第3話

「おお、翔太!意識が戻ったな!」と父ちゃんが嬉しそうにベッドに横になっている俺の顔を見下ろして言う。窓からは眩しい陽が射し込んでいる。

「俺、どうかしちゃったのかな?」と俺はぼんやりとした頭で父ちゃんを見上げて訊く。

「お母ちゃんの見舞いに昨日連れて行かなかったから、色々と不安があったんだろうって先生にお前の小説を見せたら、仰ってたよ」

「お母ちゃん、今、どうしてるの?」

「もう起きれるか?起きれるようだったら、お母ちゃんのいる方の病室に連れていくぞ」

「何かよく眠った。じゃあ、俺、起きてお母ちゃんに会いにいく」

 寝巻き姿の俺はベッドから起き上がり、父ちゃんと一緒に廊下に出ると、エレヴェイターに乗って二階に下りていく。

「お母ちゃん、もう、大分元気になってるぞ」と父ちゃんがエレヴェイターの中で言う。

「俺はもう退院出来るの?」

「ああ、お前はもう退院して良いんだ」

「お母ちゃんは何時退院するの?」

「もうそろそろだよ。今、検査を受けてるところだ」

「お母ちゃんは死ぬの?」

「死にはしないよ。お前やっぱりそんな事心配してたのか」

「うん」

 エレヴェイターの扉が開き、人気のない静かな廊下に出ると、父ちゃんは右の方に歩いていく。俺はその父ちゃんの後ろに着いて歩いていく。

 二○五号室の入口のところに海原慶子と書いてある。父ちゃんはドアーをノックし、戸を開ける。

「慶子、翔太が来たぞ」と父ちゃんは病室の中の母に声をかけながら、病室に入る。

「あら、翔太、早速、お見舞いに来てくれたのね」と化粧をしていない蒼白い顔をした母が笑顔で俺に言う。

「お母ちゃん!」と俺は叫び、ベッドの上の母に飛びつく。

「どうしたの、翔太?うん?」と母の優しい声がベッドの上で母に抱きつく俺の耳に入る。俺は母の体の温もりを感じながら、何も言わずにいる。母が喋る事で母の命が減っていくように思う不安で俺の心は一杯だ。

「ああ、先生!」と父ちゃんが誰かに言う。

「海原さん、どうですか?」と男性の声が言う。

「何だか力が入らなくて」と母が弱々しい声で俺の髪を撫ぜながら答える。

 俺は母の体から手を離し、男性の声の主の方を振り返る。男性の声の主は白衣を着たとても優しそうな先生である。見たところ、父ちゃんより少し若いくらい年齢の男性だ。

「先生!お母ちゃんはもう退院出来るの?」

「もう一寸入院して体を休めないといけないね。僕も寂しいだろうけど、もう少し辛抱してね」

「はい、判りました」と俺は先生の眼の奥を深く見つめて答える。この先生は嘘を吐いていないだろうか。父ちゃんは俺に嘘を吐いていないだろうか。本当に母は死なないのだろうか。

「翔太、父ちゃんとお母ちゃんとお前の分の缶コーヒーを一階の販売機に行って買ってこい。ほらっ、お金だ」と父ちゃんは一〇〇円玉を三枚俺に手渡して言う。

「うん!買ってくる!」と俺はまたコーヒーが飲める事を喜んで言うと、病室を走り出て、階段で一階に駆け下りる。一階の中庭の硝子窓の所にジュースの販売機がある。俺はそこで冷たい缶コーヒーを三本買い、お釣りを忘れずに取ると、再び階段を駆け上がる。

 お母ちゃんの病室に飛び込んで、「コーヒー買ってきたよ!」と元気良く父ちゃんと母に言い、二人に缶コーヒーを一本ずつ手渡す。

「ありがとうな、翔太!」と父ちゃんが言い、「ありがとう、翔太!」とお母ちゃんが言う。

「父ちゃん、これ、お釣り」と俺は言って、父ちゃんの手にお釣りを返す。

「お釣りはお前にやる」と父ちゃんがお釣りの乗った掌を差し出して言う。

「ありがとう」と俺は喜んでお礼を言うと、お釣りを貰う。

 父ちゃんは母の缶コーヒーを取って、蓋を開けてやり、母に缶コーヒーを手渡す。俺は母の眼をじっと見ている。母は見た目にも酷く弱っている。母は本当に元気良くなるのだろうか。母は缶コーヒーをゆっくりと美味しそうに飲む。

「お母ちゃんはコーヒー好き?」と俺は母に訊く。

「好きよ」

「紅茶とコーヒー、どっちが好き?」

「ううん、どっちも好きだけど、やっぱり、コーヒーかな」

「俺と同じだね」

「紅茶なんて何処で飲んだの?」

「父ちゃんが喫茶店に連れていってくれた時に、父ちゃんが少し飲ませてくれたの。お母ちゃん、お土産のケーキとクッキーは食べた?」

「昨日、食べたわよ」

「美味しかった?」

「物凄く美味しかったわ」と母が笑顔で言う。

「今度行く時はお母ちゃんも一緒に行こうね」

「うん」

「約束する?」

「約束するわ。あんなに美味しいケーキやクッキーは生まれて初めて食べたわ」

「父ちゃんはあの喫茶店にはよく行くの?」

「小説の事や将来の事を考える時に一人でよく行ってたんだよ」

「お母ちゃん、俺、昨日はお寿司屋さんに行って、お腹一杯お寿司を食べたんだよ。お母ちゃんも退院したら、一緒に行こうね」

「ああ、お寿司ねえ。もうお寿司屋さんのお寿司なんてずっと食べてないわね。お寿司は美味しかった?」

「美味しかった。お母ちゃんも退院したら、一緒に行く?」

「行きたいわ」

「行くって約束する?」

「約束するわ」

 俺は母と二つの約束をした。

「おい、翔太、お母ちゃんはもう少ししたら、必ず元気になるからな」と父ちゃんが俺に言う。

「本当にお母ちゃんは元気になって家に帰ってこれるの?」と俺は母の眼を真っ直ぐに見て訊く。

「それまでは毎日お前と一緒に見舞いに来るから、安心しろ、翔太」と父ちゃんが言う。

「俺はお母ちゃんに訊いてるんだよ!」と俺は父ちゃんを怒鳴りつける。「お母ちゃん、毎日、俺、お母ちゃんのお見舞いに来るから、必ず元気になってね」

「翔太が毎日お見舞いに来てくれるなら、もっと長く病院にいたいわ」

 俺は母の眼の奥を真剣な眼差しで見つめる。本当に母は元気になって家に帰ってくるのだろうか。突然目の前からすうっと光が消え、真っ暗になる。

「翔太!」と母が叫ぶ声が俺の耳に聞こえてくる。


 目覚めたら、また俺はベッドの上に寝ていた。隣には母がベッドの上で上体を起し、週刊誌を見ている。

「ああ、お母ちゃん」と俺は上体を起し、母に声をかける。

「ああ、翔太、やっと気がついたわね」

「俺、どうしたんだろう?」

「翔太は、お母ちゃんが死ぬんじゃないかって不安なのね」

「うん。お母ちゃんは死なない?」

「死なないわよ。お母ちゃんは疲れが溜まっただけなの。入院して少し静かに休んでれば、また元気になるの。先生もそう言ってるわ」

「そうなんだ・・・・」

「心配してくれて、ありがとうね、翔太」

「俺、お母ちゃんがいなくなったら、どうやって生きて良いか判らないよ」

「いなくならないわよ。安心しなさい。先生が翔太が安心するように態々翔太のベッドをここに置いてくれたのよ。翔太、先、あなたが自分で買ってきたコーヒーがまだそこのテーブルの上にあるから、喉が渇いてるなら、それを飲みなさい」

「ああ、うん」と俺は喜んで言い、缶コーヒーを手に取り、コーヒーを飲む。「美味しい!」

「翔太、ここにおいで」と母が自分の蒲団を捲り、ベッドの中に俺を呼ぶ。俺はベッドから出て、母のベッドに潜り込む。母の体の温もりで少し気持ちが落ち着く。俺は声を出して大泣きする。

「翔太!」と母が俺を叱る。俺は更に大きな声で泣く。

「翔太!どうしたの!」と母が訊く。

「お母ちゃん、俺を置いて死んじゃうんでしょ?」と俺は泣きながら言う。

「翔太は何でお母ちゃんが死ぬと思うの?」

「僕、お母ちゃんの死んだ顔が見えるんだ。見ようとしてないのに、何度も何度も見えるんだよ」と俺は泣きながら答える。

「あなたが心配するからそういうのが見えるのよ」

「御葬式の写真まで見えるんだ」

「何処かで見た事があるからよ。想像力は漫画家さんには大切なものでしょ?翔太もよくそれは知ってる事でしょ?」

 俺ははっとして不安が消えると、いつもと変わらぬ笑顔で俺を見つめる母の顔をぼんやりと見つめる。

「想像力・・・・」と俺は余りに意外な答えに力が抜けたように呟く。

「そうよ」と母が力強い声で言う。「あんまり心配するから心が混乱するのよ」

「想像力か・・・・」と俺はまた呟く。漫画や小説を書く時も考えるより先に想像力が働いて或場面が浮かぶ。

「お母ちゃんの事より、あんたの方が大丈夫?」

「僕、心が混乱してるのか」と俺は呟き、母の眼を何となく見ている。母も俺の眼をじっと見つめている。俺は母のベッドに横たわり、安心して目を閉じる。


 目覚めた時には夕方になっていた。母は上体を起し、まだ週刊誌を読んでいる。

「ああ、お母ちゃん。俺、何時の間にか寝てたよ」

「翔太、あんた、小説を二作も書いたのね。お母ちゃん、翔太の小説読んだのよ」

「どうだった?」と俺は力なく母に感想を訊く。

「処女小説は面白かった。二作目の方はもっと文学的ね。少年の心がよく書けてたわ」

「俺、小説と漫画の両方をやるよ」

「大人になるまでに翔太の作品の幅がどれだけ広がっていくのか、今からお母ちゃん、楽しみだわ」

「色んな事に挑戦してみるよ」

「翔太の心は真っ直ぐよねえ。翔太は素直な性格が長所なのよ」

「うん」と俺は病み上がりの疲れた笑顔で言う。「お父ちゃんは?」

「お父ちゃんなら、作品持って東京の出版社に行ったわよ」

「父ちゃん、小説家になれるかな?」

「お父ちゃんの才能をあなたは受け継いでるのよ。あんたのお父ちゃんなんだから、小説家になるに決まってるじゃない。お母ちゃんも今、お父ちゃんの小説読んでるんだけど、お父ちゃんの小説は凄いわよ」

「僕にも父ちゃんの小説読める?」

「ああ、まだ、無理ねえ」

「父ちゃん、俺ももう小説を読んで良いって言ってた。読んじゃいけない小説の事も言ってた」

「そう」

「お母ちゃんは小説読むの?」

「最近は読まないわねえ。昔はよく読んだわ」

「お母ちゃんも小説書くの?」

「書いた事あるけど、作文みたいで、今読んだら、多分、小説とは言えないかもしれないわね。お母ちゃんは今はどっちかって言うと、書くより読む方が好きかな」

「ふううん」と俺は残念に思い、少々不満のある顔で言う。「ああ!そうだ!今日、学校!」

「お休み届けは電話でしておいたわよ」

「俺、学校休んだの初めてだよ」

「そうね」

「卒業するまで一日も休まないつもりだったのに・・・・」

「ズル休みじゃないんだから、良いのよ。休まなきゃ、学校で倒れて、病院に運ばれて皆を心配させるだけよ」

「うん・・・・」

「小説を一日に二作も書いた事の方がずっと価値があるわ」

「そうなの?」と俺は母の意外な言葉に驚く。

「そうよ。小説なんて一生書けないで終わる人で一杯なのよ。学校なんて誰でも行くじゃない」

「小説を書く事は自分だけの思い出だけど、学校の思い出は皆と繋がってるんだ。学校の思い出は学校に通っている間しか作れないものだよ」

「そうね。翔太の言う通りよ」

 俺は得意な気持ちになり、次に書く小説の事を考え始める。

「お母ちゃん、その前にあるTV観れるの?」

「これ?」

「うん」

「観れるわよ、一〇〇円入れれば。観る?」

「うん」

 お母ちゃんはTVに一〇〇円玉を入れる。

「あっ!プロレスやってる!」

 実は俺の家にはTVがない。プロレスがTVで放映される日には啓司の家に遊びに行き、啓司の家のTVでプロレスを観る。啓司は今、鶴田に夢中で、この頃全く話をしていない。二人の邪魔にはなりたくないと思って、啓司の注意を自分の方に向けるのを控えている。今なら俺には坂家がいて、啓司には鶴田がいる。その内四人で遊ぶのも良いだろう。

「お母ちゃん、俺、今日、退院出来る?」

「あなたがしたいなら、そうしなさい。入院するとお金もかかるしね。そんなに急いで退院して、何か用でもあるの?」

「うん。啓司と俺と坂家と鶴田の四人で一緒に遊ぼうかなって思って」

「じゃあ、寝巻きから服に着替えて、お父ちゃんが帰ってくるまでTVでも観ていなさい」

「うん」

 俺は母のベッドから降り、来た時着ていた服に着替ると、再び母のベッドに乗り上がり、母の蒲団の中でTVのプロレス中継を観る。毎週土曜日の夕方に四チャンネルの『日本テレビ』で放映される『全日本プロレス』、この頃、よく言われた表現で言えば、ジャイアント馬場の方である。因みに俺のプロレス漫画は、新日、全日、国際を全部ごちゃ混ぜにした大イベントである。

「お母ちゃん、今日は確か金曜日だよね?何で『全日本プロレス』が放送されてるんだろう?」

「二チャンネルはヴィデオだって、先、看護婦さんが仰ってたわよ」

「お母ちゃん、何で父ちゃんはあんなに贅沢出来るの?」

「男の人は仕事をするのに或程度お金が要るのよ」

「ふううん。お母ちゃんはずっと貧乏な生活をするの?父ちゃんがお母ちゃんは働き過ぎだって言ってたよ」

「お母ちゃんは翔太との暮らしが大好きなのよ。翔太が山や海から取ってくるおかずの食材をお母ちゃんが料理をして、翔太と一緒に食べたりするのが好きなの」

「俺も楽しい!」

「お金持ちの生活なんて詰まらないものよ」

「そうなの?」

「お金持ちはお金を持て余すの。使い切れない程お金を持ってたって何になるのよ?」

「ううん」

「お金お金お金って、いっつもお金を欲しがってる人の心はとても貧しいのよ。少なくとも文学や芸術の世界では到底やっていけないわね。文学や芸術をやるには質素な生活をしないといけないの。心が豊かである事の方がずっと大切なのよ」

「ふううん」

「こんにちは」と大人の男性の声が入口の方から言う。俺は入口の方を振り返る。

「翔太君、気持ちは落ち着いたかな?」と白衣を着た見た事のない医者が俺に訊く。

「俺、もう、退院出来ますか?」

「もう二、三日ゆっくりしていったら、どうだい?」

「直ぐ退院したいです」

「ほう!それじゃあ、今日、退院出来るよ」

「やった!」

「おやおや、もう服に着替えて、帰る支度をしてたのかい!」

「何か私の死んだ顔や私の葬式が目に浮かぶから不安だったみたいです」

「はああ。まあ、不安が消えたのなら、これ以上病院に引き止めておく理由はないです。あっ、これ、翔太君の書いた小説、お返ししておきます」と先生は母に俺の書いた小説を手渡して言い、「翔太君、なかなか良い小説を書くじゃないか。先生も読ませてもらったよ」と俺に小説の感想を言う。

「はい、翔太、小説返しとくわね」と母が俺に小説を手渡して言う。

「これからもっと小説を書きます」と俺は先生に言う。

「翔太君、小学生で小説を書くっていうのは相当な才能なんだよ」と先生が俺に言う。

「漫画を書いてるんで、小説にも挑戦してみたんです。俺のガール・フレンドと父ちゃんも小説を書くんです」

「ほう。それは君が小説を書き始めるのにとても恵まれた環境だね」

「はい」

「翔太、父ちゃんが翔太に渡すようにって、原稿用紙置いてったわよ」

「ああ、じゃあ、また小説を書くよ」

 俺は母から原稿用紙を受け取り、小説を書き始める。


『隣町の子』

海原翔太

 学校帰りに川原の土手の芝生の上で昼寝をしていると、僕の頬に生温かいものが触れる。僕は薄っすらと目を開ける。何処から現われたか知らない柴犬が僕の頬を嘗めている。僕はその犬の頭を優しく撫ぜ、抱き抱えて、腹の上に乗せて可愛がる。給食の冷凍蜜柑をランドセルの中から取り出し、皮を剥いて犬に食べさせる。犬は音を立ててとても美味しそうに冷凍蜜柑を食べる。川原で野球をやってる子達のボールが左側の離れたところに飛んでくる。犬はボールの方に走っていく。

「ちび!おいで!」と女の子の声が頭の上の道の上辺りから聞こえる。僕は起き上がり、女の子の方を振り返って見上げる。目の大きな可愛い女の子が一人立ち、僕を見下ろしている。

「君の犬?」と僕は女の子に話しかける。

「そうよ。ちびって言うの」と女の子はとてもはっきりとした話し方で答える。とても気の強そうな女の子だ。

「僕、宮下剛士。君は?」

「私、林優子。あたし、あなたの事知ってるの」

「同じ学校の子?」

「隣町の桜町小学校の生徒よ。あたし、あなたの絵を観た事があるの。実はあたしも絵を描くの。前回は私が一位だったけれど、今年は二位」

「ああ、なら、名前までは憶えてなかったけど、君の絵は僕も観てるよ。その犬、可愛いね」

「そう?ありがとう」と林さんは言い、僕の右隣の芝生に腰を下ろす。

 僕は何だか胸がドキドキし始める。女の子とこんな近くで話した事は一度もない。

「来年の一位はどっちが取るのかなあ」と林さんが言う。

「林さんは将来画家になりたいの?」

「まだ判んない」

「絵はよく描く?」

「時々描くわ。思いついた時にさっとね」

「良い絵とか、悪い絵って、自分で判る?」

「判んないわよ、そんな事。あたしはただ描きたい絵を描くのが専門」

「僕もそうなんだ」

「描き続けてれば、その内判るようになるのかしらね」

「どうだろう。大人になれば、僕達にだってきっと判るよ」

 僕は林さんと並んで土手の芝生に腰かけたまま、何も話さずに川を眺める。林さんの顔をもう一度よく見たくて、そっと林さんの方を向くと、二人の目が合い、林さんが僕に微笑む。僕も釣られて微笑み返す。

 話す事は何も浮かばないけれど、僕は林さんの存在をありありと全身で感じている。僕は林さんとの無言の時の流れにとても満足している。気遣いから何か話そうかと思いながらも、適当な話題が見つからない。僕も林さんのように堂々と存在していたい。

 夕焼けで空が橙色に染まる頃、「あたし、そろそろ家に帰らないと」と林さんは言って、土手の芝生の上から立ち上がる。僕は林さんとの別れを惜しみ、腰かけたまま林さんを見上げる。

「またここで遇えると良いね」と林さんが僕を見下ろして言う。

「うん。また会おう!明日もここで待ってるよ」

「じゃあね。また明日」

「それじゃ、また明日」

 僕は立ち上がって手を振りながら、去っていく林さんを見送る。

「明日、絵を描いたスケッチブックを持ってくるわ!」と林さんが遠く離れたところから大声で言う。

「僕も持ってくる!」と僕も大声で言う。

 僕らはまた明日会う約束をして別々の方向に歩いていく。僕は夕焼け空を見ながら、ウキウキと心躍らせ、独り家へと帰る。


 俺は小説を書き終えると、満足感で胸が一杯になる。

「お母さん、小説書き終えたよ」と俺が隣にいる母に言うと、母は上体を起したまま、口を大きく上に開けて居眠りしている。俺はむずむずするおちんちんを感じ、急いで便所に行く。

 げっそりと、頬が痩せこけたような気分で病室に帰ると、母が俺の小説を読んでいる。俺は今、自分がしてきた事に非常に罪の意識を感じ、入口の前をうろうろしながら、原稿を読む母の様子を覗き見ている。とてもじゃないが、こんな体で母の体に触れるなんてとても出来ない。早くお風呂に入って、体を綺麗に洗いたい。

「おお、翔太、何してるんだ?中に入れ!」と背後から父が俺の両肩に手を置いて言う。俺は父ちゃんが体に触れた途端、自分の穢れを想って、身を竦める。

「ああ、父ちゃん。小説、どうだった?」

「とりあえず、出版社に預けてきたよ。結果はまだだ」

 父ちゃんは病室に入り、「焼き鳥買って来たから、皆で食べよう!」と言う。俺も病室に入り、父ちゃんの背後に立つ。父ちゃんは母のベッドのテーブルの上で焼き鳥の包みを開け、「さあ、温かい内に皆で食べよう!おい、翔太!焼き鳥食べろ!」と言う。俺は焼き鳥を初めて見た。俺は焼き鳥を一本手に取り、齧ってみる。鶏肉は柔らかく、俺は焼き鳥のタレの美味しさに物凄く感動する。

「翔太、焼き鳥はどうだ?」

「美味い!」

「翔太は焼き鳥食べるの初めてでしょ?」と母が俺に訊く。

「うん。初めて!」と俺は焼き鳥をじっくりと味わいながら答える。

 母もやつれた蒼白い顔で焼き鳥を美味しそうに食べる。俺は数ある焼き鳥の種類の中でも雛皮が一番気に入る。

「翔太、小説よく書けてたわよ」と母が俺の小説を誉める。

「翔太、また小説書いたのか!」と父ちゃんが喜んで言う。「父ちゃんにも読ませてみろ」

「うん、良いよ」と俺は喜び一杯の思いで言う。

 母が父ちゃんに俺の小説を手渡す。父ちゃんは母のベッドに腰かけ、俺の小説を読み始める。俺は病室を出て、廊下にある冷水機から冷たい水を鱈腹飲む。病室に戻ると、「翔太、下の売店で好きな漫画と小説を買ってこい!」と父が俺に千円札を手渡す。

「ありがとう」と俺は喜んで言い、エレヴェイターで階下に下り、売店に向かう。

 売店には漫画の単行本や小説の文庫本が沢山並んでいる。俺は『タイガーマスク』の第一巻と武者小路実篤の『友情』を買い、母のいる病室に戻る。

「父ちゃん、漫画と小説買ってきたよ!」と俺は父に言い、お釣りを父に返す。

「お釣りはお前のお小遣いだ」と父は言い、俺の手に返す。「何、買ったんだ?」

「これ」と俺は言って、買ってきた本を父に手渡す。

「武者小路実篤の『友情』か。良いじゃないか。初めて読む小説としてはなかなか良い作家を選らんだな」と父は笑顔で俺を誉める。

「武者小路実篤なら全作品読むと良い」

「そんなに良いの?」

「純粋で無駄のない文章を書く作家だよ。父ちゃんも若い頃に全作品を読んだよ」

「ふううん」

「お母ちゃんも武者小路はほとんど読んだわ。読み終わったら、翔太の感想が聞きたいな」

「父ちゃんとお母ちゃんの嫌いな作家って、誰?」

「太宰治だよ」と父ちゃんが直ぐに答える。

「お母ちゃんもあの人は嫌い」と母が顔を歪めて言い、母が本当に大嫌いな作家であるのがとてもよく判る。 

「じゃあ、父ちゃんとお母ちゃんが大好きな作家は?」

「父ちゃんは一生懸命生きてる人間を精一杯表現する作家なら、皆好きだな」

「お母ちゃんはきらきらっと主人公の心が輝いてるような、純粋な青春小説しか読まないの」

「ふううん」

 俺の文学性はこの時初めて知った両親の文学の好みに相当な影響を受ける。

「父ちゃん、俺、明日、学校に行くよ。先生ももう退院して良いって言ってた」

「なら、もうそろそろ家に帰らないとな。じゃあ、帰る用意は出来てるのか?」

「うん、出来てる」

「よし。なら、早く帰ろう」

 俺と父は病院を出て、病院の前に止まっている白いタクシーの後部座席に乗り込む。

 タクシーが走り出すと、俺はタクシーの窓から見える街並をしっかりと記憶し、坂家を連れて再び訪れる僕らだけの街を探す。夜の街は廃墟のように静まり返り、建ち並ぶ商店は全て閉まっていて、人影一つない。公園や広場や川や大邸宅を見ては、坂家と一緒にそれらの町の昼の様子を見にくるのをとても楽しみにする。明日は学校でまた坂家に会える。小説二作も忘れずにランドセルに仕舞っておかないと。

「翔太、夕食は何を食べたい?何か食べたい物はあるか?」

「先、焼き鳥食べたから、もういい」

「あれじゃあ、夕食にはならないだろ。喫茶店でスパゲッティでも食べて帰るか?」

「うん!」

「運転手さん、その先の港で降ろしてください」と父が運転手に言う。

 父ちゃんと俺は港でタクシーを降りると、一昨日来た『珈琲港』と言う喫茶店に入る。カランコロンとドアーを開ける時になる鈴の音が烏にでも歓迎されているようなとても楽しい気持ちにさせる。

「いらっしゃいませ」とカウンターの中にいる主人らしき品の良い中年男性と、会計のところに腰かけた若い女の店員が言う。父ちゃんと俺は一昨日と同じ海が一望出来る奥の窓際の四人席のテーブル席に腰かける。会計の後ろに座っていた女の子の店員が俺の席に近づいてくる。

「御注文は何になさいますか?」と女の子が注文を取る。父ちゃんはテーブルのメニューを見て、「スパゲッティ、二つください」と頼む。

「かしこまりました。ご注文は以上で宜しいでしょうか?」

「はい」と父ちゃんが笑顔で返事をする。

 俺は席を立ち、本棚の方に歩いていく。本棚のところから席に座った父ちゃんの方を振り返り、「ここの本、そっちに持ってって読んでも良いの?」と訊く。

「店員さんに訊いてみなさい」と父ちゃんが言う。

「おじさん!ここの本、テーブルに持ってって読んで良いんですか?」

「ああ、どうぞどうぞ」と店長さんらしき中年男性が笑顔で言う。

 俺は本棚の中の本を一冊一冊手に取り、『夏への扉』と言う小説を、ーブルの席に持っていく。

 席に座り、『夏への扉』を俺が読んでいると、「その本、最後まで読みたいなら、作品名と作家名を憶えておかないとな」と父ちゃんが言う。

「何で?」

「良かったら、買いたいんだろ?」

 俺は父ちゃんの考えに追いつけず、意味が判らずに首を傾げると、父ちゃんは背広の内ポケットから手帳を取り出し、紙を一枚破いて、ペンと一緒に俺に手渡す。

「これ、何?」

「メモしなさい」

「ああ・・・・」

 俺は紙に作家名と作品名をメモする。

「出版社名も書いておくと良いぞ」と父ちゃんが言う。

 俺は言われるままに出版社名もメモする。俺は父ちゃんの言わんとしている事の意味をまだよく理解していない。

「あのな、翔太」

「うん」

「本っていうもんは中途で放り投げるもんじゃないんだ。読み始めたら、最後まで読みなさい」

「ああ、うん、判った。もうここに来ない?」

「来るかもしれないし、来ないかもしれない、だろ?」

「うん」と俺は父ちゃんの眼を見て、よく判らずに返事をする。来るかもしれないし、来ないかもしれない、か。そういう事は俺の人生ではまだ経験していない。

「次に来る時にまだ置いてあるかもしれないし、ないかもしれないんだ」

「一度見たものはもう一度そこに行けば、必ず同じところにあるよ」と俺は父に反論する。

 父ちゃんは首を傾げ、何か深く考え始める。

「父ちゃんは何か本を読まないの?」

「ここの本はほとんど読みたい本は読んだよ」と父ちゃんがテーブルを見つめて答える。父ちゃんは何か酷く考え込んでいる。

「そうなんだ」

 ロバート・A・ハインライン著『夏への扉』(ハヤカワ文庫SF)と父ちゃんのくれた紙切れにメモをしたら、聞き慣れぬ外国人の著者名と出版社名が直ぐに憶えられた。メモをすると、俺は再び『夏への扉』の続きを読む。

 女の子がテーブルにスパゲッティを運んでくる。

「御注文はスパゲッティで宜しかったですね?」と女の子が訊き、「はい」と父ちゃんが答える。

「ごゆっくりどうぞ!」と女の子は言って、レジスターの後ろの席に戻っていく。

「さあ、翔太、食べよう」

「うん」

「今時は給食なんかにもスパゲッティが出るんだろ?」

「出るよ」と俺は皿から顔も上げずに食べながら、父ちゃんに答える。

「給食で一番好きなのは何だ?」

「鳥の唐揚げ。いやっ、酢豚。ああ、揚げパンかな。カリー・スープも好き」

「ほお!毎日が御馳走なんだなあ」

「俺、給食は大好き」

「お前達が食べてるような給食なら、父ちゃんもきっと好きだったろうなあ」

「ここのスパゲッティ、美味しいね」

「喫茶店のスパゲッティは何処もそこそこ美味いよ。カリーとかピラフなんかも、まあまあだな。お母ちゃんが退院したら、今度はどっか、何か美味いもんを出すレストランに連れてってやるからな」

「レストランって何処にあるの?」

「東京に行けば、レストランなんかあっちゃこっちゃにあって、世界中の料理が食えるよ」

「ふううん」

「東京に出るには一時間もかからないのに、一回も翔太を連れて遊びにいった事がないな。父ちゃんも船降りて、これからは小説書いて何とかやっていくから、出版社に行く序にちょくちょく美味いもん食わしてやるからな」

「うん!」

「ああ、腹一杯になった!」と父ちゃんは力瘤を作るように腕を上げ、背中の骨を鳴らしながら、搾り出すような声で言う。

 夕食を喫茶店で済ますと、俺はまた父ちゃんに肩車してもらい、家へと坂を上っていく。夜空には星が一杯煌き、銀色の三日月が輝いている。

 家に着くと、「ただいま!」と俺は言って、家の中に駆け込み、自分の部屋に入る。明日の学校の支度をして風呂に入ると、窓辺のレイディオを点け、自作のプロレス漫画を読み返す。その後、買ってもらったばかりの『タイガーマスク』第一巻を読む。

 一気に『タイガーマスク』を読み終えると、自分の漫画とは比較にならない程画力もストーリーもレヴェルがとても高い事に驚く。俺は自分の勉強不足を痛感する。武者小路実篤の『友情』を読むのも楽しみにしている。もう時間が遅いので、俺は蒲団を敷いて、洗面所で歯を磨き、居間にいる父ちゃんに、「おやすみなさい」と言って、自室に戻り、床に入る。


 翌朝の日曜日、俺は目覚めると、水着を穿き、その上に服を着て、独り港に向かう。父ちゃんと俺の朝ご飯のおかずを獲りに行き、父ちゃんと楽しく朝食を食べる事を想っている。

 俺は港で服を脱ぎ、父ちゃんの喜ぶ顔を想って、海に潜る。海に潜ると、海の中には神様がいるのが判るんだ。ほう、翔太も海が、大分、判ってきたなと頭の中で父ちゃんとお喋りをしながら、朝ご飯のおかずを獲って帰る自分の役割りをとても誇りに思う。

 はまぐり四つと若布と海苔とハゼ二匹を獲って家への坂を上っていく。

「父ちゃん、ただいま!」と俺は玄関から大きな声で家の中に声をかけ、家の中に入る。薄暗い居間には父ちゃんの姿がない。父ちゃん達の寝室に行くと、蒲団はもう片づけてある。

 父ちゃん、何処に行ったんだろう。

 自動車の音がし、家の前に止まる。俺は玄関の方に歩いていく。父ちゃんが自動車から出てくる。

「父ちゃん、その自動車、どうしたの?」

「中古車を五万で買ってきたんだ」

「ええ!父ちゃん、その車、買ったの!」

「翔太、これでお母ちゃんと一緒にドライヴに連れてってやるからな」

「やったあ!父ちゃん、朝ご飯のおかず獲ってきたよ」

「おお!そうかそうか!じゃあ、早速料理しようかな」と父ちゃんは言い、玄関から家の中に入る。

 俺は病院に行く支度をして、家の外に止めてある父ちゃんの車を見に、玄関の外に出る。父ちゃんが買って来た車は白いスカイラインである。俺は運転席のドアーを開け、座席に座ると、ハンドルを握り、運転する想像をして楽しむ。助手席の窓を叩く音がし、振り向くと、父ちゃんが車から出てこいと手振りで呼び出す。俺はドアーを開け、車から出る。

「朝飯だよ。早く食わないとお見舞いに遅れるぞ」

「ああ、そうだ!」

 俺は父ちゃんの後から家の中に入り、食卓の席に腰を下ろす。朝食ははまぐりのバター炒めと若布と昆布の酢の物と若布の美味噌汁とハゼの唐揚げと白米である。

「いただきまあす!」

「おお!食え食え!いただきまあす」と父ちゃんは合唱して言うと、「翔太の獲って来た魚はどうかな」と言い、ハゼの唐揚げを美味しそうな音を立てて齧る。「美味いな。翔太、美味いぞ!」

「うん!」と俺は喜んで返事をする。

「いつも学校で漫画を描くのか?」

「うん、そう。家に帰ってきたら、これから毎日小説を書こうかな」

「おお!翔太は今、絶好調みたいだな。父ちゃんも翔太を学校に送り出したら、家で小説を書く予定でいるんだ」

「俺も父ちゃんみたいに長い小説を書けるようになりたい」

「長いのを長編小説、短いのを短編小説、その間の、中くらいの小説を中編小説と言って、一番短いのをショート・ショートって言うんだ」

「ふううん。僕のは何?」

「ショート・ショートだろうな。翔太の二作目三作目なんかは詩的な感じもするよ」

「詩的って、何?」

「詩に似てるって事だ。翔太は詩も書けるかもしれないぞ」

「坂家は小説の他に童話も書くんだよ」

「ほう。なかなか良い友達を持ったな」

「うん・・・・」

 坂家との例の事を父ちゃんに話すのは何となく怖い。自分達のした事が悪い事であるのを自覚しているのだ。

「翔太、昼からお母ちゃんに会いに病院に行くか?」

「うん、行く!その前に坂家の家に行ってきても良い?」

「おお、行ってこい!昼までには帰ってこいよ」

「うん、判った!」

「じゃあ、翔太が帰るの、父ちゃん、待ってるからな。真っ直ぐ家に帰ってこいよ」

「うん。御馳走様でした。じゃあ、行ってきまあす!」

「おお、行ってらっしゃい」

 俺は靴を履き、玄関を駆け出ると、坂家の家へと全速力で坂を駆け上がる。坂を上り、山への坂道から右に枝分かれしていく坂道へと曲がり、一挙に駆け上がる。

 坂家の家の前に着くと、玄関の方から庭に入り、裏庭に回り込む。俺は坂家の部屋の窓の外から、机に向かって何かを書いている坂家に、「坂家、おはよう!」と声をかける。

「ああ、海原君、おはよう!もう病気治ったの?」と坂家が顔を上げ、心配そうな顔で言う。

「治った。入院の事誰から聞いたの?」

「先生が言ってた」

「小説、二作書いたよ」

「ええ、凄い!読ませて!」と坂家が言うと、「はい」と俺は言って、坂家に小説の原稿を手渡す。

 坂家は原稿を受け取ると、早速読み始める。

「読み終わったら、感想教えてくれ」

「うん、判った」

 俺は窓の外から窓枠に手をかけて坂家を見下ろし、坂家の体を気づかれないように眺め、じっくりと記憶に焼きつける。ああ、またチンコがムズムズしてきた。俺は窓の下の壁の見えない位置で小説を読んでいる坂家を観ながら、チンコを握って擦る。チンコを弄って白いドロッとしたもんを出すのがとても悪い事のように感じる。これは止めないといけない。これは多分、とても悪い遊びだ。こんな事やってる奴が俺の他にいるのか。ああ・・・・。何か直ぐに出るようになったな。坂家がちらっと顔を上げ、俺に微笑む。俺は坂家に作り笑いを浮かべ、頷いてみせる。坂家はまた小説の原稿に視線を戻す。堪えて堪えて、溢れ出るのを遅らせると、どっくんどっくんと白いドロッとしたもんが出る時に気持ち良さが増すんだよな。神様から悪い方の顔を隠してチンコを擦り、白いドロッとしたもんが出た後は何気ない素振りをして、神様に対して惚けたような顔をして普通の生活に戻る。罪の意識を感じながら、止められなくなった好きな感じを、したくなる度にしてしまう。我慢した小便をやっと出す時の気持ち良さとも少し違う。その気持ち良さを物凄く悪い事であるのを知っていながら、繰り返してしまう、罪深さ。神様に顔を向けられなくなる程罪の意識を感じているのに、俺は好きな感じを止められず、段々悪い人間になっていく。自分に不安を抱きながら、それでも神様から意識を逸らし、好きな感じをする事に躍起になる。幾ら神様から意識を逸らそうとしても、どうにも意識を逸らせられない。

「海原君の小説って、何処まで上手くなっていくのかな」と坂家が顔を上げ、俺の眼を見ながら、真面目な顔で言う。

「どうだった?」

「上手く言えないけど、何かあたしなんかの小説とは全然違うの。特に『記憶の捩れ』なんて凄いと思う」

「そうか。何だかそう言ってもらえると物凄く嬉しいな」

 俺はまた坂家の下着や裸を見たくなる。小説の感想なんて本当はどうでも良いのだ。

「坂家、山の隠れ家に一緒に行かないか?」

「うん、良いよ」

 坂家と山に行く途中、俺はチンコがズホンの中で痛い程勃起しているのを感じながら、黙って歩いている。坂家の下着や裸を想うと、何だか歯が痛くなってくる。

 人気のない山の雑木林に入ると、歯の痛みを堪えながら、坂家のスカートを後ろから捲り、白い下着の中に手を入れて、お尻から股の間に手で触れる。坂家が短く色っぽい声を発する。俺は坂家の前に回り込み、坂家の下着を太股まで下げると、坂家の下半身の割れ目に手で触れる。俺は坂家の割れ目を指で抓むと、「坂家、おしっこするところ見せろ」と言う。「痛え!」

「どうしたの?」

「歯が痛くて・・・・」

「海原君も一緒にするなら良いよ」

「じゃあ、俺のも見せてやるよ」

 歯がどんどん痛くなる。俺はズボンのスライド・ファスナーを下げ、勃起したチンコを坂家の前で出す。

「ぎゅっと握ってくれ」

 坂家は柔らかく細い手で俺のチンコを握る。

「こう?」

「その握った手を強く握りながら前後に動かせ」

「こう?」

「うん。気持ち良い。お前はどうされたいんだよ?」

 坂家は俺の右手を右手で掴み、股の間に持っていく。

「ここに優しく触れて」

「何だ、この乳首みたいなの?」

「クリトリスって言ってね、触れるととても気持ち良いの」

「ふううん」

「赤ちゃんを作る時はね」と坂家は言い、俺の指を移動させながら、「もう一寸こっち」と言って、「ここに穴があるの」と言う。

「ここをどうすれば、赤ちゃんが出来るんだよ?」

 坂家は俺のチンコを握って、動かしながら、一度ぎゅっと強く握り、「これを穴の中に入れるの」と説明する。坂家はしゃがみ込み、おしっこをしてみせる。

「こういう風に出るのか」

「先のはおしっこをする穴でもあるの」

「あっ!」と俺が射精する瞬間に短く叫ぶと、「これが精子かあ!」と坂家が嬉しそうな笑顔で言う。

「せいし?」

「うん。男の子の精子と女の子の卵子が受精して、女の子は妊娠するの」

「受精って何?」

「くっつく事。でも、おちんちんを女の子の穴の中に入れるのは結婚してからする事だから、結婚していない内はしたらいけないの」

「ふううん。坂家は何でも知ってるんだな。じゃあ、俺、今、しょんべんしてるとこ見せてやる」

 坂家は唇を噛みながら、じっと俺のチンコを見ている。俺がしょんべんを出すと、「ああ!おしっこだあ!」と坂家はとても明るい声で感動を言葉にする。

「ああ!歯が痛え!」

「大丈夫?歯医者さんに行ったら?」

「うん、そうする」

 俺と坂家は山を下り、途中で別れる。俺は更に坂を下りて、家に帰る。

「父ちゃん、ただいま!」と俺は玄関から家の中に声をかけ、靴を脱いで家の中に入る。

「おお!翔太!お帰り!」

「父ちゃん、あのさあ、歯が、あれっ?痛くない」

「何だ、虫歯か?」

「かなあって思ったんだけど」

「車で今直ぐ歯医者に連れてってやる」

「うん」

 俺は部屋に行き、小説の原稿を机の上に置くと、父ちゃんのいる居間に戻る。

「翔太!行くぞ!」と父ちゃんが家の外から声をかける。何だ、もう父ちゃん、外にいるのか。

 俺は靴を履き、外に出ると、車の助手席にドアーを開けて乗り込む。俺がドアーを閉めると、「シート・ベルトを閉めろ」と父ちゃんが言い、俺の方に手を伸ばして俺の席のシート・ベルトを俺の体に嵌める。父ちゃんが運転する車に乗るのはこれが初めてだ。父ちゃんは車を運転し、港の方へと坂を下りていく。

「父ちゃん、免許証持ってるの?」

「持ってるよ」

「何時取ったの?」

「十九の時だ」

 父ちゃんの運転はとても上手い。学校の方とは逆方向の港のある海沿いを車で走ると、永田歯科医院と言う歯医者が見えてきた。父ちゃんはその歯医者の前で車を止めると、自分のシート・ベルトを外し、俺のシート・ベルトを外す。

 車から出た父ちゃんと俺は歯医者の中に入る。父ちゃんは歯医者の玄関で靴を脱ぎ、スリッパーズに履き替えると、受付の前に立ち、「息子の歯を診てもらいたんですけど」と言う。

「予約はされてますか?」と女の人が父ちゃんに訊く。

「いいえ」

「じゃあ、ここに患者さんのお名前を書いてください」

「はい。息子の名前ですね?」

「はい、そうです」

 父ちゃんは受付で何かを書き、受付の女の人に手渡すと、「そちらに座ってお待ちください」とその女の人に言われ、おばあさんとおじいさんの二人しかいない待合室のソファーに腰かける。俺もその右隣に腰を下ろす。待合室の本棚に絵本が幾つかある。俺はその中の一冊である「かちかち山」を観て待つ。

「海原翔太さん、診察室に入りください」と診察室のドアーを開けて、看護婦さんが俺を呼ぶ。

 俺は不安な気持ちで診察室に入り、看護婦さんが勧める席に上がる。

「どうしました?」と白いマスクをした男の歯医者さんが俺に訊く。

「歯が痛くなるんです」

 歯医者さんは先端に鏡の付いた棒で俺の口の中を診る。

「虫歯はないようですねえ。何か冷たい物や甘い物を食べると歯が沁みるのかな?」

「ええと、その、悪い事をすると、歯が痛くなるんです」

「悪い事って、どんな事かな?」

「ガール・フレンドの裸を想像したり、体を見せ合いっこしたり、触り合ったり、チンコを握って好きな感じをやると、何か知らないけど、歯が痛くなって」

「ああ、なるほど。おちんちんを握ってオナニーをするのは誰でも年頃になるとするんだけど、ガール・フレンドとの事は子供がしたらいけないな。大人になって結婚した相手とだけする事だからね。そう言う事をすると君の良心がね、良心って言うのは良い心と書いて良心って読むんだけれど、その良心が歯の痛みとなってピリピリィッと表われるんだろうね。そう言う事は歯医者に来て治療する事ではないんだ。君がよく気を付けて、もう悪い事はしませんと神様仏様に約束して止めれば良いだけの事なんだ。判ったかな?」

「好きな感じをすると、えっと、オナニーをすると、悪い事だって感じますよね?」

「うん、確かにそうだね」

「オナニーって、悪い事なんでしょ?」

「そう言う事はお釈迦様やイエス様の教えが書かれた宗教聖典でも読まなければ、先生にもよく判らない事だね。君は修行僧になりたいのかい?」

「なりたいです」

「お釈迦様やイエス様のような境地を何としても知りたいと思って修行を始める僧達はオナニーを止める修行によっても神仏を目指すんだよ。お釈迦様やイエス様は神仏になる過程で、オナニーなんてとっくに止めているんだよ。君は修行を積むためにオナニーを止められるか?」

「・・・・、やっ、止めます!」

「おお!頑張れよ。それならば、世のため人のために立派な神様仏様になりなさい」

「はい!でも、修行僧として仏様にもなりたいけど、漫画家や小説家にもなりたいんです」

「ううん、そうだね。皆、やりたい事が修行の他に沢山あるからね」

「はい」

「まっ、それはじっくりと自分で考えると良い。君の人生は君が決める事なんだからね。それじゃあ、もう歯の痛みの原因については判ったね?」

「はい、判りました」

「はい、じゃあ、もう良いよ」

「ありがとうございました」と俺は歯医者さんにお礼を言い、席を立ち、診察室を出る。

「おお、もう終わったのか!」と父ちゃんが笑顔で言う。

「虫歯はないってさ」

「何だって言ってた、先生は?」

「悪い事をする時に、良心が歯の痛みとなってピリピリと表われるんだってさ」

「そうか。悪い事って、どんな事したんだ?」

「坂家と色んなとこ見せ合ったり、触り合ったりする事」

「ああ、それは悪い事だ!そういう事は大人になって、結婚するまではしてはいけないんだぞ」

「うん」

「よし、じゃあ、帰ろう。一寸受付で話をするから、翔太は外で待ってなさい」

「うん」と俺は言い、スリッパーズを脱いで、靴に履き替えると、ドアーを開けて歯医者の外に出る。陽射しが強く、空は晴れ渡っている。俺は目を瞑って合掌し、『お釈迦様、もう悪い事はしません』と心の中でお釈迦様に誓う。

 父ちゃんの運転する車に乗って家に帰ると、「ただいま!」と俺は家の中に声をかけ、靴を脱いで薄暗い家の中に入る。俺は自室に入り、窓辺に置いたレイディオを点け、書き物机の前の座布団の上に腰を下ろす。帰ってきて早々、俺はまた小説を書き始める。チンコが理由もなく勃起している。俺はもう二度とチンコを弄って、あの感じを求めない事にした。


『港の倉庫』

海原翔太

 口を開けて空を見上げる僕が真向かいに立っている。背景の空は灰色の曇り空で、僕は港の倉庫街の前にいる。雨が降り始め、口を開けて空を見上げるその僕は、雨水を喉を震わせて飲む。頭が空っぽのその僕は、右側に立ち並ぶ少し開いた倉庫の鉄の扉の間を通って倉庫に入る。

 薄暗い倉庫の中を歩いていると、天井の高い倉庫の左奥に階段が見え、階段の上に事務所のドアーと窓が見える。その事務所の窓から倉庫内に薄っすらと光が差し込んでいる。僕はその左奥の階段を上り、鍵の開いた事務所のドアーを開ける。

 事務所の中に入ると、入って真向かいに窓があり、どうやらその窓から陽射しが射し込み、倉庫内にまで薄っすらと光が射し込んでいたようだ。

 事務所に入って右奥に、こちら向きの大きな机がある。その手前に向かい合わせの茶色い革のソファーが置かれ、その間にガラス板のテーブルがある。僕は手前のソファーに右から回り込み、勢いよくソファーに座ると、事務所の中をぐるりと見回す。入口辺りに冷蔵庫がある。僕はソファーから立ち上がり、冷蔵庫の方に戻っていくと、冷蔵庫の扉を開ける。灯の点いた冷蔵庫の中にはカステラの箱三つと様々な缶ジュースが沢山入っている。僕はそこから冷たく冷えたコーラを一本取り出し、先のソファーに戻って、コーラの栓を開ける。静かな事務所に炭酸ガスの音が小さく鳴る。

 一階の倉庫内から数人の大人達のざわめきが聞こえ、倉庫内の電気が点く。僕は静かに窓に近づき、窓の端からこっそりと階下の倉庫内を見渡す。大人達が二階に来る様子はない。何か楽しそうに大人の話をしている。僕はコーラを手に持ち、光の射す方の窓に近づき、逃げ道を探す。窓からは逃げられない。僕は事務所の扉をそうっと開け、腰を屈めて静かに階段を下りる。

 大人達が入口の直ぐ脇の四方から向かい合わせるように置かれた折り畳み椅子四つに座っている。僕は倉庫内の物陰でコーラを飲み干すと、空缶を階段の向かいの角に放り投げる。大人達の視線が向かいの隅に向く。「わああ!」と僕は大声を出しながら、全速力で折り畳み椅子四つに座る大人達の脇を走り抜け、倉庫の外に出る。

 倉庫の外に出ると、僕は直ぐに左に曲がり、右側に海の広がる倉庫街を全速力で走る。振り返ると、大人達が僕を指差し、大笑いしている。僕はその大人達の様子をじっと立ち尽くして見ている。僕はずっとここに立っていた。薄っすらと口の中にコーラの味がする。僕は港の倉庫街から全速力で逃げ去る。

 

 俺は小説を書き終えると、居間にいる父ちゃんに見せに行く。居間に入ると、父ちゃんがいない。

「父ちゃん、小説書いたよ!」と父ちゃんを呼びながら、家の中を探す。父ちゃんがいない。車の中かと外に出ると、車の中で父ちゃんが運転席の座席を倒し、昼寝をしている。俺は小説の原稿を手に持ち、車の助手席のドアーを開けると、助手席に座り、ドアーを閉める。俺も父ちゃんの真似をして車の中で昼寝をしてみたい。座席の倒し方が判らず、「父ちゃん!」と寝ている父ちゃんを呼んで起こす。

「おお、翔太!」と父ちゃんが眠たそうな目を開けて言う。

「座席はどうやって倒すの?」

「ああ、ここをな、こうして」と父ちゃんが助手席の座席を倒し、俺に座席の倒し方を教える。

「手に持ってるのは新作の小説か?」

「うん」と俺は目を瞑ったまま言い、「はい」と目を瞑ったまま父ちゃんに小説の原稿を手渡す。

「どれどれ」

 俺は目を瞑ると、間もなく眠気が襲ってくる。

「翔太、お母ちゃんのいる病院に着いたぞ!」と父ちゃんの声がし、俺は目覚める。

「父ちゃんが車運転してた事に全く気付かなかったよ。何時の間にか寝てた」と俺は言い、倒した座席から重い体を起こす。

「『友情』はもう読み始めたのか?」

「まだ読んでない」

「翔太、先に売店で缶コーヒーを三つ買って、お母ちゃんの病室に行け」

「うん」と俺が返事をすると、父ちゃんが俺に三〇〇円手渡す。

「小説、良かったぞ。段々上手くなってきてるな。今書いてる小説が将来きっと翔太の宝になるからな」

「うん。じゃあ、俺、売店に行ってくる」

「おお、行ってこい!」

 俺は車のドアーを開け、病院の方に駆けていく。

 売店の販売機で缶コーヒーを三つ買うと、母の病室に入りながら、「お母ちゃん、お見舞いに来たよ!」と元気良く母に声をかける。

 母の返事がなく、ベッドの上には母の姿がない。

「翔太、またお見舞いに来てくれたの?」と背後から母の声が言う。

 俺は母の声のした方に振り返り、母を目にすると、一瞬過ぎった不安も直ぐに消える。母の顔色も大分良くなっている。

「お母ちゃん、顔色も大分良くなったね」

「久々にお化粧したからよ。お母ちゃんの顔はね、お化粧しないといつも蒼白いの」

「そうなんだあ。お母ちゃん、コーヒー一つ取って」と俺が両手に持った缶コーヒー三つを母に差し出しながら言う。

「はい、どうも」とお母ちゃんは俺の手から缶コーヒーを一つ掴んで言う。「翔太、今日もお父ちゃんと来たの?」

「うん。お父ちゃん、車買ったんだよ!」

「ええ!家にそんな贅沢をするようなお金はないのよ。お父ちゃんのお金の荒使いは昔からなの」と母が怒った顔で言う。「お父ちゃんは何処に行ったの?」

「外の車の中にいると思う」

「車の中で何してるのよ?翔太!直ぐにお父ちゃんをここに呼んできなさい!お父ちゃんにはきつく叱っておかないといけないわね」

 俺は何だか楽しくて、直ぐに病室から出て、駐車場へと駆けていく。父ちゃんの白いスカイラインに近づいていく俺に父ちゃんは全く気づかず、下を向いて座席に腰かけている。俺は運転席の窓を叩き、「父ちゃん!」と呼びかける。父ちゃんは直ぐに振り向き、原稿を大きな封筒に仕舞うと、ドアーを開けて外に出てくる。

「お母ちゃんに車買った事言ったら、お母ちゃん、凄く怒ってたよ」

「もう言っちゃったのか、翔太!」

「うん!」と俺は楽しそうな笑顔で言う。

「こりゃあ、またお説教だ!」と父ちゃんが困った顔をして言う。「まあ、良いか。行くぞ、翔太」と父ちゃんは言って、俺を肩車する。

 のっし、のっしと背の高い父ちゃんが俺を肩車して歩いていく。

「お母ちゃん、元気そうだったか?」

「お化粧したら、いつもの顔色になるんだって。お化粧してないお母ちゃんの顔はいつも蒼白いんだってさ。今日はお母ちゃん、ちゃんとお化粧してたよ」

「女は化粧で化けるからな。女に怨まれると、うらめしやあって、化けて出てくるって言うだろ?」

「うん」

「翔太、女は怖いんだぞ。お前も結婚する相手を選ぶ時はよく観察して、なるべく大人しそうな女を選べよ」

「うん、判った」

「慶子、見舞いに来たぞ」と父ちゃんは言いながら、お母ちゃんの病室に入る。

「あなた、車買ったって本当ですか?」

「本当だ。これから仕事に必要になるんだ」

「あんまり贅沢はしないでくださいよ」

「金の心配はするな。使ったら、使った分働いて稼いでくると思え」

 母は何も言わず、下を向いて溜息を吐き、飲みかけの缶コーヒーを股の間に挟む。

「何をそんなに心配してるんだ?」

「執筆以外に何のお仕事に就くおつもりなんですか?」と母が俯いて言う。「あなたはずっと漁師しかした事のないんですよ」

「そんな事は重々承知の上の事だ。お前は色んな事を心配し過ぎなんだ。家計にお金が必要なら、何で一言言ってくれなかったんだ」

「あなたの稼いできたお金を全部生活費なんかに使えませんよ」

「その分俺が贅沢をするだろ」

「少しでも将来のために貯金していきましょうよ」

「金がないからこそ働くんだ。貯金があると思ったら、働きに出るのも気が重くなるだろ」

 母は重い溜息を吐く。

「東京で小さなコンドミニアム買うくらいの貯金ならあるんですよ。生活費は私の働いたお金で間に合わせてきたんで」

「それ、本当か?」

「ええ」

 父ちゃんはベッドの脇に腰かけた母の足下にしゃがみ込み、「お前、頼むから、働き過ぎで死んだりしないでくれよ」と俯いて言う。

「まだまだ、死にやしませんよ。せめて翔太が結婚するのを見届けるまではね」

「もっともっと長生きしろよ。孫の顔を見たいとか、俺達二人だけの老後の生活を楽しみたいとか」と父ちゃんは缶コーヒーを持った母の両手を両手で包み込み、力強い口調で赦しを請うように俯いて言う。「お前は何で自分が早死にすると思い込んでるんだ?」

「一生懸命一日一日を生きてますから、自分が力尽きる時をどうしても思ってしまうんです」

 後ろからでは父ちゃんの顔は見えない。何となく父ちゃんが泣いているように思う。

「そうだ。翔太がまた小説を書いたんだ」と父ちゃんは言い、脇に挟んだ封筒と一緒に俺の小説の原稿を母に手渡す。母は父ちゃんの封筒を右脇に置き、俺の小説から読み始める。父ちゃんはコーヒーを一本俺の手から黙って掴み取ると、栓を抜いて飲み始める。俺も思い出したように手に持っていた缶コーヒーの栓を抜き、よく味わいながら飲む。父ちゃんは窓の方に近づき、母と俺に背を向けて、コーヒーを手に持ったまま黙って窓から外を見ている。両親共に本当によく黙り込む。俺はそんな両親の姿を幼い頃から見てきた。俺は両親のように特別無口な方ではない。両親の沈黙は決して嫌いではない。何かとても深い平和を感じさせる大人ならではの沈黙なのだ。

 小学六年生になって、突然飲むようになったコーヒーの味は自分の知らない父と母の過去を知るための大切な手がかりのように思える。どうやら俺の両親はどちらも貧乏生活をしてきた人達ではないようだ。

「翔太、小説が随分上手くなってるわね」と母が俺の小説を誉める。

「そうだろう!翔太の未来はショートショートの神様って言われるかもな」と父ちゃんが嬉しそうに言う。

「僕は父ちゃんの小説みたいに長編小説を書くのが夢なんだ」

「ショートショートも続けると良いよ。得意なスタイルを捨てるのは勿体ない事だからな」

「うん」

 病室に白衣を着た母の主治医が来て、「どうですか?」と母に訊く。

「大分、疲れはなくなってきました」

「私から診ても、もう体力は回復しています。一端退院して、お家にお帰りになりますか?」

「良いんですか?」

「ええ、ご希望とあらば、もう退院出来ます」

「それじゃ、退院させていただきます」

 先生は笑顔で母を見て頷く。

「先生、女房と息子が御世話になりました」と父ちゃんが先生にお礼をする。先生は病室を出て、御世話になった看護士達を病室に呼ぶ。先生と看護士達はそれぞれ母に、「退院おめでとうございます」「どうかお元気で」と退院祝いの言葉を口々に贈る。

 母の荷物を纏め、退院の準備が整うと、母は先生と看護士達に何度も頭を下げながら、「本当に御世話になりました。御親切にどうもありがとうございました」とお礼を言う。父ちゃんが母の荷物を抱え、「よし!じゃあ、家に帰ろう!」と言うと、家族三人揃って病室を出る。

 父ちゃんが駐車場に停めた車に母を案内し、「どうだ、慶子?これをたったの五万で手に入れたんだぞ」と車の自慢をする。

「なかなか良い車ですね」

「まあ、乗れよ」と父ちゃんは言い、母のために助手席のドアーを開ける。母が助手席に座ると、俺は後部座席に乗り込み、ドアーを閉める。父ちゃんは助手席のドアーを閉め、運転席の方に前から回り込むと、車内に乗り込み、ドアーを閉める。

「父ちゃん、俺も運転してみたい!」

「ダメよ、翔太!運転するには免許証が要るのよ。運転免許証なしで運転する事を無免許運転って言ってね、犯罪なのよ」

「そうなんだ」と俺はしょんぼりとして言い、犯罪を犯そうとした事を反省する。

「まあ、安全なところで一寸運転させてやるよ」

「本当!」

「ダメですよ、あなた!そんな事したら、将来、翔太は平気で犯罪を犯すような大人になります」

「翔太、車が停まってる時に運転席に座って、ハンドルを握るぐらいで我慢しなさい。父ちゃんは翔太と友達になりたくて、良い奴だと思われようと、悪い事だと知っていながら、悪い事に誘惑する子みたいに無免許運転をさせてやろうと思ったんだ。翔太の将来を想って、本当に正しい判断をしたのはお母ちゃんの方だ」

「うん・・・・・」

「良し!じゃあ、皆で家に帰るぞ!」と父ちゃんは言い、車を走らせる。「翔太、『タイガーマスク』はもう読んだのか?」

「もう読んだ」

「どうだった?」

「絵が上手くて、ストーリーに仕掛けが沢山あって、物凄く面白い。続きが読みたい」

「二巻からなら父ちゃんが東京に行った時に買ってきてやる」

「やった!ありがとう!僕も本屋さんに行ってみたい!」

「おお!じゃあ、今度、車で連れてってやろう」

「本当!」

「おお!」

「あなた、こんなにまた書いたんですか?」と母が助手席で俯いたまま父ちゃんに言う。

「えっ?」と父ちゃんは運転しながら言うと、ちらっと母の方を向いて、「ああ、それか。新作だよ。出版社に読んでもらってるのと同じような時期に書いてた作品なんだ」と言う。

「また長編小説?」と俺は後部座席から乗り出し、母の読んでいる父ちゃんの小説を見る。

「俺はもう長いか短いかって事では書く事に大した違いは感じないな。机の前に座れば、すらすらっと書く事が出てくるんだ」

「これ、何枚かしら?」と母が原稿用紙の束を指に滑らせるように捲りながら言う。

「三〇〇枚ぐらいかな」

「お父ちゃんも翔太も小説を書くのねえ。親子二代に亘って小説家かあ。何だか嬉しいわね」

「お前も小説書いてみないか?」

「学生の頃にね、突然、小説を書こうって思い立って、原稿用紙と安い万年筆を買って書いてみた事があるのよ」

「それ、今もあるのか?」

「実家にあると思うわ、捨ててはいないから」

「読んでみたいな。これからお父さんお母さんのところに車で行ってみるか」

「ええ!良いけど、私の小説はそんな大したもんじゃないわよ?」

「どんな小説なんだ?」

「どれも多くて二〇枚ぐらいの短い小説なの」

「短編小説だ!」と俺がここぞとばかりに言う。

「そう、短編小説なの」と母が俺の方に振り返って、笑顔で言う。「甘あい、甘あい、恋愛小説なんだけど、経験ではなくて、どれも想像で書いたの。私はどれも気に入ってるんだけどねえ」

「何で小説家を目指さなかったんだ?」

「結婚して翔太が生まれて、子育てが忙しくなって書けなくなったのよ」

「じゃあ、諦めた訳でもないんだな」

「もう長あく書いてないし、お気に入りの作品はもうあるから、私はもう創作はいいかな。お父ちゃんと翔太の小説読んでる方が楽しいわ」

「またきっと書きたくなるよ。書きたくなった時のために原稿用紙をやっておこう」

「実家に帰れば、原稿用紙なら沢山あるわ」

「慶子、夕食は外で食おう!何か食べたい物はあるか?」

「そうねえ、焼肉でも食べたいですねえ。結婚前、よくあなたに焼肉屋さんに連れていってもらったのが懐かしいわ」

「翔太も焼肉で良いか?」

「焼肉って美味しいの?」

「美味いよ。食ってみれば判る」と父ちゃんは言い、レイディオを点ける。

『次の曲は東京都の寂しい大学生さんからのリクエストで、デイヴィッド・ボウイの、『ライフ・イン・マーズ』をお贈りします』

「お父さん達、元気にしてるかな?」と父ちゃんが運転しながら母に話しかける。「翔太もお祖父ちゃんお祖母ちゃんに会うのは正月以来だろ?」

「うん。お年玉五千円貰った」

「よし!一端ここで車を停めて、土産に饅頭でも買ってくるか」と父ちゃんが車を停めて言うと、父ちゃんは車外に出て、和菓子屋に入っていく。

「俺もお店に入って良い?」と俺は母に訊く。

「良いわよ」

 俺は早速車から出て、和菓子屋に入る。俺が和菓子を眺めていると、「何か食べたいもんでもあるか?」と父ちゃんが俺に訊く。

「どら焼きがある!」

「あのう、このどら焼き一つください」と父ちゃんが和菓子屋のおばさんに言う。「どら焼きはこの子に持たせますんで」

「はい、判りました。合わせて二六〇〇円になります」

「済みません、五千円札で良いですか?」

「はい、構いませんよ。それでは二四〇〇円のお釣りですね」とおばさんが父ちゃんに言って、お釣りを手渡し、「はい、坊や、どら焼きよ」とどら焼きを一つ俺に手渡す。

「よし!車に戻るぞ!」

 父ちゃんと俺は再び車に乗る。父ちゃんは車を走らせ、母方の祖父母の住む松戸に向かう。

「お母ちゃんもどら焼き食べる?」と俺はどら焼きの包みを剥がし、どら焼きを三等分しながら訊く。

「あら、お母ちゃんにもくれるの?」

「はい」と俺は三等分したどら焼きの一つを母に手渡す。

「ありがとう」と母は言って、どら焼きを食べる。「美味しいわね、このどら焼き」

「父ちゃんも、はい」

「おお、ありがとう」と父ちゃんが言う。

 俺はずっとTVでドラえもんの大好物のどら焼きを観ていて、一度食べてみたいと思っていた。

「美味しい!」

「美味いな」と父ちゃんが言う。

「ドラえもんの大好物なんだよ」

「だから、どら焼き食べたかったのか」

「うん」

「『ドラえもん』みたいな国民的漫画を描く漫画家は本当に凄いな。まあ、国民的漫画は『ドラえもん』ばかりではないし、今後、どんな漫画が国民的な漫画として愛されるのかも判らない」

 俺は自分の知ってるアニメイションを次々に思い浮かべては、国民的漫画と呼ばれる漫画にはどんな作品が含まれるのかを思い巡らす。

「家もそろそろTV買わないとなあ。翔太もTVで漫画を沢山観たいだろう」

「車買ったばかりで、次はTVですか!」と母が眉間に皺を寄せ、厳しい眼で父ちゃんを見て言う。

「TVのない家庭なんて、今の日本にはほとんどないからな」

「お金は十分あります。買えない訳ではありません」

「うん」と父ちゃんは言うと、その後は何も言わず、車を運転する。

 父ちゃんが祖父母の家の前で車を停める。

「さあ、着いたぞ」と父ちゃんは言い、俺と父ちゃんと母が車から降りる。

「こんにちは!」と父ちゃんが祖父母の家の玄関のドアーを開け、家の中に声をかける。

「はあい!一寸お待ちください!」と祖母が玄関の奥の居間から襖越しに返事をする。「あら、玄さん、こんな遠くまで何の用でいらしたの?あら、何よ、慶子も翔太も来たの!」

「あたしの小説の原稿を取りにきたのよ」と母が言う。

「あのう、これ、詰まらないもんですけど」と父ちゃんが祖母にお土産の包みを手渡して言う。

「あら、いつもすみませんねえ。どうぞ、中に上がってください。今、お茶出しますから」

「すみません。それじゃあ、お邪魔しまあす」と父は言うと、靴を脱いで家の中に入る。

「お邪魔しまあす」と俺も言って、靴を脱いで家の中に入る。

 祖父が居間から出てきて、「おお!玄さん、いらっしゃい!」と笑顔で父ちゃんに言うと、「おお、翔太も来たのか!」と祖父は優しい眼で俺を見下ろして言い、俺の頭を撫ぜる。

「お父さん、ただいま」と母が後ろから来て言う。 

「おお、慶子!何だ、皆、揃って来たんだな」と祖父がとても嬉しそうな笑顔で言う。

「慶子の小説の原稿を取りにきたんですって」と祖母が祖父に言う。「お土産もいただいたのよ」と祖母が祖父にお土産の包みを手渡して言う。

「玄さん、家来るのに土産なんていらないよ」と祖父が温かな眼差しで父に言う。

「まあ、ほんの気持ちですから」

「悪いねえ、いつも」と祖父が申し訳なさそうに言う。

「あたし、部屋に行ってるから、あなた、お父さん達と話しでもして待っててください」と母が父ちゃんに言う。母は居間の奥の縁側を左に曲がり、居間から去る。

「まあ、おかけください」と祖父が父ちゃんにソファーに座るようにと勧める。

「ああ」と父ちゃんが笑顔で安堵の息を吐きながら、ソファーに腰を下ろす。

「御菓子ですなあ。今、妻がお茶入れてるんで、皆でいただきましょうか」と祖父がお土産の包みを開けながら言う。

「饅頭ですよ」と父ちゃんが祖父に言う。

 祖母が居間の右隣の台所に入る。

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