっ風呂浴びて、いい汗かいたって感じだべ?」
「んだなぁ」
オークたちは、鼻歌混じりに崖を登っていく。
人間をはじめとした恒温動物の多くは、体温調整のために汗をかく。
汗は体温を一定に保つため、皮膚の上で蒸発する際に熱を奪って温度を下げる。
この時に奪われる熱を気化熱と呼ぶ。
暑いとき、運動したときに汗をかくのは、この気化熱による体温調節が一つの目的だ。
故に、体温を下げる必要のない寒い場所で、そうそう汗をかくことはない。
何かしらの運動で体内に熱が生じるか、瞬間的に大きな熱にでも触れない限りは……。
──いい汗……!? いや! あかん!
「自分ら! 一回戻りや! その辺でお湯浴びた奴も、全員や!」
この寒い環境下で汗をかくことは、必要以上に体温を下げることになる。
ましてや濡れた衣服を纏うなど、低体温症のリスクでしかない。
いかに屈強な戦士でも、瞬く間に熱が奪われ、体調不良に陥ることは免れないだろう。
そんな状況で、もし吹雪に見舞われでもすれば、どうなるのか?
その答えは……。
「さぁ、ちょいと手加減してやっておくれよ……──我が声に応えよ、凍て付く氷、吹き荒ぶ風、冬の訪れ、閑かに眠れ、
──ちょっとだけね──
──うん、ちょっとだけ──
レミィの耳に、なにかキラキラという音が聴こえたような気がした。
先ほどまで穏やかだった空は暗転し、辺り一面に氷雪が吹き荒れる。
「な、なんやねんこれ!? こんな……これも魔法なんか?」
自分が見たこともない、予想外の現象にシニーは呆然とするしかなかった。
アズリーの扱う秘伝魔法とは、また一味違うリィラの魔法。
まるで、厳しい冬の訪れを再現したかのような……。
「これが、精霊魔法さ」
発動起点から円形に大規模な氷の嵐を発生させ、冷気と氷の礫で敵を討つ攻撃魔法だ。
主なダメージは、冷気による重度の凍傷と氷の礫による殴打。
範囲内であれば、敵味方の区別なしに、その影響を受けることになる。
基本的に、味方を巻き込んで撃つようなことは滅多にないだろう。
ここでリィラの唱えた魔法は、この辺り一帯を巻き込む大規模な範囲魔法……。
「ぬー……これと言って、変化を感じられんのじゃが……」
「まぁ、姫君は寒さに強いらしいからねぇ」
だが、吹雪こそ顕現したものの、害を及ぼすほどの冷気や氷の礫は見られない。
少し、いつもより冷えるといった程度だろうか?
レミィのように環境の変化に強い者には、なんの影響もないだろう。
いや、それで充分なのだ。
「あばばば、シシ、シニーのだだだ旦那……ちょ、あのさささ寒、寒……」
「きゅ、急に吹雪い……つ、冷た……」
崖を登ろうとしていたオークたちが寒さに震え、動きを止める。
最前線たる極寒の地で、永きに渡り戦い抜いてきた屈強な兵士たち。
本来ならば、彼らがこの程度の寒さに屈することはなかっただろう。
そう、あの時お湯を浴びていなければ……。
「クソッ……天候操れるとか……おかしいやろ……」
ただのお湯を用いることで油断を誘い、そこから体温を奪う策略。
ギリギリのところで察したシニーは、全軍に一旦撤退を命じる。
だが、時既に遅し……。
矢継ぎ早に放たれた魔法が、即座に兵士たちの体温を奪っていく。
もちろん汗ひとつかいていない帝国側の兵には何の影響もない。
開戦初手の攻防は、リィラの方に軍配が上がったようだ。
「どうだい? 誰も傷つけずに、出鼻を挫いたよ?」
「はやぁ……見事なものじゃのう……」
「喝! これしきの気候変動で、我を止めること叶わじ!」
「チッ……自分だけ動けても意味あらへんねん……クソがっ!」
自らの采配ミスを棚に上げ、シニーはアジムに八つ当たりする。
僅か瞬刻の間に、たかがお湯で前衛の大部分が無力化されてしまったのだ。
その怒りたるや、想像に難くない。
──次の一手、考えな……シャレならんで……。
白夜の魔女は、慎重に、的確に、追い詰めてくるだろう。
シニーは脳内で、さまざまな試行錯誤を繰り返す。
そんな彼を嘲笑うかのように、さらなる次の一手が戦場を塗り替える。
「そろそろ頃合いだね……さぁて、出番だよ!」
軽く周囲の状況を確認すると、リィラは崖の上から大きな声で号令をかける。
その間にも、体の冷え切ったオークたちは、一旦少し退きながら態勢を整えていた。
──まぁ、相手さんもクソ重たい鎧着て、あっこから飛び降りるとかはないやろ。
考えられるのは、投石や弓矢での遠隔攻撃だ。
「盾構えときや! 上からの攻撃に注意せぇ!」
「……上じゃあねぇんだよな、これが……」
その声はすぐ近く……耳元で囁かれた。
恐怖に青褪めたシニーは、それを振り払うかのようにその場から飛び退く。
「なんや!?」
視線の先、そこに立っていたのは銀髪褐色の大男、ラーズだった。
「破ッ!」
「おっと……いい反応見じゃあねぇか……そこのエルフよりゃあ楽しめそうだ」
本隊に突如現れた大男に対し、アジムはすぐさま拳を繰り出し迎撃する。
と、その巨体に見合わぬ身軽な動きで、ラーズはひらりと攻撃を躱した。
「
「俺かい? 俺は、神聖帝国グリスガルド皇女……レミィエール・フィーダ・アズ・グリスガルドが専属騎士、ラーズ・クリードってんだ、宜しくな」
「ブルトガルド決死隊……豪胆族が族長の息子、アジム」
互いに一定の距離を保ったまま、所属と名を明らかにする。
既に臨戦体制のアジムに対し、ラーズはこれといった構えもとっていない。
「何呑気に名乗りあっとんねん! こいつ単独で突出しすぎや!
崖の上にある帝国軍本陣からは、動きがない。
まだ籠城を続ける所存だろう。
先の号令は、奇を
少なくともシニーたちには、そう見えていた。
「単独? そう思ったのかい?」
ラーズは不敵な笑みを浮かべ、そう呟いた。
その直後、周囲に現れた複数の影……何者かがオークたちを取り囲む。
「
「なんやこいつら!? どこに
刹那、辺りの木から、草叢から、雪の中から、至る所から帝国兵士が姿を見せる。
「皇女騎士団参上! オーク軍の諸君、上ばかり見ていても何も起きないぞ!」
「さぁ、戦友よ……今日ここで決着をつけよう」
帝国軍本陣を取り囲んでいたはずの、オーク軍ブルトガルド決死隊。
彼らは、いつの間にか、逆に囲まれるような形に追い込まれていた。
立ち塞がる脅威は不気味な装備の、あまりに異質な戦士たち。
顔には泥を塗り、薄汚れた革鎧を身に纏う、およそ帝国兵士らしからぬその姿。
その手には剣も盾もなく、紐の両端に分銅がついた妙な武器だけが握られていた。
騎士をはじめ、国に仕える兵士という者は、総じて戦いの体裁を気にする傾向にある。
その最たる例が、無駄にプライドの高い帝国兵士たちだ。
──しょうもない“騎士道精神”に縛られて、馬鹿正直に前から来よるやろ。
過去の前例から、シニーはそう高を括っていた。
だが、その考えは甘かったようだ。
勝つために、被害を最小限に抑えるために……。
レミィの元に集った帝国兵士たちは、そんな体裁など簡単に投げ捨てた。
そして木の上に、草叢に、雪の中に、擬態し身を潜め、機を狙っていたのだ。
まるで、雇われの傭兵団のような、泥臭い戦術。
「んなアホな……こんなどこにでもおるような普通の兵士が……どうやって隠れとってん!?」
それはもっともな疑問だった。
人は誰しも、大なり小なり得手不得手というものがある。
戦闘訓練しか受けていない者が、隠密行動をとるというのは容易なことではない。
ましてや、大自然の中でこれだけの人数が一度に隠れるなど……。
「その疑問には、騎士団長の私が答えよう! この装備には周囲の景色に溶け込むよう、幻術の術式が刻まれているのだ」
「さらに、土の精霊と火の精霊の力を借りて、この寒さの中でも体温を奪われないよう調整する仕組みも備わっている」
「む、私のセリフが……」
シニーの言葉に対し、騎士団長と大隊長は得意げに応える。
この装備こそ、ブルードが精霊の力を借りて作り上げた、新たな
「そんなもん……いつの間に……」
敵勢力の状況が正確に把握できていなかったシニーは、悔しさを滲ませつつ絶句する。
その間にも、帝国兵士たちは、次々と手にした武器でオークたちを無力化していった。
この武器の名はボーラ……紐で絡め取った相手を無力化するだけの非致傷武器だ。
既に寒さで動きが緩慢になっていたオークたちは、為す術もなく捕えられていく。
「さぁ、無駄な争いはここまでにしよう!」
「ああ、レミィエール皇女殿下の名の下に……この紛争を終わらせるぞ!」
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