第5話

 店の前に行くと、「あれえ?」と父ちゃんが建物を見回して言う。「確かここだよなあ」

「ああ、お店を改装したのね」

「ここ、今も喫茶店なのかな?」

「軽食って書いてあるわね。名前も『喫茶・爽快』から『軽食・こかげ』に変わってる」

 父ちゃんが店の窓から店内を覗く。

「いやあ、全く変わっちゃってるなあ」

「とりあえず、入ってみましょうよ」

「うん、そうするか」

 緑色の外壁の店内に入ると、冷房がよく効いていて、沢山絵画が飾られている。店内には九つ程のテーブル席がある。

「あのう、以前、ここ、『喫茶・爽快』って店でしたよね?」と父ちゃんが若い女の店員に訊く。

「ああ、二年前に改装して、店の名前も変えましたが、経営者は同じです」

「ここ、まだ、アーモンドのコーヒーはありますか?」

「ございますよ」

「ああ、それは良かった」と父は言って、店内の奥のテーブル席の方に進んでいく。「経営者は同じなんだってよ」

「でも、随分変わっちゃいましたね」と母が店内を見回しながら歩いて言う。「でも、流してる音楽は昔ながらのジャズね」

「元々はジャズ喫茶だからなあ。そこは変えてないんだな」

「本が一杯あるね」と俺が早速本棚を見つけて言う。

「席に荷物置いたら、見てきて良いぞ」

「うん。絵も一杯飾ってあるね」

「幻想的な風景画で一杯ねえ。ああ、どれも同じ人の絵よ。観葉植物も昔通り沢山置いてあるわね」

 父ちゃんは席に腰を下ろすと、安心したように大きな息を吐く。

「ああ、冷房がよく効いてて涼しいなあ。一寸歩いただけで汗でシャツがびしょ濡れだよ」

 席に腰を下ろした母は白いタオル地のハンカチーフで顔の汗を手早く押さえる。俺は椅子に本と漫画の入った紙袋を置くと、本棚の方へと歩いていく。

 知らない作家の本が店の左右に幅広く広がった天井まで高さのある本棚にぎっちりと並べられている。小説だけでなく、漫画や詩集もある。俺は本の多さに圧倒され、どれから手にすれば良いのか迷ってしまう。紀伊国屋書店では予め買う物が決まっていたから、全ての本が自分の前に立ちはだかるようには感じられなかった。俺は両親のいるテーブル席に黙って引き返す。

「何か良い本でもあったか?」と父ちゃんが俺に訊く。

「一杯あり過ぎて、こんなに沢山本があるのかって思ったら、うんざりしたよ」

「そうか。何に関しても始めはそうだ。タイトルと本の紹介文を読んで、興味のある本を一冊選び出すんだよ。始めから全部読もうとする必要なんてないんだ。生涯に一冊しか本を読まなかった人だっている。一冊ずつ丁寧に読んで読書を楽しんだら、出版社名も自然と憶えて、まだ知らない作家の名も書店や図書館の本棚を眺めている内に何となく憶えるもんだよ。次々本を読む習慣が付くようになると、その後はもう中毒だよ。可能な限りこの世の本を読みたいって思う人もいる。翔太は少ない読書で沢山作品を書く人になれば良い。翔太は書く人なんだからな。そうだろ?」

「うん」と俺は返事をし、武者小路実篤とロバート・A・ハインラインの本を見る。「新潮文庫とハヤカワ文庫・・・・」

「新潮社とハヤカワ書房って言う出版社だよ。一寸そのハヤカワの本を見せてごらん」

 俺は父ちゃんにロバート・A・ハインラインの文庫本を手渡す。

「ああ、なるほど。SF小説を買ったのか。冒険活劇やSFって言うジャンルの本に手を伸ばすような子は偏っているけれど、作家一人一人の全作品を読破するような纏まりのある本との付き合い方をするよ」

 俺は辞書で『ジャンル』と『読破』の意味を引く。

「その上、武者小路だろ?純文学だよ、そっちは。一寸武者小路を見せてごらん」

 父ちゃんは『武者小路実篤詩集』をぺらぺらっと捲って読む。僕は『純文学』の意味を辞書で引く。

「SFって、あたしダメ。何か作り物然としてて入り込めないの」と母が父ちゃんに言う。

「リアルなのもあるぞ」

「ああ、そういうリアルさは作品を却って重々しくさせるだけよ」

「SFの何読んだんだ?」

「『1984年』とか、安部公房のSFとか」

「ああ、『1984年』は暗い。『砂の女』はどう?」

「あれはSFじゃないわよ」

「ああ、そうか。いやあ、安部公房作品は好きかって訊いてるんだ」

「どっちかって言うと嫌い、かな」

「三島は?」

「三島と私じゃ全然違う価値観を持った人間よ」

「なるほど・・・・、そういう風に純文学作品と向き合う読み方もあるんだな」

「読んだ後の自分の中での整理が大切なのよ。私は自分の中で整理が出来てない内は他の本は読まないの」

「そうなると、気に入った小説は何度も読む訳だな」

「そうね。本を友達にするにも親友にまでなる本じゃなければ、浅い人間付き合いばかりになるわ」

「ううん」

「乱読は頭に悪いの」

「ううん」

「あなたは何か買ったの?」

「時代小説や歴史小説を見て回ってたんだけど、歴史上人物への目新しい視点がなくて、翔太用に山菜図鑑と料理の本を買ったよ」

「あら、翔太、良かったわねえ」とお母ちゃんが俺に顔を近づけて微笑む。「あなたも読みたい小説がなくなってきてるんでしょう?」

「ううん。長く小説を読んできて、俺は一体小説から何を得てきたんだろうって、何だか判らなくなってきてるんだ。本当に深みのある人間なんて小説家の中にはいないんじゃないかな」

「無理して読書なんてする必要ないんですから、少し本から離れてみたら?」

「うん、そうするよ。そういう時期なのかもしれない」

「いらっしゃいませ。ご注文は何に致しますか?」と女の店員が僕らのテーブルに来て、注文を取る。父ちゃんは俺の方に向けてメニューを持つと、「アーモンドのコーヒー一つ」と言い、「翔太は何にする?」と俺に訊く。

「じゃあ、あたしはアイスティー」と母が言う。

「僕はコーヒー・フロートとモン・ブラン」

「じゃあ、モン・ブランを三つお願いします」と父ちゃんが言う。

「アーモンド・コーヒーお一つとコーヒー・フロートお一つと、アイスティーお一つと、モーン・ブラーン三つ、以上で宜しいでしょうか?」

「はい」と父ちゃんが返事をする。

「かしこまりました。少々お待ちください」と女の店員は注文を取り終えると、僕らのテーブルから離れていく。

 俺はまた『友情』を読み始める。読書をしていると無性に小説を書きたくなってくる。『友情』は残り数頁で読み終わる。

「おお、辞書を小まめに引く習慣が付いたな。大人になったら、知らない言葉のない歩く辞書になるぞ」

「あたしも父に解らない言葉は直ぐに辞書を引いて調べなさいって言われ続けたけど、辞書が一寸離れた場所にあると、もう取りに立ち上がるのが億劫でね」

「俺は辞書を引く習慣を身に付けるために同じ国語辞典を三冊買ったよ」

「三冊も買ってどうするの?」

「手が伸びるところにあっちゃこっちゃ置いとくんだよ」

「へええ」

 俺は『友情』を読み終え、文庫本を閉じると、武者小路実篤が描いた表紙絵を眺める。

「父ちゃん、『友情』読み終わったよ」と俺は父ちゃんの方に顔を向けて言う。

「どうだった?」

「父ちゃんの若い頃みたいだった」

「父ちゃんの若い頃よりもっと昔の話だぞ」と父ちゃんは言って笑う。

「僕にとって昔の事は何でも父ちゃんの時代なんだ。何かゆったりとした気持ちで最後まで読めたよ」

「うん、そうだな。武者小路の作品には確かにそういう安心感がある」

「長編小説には幾つものショートショートが入ってるんだね。先ずは主人公を決めて、主人公に色んな事を生活の中でさせながら、色んな登場人物と関わらせて、お話の中心になる時間を主人公の人生から切り取るんだよね」

「ほう、それだけ得たなら、十分今回の読書には意味があった訳だな」

「読んでる間、物凄く小説を書きたかった」

「そういう時は本を読むのを中断して、思い付いた事や作品の構想をさらっと自分にだけ判るようにメモをしなさい」

 俺は『構想』の意味を辞書で引く。

「うん、判った」

「ああ、そうだそうだ。紀伊国屋で翔太用の創作手帳を買っておいたんだ。ああ、有った有った!ほら」と父ちゃんは紙袋の中から手帳を出して言い、黒い三冊の手帳を俺に手渡す。「日記帳も父ちゃんのと翔太のを一冊ずつ買っておいたんだ。ほら、翔太!」

 俺は父ちゃんが差し出した日記帳を両手で受け取る。

「手帳と日記帳は作家にはなくてはならない必需品だからな。日記帳に書く事と手帳に書きつける事を上手く使い分けなさい」

「どう言う風に使い分けるの?」

「父ちゃんは日記帳にはその日の出来事や考えた事を書く。それから自分の趣味の記録もする」

「趣味って?」

「まあ、読書や芸術鑑賞だな。その読書や芸術鑑賞の感想なんかを書くんだ。日記に必要なのは人間関係ばかりが重要である訳じゃない。どうでも良いような事を無理して書く必要はない。一日一日自分にとって一番重要だった出来事を書くんだ。考え事でも良い」

「手帳には?」

「手帳には創作に関する事や詩を書くと良い。翔太はきっと詩が書けるようになると思う。武者小路の詩集を読めば、詩とはどんなものかがよく判ると思う」

 俺はやらなきゃいけない事が増えて、うんざりしてしまう。

「翔太、日記や手帳は創作をするための道具だと思えば良い。今思い付いた事を忘れる前にメモしておく道具を持ってれば、必要とする時に便利だろ?」

「ううん」

「要らなきゃ、父ちゃんに返しなさい。父ちゃんは自分の未来の作品のために今の年齢の今しか判らない事を今の内にメモしておく事に使うんだ」

「そう言う事なのか。じゃあ、日記帳も手帳も貰っておく」

「翔太、父ちゃんがお前に教えたいのはな、全部大人の知恵なんだ」

「うん・・・・」

「判ったか?」

「ううん。僕はまだ子供だから、大人の知恵なんて貰っても、力がなくて使えないよ」

「翔太は図工で習ったような事を自分一人で続けて、粘土なら粘土作品、彫刻なら彫刻作品、写生なら写生作品をずっと作り続けたいと思った事はないか?」

「ない」と俺は面倒臭そうに答える。

「そうか」と父ちゃんが俺の顔を笑って言う。

「父ちゃんは?」

「大人になってからそういう事に興味を持ち始めたよ。学校の授業って、楽しみになる事を沢山教えてくれたんだなあってよく思うんだ」

「俺は勉強は嫌いだよ」

「まあ、そういうもんかな。父ちゃんも学生の時は勉強が嫌いだった。楽しみとして勉強するなんて発想は全くなかったよ。色んな事が絡み合って、段々勉強が嫌いになるんだ。本当にどうでも良い事は先生が付ける点数や成績なんだけどな」

 点数や成績がどうでも良い?一体何の事だろう?坂家が聞いたら、何て言うだろう。

「アーモンド・コーヒーお一つと、コーヒー・フロートお一つと、アイスティーお一つと、モン・ブラン三つで宜しかったでしょうか?」と女の店員が注文したものを運んで来て確認する。

「はい」と父ちゃんが姿勢を正して返事をする。

「コーヒー・フロートを注文されたお客様はどちら様でしょうか?」

「ああ、息子です」と父ちゃんが答える。

「アイスティーを注文されたお客様はどちら様でしょうか?」

「ああ、妻です」と父ちゃんが言うと、残りのアーモンド・コーヒーとモン・ブラン三つは確認なしに女の店員がそれぞれの席の前に置く。

「ごゆっくりどうぞ」と女の店員は言って、僕らのテーブルから離れていく。 

 僕は初めて見るコーヒー・フロートを前にし、どうやって食べるのかを眺めて考える。父ちゃんはアーモンド・コーヒーを一口飲んで、カップを皿の上に載せると、俺の方を見て、「どうした?食べないのか?早く食べないとアイス・クリームが溶け始めるぞ」と俺に言う。「コーヒー・フロートのアイス・クリームはな、アイス・コーヒーのミルクとシロップの代わりでもあるんだ」

「どうやって食べるの?」

「それはな、好きなように興味のあるものから味わえば良いんだ」

 僕は銀の細長いスプーンでアイス・コーヒーの上に浮かんだアイス・クリームから食べ始める。

「美味しい!」と俺が父ちゃんに言うと、父ちゃんはアーモンド・コーヒーをゆっくりと啜るように飲みながら、僕の顔を黙って見ている。父ちゃんと母は、早速、モン・ブランを食べ始める。

「このグルグルは何?」と僕がモン・ブランを右手の人差し指で指差して訊くと、「栗よ」と母が笑顔でモン・ブランをフォークで食べながら答える。

 僕はストローでコーヒー・フロートのアイス・コーヒーを飲む。

「苦い!」と俺が顔を顰めて言うと、父ちゃんは頷き、テーブルの上に右腕を乗せて俺の方に乗り出すと、「さあ、どうする?」と俺に訊く。

「アイス・クリームを掻き混ぜてアイス・コーヒーを甘くする」

「うん。コーヒーフロートはな、氷が溶けるのも早いんだ」と銀の長細いスプーンでアイス・クリームを掻き混ぜている俺に父ちゃんが言う。早く甘いアイス・コーヒーを飲もうとグラスを手前に傾けて飲もうとした途端、アイス・コーヒーが俺の足の上に零れる。

「あっ!」と俺が叫ぶと、父ちゃんが紙ナプキンをさっと俺に手渡す。俺はそれで汚れた太腿を拭く。俺はもう一度、今度はグラスを傾けずに、そうっとストローでコーヒー・フロートのアイス・コーヒーを飲む。

「うん、甘くなったけど、何か水っぽくなったな」

「氷が溶け出したんだよ」と父ちゃんが俺の眼を見つめて言う。

 俺は銀の細長いスプーンでアイス・コーヒーの中に沈んだアイス・クリームを氷の間から掬い取って食べる。

「父ちゃんはコーヒー・フロートって奴がどうも嫌いでな」

「ふううん」と俺は言って、今度はストローでアイス・コーヒーを飲む。俺は父ちゃんが何故コーヒー・フロートが嫌いなのかが判らない。なかなか面白い飲み物だと俺は思う。「俺は結構好きだよ」

「そうか」と父ちゃんは言い、カップを傾けてアーモンド・コーヒーを飲む。

 俺はモン・ブランを食べ始める。

「美味しい!」

「美味しいだろ」と父ちゃんが笑顔で言う。

 俺はモン・ブランを平らげ、再びコーヒー・フロートを飲む。グラスに三分の一残っていたアイス・コーヒーはすっかり水っぽく、薄くなっている。何だか氷が溶けたせいでアイス・コーヒーが増えたように思え、嬉しいような気分で飲み干す。

「じゃあ、そろそろ出るか」と父ちゃんが言い、僕らは会計の方に向かう。

 元喫茶店の軽食屋を出ると、僕らは大きな文房具屋に寄る。文房具屋で俺の漫画道具を買い揃え、激安電器店でTVを買うと、その後は真っ直ぐ車で家に帰る。陽はまだ明るい。俺は走る車の中から満ち足りた気持ちで景色を眺める。母はカー・オーディオにとっかえひっかえカセットテイプを出し入れしながら、音楽を聴く事を楽しんでいる。

「よし」と父ちゃんは駐車場に車を停めて言うと、「一寸このレストランに寄って、お母ちゃんにソフト・アイス・クリームを食べさせないとな」と言う。

「あらっ、もう良いのよ、沢山美味しい物ご馳走になったし」

「まっ、良いから、とりえあず、ソフト・アイス・クリームを注文して食べよう。よし、じゃあ、車から降りろ」

 俺は後部座席のドアーを開け、駐車場に降りる。父ちゃんと母も車から降りる。

「あらっ、ソフト・アイス・クリームの模型が硝子の所に飾ってあるわね」

「うん。行こう」と父ちゃんは先を歩き、俺と母がその後に続く。後ろから見る父ちゃんの体はレスラーのようにがっちりとした筋肉質な体つきをしている。例えるなら、ぱっちり目玉のアニマル浜口だ。

「注文して車の中で食べましょうよ」と母が後ろから父ちゃんの背中に言う。

「それも良いな。俺も何かって言うと車の中にいたくなるんだよ」

「車は買って良かったですね」

「そうだろう?」と父ちゃんが振り返って、笑顔で言う。

 我々はそれぞれソフト・アイス・クリームを手に持ち、レストランの駐車場に停めた車の中に戻る。ピンクレディーの音楽を流しながら、家族揃って黙々とソフト・アイス・クリームを食べる。

「父ちゃん、うんこしたい」

「おお、どのくらいしたい?」

「一杯したい!」

「そうか」と父ちゃんは笑いながら言い、「車から出ろ。今、レストランの人に借りてやるから」と車のドアーを開けて言う。

 俺は車から降り、「ああ、漏れそう」と搾り出すような弱々しい声で言う。

「歩けるか?」

「うん。早く行こう」

「よし、もう一寸辛抱しろ」と父ちゃんは言い、1人駆け足でレストランに向かう。俺はデニムの半ズボンのお尻を押さえながら、誰が見てもうんこをしたい人の顔で、何も気取らず、うんこを我慢している人の歩き方で歩く。

「貸してくれるってよ!」と父ちゃんがレストランのドアーを開けてこちらを振り返りながら、大声で言う。窓越しに俺の様子を見ている子がいる。小学五年生にもなって、ウンコ垂れだけにはなりたくない。

 店に入ると、レストランの中には同じぐらいの年齢の子を連れた家族が大勢いる。俺は父ちゃんの後ろについていき、鼻を衝くような強い洗剤の匂いがする真新しい御手洗に入る。

「はあ・・・・。間に合った・・・・。ふうう」

 用を足すと、再び僕らは車に乗り、父ちゃんの運転する車の中で買ってもらったばかりの新品の手帳に、早速、創作メモを書きつける。母はレイディオで高校野球の試合の様子を聴いている。後部座席の窓から見上げる空はまだまだ明るい。家に帰ったら、三作程ショートショートを書く予定でいる。

「夕食はカレー・ライスにしましょうかね」と母が言う。

「やった!」と俺は喜びの声を上げる。カレー・ライスは俺の大好物である。

「俺もずっとカレーを食いたかったんだよ」と父が車の運転をしながら、前方を向いたまま言う。

「夏場は毎年、翔太が獲ってきた物を料理しておかずにする生活を楽しんでるから、うっかり漁から帰ってきたあなたにカレーを作って食べさせるのを忘れてたわ」と母は言い、布施明のカセットテイプを流す。

「翔太は何時から親父んとこに泊まりに行くんだ?」

「明日からよ。お父さんが迎えにきてくださるの」

「孫はやっぱり可愛いんだろうな。俺の親父としては厳しくて怖いばかりの父親だったけどなあ」

「あなたが漁師を辞めるのは御存知なの?」

「お袋には一様言っといたから、親父も知ってはいるだろう。何時までも子供じゃあるまいし、親にいちいち報告する必要なんてないんだよ」

 母は声もなく笑っている。

「お前のお父さんお母さんにはしっかりと伝えたぞ。自分の自信の程もな」

「何て言ってたの、家の父と母?」

「頑張って悔いのない人生を思い切り生きなさいって応援してくださったよ」

「それ、父でしょ?」

「うん」

「あたしにはこれはするな、あれはするなって、やりたい事何にもさせてくれない父だったのに」

「どっちの親も自分の子供に対する想いだけはどうも別なんだな」

「親なんて誰もが子供が産まれて初めてなるもんなんだから、いざ自分が子供の親になってみると、あの時のお父さんお母さんはって、昔は納得のいかなかった事でも、何となく理解出来たりしてくるのよねえ」

「親父は昔から、何かこう、どんとしてたなあ」

「ああ、やっぱり、そういう風に想う?あたしもそうなのよねえ」

「お前もまた創作をしろよ」

「あたしはもういいの。若い頃にやりたい事は十分にやったわ。あたしはTVでも観て、これからはケラケラ笑ってるような夜を楽しませていただくわ」

 父は何とも返事をしない。それっきり話は途絶え、車が港に着くと、父ちゃんは車を港に停め、一人車を出て倉庫に入っていく。

「父ちゃん、何しに行ったの?」

「お父ちゃんの読んだ本が山程倉庫にあるって言うから、お母ちゃんが読むために全部持ってきてもらうの」

「ふううん。俺も行ってみる」と俺は言い、車を降りて倉庫に駆け込む。日中の薄暗い倉庫の中には誰もおらず、暗がりから父ちゃんが、「翔太!こっち来て本を運ぶのを手伝ってくれ!その辺にある台車を持ってきてくれ!」

「うん!」と俺は答え、台車を押しながら、薄暗い倉庫の奥に入っていく。

「見てみろ、翔太!このでかいダンボール、十箱の中に五千冊は本が入ってるんだぞ」

「へええ!五千冊!父ちゃんはそんなに本を読んだのか!」と俺は驚きの声を上げて言う。

「学生の頃からの学校の図書室から借りて読んだ本も入れたら、もっと読んでるよ」

「父ちゃんは本の虫?」

「まあ、確かに父ちゃんは本の虫だろうな」

「小説家になるにはそんなに本を読まなきゃいけないの?」

「そんな事ないよ。そんな事はないんだ。先、お母ちゃんも言ってたように、結局、書くための時間を割いて読書をしているんだよ。決して書くために読んでるんじゃないんだ。歴史小説のように、資料を集めて、よく読み込んで、それを創作に盛り込むような読書は一寸違うかもしれないけどな。翔太はとにかく書け!書きたい事を書きたいように楽しんで書くと良い」

 父ちゃんが台車の上に載せたダンボール箱二つを大変な想いをして車の方まで押し運ぶ。俺はそこそこ体力には自信がある。父ちゃんの力は強い。俺は二回目の箱を運ぶために倉庫の奥に戻る事も出来ない。

「翔太!休んでる暇はないぞ!」

「あなた!翔太はもうダメよ!」と母が大声で倉庫の中の父ちゃんに言う。

 結局、父ちゃんは港のトラックを借り、一人で大きなダンボール箱十箱分の本を家まで運ぶ。

 家族揃って帰宅すると、お母ちゃんは父ちゃんの本をダンボールから出し、種類別に畳の上に積み上げていく。父ちゃんはその中から時々手に取って、読んだ本を読み返す。

 俺は早速自室に入り、ショートショートを立て続けに三作書く。


『氷水』

海原翔太

 アイスコーヒーの入ったグラスに浮かぶ幾つもの氷を見つめていると、南極の氷が海中に崩れるように、積み木をぶつけ合うような音を立てて、水面から傾く。グラスの縁と氷が日中の陽射しを反射し、針のように硬く白い光が輝いている。テイブルの上のそのグラスを指で弾くと、冷たい水滴が右手の人差し指をひんやりと濡らす。グラスの底が接するテイブルの上に透明な水滴が滴り、何時の間にか小さな小さな水溜りとなって、グラスの影のようにこちらに向かってテイブルを濡らしている。私はグラスに挿した透明な長いストローに顔を近づけ、勢いよく黒い液体を吸い上げる。グラスの中の黒い液体は見る見る間に底に吸い寄せられ、見えない透明な世界の中に吸い込まれて消える。甘いシロップとミルクの味が混ざり、まろやかな味になったアイスコーヒーの苦みを口の中で味わう。グラスを壊してしまいたい思いと、歯を食い縛って闘っていると、ふと母の存在を思い出し、心は胸の中に落ち着く。ふいに両脇の下に大きな二つの手が触れると、体は宙に浮かび、父の肩の上に肩車される。グラスの中の氷の事はすっかり忘れ、父の肩の上で何処へともなく父が向かう所へと運ばれていく。


『バッター』

 肩に担いだバットの両端を掴み、バッターズ・ボックスへと向かう。予告ホームラン、一本足打法、場外ホームラン、ランニング・ホーム・ラン、バント。バッターズ・ボックスに立ち、ピッチャーを睨みながら、バットをぐるりぐるりとゆっくりと前回しに余裕を以て回す。監督はバントのサインを出す。神様は場外に立ち、ここだとホーム・ランを命じる。

「行くぞお!よし来い!」

 バットを構える。球を打つためだけにここにいる。聞こえてくる音は何もない。ピッチャーが球を投げる。球を投げる動作は遅く、投げてきた球ははっきりと見える。今だ!


『ぼんぼん』

 左右に並ぶ椰子の木の並木道の間を父の運転する赤いオープン・カーの助手席に座り、眺めている。南国の陽射し、晴れ渡る真っ青な空、父と僕の乗った赤いスポーツカーが、金髪の長い髪を風に靡かせ、すらりと長い脚で路上を歩く白人女性を追い越す。

 学校帰りの僕は父とリトル・トウキョウに向かい、母を拾ってから家に帰るところだ。僕は走る車の助手席のシートを斜めに倒し、澄み切った青空を見上げながら、大音量で流れる沢田研二のベスト盤のカセットテイプを聴いている。

「お父さん!お腹空いた!」

「お母さんを拾ったら、どっかレストランにでも入るから、もう少し辛抱してなさい!」

 車は背の高いアフロヘアーの細身で長身の黒人男性を追い越す。僕がその黒人に手を振ると、黒人は恐ろしい目付きで僕を睨む。

「焼き立ての美味しいクロワッサンが食べたいなあ!」

 車は向こうから歩いてくる坊ちゃん刈りの髪に赤いチェック柄の半袖シャツとブルー・ジーンズと白いスニーカーズ姿のコリアンだかチャイニーズの大学生風の細身の男を追い越す。リアヴュー・ミラーに映ったその男は、振り返って若き日の本田宗一郎のように、いつまでも走り去る僕らの赤いスポーツカーを見ている。


 小説を書き上げた俺は出来立ての新作三作の原稿を持って居間に行く。

「父ちゃん、三作小説書いたよ!」

「おお、三作も一遍に書いたのか!どれどれ見せてみろ」と父ちゃんは言い、俺は原稿を父ちゃんに手渡す。父ちゃんが俺の作品を読んでる間に、俺は母の学生の頃の作品をじっくりと見せてもらう。

「翔太も今日は疲れたでしょう?」と母が訊く。

「東京に行ってる間、ずっと小説を書きたくてうずうずしてたよ」

「へええ、よっぽど小説の創作が気に入ったのね」

 俺はお母ちゃんが学生の頃に描いた大量のイラストレイションを観る。

「それはね、竹久夢二の影響を受けて一生懸命真似して描いたの。お母ちゃんの描く女の子の絵って結構可愛いでしょ?」

「お母ちゃんの描く絵って凄く丁寧で綺麗だね。ああ、そうだ、坂家も竹久夢二の話をしてた」

「へええ、今でも夢二が好きな子っているのねえ。翔太、今度坂家さんを家に連れてらっしゃいよ。大した事は出来ないけど、お母ちゃん、坂家さんのためにお菓子を作ってあげるから」

「うん、俺も坂家を家に誘ったんだよ。今度来る事になってる」

「坂家さんってどんな子?」

「普通だよ」

「へええ、普通なの。翔太、顔が真っ赤になってるわよ!」

「なってないよ!」

「ほらほら、もう真っ赤!」と母が面白がって俺をからかう。父ちゃんは俺の頭を黙って優しく撫でる。俺は母のイラストレイションを観る事に集中し、母から目を逸らす。

「翔太、やっぱりお前には詩を書く才能があるよ。武者小路の詩集を読んだら、翔太は直ぐに自分にも詩を書けるだろうって思うよ」

「私にも見せてくださいよ」と母が言うと、読み終わった父ちゃんは俺の小説の原稿を母に手渡す。俺は『武者小路実篤詩集』の文庫本をズボンのポケットに突っ込み、「俺、夕食のおかず採りに行ってくる」と両親に言う。

「翔太、山菜図鑑をやっておく。部屋に持っていって、帰ってきたら観ると良い」と父は今日買ったばかりの山菜図鑑を俺に手渡す。

「図鑑持って山に行ってみる。食べられるのかどうか判らない植物が一杯あるんだよ」

「おお、なら、持って出かけろ!」

「それじゃあ、行ってきまあす!」

「おお、気を付けろよ!」

 俺は山菜図鑑を持って家を出ると、いつものようにおかずを採りに山に出かける。途中、俺は坂家の家に寄り、おかず取りに誘ってみる事にした。

 坂家の家の玄関から庭を通り、裏庭に回ると、坂家がまた窓を開けて机の前に座っている。俺は坂家がびっくりしないように窓硝子を叩く。坂家は顔を上げると、「あら、海原君、どうしたの?」と笑顔で訊く。

「これから山におかず取りに行くんだけど、坂家も一緒に来るかなって想って、誘いにきたんだ。山菜図鑑も買ってもらってさ、持ってきたんだよ」

「今、童話書くのに夢中で行きたくないの」

「判った。それじゃあ、また今度な」

「うん、誘いに来てくれてありがとう」

「それ、書き終えたら、俺に見せてくれよな」

「うん」

「そう言えば、前に借りた童話のノート、忙しくてまだ読んでないんだ」

「返すのは何時でも良いわよ」

「ああ、判った。それじゃ!」と俺は言い、坂家の家を去っていく。

 牧野富太郎や南方熊楠の偉大さには到底及ばないけれど、とにかく自分の関心のある事をとことん研究し、偉人達の歴史に名を連ねたい。漫画や小説を書く事を本業とするなら、何か他にも新しい事を試み、成し遂げたい。

 蝉や鳥の鳴き声のする賑やかな山の雑木林に入ると、俺は目につく植物を一つ一つ見ながら、それが食べられるのどうかを山菜図鑑に照らし合わせる。食べられる物であると判ったなら、一つ一つ家族が食べられる分だけ摘み取り、麻袋の中に入れていく。

 おかずを取り終えると、俺は山小屋に入り、ズボンのポケットに入っている『武者小路実篤詩集』の文庫本を出す。表紙絵も武者小路が描いたのかと表紙を眺める。表紙絵に対しては大した感動もなく、どう評価すべきなのか、正直なところ、よく判らない。絵画はもっと色々観てみたい。とにかく、今、俺は何よりも詩を知りたいのだと絵画の事は脇に退け、詩を読み始める。『友情』の時にも感じた事だが、武者小路には大人でありながら、子供の心にも通じたとても豊かな純粋さがある。詩と言うものを生まれて初めて読む俺は何とかこの一冊から詩を書く切っ掛けを得、詩とは何かを知りたい。

 夢中になって『武者小路実篤詩集』を読んでいたら、西日の射す夕方になっていた。俺は『武者小路実篤詩集』の文庫本をズボンのポケットに仕舞い、山小屋を出る。

 夏は日が暮れるのも遅いから、山を降りるのにも足元は陽に照らされている。

「ただいま!」と俺は家の中に声をかけ、靴を脱いで家の中に入る。

「お帰り!遅かったわね」

「山小屋で『武者小路実篤詩集』を読んでた」

「詩はどうでしたか?」

「小説の合間にある文章に似てた」

「小説の書き出しの描写とか、あらすじみたいな詩もあるのよ。詩は小説の原型なの。詩集はお母ちゃんが一杯持ってるから、良かったら読んでね」

「武者小路を読み終わったらね。ああ、これ、おかず」と俺は母に言い、おかずの入った麻袋を母に手渡す。

「何か珍しい植物や木の実が一杯ねえ」

「心配なら、この山菜図鑑を見て!多分全部食べられるよ。よく判らないのは入れてこなかった」

「そう。じゃあ、これでお料理しましょうかね」

「うん」

「翔太、小説良かったわよ。何だか段々詩的な小説になってきたわね」

「詩集読んでたら、俺もそう思った」

「はい、じゃあ、原稿返しておくわね」

 俺は部屋に入り、窓辺のレイディオと机の上の電気スタンドを点け、待ちに待った『タイガーマスク』の続きを第二巻から読み始める。

『次の曲は東京都の寂しい大学生さんからのリクエストで、CCRの『ハヴ・ユー・エヴァー・シーン・ザ・レイン?』をお贈りします』

 夕食を食べに居間に行ったり、風呂に入っている間以外はぶっ通しで『タイガーマスク』をもりもりと貪るように読む。

 夜の十一時に歯を磨き、布団を敷いて、『タイガーマスク』の続きを明日に回して疲れた体を横たえると、漸く長い一日の終わりとして就寝する。

 明日からは待ちに待った小学校最後の楽しい夏休み。自分の未来が今の俺の思い描く通りになるようにと、一日一日の時間の内容をパンパンに満たして、夏休みが終わるまでにほんの一歩でも良いから、父ちゃんや母のような賢く堂々とした自信に満ちた大人へと近づきたい。


「翔太」と母がはち切れんばかりに満腹した俺に呼びかける。

「もう食べられないよ」と俺は言う。

「翔太、あんた何時まで寝てるつもりよ。もう十一時よ」と夢から目覚めた俺に言う。

「えっ!おかず採りに行かないと!」と俺は回線を素早く現実に合わせて言うと、布団から飛び起きる。

「おかずはお父ちゃんが港からお魚貰ってきたからいいわよ」

「ああ、なんだ、そうか」と俺は寝ぼけ眼を擦りながら、部屋の入口に立ったお母ちゃんの脇をふらふらとした足取りで通り抜けて言うと、洗面所に向かう。家の周りには油蝉やら、みんみん蝉やら、蝉の大群が飽く事なく盛んに鳴いている。

 洗面と歯磨きを終え、居間の卓袱台の前に腰を下ろすと、ラップを剥がして、「いただきまあす!」と言って、朝食を食べ始める。「父ちゃんは?」

「出版社から電話があって、車で東京に行ったの。その高湖書房って言う出版社からお父ちゃんの本を出版したいって言われてね、お父ちゃん、漸くデビューするのよ」

「ええ!凄い!」

「帰ってきたら、皆でお祝いしてあげましょうね」

「うん。あっ、でも、今日、お祖父ちゃんが迎えにくる日でしょ?」

「お祖父ちゃん家に行く日は明日にしてもらったの」

「じゃあ、今日は俺、坂家と啓司と鶴田の四人で遊びにいってくるよ」

「どうぞ、遊んでらっしゃい。お父ちゃんは夜まで帰らないからね」

「うん!」

「あなた、休み中も漫画は描きなさいよ」

「ああ、そうだ!」

「周りの誘惑に負けて漫画を描かなくなったら、あんた、将来、ただの人になるんだからね。好きな事はとことんやりなさいよ」

「うん。やらなきゃいけない事が沢山あるよ。小説書いたり、武者小路実篤の詩集も読まないといけないし」

「読書なんて読みたくなければ読まなくったって良いの。武者小路の詩集はあなたが詩を書き始めるために読むのよ」

「うん」

「本を嫌々読んじゃダメよ」

「うん」

「あんたは国語の成績も良いから、学校で詩を習ったら、さらさらとこなすような子かもしれないわよ」

「お母ちゃんは学校で詩の書き方を習ったの?」

「そうよ。俳句も短歌も学校で習って、授業の外でも書いてたわ」

「ううん。俺、学校で習うような事は授業中以外はやりたくないな」

「学校の先生達はどういう事を生徒達に教えたら、生徒達が喜ぶのかを考えて教科書の勉強を教えてくださってるの。学校で習うような事が嫌いだなんて先生達が苦労して考えてくださっている事が全部無駄になるじゃない」

「そうなんだ。知らなかった。先生達ってこれもやれ、あれもやれって、うんざりする程嫌な事ばかり押しつけてくるような大人だと思ってたよ」

「先生達も可愛そうね。お母さんなんかは学校の授業が終わると、教員室に行って、個人的に色んな事を教わって休み時間を楽しんだわ」

「ええ!休み時間も先生と過ごしてたの!お母ちゃんはがり勉だね」

「でも、お母ちゃんは大学には行かなかったの」

「どうして行かなかったの?」

「男の子達と遊ぶ事やお洒落に目覚めたのよ。そのせいで自分の趣味をとことん追求する事もしなくなったの。働いて、お金を貰って、好きな事にお金を使って遊ぶだけの人生が段々と楽しくなったのね」

「それじゃいけないと思ったのなら、何でまた勉強しないの?」

「ここにたんまりお父ちゃんの本があるでしょ?お母ちゃんもこの年から勉強しようと思って、ここにあるお父ちゃんの本を全部読む事にしたの」

「創作は?」

「あんた達と一緒にいて、自分だけ何もやらないでいられると思う?今朝、御飯を作りながら、また何か創作を始めようかなって考えてたのよ。そしたらお父ちゃんの本の出版の電話が来て、ああ、お母ちゃんだけ一人取り残されるって思ったの」

「お母ちゃんは何をやるつもりなの?」

「学生の時から中断してた創作を全部また始めようかなって思ってるの」

「へええ」

「大人の若さって言うのはね、努力する力がどれだけ残されているかで程度の差が決まるのよ」

「僕は若くないの?」

「そりゃあ、年齢的には若いわよ。大切なのは心の若さなの。歴史に名を残すためなら、幾らでも頑張れるって言う力よ」

「歴史に名を残す?」

「そう」

「何をしたら、歴史に名が残るの?」

「そこにあるお父ちゃんの『広辞苑』って言う辞書を見てみなさい。歴史に名を残した人の名前が沢山載ってるわよ」

 俺はお父ちゃんの『広辞苑』を手に取る。『広辞苑』とはずっしりと重たい、とても大きな辞書だ。

「もう食べたなら、御馳走様して、台所に食器を片づけてから観なさい」

「ああ、御馳走様!」と俺は言うと、急いで食器を台所に運び、居間にある『広辞苑』を観る。

「毎日毎日、精一杯生きて疲れたなら、その日その日疲れを癒すために必要な睡眠を取れば、翌朝にはまた頑張れる力が漲ってるのよ。幾ら寝ても疲れが溜まるような時が今回のお母ちゃんの入院みたいな状態なの。喜びのない努力には誰しも限界があるわ。人生って言うのはね、やりたい事をとことんやるためのとても大切な限られた時間なの。人生で経験した事はどんな事も無駄にはならないわ。お母ちゃんも入院してベッドに横になりながら、色んな事を考えさせてもらったの」

「誰に?」

「誰にって、そりゃあ、神様や仏様によ。何だって神様や仏様が一人一人御導きになって経験させて戴いている事なのよ」

「ふううん」

「神様や仏様って、何処にいるの?」

「あらゆるところにいらっしゃるわ。神様や仏様って言うのはね、世界中の全ての人を御存知なの」

「神様や仏様の事をどうやってお母ちゃんは知ったの?」

「子供の頃からお祖父ちゃんがよく教えてくれたのよ。お父ちゃんの本の中にも宗教聖典が幾つかあるわ」

「しゅうきょうせいてんって何?」

「神様や仏様の教えが書いてある本よ」

「俺も読んでみたい!」

「読みたい時に何時でも読むと良いわ」

「うん」と俺は本を読みながら話す母を見て言うと、また『広辞苑』の方に視線を戻す。

「お父ちゃんは一杯色んな事を勉強したのねえ」

「それ、何の本?」

「世界文学事典よ。日本は翻訳大国だから、こういう事典が良い手引きになるのよね。図書館なんかに貸し出し禁止で置いてあるような本よ」

「俺、今度、坂家に隣町の図書館に連れていってもらう約束してるんだ」

「本の虫にはなっちゃダメよ。とにかく書いて書いて作品を増やしなさい。小説を究めるの。元本の虫のお母ちゃんが言ってもあんまり説得力はないかもしれないけどね」

「お母ちゃんも本読むの好きなの?」

「どっちかって言えば、元々は三度の飯より読書が好きなのよ」

「なあんだ!じゃあ、俺も読む!」

「そうなると思ったわよ。でもね、沢山読書するから偉いんじゃないのよ」

「うん・・・・」

「本は読む人より、書く人の方が偉いの。でもね、小説家が一番大切にしなければいけないのは、読者なの。読む人がいるからこそ本を書く事に意義を見出せるの。判った?」

「うん、判った。それじゃあ、俺、坂家達と皆で遊んでくる」と俺は言って、腰を上げる。俺は玄関に向かい、靴を履きながら、「行ってきまあす!」と母に言って出かける。

「はあい!行ってらっしゃい!気を付けてね!」

「はあい!」と俺は家の外から母に返事をし、坂家の家へと坂を上っていく。

 坂家の家に着くと、玄関の左の庭から裏庭に回る。坂家はまた窓辺の机の前に座り、下を向いて何かをしている。坂家は俺の影に光を遮られ、思わず顔を上げる。

「あら、海原君、おはよう!」

「おはよう。今日、啓司と鶴田と俺達の四人で一緒に遊ばないか?」

「ええ、楽しそうね!でも、あたし、友達いないから、啓司君と鶴田さんに紹介して欲しいな」

「紹介なんてしなくても同じクラスメイトなんだから、知ってるよ」

「でも、友達だとは思われてないでしょ?」

「友達だと思われたければ、友達になれば良いんだよ」

「そうなんだ。あたし、長く独りぼっちだったから、友達の作り方忘れちゃったわ」

「ああ、なら、友達になる瞬間を教えてやるよ。今、何やってたの?」

「昨日の童話の続き」

「ああ、そうだ。武者小路実篤の『友情』と、『タイガーマスク』四巻までと俺の小説三作持ってきたよ」と俺は自分が坂家のために持ってきた物を窓から坂家に差し出して言う。

「ああ、ありがとう。じゃあ、借りるわね」と坂家は言って、俺が差し出した物を受け取る。

「今、童話何作目?」

「二作目よ」

「俺まだ一作目も読んでないんだ。何か毎日忙しくてさあ」

「良いわよ。時間がある時に読んで、感想を聞かせて」

「うん、判った。じゃあ、出かける支度してよ」

「直ぐ行くから玄関の方にいて」

「うん、判った」

『あたし、長く独りぼっちだったから、友達の作り方忘れちゃったわ』

 俺は坂家の事が急に心配になる。皆と違う事ばかりしている裡に、皆が出来る事が出来なくなる事の恐ろしさを知ったのだ。友達の作り方なんて理屈じゃないと思いながらも、少し頭で考えてみようとしただけで途端に判らなくなる。俺はその恐怖と混乱を即座に頭から振り払う。

 玄関の戸を開けて出てきた坂家が、「お待たせ!」と戸を閉めながら俺に言う。

「坂家」

「何?」

「友達っていうのはな、エナジーを相手に向けて作るもんなんだよ」

「どういうエナジー?」

「俺は仲間だよって言うエナジーだよ」

「ああ、私も前は自分の心の色を相手の心の色と一緒にして、一瞬で友達になってた」

「それだよ。その通り」

「でもね、その私の友達の作り方がね、或時、或人に拒まれたの。その時のその人の私を見る眼がね、何か物凄く汚いものを見るみたいな、本当に嫌そうな目だったの」

「その人、家の学校の子?」

「ううん。それがねえ、何か変に思うかもしれないけれど、いつもその人が何処かで自分を見てるような気がして、あたし、その人の名前をね、人前ではどうしても言えないの」

「何処で見てるんだよ?」

「それがね、私の心の中では、今、その人が私の事を嘲笑ったような気がしてるの」

「何時?」

「何処で見てるんだよって、海原君が訊いた直ぐ後よ」

「そんな声、俺には聞こえなかったよ」

「心の中のお話なのよ」

「何か小説かなんかの話をしてるの?」

「違う。違うの」

「俺にはそいつの名前を教えてくれないの?」と俺は不快な気持ちで坂家の女の子っぽい空想的なお話について訊く。坂家が初めて話す不思議な話を俺は即座に女の子の空想的なお話だと解釈したのだ。

 坂家は何を見るともなく、ぼんやりとした眼で、俺の口元に視線を向けたまま、力が抜けたように黙っている。俺はそんな坂家の事を白けた眼で見ている。坂家は俺の事など忘れてしまったかのように、玄関前で何も言わずに立ち尽くしている。

「坂家、啓司と鶴田との四人で遊びたくないなら、二人でまた山小屋に行こう」

「今日はやっぱり家で童話の続きを書くわ」と坂家は力なく俺の眼を見て言うと、「じゃあね」とどうでもいい相手にお別れを言うみたいに言うと、玄関の戸を開け、俺との間に壁を作るようにぴしゃりと戸を閉める。

 玄関前に取り残された俺は訳が判らず、とても悲しい気持ちになる。坂家の家の前で立っていても誰も自分を心配して出てくる様子がない。それが物凄く寂しく感じて、俺は独り先程上ってきた坂を下りて帰宅する。

「ただいま」と俺は家の中に言うと、靴を脱ぎ、家の中に入る。

「翔太、どうしたの?」と母が心配そうに居間を通り抜けていく俺の背中に訊く。俺は坂家にされた事を母にも味あわせたのだ。俺は洗面所で顔を洗い、部屋に入る。

 部屋に入ると、俺は窓辺に腰かけ、レイディオを点ける。今日はもう何もしたくない。坂家の事が気になって仕方ない。自分の心に起きている事が何なのかも判らない。坂家の心の状態が今の俺の気持ちより更に暗い闇にある事ぐらい直ぐに判る。時間の流れも、自分のいる空間も、全ていつもと違うように思う。

『次の曲は東京都の寂しい大学生さんからのリクエストで、ハリー・ニルソンの『ウィズアウト・ユー』をお贈りします』

 俺は机の前に腰を下ろし、原稿用紙に向き合う。


『君が好き』

海原翔太

 いつもの朝のように、俺は海に潜って牡蠣を取っていると、眩しい一筋の光が差し込む海の上から僕の名を呼ぶ女の声を聞く。僕は女の声に誘われ、霧に覆われた海面にぽっこりと水中から顔を出す。霧の中から女の声が、「こっちよ、こっち」と僕を誘う。僕は頭を出したまま平泳ぎで霧の中を進む。女の姿は見えない。

 女の声は更に奥の霧の中から、「こっちよ、こっち」と僕を誘う。このまま力尽きて泳げなくなったら、僕はこの海の中で溺れ死んでしまうだろう。僕は力加減をしながら、女の声のする霧の中へと泳ぎ進む。霧の奥へと進む裡に美しい人魚にでも出会うのかと心密かに期待していると、足を何かに掴まれ、僕は物凄いスピードで海の中に引き込まれる。女の声が楽しそうに笑っている。足の方に視線を向けると、透明な光り輝く少女が微笑みながら、僕の足を掴んでいる。とても綺麗な顔をした女の子で、初めて見るのに何だかとても懐かしい思いが蘇ってくる。海の中が眩しい光で一杯になる。僕が恐れもなくこのまま溺れ死ぬものと覚悟すると、光は僕の中にまで入ってくる。僕はそのまま光の世界に入っていく。僕は死なない。ただこっちからあっちに行くだけの事だ。透き通る光のように澄んだ女性達の合唱が僕の耳に聞こえてくる。僕は溺れる寸前に最期の力を振り絞って、光の速さで真っ直ぐに神様の所へと飛んでいく。僕は自分が大切にしてきたものを一つずつ捨て去り、僕であるものまでも捨てていく。僕は轟々と恐ろしい音を立てながら、赤々と燃える炎の球となり、どこまでも遠い宇宙の果てへと飛んでいく。悔しくて、悲しくて、僕は泣いている。僕は自分の心の中にある全てのものを解き放つ。この心の中で張り詰めているものは一体何だろう。心の奥の光が全宇宙を光で満たすように解き放たれる瞬間、僕はその張り詰めたものが意識だと知る。

 気付くと僕は何処かの浜辺でうつ伏せに倒れている。僕はゆっくりと起き上がり、広い空に光り輝く眩しい陽の光を見上げる。僕と同じくらいの年の水着を着た女の子が全身からゆらゆらと炎を揺らめかせて海の中から一歩一歩浜辺に上がってくる。波打ち際に女の子の白い足が見えると、陽を受けて白く輝く女の子の顔を見上げる。女の子はにっこりと僕に微笑み、僕もその女の子に微笑み返す。真っ暗な宇宙の果てで力尽きた僕は、宙に浮かんだままそんな夢と共に静かに生を終える。


 小説を書き終えると、「お母ちゃん、また小説書いたよ」と居間にいる母に原稿を手渡し、部屋に戻る。俺は畳の上に仰向けに寝転がり、『武者小路実篤詩集』を読む。夢中になって詩集を読んでいると大きな雨音が聞こえてくる。寝転がった俺は頭を起こし、窓の外を見る。俺は詩集を持ったまま雨に吸い寄せられるように起き上がり、窓辺に腰かける。俺は机の上に手を伸ばし、詩の手帳とペンを取る。


『何故だか判らぬままに』

海原翔太

何故だか判らぬままに、

雨が降り、

地を濡らす。

何故だか判らぬままに、

夢中になって読んでいた詩集を

太腿の上に伏せて置き、

どしゃぶりの雨音に

耳をそばだてる。

何故だか判らぬままに、

何故だか判らぬままに、

僕は雨の中に

神様が現われるのを待つ。

僕は雨の中を通って現われる

ずぶ濡れの神様を思う。

僕は雨の中にいる

見えない神様の姿を見ようと

雨の中に目を凝らす。

僕はその見えない神様に祈る。

神様!

僕は産まれて初めて

本当の悲しみを知りました。

そう僕が神様に打ち明けると、

僕の心の中から

ふと悲しみが消える。

あれ程強い悲しみも

一度思いの中から消えると

直ぐには思い出せなくなる。

僕は先程までの悲しみを

何とか思い出して、

どんな悲しみであったのかを

もう一度確認したいと思う。

神様!

先の悲しみを僕に返してください!

僕はあの悲しみを思って、

涙が枯れるまで泣きたいのです!


 俺は自分で初めて書き上げた詩を母に見せに居間に向かう。母はこちらに背を向け、卓袱台の上に載せた本を読んでいる。

「お母ちゃん・・・・」と俺が母を呼び、不意に玄関の方に視線を泳がせると、玄関の所に坂家が立っている。

「何?」と返事をする母の声を背に、俺は玄関の方に歩いていく。坂家は玄関に立って坂家を見下ろす俺の顔から視線を地面に逸らし、黙って立っている。俺も突然坂家が家に来たため、何を言ったら良いのか判らず、ただその場に立ち尽くす。

「あらっ、翔太のお友達?」と母が明るい声で俺の直ぐ背後から俺に訊く。「あなた、坂家さんじゃない?」

 坂家は顔を上げて母を見上げると、「はい、そうです」と笑顔で答える。

「どうぞ、散らかってますけど、遠慮せず上がってください」と母が優しく坂家を家の中に招く。

「お邪魔しまあす」と坂家は明るい声で言うと、靴を脱ぐ。坂家は俺の左脇を素通りして家の中に入る。俺は怪物を抱えたような気持ちで坂家の後から居間に入る。

「坂家さん、その辺に座ってて」と母は坂家に言うと、台所に入る。

 坂家は座布団の敷かれていない俺の席の向かいに腰を下ろす。俺は立ったまま坂家を見下ろし、話しかける言葉も思いつかない。生き返った死者でも見るかように繁々と俺は坂家の様子を見ている。

「翔太も座ってなさい」と母が台所からこちらを見て言う。俺は台所にいる母の顔をちらりと見ると、坂家の向かいの自分の席に腰を下ろす。

「坂家、どうしたんだよ?何が遭ったんだよ?」

「よく判んないんだけど、海原君の家に遊びに来てみたの」

「そうか。そうだったのか。いらっしゃい!」

 坂家は笑顔を見せながら、黙って俯いている。

「ごめんなさいね。家、お客さんなんて普段誰も来ないもんだから、甘い物とかの用意がないの。お茶とお漬物ですが、良かった召し上がってください」と母が居間に戻り、お盆に載せて持ってきたお茶と漬物を三人分卓袱台の上のそれぞれの席の前に置く。

「家もそうです。お菓子とかってお正月ぐらいしか食べません」

「坂家さんって学校で一二を競う秀才さんよね」

「他にやる事がなくて、時間が空いてれば勉強してるんで、成績はその分良いだけなんです」と坂家が母の顔を笑顔で見ながら言う。

「坂家さん、竹久夢二が好きなんですってね」

「ええ」

「おばちゃんも若い頃大好きでよく絵や詩を真似してたの。おばちゃんはもう十分観たから、良かったら、この夢二の全集、おばちゃんから坂家さんにプレゼントさせて戴きたいわ」

「えっ!いえいえ、宜しければ、お借りさせて戴くだけで良いです」

「そう。じゃあ、これ、無期限で坂家さんに貸すわ」と母が竹久夢二の全集を坂家に手渡す。

「わあ!ありがとうございます!」と坂家は夢二の二十巻はある全集を正座した膝の上に抱え込む。

「坂家さんってお人形さんみたいに可愛い子ねえ」と母が繁々と坂家の顔を見て言う。坂家は頬を赤くして俯く。

「女の子って可愛いわねえ。家は男の子一人しか産まれなかったもんだから、何だか坂家さんが自分の娘みたいに可愛いわ」と母が坂家に言う。

「本が沢山ありますね」と坂家が居間一杯に積んだ本の山を見回しながら言う。

「読みたい本があれば、何時でもお貸ししますよ」

「本当ですか!私、本が大好きで、学校の図書室の他によく市の図書館にも行くんです!」

「今度、俺も連れてってくれるんだよな?」

「うん。明日行こうか?」と坂家が俺を見て言う。俺の眼を見る坂家の眼がきらきらと明るく輝いている。先、坂家の家の前で見た坂家とはまるで別人のようだ。

「坂家さんのご両親は何のお仕事をされているの?」

「父が精神分裂病に罹って、母がその介抱で鬱病になっちゃって・・・・。今は家族三人生活保護を受けて、昔から住んでる借家でひっそりと暮らしています」

「あらあ、それは大変ねえ。病気になられる前の御両親はどんなお仕事をされてたの?」

「父は運送会社でトラックの運転手をしてました。母はお花屋さんでパート・タイムの仕事をしていました」

「あら、そう。じゃあ、お家ではあなたがお父さんお母さんの介護をしているの?」

「介護は特にしていません。母が起き上がれる時に父の世話や家の事をするんで」

「あらあ、お母様も大変ねえ」

「いただきまあす」と坂家は言うと、楊子で白菜の漬物を突いて、漬物を口に入れる。坂家が白菜の漬物を噛む音が何だか物珍しくて、俺は俯いた坂家の口元を見て、坂家が白菜の漬物を噛む音を聞いている。お人形さんか。なるほど。そう言われてみるとそんな感じもする。

「ああ、お母ちゃん、これ、俺が今書いた詩」と俺は母に言い、詩の手帳を手渡す。母は黙って受け取り、俺の詩を読む。

「海原君、詩を書き始めたの?」と坂家が俺に訊く。

「うん、そう。今、お母ちゃんに読んでもらってるのが初めての詩なんだけど、何か俺の小説って、父ちゃんが言うには詩的なんだって。父ちゃんが詩を書く事を俺に勧めてたから、それで一寸書いてみたんだよ」

「あたしも観たい!」

「ああ、いやっ、自信作が出来たら見せるよ」

「初めて書いたのが観たいわ!私にも書けそうなら、私も書こうと思って」

「ううん、じゃあ、母ちゃんが読んだら、坂家にも見せるよ」

「翔太、これ、あんたの創作?」

「ううん・・・・」

「よく書けてるけど、あんた、何か悩みでもあるの?」

「坂家が家に来てくれたから、先までの悲しみは消えたよ」

「何か心配ねえ」

「・・・・」

「私にも見せてください」

「ああ、どうぞ、坂家さん」と母は笑顔で坂家に言い、俺の詩の手帳を坂家に手渡す。「一寸、翔太、熱でもあるんじゃない?」と母が俺の額に手を当てる。「お熱はないみたいね。ほんとに困った子ねえ」

 俺は詩を読んでいる坂家の顔を黙って眺めている。

「この悲しみ、もしかしてあたしのせい?」と俺の詩を読み終えて、坂家が俺に訊く。

「うん、まあ・・・・」

「ごめんねえ。迷惑かけないように、一旦海原君から離れただけなの。あれがあたしの精一杯の気遣いだったの。あたし、お父さんの病気が自分にも遺伝するんじゃないかって、ずっと不安な気持ちで毎日を過ごしてるの」

「気遣いなんかしないで、俺には何でも言えよ。悲しかったよ」

「ごめん」と坂家が俯いて謝る。

「ああ!そうだ!坂家、俺、小説もまた書いたんだ」

「ええ!観たい!」

「この小説も何か奇妙な心理状態で書かれてるわよね」と母が机の上から俺の原稿を手に取って言う。「でも、小説としてはどんどん腕が上がってきてるわね」

「あたしにも観せてください!」と坂家が母に言う。

「はい、どうぞ!読んだら一寸感想聞かせてね」

「ああ、はい」と坂家はすっかり母と心が打ち解けて、明るい声で返事をする。

 俺は居間に幾つも積みかねられた本の山を見回す。

「お母ちゃんの本はどれかなあ」と俺は母に訊く。

「お母ちゃんが読んだ本はどれも恋愛ものや青春小説ばかりよ。お母ちゃんの本は坂家さんに貸すから、あなたは読まなくていいわ」

 母の言葉を聞いて、坂家は俺の原稿から顔を上げると、母を見て微笑む。

「翔太、漫画ちゃんと描いてる?」

「ああ、全然書いてない。一寸部屋に行って描いてくるよ」

「あら、翔太、坂家さんがいらしてるのに一人部屋で漫画描くの?」

「ああ、そうか。なら後にしよう。お母ちゃんの詩を読ませてもらおうとしてたんだった」と俺は言い、母の手作り詩集の束を卓袱台の上に載せる。

「蒼井月子って言うんだ、お母さんのペン・ネイム」

「一寸!そんな大きな声で言わないでよ!恥ずかしいわね!」と母が俺が読んでいる母の詩集を俺の手からひったくって言う。

「それ、全部、海原君のお母さんの詩集なんですか?」と坂家が俺の原稿から顔を上げて、母の詩集の束を見て言う。

「学生の頃によく書いてたのよ」

「今、俺、それ読んでるんだから、持っていかないでよ!」

「じゃあ、はい!」と母が詩集を再び俺に手渡す。満月の前で羽を広げた、模様の部分だけが切り絵のように白く刳り貫かれた黒い揚羽蝶の表紙絵の手作り詩集である。

「『月夜の夢』か」

「一寸!翔太!口に出して読まないでよ!」と母が俺が手にした詩集を手で机の上に伏せながら言う。母が本当に嫌がっているようなので、俺はもうふざけるのは止めて、黙って母の詩集を読む。

「坂家さんは小説を書くらしいわね」

「ええ、よく好きで書きます。最近は童話とかも書いてます」

「坂家さんも詩を書いてみたら?」

「海原君のお母さんの詩集、詩を書くお手本として私も読んでみたいです」

「私の詩なんてお手本にはならないわ。でも、坂家さんの作品と交換で見せっこしましょうか?」

「はい、今度持ってきます!」と坂家は笑顔で母を見て言うと、再び俺の小説の原稿を読む。

「何か海原君の小説って、段々と上手くなってくるわね」と俺の小説を読み終えた坂家が俺の小説の感想を言う。坂家が感想を言うと、母は黙って頷きながら、俺と坂家を交互に見て微笑みかける。

「お母ちゃんは気に入らないんだよね?」

「他人なら誉めるばかりでも、親として子供の作品を観ると、心に翳があるような作品には心配になるのよ」

「ふううん。なら、もっと他人の作品を観るように読んでもらいたいね」

「何、怒ってるのよ!」

「どんな作品も俺が一生懸命書いた作品なんだよ!」

「翔太はね、見た目よりうんと繊細な心を持った子なの」と母が坂家を見て言う。

「ああ、時々そういうの私も感じます」

「何て事ない言葉っ尻を捕らえて、何時の間にか怒ってたりするの」

「はああ」と坂家が俺の顔を見ながら、息を漏らすような相槌を打つ。

「お母ちゃんの詩って、どうしてこんなに言葉がきらきらと輝いてるのかな・・・・」と俺は母の詩を読んで呟く。

「良い詩人と出会って、その詩人から強く影響を受けると、詩を書く時に物凄く慎重に言葉を選ぶようになるの」

「僕の詩は僕が本当に書きたい詩にはなってないんだな。坂家の小説もこんな風に言葉がきらきらと輝いてるんだ」

「あら、そう。お母ちゃんも坂家さんの小説はじっくりと読んでみたいわね」

「女の文章の特徴なのかな」

「ああ、翔太はそう思うのか。確かに女性的な文章と男性的な文章の違いって言うのは一般にあるものなのよね」

「そうなんだ、やっぱり・・・・」

「翔太がもし本当に女性的な文章を書きたいと思うなら、女性になったつもりで文章を書いてみると良いわ」

「あたしも今書いてる二作目の童話では主人公の男の子になったつもりで書いてるんです」

「へええ、そうなの。それってやっぱり翔太の小説を読んで男性的な文章を書いてみたくなったのかしら?」

「はい、そうです」

「お互い良い影響を与え合ってる訳ねえ」

「坂家が男の文章を書こうとしてるの?」

「うん。何か男の子になってみたくって」

 俺は坂家の言う事を聞いて、言葉にこそ出さないものの、女の文章なんかに憧れるのはもう止めようと思った。文学の世界には男の書き手と女の書き手がいる。それで俺は十分自分の役割りが判る。別に俺は女の文章をもう読まないと言っている訳ではない。女ならではの文章を楽しむ心も勿論あるのだ。

「坂家、男のつもりなんかで文章を書くなよ。男はそういう女を見ると、チンコのある女みてえに気持ち悪くなるんだぞ」

「ええ!そうなんだ・・・・」と坂家はがっくりと項垂れる。

「私はとても良い試みだと思うわよ」と母が坂家に言う。

「でも、海原君は気持ち悪くなるって言うから・・・・」と坂家が目で母に何か無言で訴えている。俺は女のちまちました訳の判らない遣り取りにイライラする。言いたい事があるなら、はっきり言えと言いたくなる。

「書きたいなら書けよ。出来上がったら出来上がったで、何となく読んでみたいような気もする」

「本当に?」と坂家が嬉しそうな顔で言う。

「坂家の作品なら、全て一度は目を通しておきたい」

「じゃあ、最後まで書いてみるね」

「坂家さんはやっぱり女の子ねえ」と母が笑顔で坂家を見て言う。坂家は母を見て、緩んだような笑みを顔に浮かべる。「坂家さんのお家に時々お邪魔して、お家の中の事私に任せてもらおうかしらね」

「あの、家、人を雇うようなお金はないんで、結構です」と坂家が慌てたように断る。

「お金なんか要らないわ」

「いえっ、母も、家の事は、自分でやりたいみたいなんで、家の事はどうか心配なさらないでください」

「そう?」

「お気持ちだけ受け取らせて戴きます。ありがとうございます。家の事はどうか御心配なさらないでください」

「まあ、そうよね。お母様のお気持ちもよく判るわ」

「すみません」

「あらっ、別にあなたが謝るような事じゃないわ。でも、家にはこれから遠慮なく遊びにいらしてね」

「ああ、はい!ありがとうございます!」と坂家が笑顔で母に言う。

「でも、お母様が本当に困ってらっしゃる時は私にもお家の事手伝わせてね」

「ああ、はい。ありがとうございます」と坂家は俯いて言うと、目許を指で触れる。

「あなたも苦労してるのね」と母は俯いた坂家に優しく言う。

「病気が遺伝しなければ良いんですけど、何か遺伝する事が怖くて」と坂家は俯いたまま言うと、両手で顔を覆って泣き出す。

「大丈夫だから。ね!あなたみたいな善い子に御両親の病気が遺伝する事なんてないんだからね。心配しちゃダメよ」

「はい」と坂家が顔から手を退け、顔を上向きがちにして、しゃくり上げるような泣き方で激しく声を出して泣く。「お父さんも、お母さんも、もう自分の本当の親じゃないみたいに変わってしまって、家の中がいつも暗くて、怖くて、不安で、ずっと心細くて、寂しかったんです」

 母は立ち上がり、坂家の近くに座ると、「もう大丈夫よ」と優しく言って、泣きじゃくる坂家の頭を自分の胸に抱き寄せる。そんな坂家を見ていて、俺は自分ではどうしてやる事も出来ず、ただ二人の様子を黙って見ている。その代わり、坂家が困っている時には、何時でも母を貸してやれる覚悟はある。坂家は俺にとってそれ程大切な存在なのだ。

 俺は小説のアイデアが閃き、そっと居間を出て、自分の部屋に入る。窓辺のレイディオを点け、机の前の座布団の上に腰を下ろす。

「次の曲は東京都の寂しい大学生さんからのリクエストで、キング・クリムゾンの『トゥウェンティ・ファースト・センチュリー・スキゾイト・マン』をお贈りします」

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