第2話

 船着場に腰を下ろした俺達は何時の間にか二人共黙っている。その沈黙に気づいた俺は、「ああ!そうだ!父ちゃんに漫画見せるんだった!」と言って、さっと立ち上がる。坂家も遅れて立ち上がろうとしている。俺は坂家に右手を差し伸べ、坂家が俺の手を掴むと、坂家の手を引いて、坂家が立ち上がるのを助ける。

 俺と坂家は手を繋いで坂を上っていき、俺は家の前で更に山の方へと向かう坂家と別れる。

「父ちゃん、お母ちゃん、ただいま!」

「おお、帰ってきたか!」と父ちゃんが居間から玄関の方を振り返って笑顔で言う。

 俺は家の中に入り、「父ちゃん、これ、俺の漫画」とランドセルから漫画用ノートを出しながら言い、父ちゃんにノートを手渡す。

「翔太の漫画を観るのを父ちゃん、ずっと待ってたんだぞ」

「うん」と俺は言い、居間の暗がりで横になったままのお母ちゃんの姿を見る。「父ちゃん、お母ちゃんって、いつも僕が学校から帰ってくると、ああやって寝てるんだ。いつもはお帰りって、ゆっくり起きて言うんだけど」

「寝かしといてやれ。お母ちゃんは働き過ぎで疲れてるんだよ」

 俺は父ちゃんの隣に腰を下ろし、「父ちゃん、父ちゃんの小説が売れたら、美味いもん一杯食えるかな?」と父ちゃんに訊く。

「どうかなあ。良い小説が必ずしも売れるって訳じゃないんだ。人気のある作家の本を買うお金と、無名の作家の本を買うお金は、同じ財布の中の限られたお金であって、本を買うって言う行為は、それぞれが自分の財布の中の限られたお金を払って、読みたい方を手に入れる事なんだ」

「皆、本二冊買うお金があれば良いのにね」

「うううん。多くの人はな、何人かの人気作家を掛け持ちで読んでいて、本二冊買うお金があれば、人気作家二人の本を一冊ずつ買う事の方が多いんだ。お金をたっぷり持っていたとしたら、もしかしたら、無名の作家の本を買う人もいるかもしれないが、本ばっかりにそんなにお金を使う人はそういないんだ」

「ふううん」

「だからと言って、本が売れる事を諦める必要はない。どういう風にして本が沢山売れるのかは現実にはまだよく判っていないところがあるんだ。宣伝費にお金を賭ける事が売り上げにとても重要であったり、新人である事が多くの読者を掴む重要な条件であったり、読んだ人が口伝てに人に紹介して評判が広がり、馬鹿売れする事だってある。雑誌で紹介されて売れる事だってあるし、有名な作家が推薦文を書いてくれて売れる事もある」

 俺は父ちゃんの本が売れる事を思って、ぼんやりと神様を想っている。

「おお、プロレス漫画か。どれどれ」と父ちゃんは俺の漫画を読み始める。

 俺は部屋にランドセルを置きにいき、洗面所で石鹸をつけて手を洗う。俺は手拭いで濡れた手を拭くと、洗面所の鏡に映った自分の姿を見ながら、漫画家になった時の自分を想像する。

 俺は自分の部屋に行き、書き物机の前の座布団の上に腰を下ろす。窓辺のレイディオを点け、座っている体をごろんと後ろの畳の上に仰向けに倒し、天井を見つめる。俺は目を瞑り、長瀬との口づけの記憶に浸る。二人で大笑いしたあの夜の口づけの後の事を思い出す。口づけをしている時だけ、俺達はあの特別な甘い世界に入ったんだ。

 父ちゃん、俺の漫画観て、どう思うだろう。ああ、そうだ。山に行って、おかずでも採ってこようか。

「行ってきまあす!」

「おお、翔太、気をつけて行けよ!」

「はあい!」

 俺は家を出て、坂道を上り、独り山に入る。

 山菜のおかずを沢山採ると、俺は独り山小屋に向かう。

 山小屋に入り、椅子に腰かけると、摘んできた大量の木苺を一粒ずつ食べながら、坂家と一緒に来た時の事を静かに思い出す。先、別れたばかりの坂家と、何だかまた直ぐ会いたくなる。

 俺は山小屋を出て、山を下ると、途中まで坂を下り、坂家の家の方の坂を上っていく。坂家の家の前に来ると、庭を回って、裏庭に面した坂家の部屋の前に来る。窓から書き物机の前に座った坂家の頭が見える。

「坂家」

「うわっ!びっくりした!何だ、海原君か!」と坂家がびっくりとした顔で俺を見て言う。

「童話書いてたの?」

「うん、そう」

「驚かしてごめん。何だかまた会いたくなって来ちゃったよ」

「私も海原君に会うのが一番楽しいわ」

「一寸両手を出して」

「うん」と坂家は言い、爪切り検査のように両手を俺の方に差し出す。

「こういう風に」と俺は両手で水を掬うような感じを手で示す。坂家が言われた通りにすると、俺は袋の中から木苺を取って、坂家の両手一杯に載せる。

「うわあ、こんなに一杯木苺くれるの?」

「沢山採ってきて、袋の中にもまだ沢山あるんだ。父ちゃんとお母ちゃんにも持ってかえるからね」

 坂家は書き物机の上のノートの上に木苺を載せると、一粒口の中に入れて食べる。

「美味しい!ありがとう」と坂家が笑顔で言う。

 何だか坂家の唇ばかり見つめて黙っている自分に気づき、俺は意味もなく後ろを振り向き、再び視線を坂家の眼に向ける。

「坂家の顔が見れたから、そろそろ帰るよ。それじゃあ、また明日!」

「ええ、もう帰っちゃうの?」

「おかずをお母ちゃんに渡しにいかないといけないし」

「それじゃあ、また明日、学校で」と坂家が笑顔で言う。

 俺は坂家に手を振って別れると、坂家の家の庭を出て、坂を下り、家に帰る。

「父ちゃん、お母ちゃん、ただいま!」

「おお、翔太、帰ってきたか!」

 俺は靴を脱いで家の中に入る。

「翔太、漫画面白いぞ!絵の方も段々と線が少なくなって、上手くなってきてる。主人公の矢崎光がとても魅力的に描かれてるな」

「父ちゃんが良いって言ってくれるかどうかずっと考えてたよ」

「面白い。新しいプロレス技も本当に痛そうだ」

「ああ、その辺はリアルに考えてたところ」

「漫画の新人賞に投稿出来るような紙に規定のサイズでプロと同じ漫画道具を使って描いていった方が手間が省けるんじゃないかな。今度、父ちゃんが東京の出版社に行く時に漫画道具を一式買い揃えてきてやる」

「うん。お母ちゃん、おかず採ってきたよ」

 居間に横になった母は眠っているようだ。

「お母ちゃんには苦労をかけた。お母ちゃんはもうくたくたなんだろう」と父ちゃんが母の寝姿を見て、悲しそうに言う。「ゆっくり寝かしといてやれ」

「うん」

「ああ、翔太、お帰り」と母がゆっくりと上半身を起こし、明るい笑顔で言う。

「慶子、もう一寸寝てなさい」

「ううん、もう起きるわ。晩御飯も作らないといけないし」

「体か何かだるいんじゃないのか?」と父ちゃんが母に訊く。

「疲れが溜まっちゃって、どうしようもないのよ」

「病院行って診てもらおうか?」

「病院なんていいわよ。確かに疲れてはいるけど、夜はちゃんと少し早目に寝てるの。それでも翌朝に疲れが取れないのよねえ。年かしら」 

「体か?頭か?」

「体。何か全身が疲れてるような」

「あんまり無理しないでくれよな。俺も船を下りて早目に仕事探すから」

「仕事、この辺にあるの?」

「俺に考えがあってな。東京に引越そうかと考えてるんだ」

「ええ!東京に引越すの?」と俺は両親の話を聞いて喜んで訊く。

「お前も東京ならもっと楽な仕事を選べるだろう」

「仕事は別にきつくはないの。でも、東京に引越すのは私も賛成よ」

「俺も東京に住みたい!」

「そうか。家族全員賛成って訳だな」

「あなたは体、大丈夫なの?」と母が父ちゃんに訊く。

「俺はこの通り、心も体もぴんぴんしてるよ」と父ちゃんが母に言う。「早速、明日、俺、東京に行って、出版社に行くついでに少し不動産屋を見て回ってくるよ。夕方頃には帰ってくる。ほんとだったら、新人賞に直ぐ投稿しても良いんだが、小さな出版社に原稿を持ち込んで、少し意見を聞いてみたいんだ。無名の人間の純文学なんて、小さな出版社が出版する見込みなんてないのはよく判ってる。ただ、自分の作品の出来がどの程度のものなのか、一寸専門家の感想を訊いてみたくてな」

「あなたの為さりたいようにしてください」

「ああ、それと、翔太の漫画道具も買って来ないとな」と父ちゃんが俺の頭に大きな重い手を置いて、笑顔で俺に言う。

「あなたの小説、私も読んでみたいわ。あなたがどんな作品を書いてるのか、全く判りませんからね」

「ああ、じゃあ、そこの風呂敷の中にあるよ」と父ちゃんは言って、風呂敷を食卓の上に置くと、風呂敷を解く。「上から順に三作書いたんだ。良かったら、読んでくれ。お前は文学には詳しいからな」

「それでは一寸拝見」と母が澄ました顔で言うと、にっこりと笑顔を見せる。

「うん」と父はとても楽しそうに母が原稿を手にするのを見て言う。

「『漁師』。真っ直ぐなタイトルね、これは」

「それ一作に海の男としての俺の人生を全て描き切ったんだ。それが最初で最後の小説かと観念していたんだが、書き終えてしばらくすると、雨のようにアイディアが降ってくるようになったんだよ。長年、その時期が必ず来ると、ずっと信じてきたんだ」

「海の男としてのあなたの人生はこれ一作きり?」

 父ちゃんは笑顔で母を見て、何も答えない。

「長年、漁師として働いてきたあなたの小説は」

「まあ、良いから、とにかく、読んでみろ」

 母は鼻水を吸って、原稿の両脇を大切そうに両手で掴み、目許を右の人差指で触れる。母は父ちゃんの小説を黙って読み始める。

「翔太、お母ちゃんが小説読んでる間に喫茶店にでも行って、コーヒーとケーキを食べにいこう」

「あら、それなら私も行きたいわ」と母が原稿から目を離さずに言う。

「土産もらって帰ってくるから、慶子は小説をじっくり読んでいてくれ。行くぞ、翔太!」

「うん!」

 父ちゃんと俺は靴を履いて玄関を出ると、港まで坂を下りていく。

「翔太、必ず漫画家になれよ」

「うん」

「漫画家になるまでに時間がかかるなら、何でも良いから、とにかく働け。経験程価値のあるものは他にないんだ。どんな事も必ずお前の漫画に役立つ日が来る。そう思って、真っ直ぐな心で大人になっていけよ」

「うん、判った」

「ほれ」と父ちゃんは俺を肩車しながら言う。「おお、翔太も重たくなったなあ」

 父ちゃんは本当に頑丈な体をしている。

「父ちゃんは漫画描いた事ある?」

「子供の頃に人気のある漫画の物真似で漫画みたいなものを描いていた事があるよ。翔太の漫画のように、面白くて、上手い漫画ではなかったけどな」

「その漫画何処にあるの?」

「残ってるとしたら、お祖母ちゃんの家かな」

「観てみたい!」

「なら、夏休みに行って観てこい」

「うん!」

 俺と父ちゃんは町に一軒しかない喫茶店に行く。

 喫茶店の建物の外壁は古風で落ち着いた漆黒の木で出来ている。表に『珈琲港』と不揃いな手書き風文字で書かれた木の看板が出ている。扉を開けると、からんころんと心地良い鈴の音が鳴り、俺と父ちゃんは店の中に入る。木材で造られた店内はアンティーク調の落ち着いた茶褐色に覆われている。

「いらっしゃいませ」とカウンターの中にいる主人らしき品の良い中年男性と会計のところに腰かけた若い女の店員が言う。カウンターの上の壁には有名な作家や芸術家のサイン色紙がずらりと飾られている。俺と父ちゃんはサイン色紙を眺め、広く海が一望出来る奥の窓際の四人席のテーブル席に腰かける。大きな本棚が三つの通路を残して等間隔に並び、その本棚で店を二つに仕切っている。会計の後ろに座っていた女の子が俺の席に近づいてくる。

「御注文は何になさいますか?」と女の子が注文を取る。父ちゃんはテーブルのメニューを見て、「クッキーとミルク・ティーをください」と頼む。

「翔太は何が良い?」

「俺、このチョコレイトのケーキが食べたい」

「飲み物はコーヒーで良いか?」

「僕、アイス・コーヒーが良い!」

「クッキーとミルクティーと、チョコレイト・ケーキとアイス・コーヒーですね。以上で宜しいでしょうか?」と女の子が確認すると、「はい」と父が答える。

 女の子はカウンターの方に去っていく。店内には全くの素人には作曲家すら判らない、聴いた事のないクラッシックが流れている。

「父ちゃん、ここに来るの初めて?」

「いやっ、昔から陸に上がると、漁に出る前の日まで毎日ここに来て小説を書いてたんだ」

「ここで父ちゃん、小説書いてたのかあ」と俺は店内を見回す。本棚に目が止まり、俺は席を立って本棚の本を眺めにいく。

「父ちゃん、この店の本、小説ばっかりで、嘘の話しかない」

「翔太、そろそろ小説を楽しんでも良いぞ。小説って言うのはな、何もない白紙の状態から状況や人物を設定して、何らかを表現をしようとする試みなんだ。まあ、その点では漫画と同じだ。お前に本当にあった話だけを読むように言ったのは、生きるという事、偉人として歴史に名を残す事の内には、夢見るような事ばかりして一生を終える芸術家や表現者の人生と、世のため人のために役立つ事をして生きた人生とがあって、決して芸術家や表現者を中心に世の中が成り立っている訳ではない事をお前に知ってもらいたかったんだ」

「俺は坂家の小説を読んで、小説のすばらしさを知ったよ」

「坂家君って子は、小学生でもう小説を書くのか?」

「坂家君って、その子、女の子だよ」

「お前がチューした子か?」

「俺の恋人」と俺は父ちゃんを見て、にやけた顔で言うと、何だか照れ臭くて頭を掻く。「頭がカイイ!」

「いいか、お前も偉人の伝記を沢山読んで、少しは世の中の事も知っただろう。言葉を文字に託して創作するって事はな、飽く迄、経験が先にあって、初めて為され得る事なんだ。本当に大切なのは経験だ。お前も小説を読んで、坂家さんのように小説を書けるかどうか、さらさらと一遍小説を書いてみると良い」

「今度は小説を読むの?」

「読んでみろ。お前には小説を書く親も友達もいる事だし、創作を続けて行く上でとても恵まれた環境にあるんだ。先ずはあまり考え込まずに、今自分に書ける事をさらさらっと書いてみなさい」

「うん、判った」

「文章はな、辞書を引き引き難しい言葉を書き並べるより、血肉化した自分の言葉の中から自然に出てくるような言葉で書く方が作品に魂が入り易いんだ。その代わり、本を読む時には、判らない言葉は必ず辞書を引いて、言葉の意味を正確に知るようにしなさいって、前に父ちゃん、お前に言ったよな?」

「うん」

「それをコツコツ続けていく裡に沢山言葉を憶えただろう?」

「うん」

「お前には人に何か言う時に、他の子より言葉を選ぶ注意力がある。漫画や小説を書く時にもそれがきっと役立ってくる」

「うん」

「小説にはな、伝記なんかにはないような巧みな言葉の使い方が沢山含まれているんだ。言葉や文章はな、イディオムを沢山憶えて書く事で判り易い表現が簡単に出来るようになるんだ」

「イディオムって、何?」

「まあ、言ってみれば、言葉の決まり切った言い回しだ」

 女の子の店員が僕らの注文したものをテーブルの上に置く。

「詩なんかにはイディオム以上に表現を駆使する必要があるけれど、それを小説に用いると、詩的な文章が沢山小説に盛り込まれて、単なる文字に依る表現であったものが、宝石を鏤めたような美しい文章に仕上がるんだ」

「坂家の文章はとても綺麗な文章だったよ」

「ほう、そうか。お前は絵心があるから、お前の書く小説はきっと情景がありありと浮かぶような映像的な小説に仕上がる筈だ。お前が意図した通りの情景が克明に表現されたような文章になると思うな」

「ケーキ食べて良い?」

「おお、食べろ」

 俺はチョコレイト・ケーキをフォークで切って口に入れる。

「何か、チョコレイトが苦い!」と俺は言うと、アイス・コーヒーにシロップとミルクを入れて飲む。父はクッキーを口に入れて食べながら、「チョコレイト・ケーキは苦いのが良いんだよ。翔太、こっちのクッキー食べてみろ」と言う。

 俺は父ちゃんのクッキーを一つ口に入れる。

「美味しい!」と俺はクッキーを噛みながら、口の中に広がる卵とミルクの味を味わいながら言う。

「そうだろう。そうだろう。ここのクッキーはな、ここの手作りなんだ。あのおじさんが焼いて作ったんだぞ」

「ケーキは?」

「ケーキもだ」

「俺もケーキやクッキーを作って、お母ちゃんに食べさせてあげたい」

「ああ、帰りにお母ちゃんのお土産を忘れずに買って帰ろうな」

「うん」

 俺は口の中のケーキのチョコレイトの味に舌が慣れると、再びケーキを食べ始め、ぺろりと平らげる。

「すみませえん!」と父が会計のところに腰かけた女の子を手を上げて呼ぶ。女の子がこちらに来ると、「お土産用にチョコレイト・ケーキとクッキーを買っていきたいんですが」と父が女の子に言う。

「かしこまりました」と女の子は言って、カウンターの方に去っていく。

「翔太、コーヒーと紅茶と、どちらか片方しか飲む事が出来なかったら、お前はどっちを頼む?」

「ううん。コーヒーかな」

「うん。お前は珈琲党だ。父ちゃんは紅茶党なんだ」

「でも、どっちも好き」

「飲んだ後にどっちの味が口の中に残る方が良い?」

「うううん、コーヒーかな」

「じゃあ、やっぱり珈琲党だ。この店ではコーヒーもケーキも御代わりは何回しても只なんだ」

「じゃあ、俺、アイス・コーヒーを御代わりする!」

「すみませえん!」と父はまた手を上げ、「御代わりください!」と会計の後ろに座っている女の子を呼ぶ。女の子はお盆を持ってこちらに来ると、「全部、御代わりなさいますか?」と訊き、「僕、ケーキはもういい」と父に言う。

「ケーキ以外全部御代わり出来ますか?」と父が店員に言う。

「はい、かしこまりました」と女の子は言って、チョコレイト・ケーキの皿だけ残して、クッキーのお皿とアイス・コーヒーのグラスとミルク・ティーのカップをお盆に載せて、カウンターの方に去っていく。

「詩集なんかも読んでみると良い」

「詩集って、何?」

「沢山の詩を一冊に纏めた本だよ。まあ、小説を読み出すと、詩の役割りが判らなくなるしな。詩の良さは何れ読書を続けてれば、自然と判るようになる。小説の原点は詩なんだよ。学校の図書館に行けば、子供が読めるような詩集が沢山置いてあるだろう」

「詩って、面白いの?」

「ううん、面白いって言ったら、小説の方が面白いだろうなあ」

「詩は読んで、何が楽しいの?」

「詩には詩の持ち味があるんだ」

「ふううん。父ちゃんは詩を書くの?」

「結婚前まではよく書いてたよ。最近は然程熱心には書いてない」

「父ちゃんの詩を読んでみたい」

「全部、お母ちゃんにプレゼントしたよ。お母ちゃんに見せてもらうと良い」

「うん」

「俳句とか、短歌とか、好みによっては、詩よりも、そう言った日本的な表現を好む人も多い」

「父ちゃんは俳句とか短歌は書くの?」

「父ちゃんの詩は自由詩だから、七五調の文章には関心がなくてな。書きたいとも思わない」

 女の子がテーブルにクッキーを乗せたお皿とアイス・コーヒーのグラスと、ミルク・ティーのカップをそれぞれの席の前に置く。それが済むと、女の子は直ぐに会計の方に去っていく。

「翔太」

「何?」

「お前、東京に引越すって意味が判るか?」

「うん」

「本当か?転校するんだぞ?引越す家には父ちゃんもお母ちゃんも一緒に住むが、学校はお前独り違う学校に通うんだ」

 俺はケーキを見つめながら、坂家や啓司の事を考える。

「俺、別に、転校しても良いよ。東京に行ってみたいんだ。時々こっちに遊びにきても良いんでしょ?」

「気軽に遊びにくるには一寸遠いいぞ。日曜日とかに独りでこっちに来れるか?」

「やってみる」

 父ちゃんが黙って、じっと俺の眼を見る。俺は父ちゃんの真剣な眼を見て、見た事のない大人の眼差しに見入る。

「父ちゃんも小学校の時に二度転校をしたんだ。よく聞いておけよ。一度転校を経験すると、人はずっと自分を転校生だとか、よそ者として人生を生きる事になる。転校した学校では、父ちゃんは何度となく喧嘩をし、自分が得意な事を武器に自分の味方を少しずつ増やし、平和に生きる方法を、とにかく、一生懸命追求した。『のらくろ』や『サザエさん』の絵で沢山漫画を描いては転校先の子達に見せ、人気者になった。皆が初めて進学する中学校でも父ちゃんは独り自分が転校生である事を忘れられなかった。幼馴染みや転校前の学校の友達の事を全く忘れて生きるなんて事は父ちゃんには出来なかったんだ。心の奥底でいつも孤独と向き合い、寂しい思いをしながら、毎日を生きた。船乗りになって働くようになっても、父ちゃんはいっつも自分独りはよそ者なんだと思って働いてきた。ずっと自分の身は自分で護るしかないと思って生きてきた。翔太、父ちゃんは本当はお前にその寂しさと心細さを味合わせたくないんだ。父ちゃんが船乗りになりたかった理由は、海に出る事で、気持ちが古里からも転校先の土地からも離れる事が出来ると思ったからだ。父ちゃんは四十近くになって、漸く船を降りる決心をした。長年の夢が掴めそうになったからだ。夢を持って生きる事で人は桁違いの生き甲斐を感じ始める。夢を掴む事が人生の目的の全てになる。自分の中の孤独感は同じでも、夢を追っていさえすれば、気にならなくなるんだ。

 もう一つ、父ちゃんが幸せになれた大切な切っかけがある。それがお母ちゃんとの結婚で、翔太が生まれた事なんだ。結婚して家庭を持つと、孤独から引き離してくれる場所が出来る。何かを誤魔化し、何かから絶えず目を逸らし、いつも自分が何かから逃げているような感じは今でも父ちゃんの心の中に残ってる。取り返しのつかない事に関する不満なのだろうけれど、父ちゃんの中にある童心、子供の時のままの心は、ずっと失った幸せを想ってるんだよ。お前はそういう生き方をしたいか?」

 俺は父ちゃんの言っている事が何の事かさっぱり判らない。判らない事を自分で決めるなんて事は出来ない。俺には父ちゃんが決めた道を歩む事しか出来ないのだ。父ちゃんがこれ以上俺に自分で答えを出す事を強要するなら、俺はもう引越しも転校もしたくない。俺は極度に混乱し、突然泣き出してしまう。

「翔太、泣いてどうなる事でもない。東京に引越すのは大人になってからでも出来る。引越しや転校をしたいか?」

「俺、坂家や啓司達のいる今の学校の方が良い」

「そうか。なら、引越しは止める。これで良いな?」

 俺は混乱が収まらず、黙ってただ泣く。もうケーキもコーヒーも美味しくない。

 俺はお母ちゃんへのお土産を手に持ち、父ちゃんに肩車してもらって家に帰る。家に帰る坂道を肩車された高いところから眺め、坂を上っていくと、普段自分が思っていた以上に自分の世界が狭く感じられる。東京なんて直ぐ隣なのに、転校先の学校に通う事が遥か遠くに行く事に思われる。転校先の学校なんて今の俺にはない。俺は何の幻を見て、転校先の学校の自分を想ったのだろう。俺は今日、とても恐ろしい経験をした。丸ごと受け止めるにはとても受け止め切れない程の恐ろしい現実である。人間は皆、住み慣れた場所に何時までも当たり前に住んでいられると信じている。俺は今日、一寸した弾みでとても大切な場所を失うところだった。この町には俺の愛する全てがある。俺の住む土地はまだこの町しかないのである。

 家に帰ると、父ちゃんが俺を肩から下ろす。俺は家の中に駆け込み、「母ちゃん、ただいま!」と家の中に声をかける。「母ちゃん、お土産買ってきたよ!」

 俺は暗い居間で横になっている母を見下ろし、じっと起きるのを待つ。

「どうした、翔太?」と父ちゃんが家の中に入ってきて、俺の後ろから言う。

「お母ちゃん、眠ってる」

「慶子、お土産買ってきたぞ」と父ちゃんが母を見下ろして言う。

 母は一向に起きる様子がない。

「慶子、お土産買ってきたから起きてくれ」と父ちゃんがもう一回母を揺すり起こして言う。「おい、慶子!」

 父ちゃんは屈んで母の体を揺する。

「お母ちゃん!起きて!」と俺は大声で母を起こす。

「翔太!港に行って、電話を借りて救急車を呼べ!一一九だ!」

「お母ちゃん!」

「翔太!急げ!」

「判った!」と俺は言い、靴を履いて全速力で港までの坂を駆け下りる。俺には母ちゃんに何が起きたのか判らない。ただ大変な事が起きた事だけは理解している。

「柳瀬のおじちゃん!母ちゃんが大変な事になった!急いで救急車呼ばなきゃいけないから、電話借りて良い?」と俺は港の市場に飛び込むなり、父ちゃんの仲間の柳瀬のおじちゃんに大慌てで言う。柳瀬のおじちゃんは父ちゃんと同じような大男で、パンチパーマの黒い髪に大きな目鼻立ちをした眉毛の太い顔で、白いアンダーシャツに紺の作業ズボンを穿き、素足に草履を履いている。

「俺が呼んでやる」と柳瀬のおじちゃんは言い、電話をかける。「ああ、病人が出て、救急車を至急寄越してもらいたんだが」

 柳瀬のおじちゃんが救急車を呼ぶと、俺は柳瀬のおじちゃんの運転する軽トラに乗って家に帰る。

「おお、トラちゃん、悪いな。女房が倒れちまってよ」と父ちゃんが心配そうな顔で母の傍らに腰を下ろしたまま言う。

「息はしてるのかい?」

「ああ、呼吸はしてる」

「源さん、今直ぐ救急車が来るからよ、一寸待ってろ。慶ちゃんは大丈夫だ。そう心配するなって」

「いやあ、参ったよ・・・・」

「父ちゃん、お母ちゃん死なないよね?」

「翔太、直ぐ病院に行くからな。お母ちゃんは死んだりなんかしない。安心してろ」

 救急車が間もなく来ると、母は担架に乗せられて救急車に運び込まれる。父ちゃんと俺も救急車に乗り、二人で母の手を握り、病院に向かう。


 母は病院で精密検査を受け、病室のベッドの上で点滴を打たれて眠っている。過労であるとの事だ。俺はてっきり母は死ぬものと思っていた。妙な言い方かもしれないが、死別の覚悟から拍子抜けしたような気持ちで母の寝顔を見ている。当分、自分の面倒はこれからも母の愛情に満ちた環境で看てもらえるのだと神様から予期せぬ御褒美を貰ったような、とても安らいだ気持ちでいる。死ぬと決まった人が生き長らえ、その人が生きる事で自分が安心出来るのだ。母を大切にする思いとは言い難い。

 父ちゃんが煙草を吸いに外に出る。

 再び父が病室に戻ってくると、「翔太、飯食いに行こう」と俺に声をかける。俺は母のベッドから離れ、父ちゃんと共に食事に出かける。病院のエレヴェイターに乗ると、父ちゃんが俺に、「翔太、お母ちゃん、やっぱり死ななかったろ?」と言う。

「俺、お母ちゃんが死ぬ事まで覚悟しちゃったよ。俺、これから物凄く不安な人生を送るんだろうなあって思ったんだ」

「お母ちゃんを大切にしろよ」

「うん」

 病院を出て、父ちゃんと俺はずっと黙ったまま歩き、中華料理屋に入る。父ちゃんがエビチリと肉まん二つとチャーハンと小籠包を注文し、二人で食べる。とても美味しい。ただ父ちゃんは何故こんなに贅沢が出来るのかと、夕食の御馳走を食べながら、俺は生まれて初めて疑問に思う。俺は母にも僕らと同じように中華料理のご馳走を食べさせてあげたい。

 父ちゃんと俺は電車に乗る。電車の駅から先はタクシーに乗り、帰宅する。俺は母のいる病院に戻る事をずっと考えていた。

 家に帰って、父ちゃんと一緒に風呂に入る。風呂から出て脱衣所で父ちゃんと一緒にタオルで体を拭いていると、「翔太、今日はもう遅いから、体を拭いて寝巻きに着替えたら、明日の朝ちゃんと学校に行けるように、もう今夜は勉強せずに早く寝なさい」と父ちゃんが言う。俺は初めて今日はもう病院には戻らない事を知る。

「病院には行かないの?」

「もう今日はお母ちゃんとの面会時間が終わってるんだよ」

「面会時間・・・・」と俺は初めて聞く言葉を呟き、「じゃあ、これから宿題を済ませないと」と言って、脱衣所から駆け出す。

 俺は書き物机の前の座布団の上に腰を下ろす。窓辺のレイディオを点け、早速宿題に取りかかる。

「次の曲は東京都の寂しい大学生さんからのリクエストで、デイヴィッド・ボウイの『ライフ・イン・マーズ』をお贈りします」

「翔太、お母さんがこんな時には、宿題なんか忘れても、父ちゃんがちゃんと学校に理由を言ってやるんだぞ」

「宿題はちゃんと済ませる」

「そうか。なら、好きにしろ」

 俺だってお母ちゃんが大変な事になっている事ぐらい判ってるんだよ!俺が一生懸命勉強しないと、お母ちゃんの体がどんどん弱くなっていくんだよ!俺がいつも通りの事をいつも通りやっていれば、お母ちゃんは死なないでも済むんだよ!父ちゃんは何も判ってないんだよ!


 翌朝、俺はいつも通り早起きをし、朝ご飯のおかずを採りに山に出かける。四方八方の樹に止まる油蝉の声が喧しく響き渡る雑木林の中で山菜を採る。家に帰ろうとした時に、ふと母がいない事を思い出す。食材を採ってきても、料理をしてくれる人がいない。がっかりして家に帰ると、父ちゃんが居間の食卓の席に腰かけている。

「父ちゃん、ただいま!朝のおかず採ってきたんだけど、料理が出来る人がいないよ」と俺は言いながら、靴を脱いで家に上がる。

「いつもはお母ちゃんがそれを料理するんだな」

「うん。山菜だから、天ぷらだよ。父ちゃん、天ぷらは揚げられるの?」

「勿論だ」

「へええ!父ちゃんって、料理出来るんだ!今朝は朝飯なしかと思ったよ。じゃあ、これで天ぷら揚げてよ」と俺は父ちゃんに言い、山菜の入った麻袋を父ちゃんに手渡す。俺は手を洗いに洗面所に向かう。

 俺は学校に行く支度をし、食卓の席に座ると、父ちゃんの作ってくれる朝食を待つ。

「ようし、翔太、朝食が出来たぞ」と父ちゃんは言いながら、居間の食卓の上に天ぷらを盛った大皿と御飯と味噌汁を置く。

「食べて良い?」

「おお、食え食え。じゃあ、父ちゃんも食うかな。いただきます!」と父ちゃんが合唱して言い、朝食を食べ始める。

「いただきまあす」

 父ちゃんと二人きりの朝食なんて初めての経験だ。

「父ちゃん、料理上手いね。天ぷらのタレが凄く美味い」

「父ちゃんの特製ダレだよ。美味いか?」

「美味い!ああ、父ちゃん、漫画のノート返してよ」

「おお、そうか。じゃあ、一端返しとくな」と父ちゃんは言い、俺のノートを手渡す。俺は忘れない内にノートをランドセルに仕舞う。

「今日、父ちゃん、お前が学校に行ってる間に、お母ちゃんの病院に見舞いに行くんだけれど、お前、夜御飯はどうする?外食で良いなら、港の寿司屋に連れていくぞ」

「寿司屋!行きたい!」

「じゃあ、寿司食うの楽しみにしてろよ」

「うん!」

 俺は朝食を食べ終えると、「御馳走様でした!」と父ちゃんに言い、「じゃあ、父ちゃん、俺、学校行くから、行ってきまあす!」と言って、家を出る。

 俺は学校に向かって全速力で走る。

「翔太!待ってくれ!」と後ろから啓司が大声で俺を呼び止める。

「啓司!おはよう!」と俺は走りながら、振り向いて言うと、また前を向いて全速力で駆けていく。前を歩く鶴田を追い越し、再び啓司の方を振り返ると、啓司は鶴田と並んで歩いている。

 俺は正門を潜り、下駄箱で上履きに履き替えると、教室へと階段を駆け上がり、教室に駆け込む。

 教室には坂家一人しかいない。

「坂家、おはよう!」

「ああ、海原君、おはよう!」

 俺は教室の自分の席にランドセルを置き、漫画のノートを出して席に座る。

「坂家、お前の友達って、俺の他に誰がいるの?お前、いっつも机に座って独りでいるよな?」

「小学一年生の時からずっと仲の良かった三人組の友達がいたんだけど、美奈子は二年生の二学期に大阪に転校して、愛ちゃんも四年生の時に東京に転校しちゃって、あたしもう友達を失うのが怖くて、友達は作らない事に決めたの。今は海原君がいるけど、海原君はずっと私が好きだった男の子だったから、友達よりもっと大切な存在なんだけどね。でも、もしも海原君までが転校したら、私、また独りになる」と坂家は俺に背を向けたまま言うと、それきり黙り込む。

 俺は席を立ち、坂家の所に歩いていく。俺は坂家の右隣に立ち、俯いて泣く坂家を黙って見下ろす。俺は危うく裏切り者になるところだった。それを全て坂家に言ってしまいたい欲求に駆られた。泣いている坂家を見下ろし、言葉に詰まる。これ以上嫌な自分になりたくない。罪の意識から解放されたくて、全てを打ち明け、楽になりたい。それを泣いている坂家の姿が押し留める。俺は男らしく黙っていようと決意する。坂家が何者も信じられなくなる事を哀み、黙っていようと思う。その代わり、自分の一瞬の気の迷いを許す。

「転校した三人組の二人とはずっと文通してるの」と坂家はハンカチーフで涙を拭いながら、顔を上げて笑顔で言う。「毎年、夏休みに三人組の家に二泊三日ずつ泊まりっこするの。あのね、実は三人組の美奈子と愛ちゃんも海原君が好きなの」

「ええ!」と俺はびっくりして言う。

 坂家は引き攣ったように声もなく笑っている。

「だからね、今年は一寸会うのが怖い」と坂家が片目を瞑り、茶目っ気のある笑顔を見せて言う。

「どんな子かなあ、その二人?」

「知らないの?」

「女の事はあんまりよく知らないんだ」

「ええ!ほんとに知らないの?いつも二人は海原君と今日こんな事があったってドキドキの噂話ばかりしてたのよ?」

「ああ、悪いけど、全く思い当たらない」

「えええ!二人に言っちゃおうかなあ!でも別に態々嫌な女だと思われるような事言う必要ないか」

「うん」

「海原君は友達、田沢君一人?」

「ああ、五年になって、クラス替えがあったから、啓司とばっかりの付き合いになったんだよ。漫画に夢中になってたり、海や山におかずを採りにいく役目もあるから、昔から学校の友達とは学校の外で遊ぶ習慣がないんだ。遊びって言やあ、読書とか、レイディオで音楽鑑賞したりとか、そのくらいかな。元々俺には幼稚園に行かなかった関係で、皆が幼稚園に行ってる間、一緒に遊ぶような幼馴染みが啓司以外にいなかったんだ」

「寂しくない?最近、田沢君、鶴田さんとばっかりになってるし」

「その代わり、今の俺には坂家がいるよ」

「嬉しい!」と坂家が俺の眼を見上げて笑顔で言う。俺はまた口づけの瞬間だと思い、坂家の唇を見つめる。口づけはもういけない。口づけはもう結婚してからで良い。俺は急いで頭の中から口づけの事を振り払う。

「漫画でも書くか」

「じゃあ、あたしは童話を書くわね」

 俺は自分の席に戻り、椅子に腰かける。坂家の後姿を見ながら、坂家の下着や裸を想像する。その途端、チンコが立ってくる。俺は手でチンコを押さえ、小さくしようと焦る。チンコはどんどん大きくなり、全く元に戻らない。用を催して便所に行くと、チンコに透明なネバネバした液が付いている。下着にもそのネバネバしたものが付いていて、少し濡れている。俺はトイレットペイパーでチンコと下着を拭き、湿った下着の気持ち悪さを気にしながら、教室に戻る。

 今日の分の漫画を書き終えると、教室にはもう沢山のクラスメイト達が来ている。間もなく担任の新原先生が教室に入ってくる。


 学校が終わると、坂家と二人で家に帰る途中、俺達は海岸沿いの堤防に腰かける。俺は坂家にチンコがデカくなるのを見られないように、なるべく変な想像をしないように気をつけている。坂家のオッパイはペチャンコだから、大した興味はない。海岸沿いを歩く大人の女性の胸の方に自然と目が向く。俺は大人の女性が身に着けているブラジャーが透けて見える事に興奮している。坂家はブラジャーを着けていない。坂家のスカートの間からは下着が見えた事もない。坂家の下着を想像していたら、チンコが立ってくる。俺は坂家に背を向けて坐ろうと、位置をズラす。坂家は俺の顔を覗き込むようにして話しかけてくる。

「何か今日の海原君、静かね」

 俺は脚を組んで大きくなったチンコが坂家に見えないように足を組む。坂家はその仕種を見ると、同じように真似をして、脚を組む。

「そうかね?」と俺がしらばくれて言うと、坂家の視線が俺のチンコの辺りに移る。

「俺の父ちゃん、小説家になるんだ」と慌てて坂家の関心を会話の方に引き寄せる。

「ええ!本当?」と坂家が真っ直ぐな視線を俺の眼に向けて言う。

「父ちゃん、長編小説が三作あるんだ。それを今度、東京の出版社に持っていって、意見を聞きにいくらしい」

 坂家はチラチラと俺のチンコの辺りを見ている。坂家に見られていると、チンコがむず痒くなってきて、そわそわと落ち着かない気持ちになる。また下着が冷たく湿っている。

「そろそろ、帰るか」と俺は言って、堤防を下り、坂家に背を向ける。俺は欠伸をするようなふりをして、両手を上げて広げ、大きくなったチンコを坂家に見えないようにする。

「ああ、そうだ!今日の漫画、まだ海原君に返してなかったよね」と坂家は言い、赤いランドセルの中から俺のノートを取り出し、背を向けた俺に、「ノート、返すね」と言う。俺は素早く振り返り、ノートを受け取る。坂家がまた俺のチンコの辺りを見ている。坂家はチンコが立つ事を知っているのだろうか。もしも、坂家がそれを知らず、チンコが立つ時の理由を知ったら、きっと変態だと思うだろう。坂家は俺がランドセルにノートを仕舞う間も下唇を噛みながら、ずっと俺のチンコの辺りを見ている。俺は坂家の視線が俺の眼に戻るまで、坂家を冷静に見つめる。坂家の視線が俺の眼に戻ると、坂家の頬がピンクに変わる。坂家は恥ずかしそうに俯き、堤防から下りる。俺は思わず坂家の胸に右手で触れる。

「いやっ」と坂家が顔を歪めて言うと、俺は素早く手を離す。

「坂家のパンツ、見せてくれないか?誰にも言わないから。パンツ見せてくれたら、俺のチンコも見せてやる」

「・・・・良いよ」と坂家は少し戸惑ってから小声で言い、自分のスカートを少し捲くって、白い下着を見せる。俺のチンコは限界まで大きくなり、熱く火照っている。俺は坂家のスカートを完全に捲り、坂家の下着を目に焼きつける。俺はスカートから手を離すと、坂家に近づき、「じゃあ、俺のチンコ、見せてやる」と小声で言って、スライド・ファスナーを開け、陰毛の生えた下辺りにある勃起したチンコを出す。

「触ってみても良い?」と坂家が真っ赤な顔をして訊く。

「良いよ」

 坂家は恐る恐る俺のネバネバした液の付いたチンコを握る。坂家にチンコを握られると、俺は思わず身震いする。坂家は自分の手に付いたネバネバした液を繁々と見つめる。俺は衝動的に坂家のスカートを捲くり、されるがままに何の抵抗もしない坂家の下着を脱がし、坂家の毛の生えたオマンコを見る。坂家は俯いたまま動かない。

「オマンコからは何も出ないんだな」と俺は言い、坂家の割れ目を右手の親指と人差指で抓むと、坂家の飛沫のようなおしっこが辺りに飛び散る。

「ここ」と坂家は恥ずかしそうに自分の指で股を示して言う。

「え?」

「ここ」と坂家が何かを示そうとして言う。

「何処?」

「下にしゃがまないと見えないの」

「見えないって、何が?」

 坂家は真顔になって、何も言わない。俺はしゃがんで坂家の股の間を見上げる。

「ああ、何か、毛が濡れてる」と俺は言い、坂家の股に素手で触れる。俺は坂家の割れ目から筋状に股の間へと人差指を滑らせる。

「ああ」と坂家が短く色っぽい声を出す。俺はびっくりして、咄嗟に手を引っ込める。

「ごめん」

「良いの」

「坂家、オッパイも見せてくれ」

 坂家は赤いTシャツを捲り、小さいピンク色の乳首と乳輪の、ペッタンコのオッパイを見せる。俺は思わず坂家の胸に顔を近づけ、坂家の小さい乳首を口に含む。俺は直ぐに坂家のペッタンコのオッパイから口を離す。ペッタンコのオッパイにはそれ以上の興味はない。坂家は捲ったスカートを元に戻す。

「見せてくれてありがとう」

 坂家は左手の爪を噛んで何も言わない。俺は脱がした坂家の下着を責任を以て元通りに穿かせてやり、捲れた青いデニムのスカートも元通りにする。

「帰ろうか」

「うん」

 俺は坂家の前を脇目も振らずに歩いていく。坂家が後から着いてきているかどうかは、緊張の余り、全く確認出来ない。心臓が激しく打ち、顔も頭も目も口の中ものぼせ上がる程の熱で火照っている。鼻も何だかつんとして痛い。


「ただいま」と俺は後ろめたいような気分で帰宅を告げ、父ちゃんに知られないように居間を通り過ぎようとする。

 父ちゃんは居間の食卓の前の座布団の上に座り、何か書きものをしている。父ちゃんは振り返り、「おお、翔太、お帰り。どうした?元気がないな」と俺の様子を心配そうに見て言う。

「父ちゃん、チンコからネバネバした透明な液が出てきた」

 父ちゃんはそれを聞くと、にやりと笑い、「そうか。お前のおチンチンも一人前の大人のおチンチンになったんだな」と言う。

「そうなの?病気じゃないの?」

「違うよ。そのネバネバしたものが出るようになって、初めて女の人と子供が作れるようになるんだ」

「ふううん」と俺は予想外の答えに驚いて言うと、顔の火照りも消え、すっかり安心する。俺は自分の部屋に入り、ランドセルを置くと、漫画のノートを取り出し、居間にいる父ちゃんに、「これ、今日描いた俺の漫画」と言って、ノートを手渡す。

「おお!また描いたか!お母ちゃん、大分元気になってきたぞ」

「本当!良かった!」と俺は言い、お母ちゃんの回復を喜ぶ。

 自分の部屋に入った俺は窓辺のレイディオを点け、畳の上に大の字に寝転がる。坂家の体を思い出していたら、チンコがまたむず痒くなる。チンコが立ってきた。俺は俯せになり、大きくなったチンコをズボンの上から畳に押しつける。畳にチンコを当てていると、何だかチンコがとても気持ち良い。俺は畳に擦りつけるようにして腰を動かし、ズボン越しにチンコで感じる気持ち良さをずっと楽しむ。父ちゃんが何時部屋に入ってくるか判らない。俺は父ちゃんに見つからないように警戒しながら、チンコをズボン越しに畳に押しつけて刺激する。俺は罪悪感を感じながら、それを無視して悪い遊びに耽る。

 しばらくして用を催し、便所に行く。ネバネバした液で下着の前の方がびっしょりと濡れている。俺は便器に腰かけ、むず痒いチンコを手で扱く。そうすると物凄く気持ち良くて、気が振れるような、朦朧とした意識になる。しばらくすると、勢いよく小便が出るように、白いどろっとした膿のようなものが便器を越えて飛び散る。俺は床や便器をトイレットペイパーで拭き取り、それでチンコも拭く。チンコにトイレットペイパーが張りつき、爪の先で擦り落とす。チンコが真っ赤に腫れ上がり、むっくりと太くなっている。それでもまた気持ち良い事をしたくなり、必死にチンコを扱く。チンコは扱いている間の気持ち良さだけを感じさせると、しんなりと小さくなる。

 不満を抱えたまま便所を出ると、自分の部屋に入り、畳の上に寝転がって、窓辺のレイディオの放送を目を瞑って聴く。

「次の曲は東京都の寂しい大学生さんからのリクエストで、ロキシー・ミュージックの『ビタースウィート』をお贈りします」

 俺は父ちゃんが小説を書いてみるようにと勧めていたのを思い出す。俺は部屋を出て、父ちゃんのいる居間に入る。父ちゃんは書き物をしている。

「父ちゃん」

「おお、翔太。何だ?何か用か?漫画は読んだぞ。面白かったよ」

「俺、小説書こうと思うんだけど、小説を書く紙を俺にも頂戴」

「おお!何枚要るかな。じゃあ、とりあえず、十枚やっておくか。ほい!」と父ちゃんは言って、俺に升目の多い作文用紙に似た紙を十枚手渡す。

「その紙はな、原稿用紙って言うんだ」

「作文用紙とは違うの?」

「小学校でもらう作文用紙より升目の数が多いだろ?」

「うん、そうだね。升目の大きさが作文用紙より小さい」

「うん。じゃあ、まあ、とにかく書いてみろ!」

「うん。ありがとう」

 俺はまた自分の部屋に行き、書き物机の前の座布団の上に座ると、何を書こうかと原稿用紙を見つめる。小説は坂家の小説しか読んだ事がないから、自然と俺も恋愛小説を書き始める。


『運命の赤い糸』

海原翔太


 教室に入ると、あの子を意識するあまり、僕の首はセメダインで固めたように緊張して動かない。小学校五年生でクラス替えになり、初めて僕はあの子の存在を知った。僕はあの子に一目惚れしてしまった。それから間もなく、毎日下校時に彼女の様子を遠くからそっと盗み見るようになった。

 或日、僕が授業中に床に落とした消しゴムを拾おうと身を屈めたら、僕の上履きに赤い糸が絡んでいるのに気付く。上履きの裏には潰れたお米が付いていて、そのお米に赤い糸がくっ付いている。僕はその赤い糸屑をゴミ箱に捨てにいくつもりで軽く引っ張る。糸屑だとばかり思っていたその糸は予想外に長く、引っ張っても引っ張ってもまだ先がある。僕は机に座り、授業中、ずっと糸を手繰り寄せる。いつまで経っても先のある糸の出所に眼をやると、あの子の足下に通じているのが判った。僕はあの子に気付かれぬよう、そっと糸を手繰り寄せる。

 最期に糸の先がすうっと彼女のスカートの中から飛び出すと、僕は自分の手繰り寄せていた赤い糸が彼女のパンツの糸である事が判り、恥ずかしさと興奮で顔がカアーッと熱くなる。彼女は何と今、パンツを穿いていないのだ!僕はそれをどうやって彼女に伝えたら良いのか判らない。手の中にはこんもり溜まった赤い糸がある。僕は長い一本の赤い糸と成り果てたあの子の赤いパンツの糸を、運命の赤い糸として、彼女と結婚する日まで大切に家庭科の裁縫道具の箱の中に仕舞っておく。

 この時、あの子がパンツを穿いていない事を誰にも言わなかった僕の事を、もしも、未来の彼女が知ったなら、彼女はきっと僕に恋をするだろう。その時、僕らは盛大な結婚式を挙げ、晴れてあの子は僕の奥さんとなるのだ。


 僕は短編小説を書き上げ、満足気に居間にいる父ちゃんに見せにいく。

「父ちゃん、小説書いたよ」

「えええ!もう書いたのか!どれ、一寸、読ませてみろ」

「うん。はい」と僕は言い、父ちゃんに小説の原稿を手渡す。

 父ちゃんは早速、僕の目の前で小説を読み始める。

 僕はにやにやとした顔で父ちゃんが笑うのを期待している。父ちゃんは真剣な顔で読み、読み終わると、にっこりと微笑む。

「ほう!なかなか良く書けてるじゃないか。これは翔太の処女短編小説だな」

「何それ?」

「初めて書いた短編小説の事だよ。やっぱり、翔太は俺の子だ。なかなか才能があるぞ」と俺は父ちゃんに言われ、得意になる。

「この原稿、お母ちゃんのいる病院に明日持っていって、お母ちゃんに見せても良いか?」

「良いよ。面白かった?」

「面白かった。これはユーモア小説だな」

「恋愛小説のつもりで書いたんだけど、ユーモア小説って言うのか」と僕は坂家と張り合おうとして書いた自分の小説が恋愛小説になっていない事をとても残念に思う。

「そんなに残念がる事はない。ユーモア小説を書ける作家は非常に少ないんだ。父ちゃんはお前に小説を読むように勧めたが、文学って奴はな、一般に暗いんだ。心を病んだような作家で一杯の世界なんだよ」

「そうなんだ」

「お前も生まれてきたこの世界をこれから自分で開拓して知っていく訳だが、文学の世界には気をつけろよ。暗い歪んだ心で書かれた本は、気付いたら、直ぐに捨てろ。文豪と呼ばれていようが、東大を卒業していようが、博学とされる作家だろうが、それに気づいたら、直ぐに捨てるんだぞ。その判断力さえあれば、お前の健全な心は一生守られるだろう」

「判った」

「心の健康と言うものは体の健康と同じくらい大切なものなんだ。父ちゃんの友達に、昔、文学少年が一人いたんだ。自殺しちまってな。鬱病に罹ってたらしい。精神病だよ」

「精神病って何?」

「精神に異常を来たすような心の病的な異変だよ」

「それって治るの?」

「さあ、どうかな。治るとしても、治るまで生きられるかな」

「何で生きられないの?」

「それは辛いからだろう」

「そういう心を病んだ作家はどんな小説を書くの?」

「生きる事をただ辛い事だと愚痴を溢し、自殺の巻き添えにするような希望のない話だよ」

「俺はそういう小説も自分で読んでみたい。だって、父ちゃんは読んだからこそ、そういう作家の小説がどんな本かが判ったんでしょ?」

「普通は読まないんだ。父ちゃんがお前に偉人の伝記や自伝を読むように言ったのは、心の病んだ作家なんかも、歴史に名を残した偉人とされる事があるからなんだ。生きる希望を失わせたり、生きていく力を全く与えられない小説を書いた作家を、果して本当に偉人と呼ぶべきかどうかだ」

「悪魔みたいだ」

「判ったか?」

「うん。じゃあ、そういう本はなるべく読まないようにする」

「よし」

「僕、その小説、坂家に先ず読ませたい」

「おお、じゃあ、とりあえず、一端返しておく」

「一寸、坂家の家に行ってくる」

「気をつけて行けよ」

「うん」

 俺は小説の原稿を持って坂を上り、坂家の家に向かう。

 俺は坂家の家の玄関の前を通り、灯りの消えた人気のない部屋の窓の前の庭を通って裏庭に回り、開いた窓から坂家の部屋を覗く。坂家は書き物机の前に座り、窓を開けたまま、何かに夢中になっている。俺は窓を叩く。

「ああ、海原君!」

「坂家、俺、小説書いてみたんだ」

「ええ、見せて!」

 俺は坂家に小説の原稿を窓越しに手渡す。

「『運命の赤い糸』、これ、恋愛小説?」

「まあ、読んでみろよ」

「うん」

 坂家は俺の原稿を読み始める。俺は原稿を読む坂家の真剣な眼を見つめている。

 小説を読み終わった坂家はにっこりと笑うと、顔を上げて、「面白かった」と俺の顔を見ながら感想を言う。「海原君、小説も書けるのね」

「父ちゃんに勧められて書いてみたんだ」

「面白かったわよ」

「俺、小説は坂家の小説しか読んだ事がないから、坂家の小説をお手本にして書いたんだ」

「ええ、私の小説をお手本にして書いてくれたんだ!嬉しい!」

「父ちゃんが小説を読んで良いってさ。俺、実は、ずっと父ちゃんに偉人の伝記や自伝を読むように言われてて、小説なんて絶対に読んじゃいけないって言われて育ったんだよ。これから俺、小説を沢山読むよ」

「そう」

「今、何書いてたの?」

「童話が書き終わったから、本読んでたの」

「誰の本読んでたの?」

「竹久夢二の本。夢二の詩文集には可愛い女の子の挿絵が沢山描かれていて、物凄くお気に入りなの。夢二が一人で挿絵も詩も描いてるのよ。学校の図書室から借りて読んでるんだけど、もう何度も借りて読んでるの」

「今度、俺も読んでみるよ。書き終わった童話を見せてくれよ」

「ああ、そうだ。じゃあ、はい、これ」と坂家は俺に窓越しにノートを手渡す。

「家に帰って、じっくり読ませてもらうよ。俺の小説、明日、お母ちゃんに見せるから返してくれないかな?」

「ああ。はい」と坂家が俺の小説の原稿を窓越しに手渡す。

「それじゃ、また明日、学校で!」

「うん。バイバイ」

 俺は庭を通って坂家の家の敷地を出ると、坂を下って家に帰る。

「父ちゃん、ただいま!」

「おお、翔太、帰って来たか!丁度帰ってきた事だし、そろそろ、寿司屋にでも行くか」

「行こう行こう!」

「翔太、腹一杯寿司食えよ」

「うん!」

 それにしても、父ちゃんの贅沢には、どう言う訳で僕らの生活とこんなにも差があるのか。昔から父ちゃんは漁から帰ってくると、一日中外を出歩き、帰宅すると、「さあ、それじゃあ、夕食にしましょうか」と母が言って、居間の席から立ち上がる時に、「俺、今そこで、寿司食ってきた」と言って、夕食を家で食べない事がしょっちゅうあった。

 俺が玄関で靴を履くと、父ちゃんはまた俺を肩車してくれた。俺は父ちゃんの肩の上から遠くの景色を見渡し、港まで坂を下っていく。

 父ちゃんは俺を肩車したまま、『だるま寿司』と言う店の格子戸を開けると、「いらっしゃいませ!」と板前さんが威勢良く言う。

「こんちは」と父ちゃんは店に入って、板前さんに言い、俺を肩から下ろしてカウンター席に座らせると、左隣の席に座る。

「源さん、珍しく家族と一緒だね」

「女房が倒れちまって、息子連れて寿司食いにきたんだよ」

「僕、名前は何て言うんだい?」と板前さんが俺に訊く。

「海原翔太!」

「翔太君か。翔太君は何を食べたいのかな?」と板前さんが俺に訊く。食べたい寿司が判らず、父ちゃんの方に顔を向け、助けを求める。

「そこの壁に色々と書いてあるだろ?それを自分で読んで注文していきなさい」

「じゃあ、はまちください」と俺は板前さんに自分が食べたい寿司を注文する。

「はまちですね」と板前さんは言うと、はまちを手早く握り、「はい!お待ちどう!はまち一丁!」と手早く握ったはまちをカウンターの上の硝子台の上に置く。

「その手前の小皿にその小瓶の中の醤油を入れてな、醤油を一寸付けて食うんだ。あんまりびちゃびちゃっと沢山付けるなよ。醤油をあんまり付け過ぎるのは品が悪い事なんだ」

 俺は父ちゃんに教わった通り、握りに少し醤油を付けて食べる。

「美味いか?」

「美味しい!うわっ!」

「ああ、ワサビか。竹ちゃん、申し訳ないけど、息子の寿司はワサビ抜きで頼むよ」と父ちゃんは板前さんに言う。「そのお茶を飲め」と父ちゃんがカウンターの上の湯飲を指差して言う。俺はお茶を飲む。

「あちっ!」

「熱いもんはゆっくりと飲むんだよ」

「僕、お水の方が良い!お茶は苦いし、熱いよ!」と俺は飲む前に熱い事を教えなかった父ちゃんに文句を言う。俺は何だか物凄く悲しくなって、涙を流す。

「泣くな、そんな事で!お前は本当に何時までもお子ちゃまだなあ」

「僕、もう家に帰りたい!」

「ばあか、折角寿司屋に来たんだから、腹一杯食え!ワサビはもう抜いてもらうからな」と父ちゃんは言い、俺の頭を撫ぜて慰める。「どんどん頼んで食え」

「じゃあ、イクラください!」と俺は気を取り直し、涙目で板前さんに注文する。

「はい、イクラね」と板前さんは言い、「はい!イクラ一丁!」と言って、硝子台の上に置く。俺はイクラを恐る恐る口に入れ、「美味しい!」と言って喜ぶ。

「美味いか!そうか。どんどん頼め!」と父ちゃんが嬉しそうに言う。「竹ちゃん、俺はサーモン」

「サーモンね」と板前さんは言い、「はい!サーモン一丁!」と硝子台の上に置く。

「いただきまあす」と父ちゃんは合唱して言うと、小皿に醤油を入れ、寿司の先に一寸醤油を付けて、美味しそうにぱくりと食べる。


 父ちゃんと俺は鱈腹寿司を食うと、父ちゃんが一万円札で勘定を払い、また俺を肩車して家へと坂を上っていく。真ん丸の月の綺麗な夜で、俺は生まれて初めて食べた寿司を腹一杯食べた事に非常に満足し、父ちゃんの肩の上で星の輝く澄んだ夜空を眺める。

「父ちゃん、お母ちゃんが退院したら、お母ちゃんにも寿司を食べさせてあげたいね」

「父ちゃん、お母ちゃんには苦労の掛けっ放しだよ。お母ちゃん、就かれ切っちゃったんだな。父ちゃん、必ず作家になって、お金持ちになるからな。作家になったら、お前達に美味いもん一杯食わせてやるからな」

「うん。俺も必ず作家になる。漫画と小説の両方をやるよ」

「おお、翔太、必ず夢を掴めよ。父ちゃんも頑張るから、お前も頑張るんだぞ」

「うん」

 玄関で父ちゃんが俺を肩から下ろすと、「ただいま!」と俺は元気良く言って、家の中に入る。母の返事がなく、母が入院している事を改めて思い出す。

 俺は洗面所に行って、手を洗うと、自分の部屋に入り、電気スタンドと窓辺のレイディオの電源を点け、書き物机の前の座布団の上に腰を下ろす。俺は父ちゃんからもらった原稿用紙の残りにまた小説を書き始める。漫画がずっと長編のスポ根なので、どうやら俺には小説でさらさらっと書けるようなアイディアが幾らでもあるようだ。

『記憶の捩れ』

海原翔太

 僕は長く綺麗な黒い髪をした眼の大きな女の子の絵を子供の頃からずっと描いてきた。僕の成長と共に絵の中の女の子も成長していき、段々と年を取っていく。三六五日、毎日一枚描いていた時期もある。僕はその絵の中の女の子の存在の全てを心の何処かに記憶している。描いた絵を全部パラパラ漫画のように捲ってみると、女の子の姿はとてもしなやかな動きを見せる。その動きを見ている内に、何処であの子を見たのかがはっきりと思い出される。小さい頃、バスの中で僕が偶然見かけた女の子なのだ。子供の頃から何度も描いてきたその女の子の姿は、着せ替え人形のように、様々な服を着せて描かれてきた。強い陽射しに照りつけられた縁側に腰かけ、蝉の声がやんや鳴り響く中、僕はぼんやりとあの子の事を思い出している。大きな麦藁帽子を被り、白地に赤い花柄の裾の短い半袖のワンピース・ドレスを着たあの子は、通路越しの僕の左隣の席に座り、膝の上に置いた絵本を静かに眺めていた。年齢は僕と同じくらいの子だったように思う。どうして僕はあの子の姿を正面の顔も後姿も、まるでありありと見続けてきたかのように絵にする事が出来るのだろう。あの子は僕と同じ学校の何処かのクラスにいるのか。あのバスは一体何処に向かって走っていたのか。あのバスの窓は開いていた。左の窓から吹く風に彼女の黒く長い髪が靡いて、絵本を眺める彼女の視線を遮り、あの子は僕の方を向いて左手で髪を払った。彼女をまじまじと見る僕に彼女はにっこりと微笑んだ。

「君、名前、何て言うの?」と僕が話しかけると、彼女は・・・・。

 僕は幼い頃にあのバスに乗って交通事故に遭ったんだ。そこからあの子の記憶がない。あの子にあの後一体何が起こったのか。

 僕はお母さんに連れられてお墓参りをしている。お墓参りをしている人は他にもまだいる。あの子はあの交通事故で死んだのか。違う・・・・。違うよ。死んだのは僕のお母さんだ。あの子の顔は幼い頃に僕が見たお母さんの子供時代の写真だ。僕はきっとそのお母さんの写真の姿に恋をしたんだ。

 ああ、時間と現実が酷く捩じれている。僕はあの子を僕の現実に引っ張り込み、僕はお母さんの死から何時の間にか目を逸らすようになっていたのだ。

 縁側で体を右に捩り、真昼の暗い畳部屋の仏壇を見ると、仏壇にはお母さんの写真が飾られている。僕は心の殻に籠もり、お母さんの死の現実からずっと目を逸らして生きてきた。

 お母さんのあの写真は今、何処にあるのだろう。

 廊下の曲がり角から縁側に現われ、こちらに向かって歩いてくるお母さんの姿を僕はじっと見ている。僕は再び体を右に捩り、仏壇の写真を見る。仏壇に飾られた写真にはあの子が写っている。僕は気が遠くなり、大人達のざわめきの中で、目を閉じたまま何処かに連れて行かれる。僕は自分の体を抱き抱えるお母さんの肌の感触を頼りに力なくお母さんに話しかける。

「お母さん、僕、あの子の向こうにいる人がどうしても思い出せないんだ。僕、頭がこんがらがっちゃって・・・・」


 俺は小説を書き終え、居間にいる父ちゃんに原稿を見せにいく。

「父ちゃん、小説、また書いたよ」

「ほう。見せてみろ」

 僕は父ちゃんに原稿を手渡す。僕は小説を読む父ちゃんを黙って見下ろしている。何だか頭がくらくらする。

「これ、誰の小説を手本にして書いたんだ?」

「小説は長瀬の小説しか読んだ事ない」

「頭は大丈夫か?」

「何かくらくらする」

「そうだろうな」

 父ちゃんは僕の額に右の掌を当てる。

「熱はないな。翔太、これは父ちゃんがしばらく預かっておく」

 父ちゃんのその言葉を聴くと、僕はその場で意識が途絶える。

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