第2節:子どもへの愛っ♪

 

 今、私は何もかもが分からない状況に置かれている。


 ここがどこなのか、何をすればいいのか、なぜこのようなことになったのか?


 その原因というか、鍵を握っているのはおそらく椎谷さん。わずかに交わした会話の中から察するに、事の発端は昨日に彼とおこなったやり取りにあるらしい。


 その内容は、確かこんな感じだったと思う――





 夕方6時を少し過ぎた時、両親が経営している小規模保育施設につばさちゃんのお母さんが迎えにやってきた。だから私は翼ちゃんの手を引き、出入口へ連れていく。


 彼は3歳の男の子で、ご両親とともに近くのマンションで暮らしている。ちょっと腕白なところもあるけど、みんなを気遣うことが出来る優しい子だ。


 そして現時点でうちが預かっているのは彼で最後。ほかの子たちはご家族への引き渡しが済んでいるから、これが終わればひと息つける。


「軽羽お姉ちゃん、さようなら!」


 出入口のドアのところでこちらへ振り返った翼ちゃんは、満面の笑みで手を振ってきた。なんて健気で可愛いのだろう。


 私は思わず頬を緩め、軽く屈んで彼と目線の高さを合わせる。


「はい、さようなら。ポンポン出して寝ないように気をつけるのよ?」


「はーい♪」


「いいお返事ですっ!」


「ねぇねぇ、偉いでしょ? 頭撫でて~っ!」


「もうっ、翼ちゃんは甘えん坊なんだからぁ」


 私は苦笑しつつも翼ちゃんの頭を優しく撫でてあげた。指や手のひらに広がるサラサラの髪の感触がとても心地いい。


 それに対して翼ちゃんは頬を赤くしてうっとりしている。



 …………。



 きゃぁああああぁーっ、その姿が超可愛いぃいいいいいぃ~っ!


 血液が瞬時に沸騰したような感じがして全身が熱い。心臓も大きく高鳴って収まらない。自然と呼吸も速くなっていくけど、彼や彼のお母さんに訝しがられるのはマズイのでそれは必死に堪える。


 ――あぁ、私の両親が保育士で良かった。そうじゃなければ、こんな幸せな瞬間を味わえないもんっ♪ 役得役得ぅ~っ!!!


 そんな感じで喜びを噛み締めていると、翼ちゃんのお母さんが穏やかな瞳で私を見つめてくる。


「軽羽ちゃん、いつも翼の面倒を見てくれてアリガトね」


「いえ、私は子どもが好きでやっているだけです。特に翼ちゃんは可愛いしっ☆」


「うふふっ、それじゃまた明日」


「はい、お疲れ様です」


 私は翼ちゃん親子の姿が見えなくなるまで、出入口のところで手を振りながら見送った。翼ちゃんは途中で何度も振り返って、その度に天使の笑顔で小さな手を振ってくる。なんて健気で無垢で可愛いんだろう。


 こんな幸せで平和な日々がずっと続けばいいな……。


「さてっ、宿題やらなきゃ」


 私は大きく伸びをすると、出入口を閉めてドアのロックをした。そして保育士の椎谷さんへ報告をしに事務室へ向かおうとする。


「ッ!?」


 ――その時だった。


 私は不意に目まいがして世界がグルグル回るような感覚に陥る。バランスが崩れていくのは分かっているのに、足に力が入らないッ!


「……く……っ!」


 私は咄嗟に近くの壁に両手をつき、倒れることは辛うじて免れた。ただ、心臓は異様なくらいにドキドキして未だに収まらない。全身から冷や汗も吹き出ている。足もガクガク震えたまま……。


 こんな状態になるのは初めてだ。無理しすぎなのかな?


 確かに学校から帰ったら子どもたちの世話で忙しいし、宿題や勉強などはそのあとにやらなければならないから深夜まで起きていることがほとんどだ。だから同年代の平均睡眠時間の半分くらいしか寝ていないことが多い。最近は異様な疲れを感じることも増えた。


 まさか私の体に何か大きな異変が起きてたりして……。


「ははは……た……たまたまだよね……きっと……」


 私は苦笑いをしながら自分にそう言い聞かせる。


 ――うん、大丈夫。子どもたちと接していて興奮しすぎただけだと思う。ただ、ちょっと気をつけないといけないのは確かかも。


 私は誰もいなくなった託児室の中で、椅子に座って心と身体を落ち着かせた。あまりに顔色が悪いままだと椎谷さんや両親に変な心配をかけちゃうかもしれないから。


 それにもしそんなことになれば、子どもたちと一緒にいられる時間だって減らされちゃう。それだけは絶対に嫌だっ! お子様成分が不足することこそ私にとっての地獄だしっ!


 ただ、幸いなことに数分くらい休むと体はすごく楽になり、私はホッと息を吐いたのだった。やっぱり大したことはないんだ。たまたまだったんだ。



(つづく……)

 

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