第4話
俺は居間の奥の縁側を左に曲がり、母が向かった母の部屋の方へと歩いていく。縁側を少し進むと、縁側は庭を囲むように更に右に折れ曲がって続く。縁側を右に曲がると、左側に祖父の書斎がある。庭には大きな松の木があり、その後ろに芸術的な奇妙な形をした植木鉢が沢山並んでいる。その手前には小さな池があり、こちらから石橋が架かっている。俺は大きな高価な本棚にぎっちりと本が並ぶ祖父の書斎の前を通る。廊下の突き当たりには便所があり、その右に風呂場がある。俺はその突き当たりの便所の前を左に曲がり、漆黒の木の階段を上っていく。階段の上には明り取りの窓があり、眩しい光が差し込んでいる。
階段を上がって二階に来ると、右と左に廊下が延び、物音のする左の方へと歩いていく。どうやら物音は廊下の突き当たりの部屋辺りから聞こえてきているようだ。俺は突き当たりの部屋の前で立ち止まり、引き戸の開いた部屋の中を覗く。その部屋の右奥の押入れの前の赤い絨毯の上に座り込んだ母がこちらに背を向け、何かを見ている。俺はその母の後姿に、「お母ちゃん」と声をかける。母は素早く振り返り、「ああ、びっくりした!」と驚いた顔で俺の顔を見て言う。母は両手に大きな封筒を三束持っている。
「こっちにいらっしゃい」と母が優しく俺を部屋の中に招く。「これ、お母ちゃんが若い頃に書いた小説や詩なの」
「お母ちゃん、詩も書いてたの?」
「昔よ。あなたが生まれるうんと前。中学生の時から高校一、二年生ぐらいまでのよ。家に帰ったら、見せてあげるわね。まだまだイラストやら何やら一杯あったんだけど、何処にやったのかしらねえ」
「イラストも描いてたの?」
「漫画も描いてたのよ」
「へええ」
母が窓辺にあるピアノに手を置き、「これっ、お母ちゃんのピアノなの」と言う。
「お母ちゃん、ピアノ弾けるの?」
「独学だけど、詩を書いて、それに節を付けて、ピアノを弾きながら、よく自分で作った歌を歌ってたの」
「お母ちゃん、何でも出来るんだね」
「色んな事やってたけど、結局何にもならなかったわ」
「何で何にもならなかったの?」
「何でかねえ」と母は言い、また押入れの中から何かを捜そうとしている。「多分、学業やら、仕事やら、恋愛なんかと、創作を両立していくのが段々と出来なくなったのね。遊びたい年頃に創作に専念出来る人はとても意志の強い人よ。御洒落したり、友達と海水浴や旅行に行ったり、遊びの方に夢中になってる内に、お父ちゃんに出会って、結婚して、あんたが生まれて。ああ、この箱の中にはね、お母ちゃんがビーズとかお裁縫で作った小物が入ってるの。こっちの箱は切り絵や水彩画。こっちは下手な俳句や短歌。このカンカラの中にはねえ、お母ちゃんがピアノ弾きながら、自分で作った歌を歌って録音したカセット・テープが一杯入ってるの。別の箱に仕舞っておいた小説の箱がもう一つ別にある筈なんだけど、おかしいなあ・・・・。あっ、あったあった!こっちの小説はねえ、結構背伸びして書いたような一寸エッチな小説なの」
「ええ!気持ち悪い!」
「気持ち悪くないでしょ。失礼ねえ」と母は言うと、見つけたばかりの小説の原稿の入った箱を開ける。箱の一番上に封を開けた煙草とマッチが置いてある。
「お母ちゃん、煙草吸ってたの?」
「一寸、遊びで吸った事あるのよ。中毒になる前に止めたんだけどね」
「ふううん」
俺は母の過去が自分の想像していたのとは全く違う事に意外な感じがする。母はこの自作品の世界にどっぷりと浸り、とても幸せそうにしている。母に比べたら、俺なんかまだまだ何もやってないようなものだ。
「あんたも目一杯やりたい事をやるのよ。若いって事はね、まだまだ一杯色んな事を始められるの。音楽をやってる人に出会ったら、僕も音楽をやってみよう。絵を描く人に出会ったら、僕も絵を描いてみよう。映画を撮ってる人に出会ったら、僕も映画を作ってみようってね。どんどん、どんどん、自分の創作世界を広げていくの。社会人にもなるとね、子供の心のままではなかなか大人の社会で力を発揮出来ない事があるの。大人になるためには捨ててしまう心かもしれないけれど、創作には子供の心が最高に活きるの。現実には心をすっかり入れ替えて、創作以外の仕事と創作を両立していく事はとても難しい事なの」
「お母さんは大人で、僕は子供?」
「翔太の質問の意味はお母ちゃんにもよく判るのよ。お母ちゃんもそう言う質問を一杯子供の時にお母さんにしたわ」
「子供の頃の気持ちを憶えてるなら、大人だね」
「そうよ、お母ちゃんは大人」
「でも、子供の心だってあるよ」
「あなたの心より少しお姉さんの心ならお母さんにも確かに子供の心があるわ」
俺は母が自分の事をとてもよく知っている事に微笑む。
「車でお母ちゃんの作品を全部家に持って帰ろうかしらね。本も、もしかしたら、あなたが読みたい本があるかもしれない。全部持っていきましょうね」
「うん!」
「お母ちゃんも作品を全部持っていけば、仲間外れにならないわ」
「俺、お母ちゃんを仲間外れになんかしないよ」
「翔太は良い子よおおお!」と母が俺の顔を両手で挟んで、俺の頬を揺さ振りながら言う。
「お母ちゃんはもう創作はしないの?」
「家の事で忙しくて、とても出来ないわ。お母ちゃんには家事や仕事と創作を両立するのは無理なの」
「そうなの?」
母は首を傾げてじっと俺の眼を見つめる。俺は母が一体何を想って俺を見つめているのかが判らない。
母は笑顔で、「お母ちゃんも頑張らないとねえ」と言う。「忙しい、忙しいなんて言って、思い出作りを怠ると、人生なんてあっと言う間に終わっちゃうものね」
俺は母の眼を見上げて、じっと見つめる。
「翔太だって、毎日忙しい合間を見て、せっせ、せっせと創作してるのよねえ」
「俺、ちっとも忙しくないよ。毎日暇だらけ」
母は笑顔で俺を見つめる。俺は母に心の中をじっと見つめられているような気持ちがする。母の顔には何でも知っている大人の心しか見えない。俺はこの母とずっと暮らしてきたんだなあと思う。この母がいつも独り疲れていたんだ。坂家も女だけれど、この時、母が見せたような心は坂家の顔には見えない。
「翔太はお父ちゃんそっくりね」
俺は母のその言葉を聞いて、とても誇らしい気持ちになる。
「じゃあ、翔太、一階にお母ちゃんの作品の入った箱を一緒に運んでくれる?」
「うん!」
母と俺は母の作品と本の入った箱を母の部屋から運び出し、階下に下りて、祖父母と話をしている父ちゃんの前を通り越して、玄関に行き、靴を履いて車の中に運び込む。
「あなた!帰るわよ!」と母が玄関から居間にいる父ちゃんに声をかける。
「おお!今行く!」と父ちゃんは言い、祖父母と話しながら、玄関に来て、靴を履く。父ちゃんは丁寧に何度も祖父母に頭を下げながら、「それじゃあ、また今度来ます」と言い、祖父母の尽きない話に「はい」「はい」と若々しく返事をし、切りの良いところまで聞くと、漸く玄関を出る。
「それじゃあ、お邪魔しました」と父ちゃんは見送りに表に出てきた祖父母に言い、車の運転席に乗り込む。後部座席で後ろ向きになり、祖父母に手を振る俺に、祖父母は笑顔で頷きながら、手を振り返す。車が発進し、俺は祖父母に姿が見えなくなるまで手を振り続ける。
「翔太、お祖父ちゃんは陶芸と俳句をやってるのよ」と母が俺に言う。
「陶芸って、何?」
「お庭に変わった植木鉢が一杯綺麗に飾られてたでしょ?」
「うん」
「あの植木鉢がお祖父ちゃんの陶芸作品なの」
「ふううん」
「翔太もやってみたければ、夏休みにお泊りしに行って、お祖父ちゃんから教わったら良いわ」
「教えてもらいたい!お祖母ちゃんには作品はないの?」
「お祖母ちゃんはねえ、芸術より漢方薬作ったり、お漬物作ったり、園芸とかが好きなの」
「ふううん」と俺は力ない声で言うと、1人異色の存在である祖母がとても遠い存在のように感じる。
「お母ちゃんに色んな創作をするように言ったのは、実はお祖父ちゃんじゃなくて、お祖母ちゃんなのよ。お母ちゃんはお祖母ちゃんに似たの。お祖母ちゃんもね、一〇代の頃には何にでも挑戦して、色んな創作をしてたのよ」
「作品は残ってるの?」
「空襲で何もかも失っちゃったの」
「ふううん」
「その代わり、作品の良し悪しを見分ける目はあるの。それからお祖母ちゃんは外国の翻訳小説を読むのが好きなのよね、楽しみを一杯持ってる人なのよ」
「父ちゃんの方のお祖父ちゃんお祖母ちゃんは芸術家?」
「お祖父ちゃんは書家だ。お祖父ちゃんの家の掛け軸に墨で字が書かれてたろ?」
「うん」
「あれがお祖父ちゃんの作品だよ」
「お祖母ちゃんは?」
「お祖母ちゃんは大の映画好きでね、それと毎日一生懸命、南無妙法蓮華経って、お経を唱えてるんだよ」
「ああ、聞こえた事ある。お祖父ちゃんが邪魔しちゃいけないよって、よく言ってた」
「お祖母ちゃんは子供の頃からずっと日記を付けてるんだ。翔太も日記を付けると良い。日記は作家の宝だからな。毎日書けないならば、気紛れ日記でも良い」
「気紛れ日記でも良いなら、僕も書く!」
「日記は基本的に自分のために書くものだから、自分がその日その日思ったり、感じたりした事を大人になっても思い出せるように詳しく書くと良い」と父ちゃんは俺に言い、「慶子、疲れてないか?」と母に体調を気遣って訊く。
「大丈夫よ。すっかりもう元気」
「そうか。ああ、夕食はそこの焼肉屋に入るか」
父ちゃんは焼肉屋の駐車場に車を停める。
「よし!降りて良いぞ!」
俺は大喜びして車の後部座席のドアーを開け、外に出る。
「翔太はどれだけ肉食えるかな」と父ちゃんが俺の右肩に手を置いて言うと、並んで焼肉屋に入る。
「何人様でしょうか?」と三〇代ぐらいの女性店員が父ちゃんに尋ねる。
「三人です」
俺と父ちゃんと母は店員さんに案内され、駐車場に面した四人席に腰を下ろす。
「御注文は何になさいますか?」
「カルビー五人前と御飯三つ」
「かしこまりました。少々お待ちください」と女性店員は言い、鉄板の電源を入れ、脂を敷くと、カウンターの方に戻っていく。
「お父さんお母さんに頑張って作家になれって励まされたよ」と父ちゃんが母に言う。
「あら、そう。作家として家族を養うおつもりなら、本当に小説頑張ってくださいね」
「うん、頑張る。お前達は何も心配しなくて良い。長年独りで小説書いてきて、漸く決心が付いたんだ」
「あたしも昔の作品と本を全部持ってきたのよ」
「家に帰ったら、じっくりと観せてもらうよ」
「俺も観たい!」
母は笑顔で俺に頷く。母はすっかり元気になったようだ。
女性店員が薄く切った生肉の載った大皿と御飯を盛った茶碗を三つ運んでくる。
「ようし、食うぞう!翔太、どんどんお肉焼きなさい。食べてる間に次々と自分のお肉が焼き上がるように、焼きながら食べるんだぞ」と父ちゃんが焼肉の食べ方を俺に教える。「鉄板に手が触れたら、大火傷するから気を付けろよ。脂が跳ねると一瞬熱いけれど、火傷する程ではないんだ。男は熱くても漫画の不死身の男のように、男らしく平然としているものだ」
「うん」と俺は言い、鉄板に肉を一切れ置く。
「四、五枚ずつ一遍に焼きなさい」
「そんなに一遍に置くのか」
「少し赤いぐらいが丁度美味いんだ」
俺は次々と肉を鉄板の上に置く。
「両面焼くんだぞ。ああ、最初に焼いたのはもうひっくり返して良いよ」
「ああ、ほんとだ。もう白くなってる」
「今のもう焼けてるぞ」
「ええ!もう食べられるの!」
「タレを付けて食べてみろ。焼肉の時はごはんが矢鱈と美味いんだけど、御飯は一杯だけにして、肉を沢山食べられるようにお腹を空けとくと良い」
「うん」と俺は言い、焼肉をタレに付けて齧る。「熱っ・・・・。タレが美味しいね」
「男はな、熱いとも言わないぐらいがカッコいいんだ。どんどん他の肉もひっくり返せ」
「うん」
「慶子はよく焼くなあ」
「赤いままのお肉は何かねえ」
「翔太、『友情』は読んだか?」
「まだ全然読んでない。家に帰ったら読む」
「漫画と小説、翔太はどっちが好きかしらねえ」と母が俺を見て言う。「翔太の年齢じゃ、皆、児童書を読むもんだから、文庫本になってる大人の小説はまだ早いかもしれないわね」
「偉人の伝記を沢山読んでるから、武者小路ぐらいなら翔太にも読めるだろう」
「あなた、何歳で大人の文学を読み始めたんですか?」
「中学生ぐらいからかな」
「ああ、じゃあ、あたしと同じくらいの時期ね」と母が父に言う。
「翔太もそろそろ夏休みだな」
「明後日の月曜日に学校行ったら、後はもう夏休み」と俺は肉を噛みながら、父ちゃんに言う。
「明日は家族三人揃って、車で東京の本屋にでも行こう」と父ちゃんが言う。
「やっぱり車があると何かと便利ねえ」と母が焼肉を食べながら、笑顔で言う。
「焼肉は美味いな」と父ちゃんが物凄く早いペイスで焼肉を食べながら言う。「焼肉の時は御飯が美味いだろ、翔太?」
「うん、美味しい。もう後一口しかないや」
「肉が入らなくなっても良いなら、御飯を御代わりしても良いぞ」
「じゃあ、御代わりする!」
「すみません!」と父が店員を呼ぶ。女性店員が直ぐにこっちのテーブルの方に来る。
「御飯もう一つください」と父ちゃんが俺の御代わりの御飯を女性店員に注文する。
「はい、かしこまりました」と女性店員は言うと、直ぐにテーブルを去っていく。
「御飯が美味いなら、御飯食えば良いのかもな」と父ちゃんが御飯を掻き込みながら、母に言う。
「あら、あなたが翔太から学んだ訳ですね」と母が焼肉を食べながら、笑顔で父ちゃんに言う。「子供は素直だから、大人が判らなくなってる事を大人に気付かせる事がありますよね。でも、子供から素直に学べるあなたも純粋な人なんですよ」
父ちゃんは微笑みながら、焼肉を焼いて、休まず焼肉を食べている。父ちゃんが漁師を辞めた途端、初めて食べる料理がこんなにも沢山ある事を知った。俺はそんな御馳走の美味しさに正直なところ驚いている。
「俺、料理の練習したいな。将来、料理人になって、皆のために美味しい料理を作ってあげたい」と俺が言うと、父ちゃんと母は顔を見合わせ、唖然としている。
「翔太、それはすばらしい考えだけれど、料理は家で練習すれば良いんじゃないか?将来の仕事にまでしたいかどうかはその後考えなさい」
「うん」
「翔太の文学はもう始まってるんだし、漫画だって描きたいんだろ?」
「ううん」と俺は唸りながら、面倒なものに道を立ち塞がられたような気持ちになる。何だか小説や漫画なんてさっさと放り投げたいような気持ちになっている。
「それなんだよ、翔太。人が人生で何時どのように変わり、大きな転換期を迎えるかは誰にも予想がつかないんだ。その人の目指す本当にやりたい事が決まる瞬間に、その人の心に一体何が起きたのか。翔太、料理人に本気でなりたいのなら、父ちゃんもお母ちゃんも反対はしないよ。翔太のなりたい者を目指しなさい」
「うん!」と俺は自分が新しい夢を持った事を父に祝福され、喜びで一杯になる。父ちゃんと母はそれきり焼肉を食べなくなった。俺はまだまだいけると焼肉を食べ続ける。食べながら、タレの作り方を考える。御米の炊き方もお肉の切り方も知らない。お寿司を食べた事を思い出し、スパゲッティを食べた事を思い出し、中華料理を食べた事を思い出す。和洋中の料理人の道が俺の目の前に突然広がり、俺はもう料理人になる事以外何も考えられなくなる。父ちゃんと母は俺が焼肉を食べている傍で頻りに何か話し合っている。俺はそんな大人の話には聞き耳も立てず、只管焼肉を食べる。
「ああ、腹一杯だ。もう食べられない」と俺は満腹の腹を叩きながら、椅子に凭れて言う。
「まだ料理人になりたいか?」と父ちゃんが俺に訊く。
「食べ物の事はもういいよ」と俺は吐き気を催して言う。
「料理人って言うのはな、自分が空腹でなくとも料理を作らなければならないんだ」
「ううん」と俺は満腹の苦しさの中で父ちゃんの話しを聴いて唸る。
「人には向き不向きってものがあるんだよ。何にでもなれるスーパーマンなんて現実は存在しないんだ。一生続けるって事ではな」
「うん」と俺は自分の無力さを深く感じて言う。
「自分がなりたいと思う夢が次々と出てくるのはとても幸せな事なんだ。ただな、そのために努力出来る物事は意外と少ないんだ。男でも気分転換に料理をする人は意外と多いんだ。趣味に留めておく事が多くある人はとても恵まれてるんだ。父ちゃんだって別に料理は嫌いじゃない。食いしん坊には料理が好きな人が多いんだよ」
「俺も料理は趣味で練習する」
母がじっと俺の眼を見て微笑んでいる。
「料理は一人暮らしにもとても役に立つんだよ。自分で料理が出来れば、お金も余りかからない。得意料理を家に来たお客さんに振る舞うのもとても楽しい事だし、物凄く喜んでもらえる事だ。漫画や小説を書き続けるなら、色んな事を勉強し、色んな事を経験すれば、作品の中では色んな者になれる。そこが小説や漫画の創作の面白いところでもあるんだ」
「俺、やっぱり漫画と小説を書いて作家になりたい」
「漫画家や小説家は何を仕事にして生活してると思う?」
俺は不安げに首を傾げ、考え込む。
「漫画を描く事を仕事にするのが漫画家で、小説を書く事を仕事にするのが小説家だろ?翔太、混乱してるな」
「何だ!そんな事か!」と俺は父ちゃんの馬鹿げた質問の答えに腹を立てて言う。
「それが本当に判ってれば良いけどな。漫画家は漫画を描いてお金を貰わなくては生きていけないんだ。小説家は小説を書いてお金を貰わなくては生きていけないんだ。書く事が浮かばないからと何も書かなければ、食べていく事も出来ない。そうなったら、ぎりぎりまで書く事が浮かぶのを待ち、書く事が出てこなくなったら、何か他の仕事をして働き、収入を得るしかない。アイディアが溢れんばかりに出てくる才能を開花させなければ、作家にはなれないんだ。そのためには色んな本を読み、色んな映画を観て、色んな音楽を聴かなければいけない。何をしている時もいつも創作の事を第一に考えながら生活しなければいけない。色んな事に興味を持ち、自分の事を誰よりもよく知る者にならねばいけない。勿論、自分の事を全て知っている者なんて神様や仏様しかいないんだけれどな」
「好きな事があるのは幸せな事よ」と母が俺に言う。
「好きな事をする時間が一杯ある事も幸せな事なんだぞ」と父ちゃんが俺に言う。「人生には無駄な事なんて何一つないんだ。小説や漫画を沢山書くには色んな経験が必要になってくる。そのためには趣味を一杯持つ事がとても大切な事になるんだ。馬鹿げた事、くだらない事だど思ってしている事も、その日々の積み重ねが、将来、大きな発明に繋がったりもする。プロの表現者になって自分が書ける事が直ぐに尽きてしまうような未来にならないように、よく気をつけて生活していけよ」
「うん」
「じゃあ、そろそろ家に帰るか」と父ちゃんは言って、席を立つ。母と俺も席を立ち、会計の方に向かう、父ちゃんの後について歩いていく。
会計を済ませ、店を出ると、家族三人車に乗り込む。
「さあ!家に帰るぞ!」と父ちゃんは言って、車を走らせる。
俺の心は車の中から見える夜景にわくわくするような魅力を感じている。車の外に出て、子供が独りで歩けるような時間帯は疾うに過ぎている。心の頼りは完全に父ちゃん一人に係っている。大人は夜をどう感じているのだろう。夜は魔物が蠢く時間帯だ。何時か俺が自動車の免許を取って自分の家族と夜のドライヴをする時には、この日の夜の父ちゃんの思いをきっと理解出来るぐらいに成長している事だろう。お母ちゃんはもう気持ち良さそうに居眠りしている。
「翔太、焼肉は美味かったか?」と父ちゃんが運転しながら、俺に訊く。
「美味しかった!」
「飯食って、ゆっくりしてきたら、また料理人になりたくなったか?」
「ううん」
「やっぱり、作家になるか?」
「ううん」
「焼肉屋、また今度行こうな」
「もうお腹一杯だよ」
「そうか(笑)。腹一杯の時に次に食う飯の予定なんて考えたくないよな」
「父ちゃんは子供の頃、趣味は一杯あったの?」
「そうだなあ、釣りだとか、ハーモニカだとか、読書だとか、それからあ、絵を描いたり、紙芝居を作ったり、それから・・・・」
「紙芝居?父ちゃん、紙芝居作ってたの?」
「うん。紙芝居を作ってる時が一番自分が大人に思えて、七、八作作ったかな」
「ふううん。お父ちゃんは大人?」
「そりゃ、そうだよ。翔太のお父さんなんだから、大人だろう」
「でも、子供の心もあるでしょ?」
「うん、まあな」
父ちゃんは家の前に車を停め、「さあ、家に着いたぞ」と言う。
「ああ、よく寝たわあ」と眠りから目覚めた母が体を伸ばしながら、僕らのいる世界に一声を放つ。その声を聞いて、何時の間にか眠り込んでいた俺も目覚める。俺は目を開け、暗い車内の匂いを嗅ぐ。力が抜けていて直ぐには声を出せない。
「よく眠ってたよ、慶子」
「何か頭の中がすっきりしたわ」
「病み上がりの悪い気が抜けたんじゃないか?さっぱりしただろう?」
「ああ、すっきりしたあ」と母は助手席のシートに座ったまま、家の前に止まった車の中から慌てて出る様子もなく、落ち着いて言う。
「翔太、お母ちゃんの作品と本を家の中に運んでやれ」
「うん、判った」と俺は言い、車のドアーを開ける。父ちゃんと母は車の中から出てこない。俺は荷物を家の玄関の中に運び、誰もいない家の中に、「ただいま!」と元気良く言って入る。家の中は真っ暗で、俺は食卓の上の蛍光灯を点ける。俺は荷物を畳の上に置くと、再び車の中の荷物を取りに家の外に出る。母が車から出てきて、「ああ、翔太、お母ちゃんの荷物運ぶお手伝いしてくれてありがとうね」と言う。「後はお母ちゃんが運べるから家の中にいなさい」
「うん」と俺は言って、独り家の中に入る。俺は自分の部屋に入り、電気を点ける。窓辺に置いてあるレイディオを点け、電気スタンドを点ける。俺は机の前の座布団の上に腰を下ろす。俺は机の上にある武者小路実篤の『友情』を手に取り、読み始める。
『次の曲は東京都の寂しい大学生さんからのリクエストで、ニール・ヤング・アンド・クレイジー・ホースの『ドント・クライ・ノー・ティアーズ』をお贈りします』
「翔太」と背後から父ちゃんが俺の部屋の前で俺の名を呼ぶ。「ああ、本読んでるのか。『友情』読み始めたんだな。翔太、判らない字は飛ばさずに必ず辞書を引くんだぞ」
「うん」と俺は父ちゃんに背を向けたまま答える。
『友情』を一気に半分ぐらいまで読むと、俺は楽しそうな両親の話し声がする居間に行く。
「ああ、お母ちゃんの作品?」と俺は居間一杯に広げた母の作品群に目を奪われる。「色んな物があるねえ」
俺は母の作品を手に取り、眺めたり、読んだり、聴いたりして、芸術三昧の夜を楽しむ。
午前零時過ぎに俺は寝る支度をし、父ちゃんと母に、「お休みなさい」と言って、自分の部屋の布団に入る。
翌朝、目覚めると、俺は山に山菜を採りに出かけ、朝ご飯のおかずを採ってきて、家に帰る。
「ただいま!」と俺は言って、家の中に入る。居間と寝室の間を父ちゃんが行ったり来たりしている。俺は山菜を母に手渡す。父ちゃんは居間で背広に着替え始める。
「武者小路はどうだった?」と父ちゃんがタイを結びながら、俺に訊く。
「何か自分の知らない世界に入ったような気がした」
「それが武者小路実篤の世界だよ。小説には作者の文学世界があるものでな、武者小路はその点、色濃く自分の世界を確立する事に成功した人だ。小説を読む楽しみは作品の宇宙を楽しむ事でもある。漫画よりも作品に入り込むまでに時間がかかるけれど、小説には小説の良さがあるんだ。文章だけで表現する事の難しさや奥深さが判ったら、文学を愛する心なんてとっくに生まれているだろうな。翔太、今日、翔太が学校から帰ってきたら、皆で東京の本屋に行こう」
「うん!行く行く!」
「楽しみにしてろよ」
「俺、ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』の文庫本と『タイガーマスク』の二巻が欲しい」
「『タイガーマスク』は全巻纏めて買ってやる」
「やったあ!」
「こんな寂れた土地に住んでたら、図書館でも利用しないと、小説なんかには先ず有りつけないからな」
「学校の図書館をよく見てみるよ」
「そうだな。それが先だ。ここらは隣町にでも行かないと公共の図書館なんてないだろう」
母が朝食を食卓に運びながら、「あなたは読んだ本を一体何処に置いてらっしゃるんですか?」と父ちゃんに訊く。
「俺が買って読んだ本は全部港の倉庫に置いてあるよ。買わないで読む読書は喫茶店の本ぐらいかな」
「買った本は全部家に持って帰ってきてくださいよ。そうしたら、あたしも翔太もその中から読みたい本を探せるかもしれないじゃないですか」
「まあ、そりゃそうだな。俺は本は大概一回しか読まないから、今まで買って読んだ本が山程倉庫に置いてあるよ。ここらでは本なんてもんは誰えも持ってかないよ。本当の田舎もんってのは本なんて全く読まないものだよ。そいじゃあ、翔太が学校行ってる間に車でちょっくら取ってくるか」
「そうしてください。本だって只じゃないんですから」
「判った!判った!」と父ちゃんが母の気に圧倒されて、何度も掌を母の顔の前に押し出して言う。
「父ちゃん、何時お母ちゃんと『珈琲港』に行くの?」
「今日、東京の別の喫茶店に連れていこうと思ってるんだ。『珈琲港』には何時でも行けるからな」
「あら、楽しみねえ、喫茶店なんて」と母は嬉しそうに笑顔で言い、「それじゃあ、いただきまあす!」と言う。
「いただきまあす!」と父ちゃんと俺も言って、家族三人揃って朝食を食べ始める。
「翔太が毎朝おかずを採ってきてくれるから、俺達の朝飯におかずがあるんだな」と父ちゃんが紫蘇の天ぷらを齧りながら言う。「美味いな。これが山に行けば、ただで手に入るのか。何だか食える山菜と食えない山菜を説明した図鑑でも読んでみたくなるな」
「俺も読みたい!」と椎茸の天ぷらをおろし醤油に付けて食べながら、俺が言う。
「東京の本屋に行って、良い図鑑があったら、買ってみようか」と父ちゃんが山芋の天ぷらを食べながら、俺に言う。
「うん!」
「翔太の洋服も買ってあげたいわね」
「お前も服を買うと良い」
「あたしまで買っちゃって良いのかしらね。嬉しいわ」
「ご馳走様でした」と俺は言い、ランドセルを背負って玄関に向かうと、靴を履く。「それじゃあ、行ってきまあす!」と元気良く言って、学校へと駆けていく。
「翔太!」と俺の後ろから啓司が大声で俺に声をかける。
「よう!啓司!」と俺は立ち止まって振り返って言う。啓司は俺に追いつくと、「啓司、俺もガールフレンドが出来たんだ」と打ち明ける。
「翔太のガールフレンド!誰?誰?」
「坂家だよ。今度鶴田と四人で遊ぼう」
「うん、良いよ。何だ、坂家を恋人にしたのか。あの子、美人なのに物静かで、いつも独りでいるよな」
「俺達、久しぶりに話すな」
「うん、言われてみるとそうだね」
「お前は鶴田しか見えてなかったろ?」と俺は右手の拳を啓司のこめかみにぐりぐり押しつけながら言う。
「だって、里美ちゃん、可愛くてさあ」と啓司がデレデレと緩んだような顔付きで言う。俺はここ数日で経験した色んな事を啓司と確認したかった。物凄く同姓同士で話したいのだ。啓司と並んで歩きながら、俺はなかなかその事を話す切っかけが掴めず、自分の中でこれは口に出して人に言うべき事ではないなと思い至る。話してしまいたい事を話さずにいられるのが大人なのかもしれないと思うと、父ちゃんや母の事を思い出す。それはとても苦しい事だ。それを貫くにはもっともっと男らしくならなければいけない。
「明日から夏休みだな」と俺は啓司に話しかける。
「翔太、夏休み、どっか行く?」
「お祖父ちゃんの家に行くよ。今日は学校から帰ったら、東京に車で行くんだ」
「東京かあ。俺も行ってみたいなあ。あれ?翔太の家に車なんかあったっけ?」
「最近、父ちゃんが中古で買ってきたんだよ。何かTVも買うって言ってた」
「おお!翔太の家、急にリッチになったな!」
「うん。父ちゃんが漁師を辞めて、小説家を目指しててさ、そうなるとこれから父ちゃんはずっと家の中にいるようになるんだよ。父ちゃん、家の中に必要な物をどんどん買おうとしてるんだよ」
「小説家か・・・・」
「俺も最近、小説を書くようになったんだ」
「漫画はもう描かないの?」
「漫画も描くよ」
「俺は翔太の漫画、絶対面白いと思うよ」
「ありがとう。啓司は俺の漫画の一番のファンだよ」
「翔太なら、絶対プロになれるよ。あっ、里美ちゃんだ!そいじゃあ、一寸失礼」と啓司は言って、十メートル先を歩く鶴田の方に駆けていく。
何だか啓司も変わってしまったな。そう言う俺も啓司の知らない間に随分と変わってしまったな。啓司はそんな俺をどう受け止めたのだろう。啓司の事だから、人間、変わって当たり前だと思ってるのかもしれない。
学校まで俺は啓司と鶴田が並んで歩く後姿を見ながら、ゆっくりと歩いていく。
教室に入ると、教室の中はクラスメイトで一杯だ。今朝は早く来て漫画を描く事をすっかり忘れ、のろのろと歩いてしまった。坂家は机の前に座り、ノートに夢中で何かを書いている。俺は坂家のたった一人の友である。俺は椅子の背に凭れかかって座り、坂家の後姿を眺める。
担任の新原先生が教室の前の扉から教室に入ってくる。
「起立!」と日直の宮里清美が号令をかける。
「気を付け!」「礼!」「着席!」
教室と言う巨大な建物の胃袋の中でゴロゴロとお腹が鳴るように騒がしく椅子の音を立てて生徒らが立ち上がり、着席する。俺達は山程夏休み中の宿題を言い渡され、一学期最後の学校が終わる。
俺は坂家と一緒に学校の正門を出て、海沿いの道を歩く。猛暑の強い日差しが照りつけ、狂ったように油蝉が泣く。頭上の空は真っ青で、白い入道雲が綿菓子のようにこんもりと膨らみ、地平線に聳え立っている。
坂家は本当に口数の少ない子だ。話しかける前はそれが原因してとても存在感が薄かった。友達になってみると、意外と面白い子で、その坂家が僅か数日の付き合いで俺の恋人になった。坂家は俺の母の雰囲気にとてもよく似ている。
「坂家、俺の親に今度、お前の事を紹介したいんだけどさ」
坂家は俯いて、黙っている。
「帰りに家に寄らないか?」
「良いよ」と坂家が俺の顔を見て、笑顔で答える。
「ああ!今日、帰ったら、親と東京に行くんだった!家に来るのはまた今度な」
「うん」と坂家は俯いて、微笑みながら言う。
「坂家が読む本は何処から手に入れてるの?」
「学校の図書室とか、市の図書館よ」
「市の図書館って、何処にあるの?」
「歩いて四〇分ぐらいの所にあるわよ」
「今度連れてってくれよ」
「良いわよ」
「俺、此間病院で『タイガーマスク』の単行本一巻と武者小路実篤の『友情』って文庫本を買ってもらったんだ」
「ええ、凄い。読み終わったら、あたしにも貸して!」
「うん、良いよ。『タイガーマスク』の一巻はもう読み終わったから、今夜、お前の家に届けにいくよ。今日、東京に行って、『タイガーマスク』全巻とロバート・A・ハインラインの『夏への扉』の文庫本を買ってもらう事になってるんだ。それも読み終わったら、坂家に貸すよ」
「そんなに本を買ってもらえるの!」
「家、東京に小さなコンドミニアムを買うぐらいのお金なら既にあるらしいんだ」
「ええ、凄い!」
「お母ちゃんが父ちゃんの稼ぎをずっと貯金してたらしくて、自分で働いて得たお金を全部生活費に充ててたらしいんだ」
「ふううん。家は本当に貧乏なのよ。東京でコンドミニアムを買うぐらいのお金があるなんて夢みたいな話ね」
港から家への坂を坂家と上り、俺は家の前に来る。
「坂家、それじゃあな」
「バイバイ!」と坂家は俺に笑顔で手を振り、更に自分の家まで坂を上っていく。
「ただいま!」と玄関に入った俺は家の中に声をかけ、靴を脱いで薄暗い家の中に入る。
「おお、翔太、お帰り!」と食卓の前の座布団の上に腰を下ろした背広姿の父ちゃんが振り返って俺に言う。
「お帰り、翔太」と母が台所から俺に言う。
俺は小説を書きに自室に入る。
俺は机の前の座布団の上に座り、原稿用紙に向かうと、溢れるようにアイディアが出てきて、夢中になって小説を書き始める。
『或夏の日曜日の昼前』
海原翔太
暑い夏の日曜日、朝食を食べ終え、いつもなら何かをして過ごす日曜日の昼前を、今日は何をしたら良いのか全く思い付かず、何もせずに部屋の畳の上に寝転がっている。何もせず寝転がっていると、何だか死体になったような気がしてくる。やりたい事が思い付かないと、人間はこんな風に時間だけが過ぎて行くのを感じるものなのか。
両親は町内会に出かけていて留守である。寝転がって見回す部屋の中は誰かが嘗め尽くした後のように不潔な感じがする。
煩い!と叫び出したくなる程騒がしく油蝉とミンミン蝉とつくつくぼうしが鳴いている。
何処かに出掛けないと。
気持ちばかり焦り、何をしたら良いのか、何処に出かけたら良いのかも判らない。僕は胡坐を掻き、首振りになった扇風機を両手で固定し、ガタガタと音を立てる、扇風機の風で汗だくの熱い顔を冷やす。扇風機に向かって声を出し、変な声になるのを楽しむ。
季節の移り変わりの中で毎年同じ季節になるとやる同じ事の繰り返しに気付いたのは一体何時からだろう。今では毎年やる事は毎年やりたい。
明るい窓外に天気雨が突然降る。僕は畳から起き上がり、窓辺に腰かける。雨が陽にキラキラと輝き、部屋の中を涼しい風が吹き抜ける。
気持ちが良い。
僕は窓辺から立ち上がり、台所に向かう。
台所に入ると、僕は冷凍庫の扉を開け、氷を一つ口の中に放り込む。氷のあまりの冷たさに口を半開きにし、目をきつく閉じる。居間の向こうの玄関の外から両親の話し声が聞こえてくる。
完
俺は小説を書き上げ、居間にいる父ちゃんに見せに行く。
「父ちゃん!また小説書いたよ!」
「ほお!どれ、見せてみろ」と父ちゃんが笑顔で原稿用紙を受け取る。父ちゃんは早速俺の出来立ての小説を読み始める。
俺は居間の畳の上に腰を下ろし、両手を後ろに突くと、脚を伸ばし、父ちゃんが読み終わるのを待つ。
「ううん」
「どう、父ちゃん?」と俺は眼を輝かせて父ちゃんに感想を訊く。
「翔太、やっぱり、お前は詩人だな。これは全く詩だよ。これはお前が大人になったら、きっと貴重な作品になるだろう。何でも良いから書きたい事を書きなさい。枚数は短くても長くてもどちらでも良いんだ。良く書けてるよ」
「やったあ!」
「翔太、また小説書いたの?」と母が鏡の前でおめかしをしながら訊く。
「小説じゃなくて、詩なんだって」と俺は母に言う。
「いいや、翔太、お前が小説として書いたなら、それは小説なんだよ」
「どれどれ、お母ちゃんにも読ませて」と母が原稿用紙を父の手から受け取り、読み始める。
「翔太、今日、本屋に行ったら、武者小路の詩集を買ってやるよ。武者小路の詩は読み易いから、最初に読むには良い入門書になるだろう」
「まどみちおなんかも良いけどねえ」と母が俺の小説を読みながら言う。「なるほど。これは確かに詩的な小説ね。良いんじゃないかな。思い付くままに書く方が色んな作品を生む可能性があるわよ」
「そうだろう」と父ちゃんが非常に満足した顔で言う。
俺は大喜びして母から小説の原稿を受け取る。
「早速、武者小路から小説的な表現を学び取りつつあるみいだな」
「俺、出かけるまで『友情』読んでるよ」と俺が言って、立ち上がると、「もう行くわよ!」と母が俺に言う。
「翔太、小説は車の中で読んだらどうだ?」と父ちゃんが言う。
「乗り物の中で本読むと乗り物酔いするわよ」とお母ちゃんが父ちゃんに言う。
「俺、車の中で本を読んでみたい」
「じゃあ、忘れずに持ってこい」
「うん!」と俺は言い、急いで部屋に『友情』の文庫本と国語辞典を取りにいく。
俺が本と辞書を持って居間に戻ると、父ちゃんが外に出ていき、母が玄関でもう靴を履こうとしている。俺も急いで玄関に行き、外に出ていく母の後ろで靴を履く。
俺は車の後部座席のドアーを開け、車に乗り込む。運転席に座った父ちゃんが、「それじゃあ、出発するぞ!」と楽しそうに言う。
車が発進すると、俺は早速右隣のシートの上に辞書を置き、『友情』の文庫本を読み始める。
「あなた、これ、カセットテイプ が聴けるみたいね。レイディオもあるわ」
「カセットテイプなら、港に沢山置いてあるよ。一寸、港に寄っていくか」と父ちゃんは言い、直ぐに港で車を停める。父ちゃんは車から出て、倉庫に入っていくと、大きな箱を抱えて、早足で戻ってくる。
「これ、全部、あなたの?」
「そうだよ。船の上でずっと聴いてたカセットテイプだ。四、五〇本はあるだろう」
「八代亜紀に石川さゆり。これがあ、北島三郎か。あらっ、沢田研二もある!これ聴こう!」と母は言って、カー・オーディオに沢田研二のカセットテイプを入れて再生する。
「沢田研二は買ってみたけど、船の上ではほとんど聴かなかったなあ」
「へええ、何でだろう。合わないのかしらね、漁師の仕事中には」
「ううん。何かこう、男のために歌ってるような感じが全くしなかったよ」と父が言う。「それじゃあ、出発!」
箱の中のカセットテイプを手に取って見ている母に、「ああ、その辺のフォークはよく聴いてたよ」と父が運転しながら、横目で母を見て言う。
「吉田拓郎か。ああ!小柳ルミ子に岩崎宏美もある!岩崎宏美を聴きましょうかね」と母は言い、カー・オーディオから、今、再生したばかりの沢田研二のカセットテイプを出して、代わりに岩崎宏美のカセットテイプを入れて再生する。「他には・・・・、アグネス・チャンに太田裕美、原田真二、女性歌手が多いわね」
「船の上には女がいないから、男の歌手は余程の歌手じゃなきゃ、滅多にかけないよ。その点、さぶちゃんは別格だったなあ。ほんとよく聴いたよ」
「あなた、東京のどの辺に行こうとしてるの?」
「新宿の紀伊国屋だよ。紀伊国屋で皆それぞれ本買ったら、お前と翔太の服を三越で買って、新宿のどっかで昼飯を食おう。その後に喫茶店にでも入って、一寸ゆっくりしようか」
「港からあなたが読んだ本を持ってきてくだされば、私は本なんて買う必要ありませんよ」
「お前は読みたい本はないのか?大きな本屋だから、一寸見て回れば、読みたい本も幾つか見つかると思うぞ」
「お金の無駄ですよ。買いたい物探しにお店に入るなんて暇人のやる事です」
「慶子、お金はあるんだから」
「そんな贅沢してたら、お金は何時まで経っても貯まりませんよ」
「生きるって事はな、生きて行くためにただ働いて、腹ごしらえと疲労回復のために食っちゃ寝するだけの生活じゃいけないんだ。もっと人生を楽しんで、立派な人間になろうと言う高い志を持って、絶え間無い努力を重ねていくものだよ」
「作家になる事がそんなに偉い事なんですか?」
「それも立派な人間になるための一つの手段だ。俺だって本当はお寺に入ってお経を唱えたり、座禅を組みたいんだよ」
「その話とお金の無駄遣いにどう関係があるんですか?」
「作家として生きていくには沢山の本を読まなくてはならない」
「だったら、港からあなたが読んだ本を全部持ってきてくださいよ。私はそれを全部読みます」
父ちゃんは黙り込んで、前だけ向いて運転し続ける。夫婦喧嘩なんて、俺の知る限り、俺の両親にはずっと無縁な事だった。父ちゃんが漁師を辞めてからお母ちゃんの機嫌が酷く悪い。
「なら、翔太の漫画と小説と服買ったら、どっかで美味いもんでも食って、喫茶店でゆっくりしよう。それで良いな、慶子?」
「十分過ぎる程の贅沢です」
「そうか」
「父ちゃん、漫画の道具は何時買うの?」
「ああ、そうだそうだ!それも大きな画材屋に寄って買わないとな」
「うん!」と俺は返事をすると、直ぐに友情』の続きを読む。
「翔太、最近、漫画を全然見せなくなったわね」
「ああ、最近、描いてない・・・・」
「ああ、今は本を読んでるのね。邪魔しちゃったわね」
「父ちゃん、どうして小説家はこんなに長く物事をじっくりと考えられるの?」
「ああ、なるほど、そう思ったか。それはな、作者の小説の書き方に読者としての翔太が素朴な疑問を抱いたんだよ。こんな風に突き詰めて一遍に考えられる奴は存在しないんだ。創作っていうのはな、嘘の意味で用いられる事もあるんだ。実際の作者は小説の中の主人公のようには考えられないものだよ」
「そうなのかあ・・・・」
「小説を書くには詩人として、思想家として、先ず、自分の人生経験がなければいけない。それを何処でぶちまけ、如何にして述べる機会を得るか、それはなかなか思うようにはいかないもんだよ。小説を書くという行為自体は閃きを待って書く行為に過ぎない。その閃きを父ちゃんは神が通る瞬間と解しているんだが、まあ、そんな事はまだどうでも良い事だな」
俺は国語辞典で、『思想家』と、『経験』と、『閃き』の意味を調べる。
「父ちゃんの好きな作家って、誰?」
「父ちゃんは若い頃から夏目漱石を師として尊敬してきたんだ」
「夏目漱石は知ってる。伝記を読んだよ。夏目漱石の小説って面白いの?」
「日本の小説の原点だよ。面白い作品も真面目な作品もある」
「僕でも読める?」
「素晴らしい作品が多いが、小学生にはどうかな。読み辛い作家なんだ。もっと他に今読める小説が沢山あると思うぞ。ああ、『坊ちゃん』辺りなら子供用に読み易くした小説があるかもな。学校の図書室を見てみろ」
「うん。坂家が市の図書館によく本を借りに行くらしくて、今度、坂家に連れてってもらう事になってるんだ」
「その坂家さんって子は勉強もよく出来るんだろ?」
「学年で二番目に成績が良い子だよ。坂家は小説の他に童話も書くんだ」
「ほう!そりゃあ、良い友達を持ったな!」
「うん」
俺は再び『友情』を読む。
「翔太、本は家に帰ってから読んで、もっと景色を眺めたり、この日の事を楽しみなさい」と母が言う。「もっと自分の眼耳で色んな物を見聞きして創作に役立てなさい」
「人の小説を幾ら読んだって、それは飽く迄他人の経験や想像力の産物に過ぎないんだからな。読書から何かを学び取ろうとすれば、人真似にしかならないのかもしれない。ただな、少年期の多感な時期に見聞きしたものは全て自分の発想の種になるんだ。余程の天才でもない限り、普通は何人かの好きな作家から影響を受けて創作の幅を広げていくものなんだ。自分らしさなんてものは実際に自分で小説を書き始めれば、必然的に生まれるようなものだ。自分が書いた作品が自分らしいなんて当たり前の事だろ?」
「うん」
俺は『友情』を脇に置き、辞書で『賛否両論』と、『多感』と、『発想』と、『創作』と、『必然的』の意味を引く。
「でも、人真似は結局自分で削り捨てるものでしょ?」と母が父ちゃんに訊く。
「まあ、そうだ」
「小説家になるには先ずは詩人であるべきよ」
「おいおい、あんまり色んな事を言うと翔太が混乱するぞ」
「父ちゃん、今日、詩集も買ってくれるんでしょ?」
「ああ、武者小路の詩集をな」
「あたしも小説や詩や漫画を書くお手本として名作を一通り読んだのよねえ」
「おい!親がコロコロ意見を変えるな!子供が混乱するばかりだ。良いんだよ。オリジナリティーに関しては俺もお前と同じような事を考えてきたんだ」
「そう・・・・」
俺は読書を家の中でしかしない事に決めた。
車が都内に入ると、目を瞠るような景色にただただ驚く。都会のきらびやかな景色が俺の創作意欲を刺激する。
「翔太は大人になったら、どんな所に住みたい?」と父ちゃんが運転しながら、俺に訊く。
「うんと遠くまで行って、世界中から様々な人種が集まって色んな外国語が飛び交ってるような、大きくて賑やかな国に住みたい」
「ほう、それはインディアかな?アメリカかな?」
「判んない」
「ううん」と父ちゃんは唸ると、「東京も外国人は多くなってるけど、翔太は大陸に上がって多民族国家に住みたいんだな」
「うん。日本列島は小さいからね」
「日本だって地図で見る程にはそんなに小さくはないぞ。イングランドよりも大きい国なんだからな」
「知ってる」
「父ちゃんは漁師の仕事の関係でエイジアの国々は沢山観てきたんだ。市場で売られる珍しくて新鮮な野菜や果物を沢山食べたよ」
「漫画はどうだった?」
「本屋は全く行かなかったな」
「通りには画家達が沢山いた?」
「外国から来た画家達なら、よく見かけたけれど、現地の人達の中には全く見かけなかったな。エイジアの国々の人達は貧しい人達が多くて、父ちゃんはそういう人間にはあんまり関心を示さなかった。精々スリに遭わないように気を付けたぐらいかな」
「ふううん」
「東京だって一見楽しいばかりの街のようで、結構物騒な所なんだ。地方から子供独りで遊びに行かせられるような安全な場所ではないんだ」
「お店や高僧ビルが一杯だね」
「そうだな。楽しいか?」
「うん!早く車を降りて歩きたい!」
「新宿まではまだ時間がかかるよ」
「ソフト・アイス・クリーム、食べたいわねえ」
「おお、じゃあ、見かけたら、買って食おうか」
「新婚当時、よくソフト・アイス・クリーム買って食べたわね」
「そうだったっけな・・・・」
「憶えてないんですか?」
「よく食ったって記憶はないなあ」
「まあ!」
「何処でそんなに食べた?」
「新宿でも、銀座でも、渋谷でも食べましたよ」
「ううん、舌が憶えてる筈だが、何も思い出せない」
「そうですか」
「美味しい食べ物も慶子の甘さには負けるんだろう」
「また、旨い事言って!何かそういう風な口説き文句で恋に落ちて結婚までしたのよねえ」
「何か今日は随分と不機嫌みたいだな」
「じゃあ、黙って寝ときます」と母は言って、腕を組んで、目を瞑る。リアヴュー・ミラーで父ちゃんを見ると、父ちゃんは運転をしながら、楽しそうに微笑んでいる。父ちゃんにとって母は可愛い女性なのだろう。父ちゃんは冷静な態度で余裕を以って母に接し、多分、本気で母と言い争っている訳ではないのだろう。俺に対する母と、父ちゃんに対する母とでは、父ちゃんに対する母は人間、または女の人そのもののような気がする。
「あっ!父ちゃん!あのビルディングの上にソフト・アイス・クリームの写真があるよ!」
「ああ、あれはお店の看板じゃない。何か女性雑誌の表紙の写真だよ」
「なあんだ!」
「ソフト・アイス・クリームの店なら、新宿に着けば、多分あるだろう。翔太、手帳とペンは欲しくないか?」
「何で?」
「創作メモをしたい時に必要になるだろ?」
「創作メモなんてした事ない」
「そうか(笑)。じゃあ、要らないな」
「創作の事は浮かぶと頭の中でずっと考えてる」
「翔太は多分、思い浮かんだ事を忘れないんだろうな」
「父ちゃんは忘れるの?」
「メモをしておかないと直ぐに忘れるよ。年だな、父ちゃんは。翔太はまだまだ若いから記憶力も良いんだろう。便利な物に頼ると、人間はどんどんダメになっていくからな。父ちゃんは子供の頃から文房具には物凄く興味があって、何か知らないけど、便利な物が出ると直ぐに買ってたよ」
「父ちゃんは東京で生まれたんだよね?」
「生まれも育ちも東京だよ。東京にお祖父ちゃんの家があるだろ?」
「うん」
「あの家は十五年ぐらい前にお祖父ちゃん達が建て替えた家なんだ。昔は平屋だったんだ。父ちゃんはあの家が平屋だった頃に子供の頃から住んでたんだ」
俺は『建て替える』と『平屋』の意味を辞書で引く。
「ようし、新宿に入ったぞ!」
「お洒落な人達で一杯だね」
「そうだよなあ。おお、ここら辺で車駐車出来るな」と父ちゃんは言い、車を停める。「慶子、着いたぞ!」
母は小さく唸りながら、ゆっくりと目を覚まし、周囲を見回すと、「もう新宿に着いたのねえ。深あく眠り込んでたわ」と口を右掌で軽く叩いて、欠伸をしながら言う。
「翔太、前後の車に注意しながら、車から降りて良いぞ」
「うん!」と俺は返事をし、前後の様子を窺ってドアーを開けると、車から降りる。その後直ぐに父ちゃんと母も車から出る。
父ちゃんは車に鍵をかけると、俺の手を握って道路の反対端に渡り、人混みの中をゆっくりと前に進み、紀伊国屋書店の入り口で立ち止まる。
「でっかい本屋だろう、翔太?」
「これ、上まで全部本屋?」
「そうだよ。日本一大きな本屋だ。確か講演会とかのホールなんかも入ってたな。翔太、迷子にならないように父ちゃんかお母ちゃんの傍に必ずいるんだぞ。もしも、迷子になったら、捜しても自分では見つけられないから、その時は店員さんに迷子になりましたって言うんだ。そうしたら父ちゃん達がアナウンスで呼ばれて、翔太の所まで直ぐに迎いに行けるからな。緊張しないで安心していて良いんだぞ」
「うん。父ちゃんは小説買うの?」
「小説も買うかもしれないな。本や芸術の事を最初から何でも知ってる人間なんていないんだよ。本なんてものはそもそも読まなきゃいけないもんでもない。興味があるから、楽しいから、好きだからこそ読むもんでな、人に強制される読書なんて一番詰まらない読書だよ。翔太も教科書を読んで勉強するだろうけれど、学校の勉強とは関係なく、自分の興味や関心で教科書に載る小説を楽しむのが一番楽しい教科書との付き合い方なんだ。大人になってから教科書に載るような小説は素晴らしい小説が多かったなあって思う人が結構いるんだ。普通に本屋で売っている小説の中から、これなら学生達も文学に興味を持って勉強してくれるかなあって思って、文部省が選んだ作品が教科書に載るんだよ。誰もが教科書で読み、誰もが素晴らしい小説だったって思う作品が意外と多く教科書にはあるんだ。いやあな、大学出なんかの人に文学の話をすると、ああ、その辺は大学の授業で読みましたよなんて言われてな、自分が関心を持ってる小説を嫌々読んだみたいな事言うんだよ。小説家を目指す者にしてみれば、作品が教科書に載るなんて夢のまた夢だろ?」
「うん」
「自分の作品が認められたって事だよ。それって嬉しい事じゃないか?」
「うん」
「だからな、学歴を鼻にかけるような奴の子供っぽい教科書批判なんかに影響されて、簡単に自分の文学を歪めるような信念のない人間にはなるなよ。自分が善いと思った事、正しいと思ってやってる事を、人の言葉に惑わされて曲げるような人間は全部自信のない人間なんだ」
「お父ちゃんは純粋でしょう、翔太?」
俺は母の微笑んだ目を黙って見つめる。
「お母ちゃんがお父ちゃんと結婚したのはこの純粋さがあったからよ」
俺は母の眼を見て、漸く気を抜いて微笑む。
「翔太の眼にもお父ちゃんと同じ純粋さが表われてるわよ。いっつもきらきらと輝いてる」と母が俺の眼を見て言う。俺は母に見つめられているのが何だかとても恥ずかしくて、思わず照れ笑いをする。
俺は本の数の多さに改めて驚く。父ちゃんと俺の紀伊国屋書店での買い物が済むと、イタリア料理店で昼食を取る事になった。店内は明るい照明で隈なく照らし、小奇麗で親しみ易い印象を与える。音楽は軽やかなピアノの演奏に合わせてソウルフルな女性ヴォーカルが爽やかに歌うようなジャズのスタンタードが流れている。
「父ちゃん、やっぱり本を読みたい時は何処にいようと本を読みたい」
「読めば良い」
「でも、本の虫になりそうだから、何か・・・・」
「そうか。そんなに読書が好きなら、思う存分読書をしなさい」
「良いの?」
「良いも悪いもお前が読みたいんだろ?」
「うん」
「なら、読め!自分がしたい事をするのに人の意見なんて求めるな!」
「うん!」
「何だか似たような男が二人もいるような家庭になりそうね」
「息子は父親の人生から教訓を得て育つのが一番なんだ」
「あなたの独断には本当にびっくりさせられますよ。あなた、本当に作家としてやっていく自信があるんですか?」
「そればっかりはどんどんどんどん作品を書き、お金が入り込んでくるまでは全く判らない事だよ。でも、作品を猛烈に書いていく自信はあるんだ」
「ああ、やっぱり!先々の事は見えてないんですね」と母が悲しげに目を瞑り、天井に顔を向けて言う。
「ご注文はお決まりになりましたか?」と若い女の店員が注文を取りに来る。
「ミックストピッツァ一つと、ミートソース三つと、アイスコーヒーを三つお願いします」と父が注文する。
「かしこまりました。少々お待ちください」と店員は言って、俺達のテーブルを離れていく。
「ここでアイスコーヒー飲むなら、その後の喫茶店はダメですよ」と母が父に注意する。
「ああ、そうかあ。お前達を連れて行きたい良い喫茶店があるんだけどなあ」と父が残念そうに言う。
「それじゃあ、連れて行ってくださいよ」と母が笑顔で言う。
「おお!それじゃあ、皆で行くとするか」と父ちゃんが嬉しそうに言う。
俺は早速辞書を脇に置いて『友情』の続きを読む。
「翔太を連れて映画館に映画を観に行ったり、プロレスを観に行ったりしたいなあ」と父ちゃんが言う。
「それはまた今度にしましょうね」と母が優しく父ちゃんに言う。「あなたが翔太の心に沢山の喜びを味合わせてあげたい気持ちは翔太にだってちゃんと通じますよ」
「お前はこれからどんな楽しみを経験したいんだ?」
「あなたが翔太を連れていく所で、翔太やあなたと一緒に同じように楽しみますよ」
「何処か行ってみたい所とかはないのか?お前は翔太の母親である事より前に俺の妻なんだぞ」
「判ってますよ、あなたのお気持ちなら」
「そうか。俺が一生懸命お前達にしてやれる事を探しているように、俺も家族にちゃんと自分の気持ちが理解されてる訳だな。幸せな事だよ」
「私はあなたと結婚して子供を授かっただけでも十分幸せです」
「俺達の日々の思い出に耽るような時間がお前にはあるのか?」
「そりゃあ、ありますよ」
「うん。それなら良いんだ」
「あなたはないんですか?」
「俺はお前との結婚前の思い出や、翔太が産まれた時の思い出ぐらいしか特に思い出さないな」
「そうですか。寂しいのかしら・・・・」
「漁師の仕事やってると家族サーヴィスを忘れがちでな」
「お休みの日をほとんど家の中で過ごされる方だったから、私は特に寂しい思いはしませんでしたよ」
「俺も漁に出てる時以外は、家にいて寂しいと感じた事はなかったよ。漸く船を降りる決心をして、何か独り張り切り過ぎてたかな」
「漁師の仕事はあなたの人生そのものでしたものね」
「うん」
「海の男なんて、男らしい、素敵な人生じゃないですか」
「うん」
「ミックストピッツァはどちら様でしょうか?」と女の店員がテーブルにミックストピッツァを運んできて言う。
「ああ、この真ん中に置いてください」と父ちゃんが女の店員に言う。
「かしこまりました」と女の店員はテーブルの真ん中にミックストピッツァを置いて言うと、直ぐに去っていく。
「よし!じゃあ、皆で先ずピッツァを食おう」と父ちゃんが言う。「翔太、チーズが零れ落ちないように、気を付けて、手で持って食うんだぞ。父ちゃんが先ず見本を見せてやる」
父ちゃんはピッツァを一切れ手に取ると、「あち!翔太、熱いから手と口の中を火傷しないように気を付けろよ」
「うん」
「それじゃあ、いただきまあす」と父ちゃんが言うと、母と俺も「いただきまあす」と言って、ピッツァに手を伸ばす。
「ピッツァはな、熱い内に柔らかいチーズを味わうものなんだ」と父ちゃんが顔をくちゃくちゃにして熱いピッツァを食べながら言う。「美味いな。慶子も冷めない内に食べろよ」
家の家族の座ったテーブルの隣にいる若いカップルが、揃って父ちゃんを見て笑う。父ちゃんはさっとそちらに振り向き、「何か私、おかしな事言いましたか?」とカップルを睨み付けて言う。カップルは父ちゃんから視線を逸らし、見詰め合って笑うと、肩を竦める。
「あなた」と母が父ちゃんの服の左の袖を引っ張り、振り返る父ちゃんに黙って首を横に振る。
「父ちゃん、ピッツァって美味しいね」と俺が満面に笑みを浮かべて父ちゃんに言う。
「美味いだろう」と父ちゃんが笑顔で俺を見て言う。
「ミートソース三つと、アイスコーヒー三つで宜しいでしょうか?」と女の店員がテーブルの傍らに立って訊く。
「ああ、はい」と父が背筋を正して店員に答える。店員はミートソース三つとアイスコーヒー三つをテーブルのそれぞれの席の前に置くと、「ごゆっくりどうぞ」と言って、テーブルから去っていく。俺はピッツァを食べながら、ミートソースを眺める。
「翔太はミートソースは食べた事あるか?」と父ちゃんが俺に訊く。
「給食でよく食べる」
「ほお!給食にミートソースなんて出るのか!凄いなあ!」と父ちゃんは言うと、「いただきまあす」と合唱して言い、フォークを手に取り、ミートソースを食べ始める。
「いただきまあす」と母と俺もフォークを手に取って言い、ミートソースを食べ始める。
「あんまり品の良い事ではないが、飯食ってる時でさえ寸暇を惜しんで活字を読んでるような人もいるんだぞ」と父ちゃんが俺に言う。「本って言うのはな、読まなきゃいけないと思ってるような、ほんの一部の人が楽しんでいる趣味なんだ。音楽も映画もそうだ。普通の人は新聞とTVとレイディオだけなんだよ。TVは近い内に買うからな」
「新聞、僕も読もうかな」
「読みたきゃ読め。新聞には新聞小説ってもんがあるんだ。毎日少しずつ読むように連載された小説なんだ。世の中、不思議と新聞小説の話をする人が多いんだよ」
「父ちゃんは新聞小説の話をするの?」
「話題に詰まるとするな」
「ふううん。読んでみない事には何とも言えない」
「読んでみない事には何とも言えないか(笑)!何だか翔太の言葉も段々と文学的になってきたな(笑)。良いぞ」
俺は思わず頭を掻いて、照れ笑いする。
「翔太、飯食い終わったら、父ちゃんとお母ちゃんが初めてデイトした時に行った喫茶店に連れていくからな」
「ああ、そう言えば、あの喫茶店って、新宿にあったわよね。何だか恥ずかしいわね」
「何が?」
「あたしがあの時、あなたに話した事を思い出す度に、今でも恥ずかしさに身が竦むの」
「自分では判らない若者特有の可愛らしさだと思えば良いんじゃないか。俺だってあの頃は相当に背伸びしてたんだ。女遊びをしてた頃はなんて言ってたけど、俺はお前と結婚するまではずっと童貞だったんだからな」
「ええ!」
「まあまあ!一寸今、俺も何かびっくりし過ぎて鼓動が乱れ始めたよ」
「だってあたし、童貞の人が相手じゃ何とか何とかって」
「はっ!はっ!はっ!ああ、何か言ってたな」
「思い出さないでくださいよ!ああ!恥ずかしい!」
俺はとても楽しい気分で両親の顔を交互に眺める。
「おお、翔太、食い終わったな」
「美味しかった。これ、アイスコーヒーに入れるのかな?」
「ああ、シラップとミルクは自分の好みで入れるかどうか決めるんだ。父ちゃんは入れないんだ」
「ふううん。入れて飲んでみる」
「順番からしたら、先ずは入れずに飲む事だな」
「ああ、じゃあ、先ず入れないで飲んでみる」と俺は言い、ストローでシラップとミルクなしのアイスコーヒーを飲んでみる。「苦いだけだ。入れて飲んでみるか」
「苦いアイスコーヒーは美味くないか?」
「甘い方が良い」
「そうか」
俺はシラップとミルクをアイスコーヒーに入れて飲む。
「ああ、やっぱり、入れて飲んだ方が美味いや!」
「翔太はアイスコーヒー好き?」
「うん」
「今度、じゃあ、家で作ってあげるわよ」
「うん!作って作って!」
「学校のコーヒー牛乳とはどっちが好き?」
「コーヒー牛乳!」
「ああ、やっぱり。コーヒー牛乳の味がコーヒーの好みにも影響してるのね」
「あれはどうも日本人の好みに合ってるんだなあ。じゃあ、そろそろ店を出るか」
父ちゃんが会計を済ませると、家族三人揃って店を出て、車を路上に駐車したまま喫茶店の方に歩いていく。
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