第6話

『激しい雨が降る』

海原翔太

 真っ黒な煙が空高く上り、真っ赤な炎が燃え上がる家の中から消防士が少女を運び出す。大火傷を負った少女の真っ黒い体を救急隊員が担架で救急車に運び込む。前へ前へと人だかりを押し出す野次馬達が後から後から押し寄せてくる。警察官が警笛を鳴らし、火災現場の騒ぎを静めようとしている。僕は救助された救急車の中の少女の真っ黒に焼け爛れた左腕が担架の脇からだらりと垂れるのを見る。僕の頭の中にはアフリカの太鼓音楽が流れ、火災現場の騒ぎの中で大勢のアフリカの黒人達と共に雨乞いの踊りを見えない体を盛んに動かして踊る。消防士が燃え盛る家の炎の中へと入っていく。消防士が入って直ぐに大きく家が崩れる。大勢の野次馬達がそれを見てどよめく。消防隊員達は消火活動を続ける。僕は構わず雨乞いの踊りを見えない体で踊る。真っ黒な夜の空に雷の轟きが響き渡る。野次馬達の騒ぎ声が明るい声に変わる。空を見上げる僕の顔に雨の雫がぽつりぽつりと落ちてくる。僕は雨の神様が本当にいた事を喜ぶ。火災現場に大粒の雨が降り始める。燃え盛る家と火災現場にいる人々を激しい雨が叩き付けるようにずぶ濡れにしていく。僕は激しく降り続ける雨を全身に受けながら、その雨音を聴き、火事で家を失った家族の事を思う。野次馬達の中には僕と同じ小学校の生徒らもいる。塾からの帰宅途中の僕は火災現場から歩いて家へと向かう。燃え盛る家の真っ赤な炎と黒い煙が僕の眼に焼きついて消えない。僕はどしゃ降りの雨の中を全速力で駆け出す。雨に打たれながら走る僕の眼には賑やかで楽しい夜の祭りの情景が浮かんでいる。


「お母さん、俺、また小説書いたよ」と俺は居間に入って言う。

 母と坂家が一緒に振り返り、「あらっ、あなた、お客さんがいらしてるのをほったらかして小説なんか書いてたの」と母が俺を穏やかな顔で叱る。

「ええ!あたしにも見せて見せて!」と坂家がすっかり元気になって言う。

 お客を持てなす事の方が小説を書く事より偉いのか。俺は折角小説を書き上げた事を母が喜んでくれない事にがっかりする。

「じゃあ、一寸見せてみなさいよ」と母が俺の方に手を伸ばす。何だ、結局見るのか。俺は機嫌を取り直し、「はいよ」と言って、母に出来立ての小説の原稿を手渡す。

「坂家、すっかり元気になったみたいだな」

「うん。海原君のお母さんとお話してたら、気分がすっかり晴れてきたの」

「なら、何時でも家に来て、お母ちゃんと話せば良いよ」

「うん、ありがとう。そうするわ」

「坂家が本読んでるなら、俺は坂家の童話でも読むかな」

「うん、読んだら感想教えてね」

「うん」と俺は笑顔で坂家に返事をし、部屋に坂家の童話が書かれたノートを取りに戻る。右目から涙が一筋流れる。何だ、この涙はと不思議に思いながら、右手の人差指で涙を拭い、机の上の坂家のノートを手に取る。坂家の童話のタイトルは『ミセス・ミラーと春の庭で』である。俺はノートを開いて坂家の童話を読みながら、居間に戻る。

「へええ、坂家さんは精神疾患の本まで読んだの。お父さんお母さんの病気を一生懸命理解してあげようとしてるのね。偉いわねえ」

「母は気分が重くなると部屋に籠りがちになって無口になるぐらいなんですけど、父の方の事が全く判らなくて、父が盛んに話す霊が私には何も見えないし、聞こえないんです」

「あたしもその辺の知識は全くないから何とも言えないんだけれど、そうねえ、本を読んで勉強するぐらいしか御両親を理解する方法はないかもね。お医者様とはお話ししたの?」

「時々父と母の診察について行って、先生に質問とかしてみるんですけど、両親の気分が優れない時はそっとしておいてあげなさいって言われるぐらいで、病気の事については余り詳しくは教えてもらえないんです。父も母も機嫌が悪い時はお前は部屋に行って勉強していなさいって言うばかりで」

「それで坂家さんは成績優秀な訳ね」

「いえいえ、成績優秀だなんて!」と坂家が恥ずかしそうに俯いて言う。

 俺は二人の話し声を何となく聞きながら、坂家の童話を読んでいる。どうやらミセス・ミラーとは鏡に映った化粧をして着飾った主人公の少女自身であるようだ。坂家の童話の完成度は信じられない程レヴェルが高い。俺は読みかけの坂家の童話のノートから視線を上げ、「坂家は童話とかよく読むの?」と坂家に訊く。

「図書館で毎週借りてくる本の五冊中の二冊は必ず童話よ」

「何冊ぐらい童話を読んだの?」

「まだ五十冊ぐらいかな」

 五十冊と聞いて驚いた俺は坂家の顔を見つめたまま言葉も出ない。

「あたしはヨーロッパの童話が好き。図書館の童話のカウンターに行くと国別に童話が分けて置いてあるの」

「へええ。それって外国語で書かれてる童話なの?」

「ほとんどが日本語訳よ」

「ふううん、なら、俺にも読めるな」

「童話に興味あるの?」

「俺も童話を書いてみたくてさあ、その前に何作か良いのを読んでおきたいんだ」

「明日、図書館に行ったら、あたしが良い本案内するわ。結構童話の数は多くて、あっ、でも、もしかしたら、男の子が好きな童話はあたしが好きな童話とは違うかも」

「善いお友達を持ったわね、翔太は」と母が俺の小説の原稿を読みながら、俺に言う。

「うん」

 俺は思わず母に坂家が俺の結婚する相手だと打ち明けようとした。それを寸前で思い止まる。俺は再び坂家の童話の続きを読む。

「翔太、小説良く書けてたわよ。この調子なら、中学生ぐらいになったら、早くも長編小説を書きそうな成長ぶりね」と母が俺の小説の原稿を食卓の上に立て、音を立てて紙を整えながら言う。「ああ、坂家さんも読む?」

「ああ、はい」と坂家は笑顔で言い、母から俺の小説の原稿を受け取る。

「ああ!坂家、忘れてたよ!明日はお祖父ちゃんが車で迎えにきて、明日からずっとお祖父ちゃん家に泊まるんだよ。だから、図書館には今日行けないかな」

「ああ、良いわよ」

「坂家さん、翔太の留守中にも家に遊びにきて良いからね」

「はい。でも、あたしも夏休みの間は転校していった友達の家にお泊まりするんです」と坂家は母に言うと、「じゃあ、あたし、借りてきた本をまだ読んでないんだけど、今日、海原君を図書館に案内するわ」と坂家が俺に言う。

「ありがとう。じゃあ、行こう!」と俺が言って立ち上がると、坂家も直ぐに立ち上がる。


「二人共気をつけて行くのよ」

「はあい!」と俺と坂家が母に返事をする。

「海原君、保険証忘れないでね」と坂家が俺に言う。

「保険証が身分証明でいるのね」と母が言い、保険証を箪笥から出すと、「はい、保険証」と俺に言って、保険証を俺に手渡す。坂家と俺は玄関で靴を履く。

「保険証なくさないようにね」と母が俺に注意する。

「はあい!」と俺は返事をし、坂家と共に家を出る。

「港で自転車借りよう!坂家を後ろに乗っけていけば、かなり時間も短縮出来るだろう」

「海原君、自転車に乗れるの?」

「一年の時にお前も習ったろ?」

「あたし、怖くて最後まで乗れなかったの」

「坂家にも苦手なものはあるって訳だな」

「そりゃあ、あるわよ。人間だもの」

「人の自転車の後ろに乗るのに特別な才能はいらないよ。ただ運転手の腰にしがみ付いてりゃ良いだけだ」

「あんまりスピードは出さないでね」

「自転車乗ってる時の風が良いんだよ。それをお前も経験しろ」

「でもほんと、あんまりスピードが早いのは苦手なの」

「判った。判った」

 俺達は港まで坂を下りると、俺一人倉庫に入っていき、「おばちゃん、隣町の図書館に行くんで、自転車貸してもらえませんか?」とおばちゃんに訊く。

「そこに幾らでもあるから、好きなの選んで使いなさい」とおばちゃんが言う。俺はおばちゃんから黒い自転車を一台借りる。

「ありがとうございます」と俺は自転車を貸してくれたおばちゃんに礼を言い、倉庫の外で待つ坂家の前まで自転車を引っ張っていく。俺は自転車に跨り、「乗れよ、坂家!」と坂家に言い、坂家が荷台に乗るのを待つ。俺は坂家が後ろに乗るとゆっくりと自転車を漕ぎ始める。

「お前、いつも歩いて隣町の図書館まで行くのか?」

「そうよ。ねえ、もう一寸ゆっくり走ってくれない!あたし、怖いの」

「遠慮せず俺の腰にしがみ付いてろよ」と俺は言い、全速力で自転車を漕ぐ。坂家は力一杯俺の腰にしがみ付き、悲鳴を上げる。俺はその様子が面白くて大笑いしながら、自転車を漕ぐ。

「坂家!図書館に俺を案内するのを忘れるなよ!」

「もう一寸、スピードを落としてよ!」と坂家は怒鳴り、また悲鳴を上げる。「海沿いに真っ直ぐ進めば、図書館への案内看板が見えてくるから!」

「判った!」

 俺は坂家を後ろに乗せて自転車を漕ぐ幸せを胸一杯に感じている。坂家が知っていて、俺の知らない場所がある。相手の知らない世界をお互いに教え合えば、俺達の世界は急速に広がっていく。本に対する関心から市の図書館まで独り足を伸ばした坂家。俺とは違う事をして時間を過ごしていた坂家の姿が今にも目に浮かんできそうだ。坂家は今、俺の自転車の後ろで俺の腰にしっかりとしがみ付き、悲鳴を上げている。坂家には遂此間付き合い始めたばかりの友達とは思えない程深い親しみを感じている。俺達の友達としての挨拶はまだまだ終わっていない。俺は胸のうんと奥深いところからずっと坂家を思っている。坂家と二人で一緒にいる時間はとても楽しい。俺が心の奥の方から求める坂家との距離感はまだまだ十分な近さにはない。もっと坂家の近くにいたい。どこまでも坂家のために心を開いて、坂家の存在がくっきりと判る程にくっ付いていたい。本当の俺はもっと坂家の事を知っているんだと思う。俺の中には坂家との事をよく知る神様がいて、その神様を呼び出す事さえ出来れば、俺達の全ての過去、生まれる前の全てを思い出す事が出来るのだ。生まれる前はその神様と一つだったのだと思う。何時だったか、幼稚園の裏の神社で啓司と一緒にお賽銭を入れて手を合わせた時、大きな神様が俺の心と体を被ってくるような不思議な経験をした。水木しげるの漫画に描かれた、死ぬ瞬間にすうっと体から抜け出る魂を見た時、俺は自分の中には魂と言うものが存在するのだと信じる事が出来た。明るい海岸沿いの二車線の道路の左側には民家が建ち並び、時々病院やら薬局やら酒屋が点々と現われる。子供が関心を示すような店は一軒もない。

「ほらっ!図書館の看板が見えるでしょ!」と坂家が大声で言う。

「ああ、うん!」

「そこを左に曲がると図書館があるの!」と坂家が楽しげな明るい声で言う。

「判った!」

 俺は海沿いの道から左に折れ、図書館の白い建物の前に自転車を停める。

「うわあ、学校の図書室よりうんと大きいなあ」

「童話は直ぐそこの棚よ」

「俺、ずっと学校の図書室にある偉人の自伝や伝記を読んでたから、童話は今まで一冊も読んだ事がないんだ」

「海原君の尊敬する人物って誰?」

「リンカーンとか、ガンジーとか、沢山いるけど、やっぱりアントニオ・猪木かなあ。坂家の尊敬する人物は誰?」

「あたしは樋口一葉」

「樋口一葉、知らないな。でも、やっぱり生きてる人の影響力は強いよな。アントニオ・猪木程の力があれば、仏陀にもキリストにもなれるよ」

「海原君ってそういう事まで考えるのか。ううん、なら、樋口一葉は・・・・。でもさあ、神様や仏様になるような人って現代にもいるのかな?」

「その辺に関しては何とも言えないんだけど、何時かは山の中に籠って修行を始めないといけないだろうな」

「へええ、そうなんだ。レインボーマンみたいね」

「ああ、『インドの山奥で、修行をして~』だよな。あの歌は大好きだよ」

「海原君っって宗教は何を信じてるの?」

「宗教?知らない。何処にも入ってないんじゃないの」

「家は日蓮宗」

「へええ、そういうのちゃんと入ってる家なんだね」

「お祖父ちゃんのお葬式の後にお母さんが南無妙法蓮華経を唱え始めるようになって、何か一時期はお坊さんがいるみたいな家になってたんだけど、それからお母さん、鬱になっちゃって・・・・」と坂家は言い、右手の人差指で目許に触れる。

「家はお祖父ちゃんもお祖母ちゃんも四人共まだ生きてるんだ。でも、一応お母ちゃんには訊いてみるよ」

「別にそんな事何にも気にしてないよ。だけど、家が普通なのか、おかしいのか、人んと比べないと、あたし、全く判んないの」と坂家が慌てたような口調で言う。

「それは誰でもそうだろう。でも、自分が育った家の習慣が自分にとっては一番普通だろ?」

 坂家は何の返事もせずに童話の棚を見始める。変な奴だ。俺が一生懸命真面目に話してるのに何だ!物凄く嫌な気持ちがする。

「何か童話って、大人の思う子供のために書いてるんだろうけど」と坂家が暗い声で呟くように言う。

「うん」と俺は影に覆われたような暗い坂家の襟足を見ながら言う。

「何でもない」と坂家は話し始めた話を途中で止め、「童話なんて読まないで小説を読もうよ」と言う。坂家は一人で小説の置いてある棚の方へと歩いていく。

「坂家、俺に良い童話紹介してくれるんじゃなかったのかよ」

 坂家は何も答えず、小説の単行本を手に取り、棚の前で立ち読みする。

「坂家、お前、今日、何かおかしいぞ」

「これが本当のあたしなの」

 俺は坂家の態度に腹を立て、海外小説の棚の方へと歩いていく。親しい仲にも礼儀ありって諺ぐらいがり勉の坂家なら知っているだろう。何て不愉快な奴だろう。今の俺には図書館に来てまで読みたい本なんてないよ。俺は宗教書の棚の方に移る。そこに坂家が偶然いるのを見て、「坂家、俺、こんな遠い図書館まで来て、借りてまで読みたい本なんてないよ」と坂家に言う。

「あたしも今日は全く本選びに集中出来ないの」

「そうか。じゃ、帰ろうか?」

「ううん、一寸この本、もう少し読んでから。帰りたければ、一人で帰ってくれても良いのよ」

「何だよ、その言い方!俺は来た時と同じようにお前を自転車に乗せて帰るんだよ!」

 坂家は本を落とし、しゃくり上げるように泣き始める。

「どうしたんだよ、坂家!」

「もうお家に帰りたい!」

「なら、俺が自転車で送ってやるから今直ぐここを出よう」と俺は言い、泣いている坂家の手を引いて図書館を出る。ハンドルを握った俺の自転車の後ろに坂家が乗るのを確認すると、俺は自転車を漕ぎ始める。

「ゆっくり運転してよね!」

「猛ダッシュで走る!」と俺は言い、可能な限りのハイスピードで自転車を漕ぐ。坂家は大声で悲鳴を上げ続ける。突然坂家の悲鳴が止まる。坂家の手はしっかりと俺の腰に巻き付いている。俺の両眼から不意に涙が零れる。坂家の心が壊れそうになっているのをずっと気にかけていたのだ。自分ではどうしてやる事も出来ない。俺は自転車の速度を下げ、のろのろと蛇行運転をする。坂家が突然楽しそうに笑い出す。

「坂家、俺に用がなくても、家の母ちゃんに会いたい時は好きな時に会いにきて良いんだぞ」

「うん。あたし、海原君のお母さん、大好きよ」

「そうか。良かった」

「海原君、あたしの童話を読んでから童話を書こうと思ってるの?」

「子供が童話書くのって、小説書くのとどう違うのかな?」

「ああ、なるほど。確かに子供が小説を書いたら、それが本当の童話よね」

「家に帰れば、多分、お母ちゃんがカキ氷作ってくれるよ。坂家、カキ氷好き?」

「夏はやっぱりカキ氷よね。カキ氷は好きよ」

「そうか。じゃあ、このまま真っ直ぐ俺ん家に行こう!」

「うん!」

「その中、坂家の家にも入ってみたいな」

「お父さんもお母さんも気持ちにゆとりがないから、乱暴な言い方して追い出すかもしれないの。だから・・・・」

「そんな事構わないよ。坂家のお父さんお母さんなんだからさ」

「なら、今度来てみる?」

「うん」

「あたしね、病気になっておかしくなってても、お父さんお母さんの事が大好きなの」

「自分の産み親なんだから、それは当然だろ」

「うん!そうよね!絶対そうよね!そう言うもんだとずっと思ってた!」と坂家が転がるような楽しげな声で言う。俺も釣られて笑い、

「あんまり自分の事までおかしいなんて思うなよ」と坂家に注意する。

「うん」

 俺は港の倉庫に自転車を返し、坂家と歩いて坂を上る。家の玄関に入り、後ろを振り返ると、坂家が玄関の外で立ち止まっている。

「坂家、どうした?」

「うん、別に何でもない。ただ一寸海原君がね、私が本当にいるのかどうか振り返って確認するか確かめたかったの」

「じゃあ、俺はちゃんと振り返ったろ?」

「うん」と坂家が笑顔で俺の眼を見て返事をする。

「一緒に家に入ろう」

「うん」と坂家は明るい声で返事をする。

「ただいま!」と俺が家の中に声をかけると、坂家は俺の右隣に並び、二人で家の中に入る。

「ああ、お帰り!」と母が居間の卓袱台のところで読んでいた本から顔を上げて言う。「本、何借りてきたの?」

「隣町の図書館まで行って、借りて読みたい本なんてなかったよ」

「坂家さんも疲れたでしょう?今、カキ氷作ってあげるわね」

「あたしもカキ氷作るの手伝います!」と坂家が明るい声で母に言う。

「家にも女の子が一人いたら、台所に並んで一緒にお料理する事も出来たのにねえ。坂家さん、これからは気軽に家に遊びにきてね。翔太がいなくても、おばちゃんが坂家さんのお相手するからね」

「ああ、はい」

「坂家さんはおばちゃんのお気に入りのお友達よ。そういうの判ってくれてる?」

「あたしもおばさんの事大好きです」

「あら、嬉しい事言ってくれるわね」と母が坂家の細い肩に右手を回し、坂家の華奢な右腕を擦りながら、笑顔で言う。

 坂家といる母がとても楽しそうだ。息子、娘と、男の子と女の子のいる家庭の方が両親にとっては理想的な家族構成だったのかもしれない。今まで気づかなかった母の寂しさは、もしかしたら、坂家一人入れば満たされるものなのかもしれない。我家から広がる幸せなんて坂家と出会う前の俺には全く考えた事もなかった。そんな大それた発想は母と二人で一年の大半をこの家で過ごしていた頃には微塵もなかったように思う。もしかしたら、家というものは皆の物であるのが望ましいのかもしれない。多くの人達が集う賑やかな家庭をぼんやりと想像していると、母と坂家がカキ氷を卓袱台に運んでくる。

「はあい、カキ氷よ!夏と言ったらカキ氷よね」と母が楽しそうに言う。「それじゃあ、いただきましょうか」と母が声をかけると、皆口々に、「いただきまあす!」と言って、カキ氷を食べ始める。

「冷たくて美味しい!」と坂家が俺の顔を見て言う。

「ああ、鼻がつんときた!」と俺が鼻を摘んで顔を痛みに歪めて言う。

「ゆっくり食べなさい。焦って食べるから鼻が痛くなるのよ」と母がガキ氷を食べながら、俺に注意する。

「ただいま!」と玄関から父の声がする。母は玄関の方に振り返り、「あら、あなた、お帰りなさい!」と言う。

「おお、君は坂家さんだろ?」

「はい、そうです。お邪魔しています」

「おお、カキ氷か」

「坂家さんも手伝ってくれたのよ。あなたも食べる?」

「じゃあ、坂家さんが作ってくれたカキ氷を食べてみようかな」

「あ、じゃあ、あたし、今作ります」と坂家は言って立ち上がる。

「じゃあ、坂家さん、またおばちゃんが作るの手伝ってくれる?」

「はい」

「あなた、高湖書房さんから何時本が出版されるの?」と母が坂家といる台所から父に訊く。

「出版する事は決まったが、実際に本を出版するまでにはまだまだ長い時間がかかるみたいだよ。本を作るってのは大変な事なんだな。色んな人の協力があって、大変な思いをして一冊の本が出来上がるんだよ」

「何かあたしもそういう話を誰かの本のあとがきか何かで読んだ事があったな」

「翔太ももう少しショートショートを書いて作品が貯まったら、その内、本にして出版させてやるからな」

「本当!それなら俺、もっと沢山小説書くよ!」

「新人賞に入選するってのは並大抵の努力では実現しないんだ。自費出版の本が新人賞を取った本よりも劣るという訳でもない。自費出版っていうのは比較的自由な発想と内容を持った本を出版出来るメリットがあるんだ。有名な作家の中にも自費出版でデビューしたような作家が意外と多くいるんだ」と父ちゃんが機嫌良く自分の座布団の上に腰を下ろしながら言う。

「翔太の本を自費出版するなら、あたしの本もお願いしますよ!」

「勿論お前の本だってお前が出版したい原稿があるなら、そうしてやるつもりだよ」

「私は昔の原稿を本にして出版するつもりはないの。あたしもデビューするからには新しい作品を書くわ」

「おばさんの小説出来上がったら、私にも見せてください!」

「勿論坂家さんにも見せるわ」と母がはしゃいで言い、「はあい、カキ氷出来ましたよお」とご機嫌な口調で言いながら、カキ氷を卓袱台の父の席の前に置く。

「それじゃあ、坂家さん、カキ氷いただきまあす!」と父が眼を閉じて合唱しながら、楽しそうな声で言う。

 坂家と母も元のそれぞれの席に着くと、自分達のカキ氷を再び食べ始める。

「美味しいですか、おじさん?」と坂家が父ちゃんに笑顔で訊く。

「坂家さんの作ってくれたものなら、何でも美味しいよ」

「ああ、そう言っていただけると、何だか嬉しいです」と坂家は恥ずかしそうに言うと、頬を赤らめて、俯いてカキ氷を食べる。

「坂家さんも小説を書くんだってね」と父ちゃんが坂家に話しかける。

「ああ、あたしの小説は趣味で書いてるだけです」

「将来、小説家になろうとか、そういう夢はないの?」と父が無理して浮かべたような笑顔で坂家に訊く。

「そういう事は小説を書くのがもっと上手くなってから考えます」

「坂家さんは本当にお勉強がよく出来る子って感じがするわね」

「いえいえ、そんな」と坂家がカキ氷を掬ったスプーンを口の前で止めて言う。「家にいても本を読むか、小説を書くか、勉強するかぐらいしか他にする事がないんで、それで机に齧りついて勉強ばっかりするような事になっちゃうんです」

「それが将来きっと坂家さんのためになるよ」と父がカキ氷を食べながら言う。「学生の本分は勉強だからね。よく遊んで、よく勉強してなんて中途半端な勉強の仕方ではなかなか良い成績は出せるもんじゃないよ」

「教科書をじっくり読めば、試験で良い点を取るのなんてそんなに大変な事ではないんです。そういう風に要領を得て勉強し始めたら、勉強はそんなに大変な事ではなくなりました」

「おお!カッコイイな、坂家さんは!」と父が嬉しそうに言う。

「いえいえ」と坂家がカキ氷の山をスプーンで崩しながら、強張った顔付きで俯いて言う。

 坂家はカキ氷を食べ終わると、「御馳走様でした!美味しかったです!」と母に言う。

「あら、美味しかった?」

「はい」と坂家が笑顔で言う。

「それじゃ、夏の間、一人で家に遊びにきてる時にはまた一緒にカキ氷でも作りましょうね」

「はい」と坂家は明るく返事をする。坂家は読みかけの俺の小説を再び読み始める。

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少年はうねり輝いた 天ノ川夢人 @poettherain

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