少年はうねり輝いた
天ノ川夢人
第1話
まだ薄暗い早朝の海に潜り、私は朝食用の牡蠣や魚を獲っている。海面に顔を出すと、 海上は濃い霧に蔽われ、何も見えない。遠くの方からぽんぽん船のエンジン音が聞こえる。そのぽんぽん船のエンジン音が段々俺の方に近づいてくる。
「おいちゃん!」と俺は海面から顔を出し、大きな声でぽんぽん船の主に声をかける。
「おお、翔太か!何処にいる?」
「此処!」
ぽんぽん船が少し通り過ぎて止まる。俺は甘えた子供の声のような水音を立てて舟の方に泳いでいく。
「よいしょ!」とおいちゃんが俺を舟の上に引き上げる。
「何か獲れたか?」
「まあね」
「お母さんは元気か?」
「いつもと同じだよ」
「そうか」
ぽんぽん船が港に泊まると、「おいちゃん、ありがとう!」と俺は礼を言い、舟から港に上がって、坂道を駆け上がる。
「お母ちゃん、ただいま!」
「ああ、お帰り!」
「牡蠣二つとハゼ三匹獲ってきたよ」
「ありがとうね。早速それを朝食にしましょうかね」
「うん!ああ、お腹空いた」
「一寸、待っておいで」
俺は学校に行く支度をし、食卓に着く。俺は鼠と猫が窓から顔を見せた絵の白地のTシャツを着て、デニムの半ズボンと白い靴下を穿いている。
俺が獲って来た牡蠣とハゼが、母の手により、牡蠣のバター炒めとハゼの唐揚げとなる。母はそれらと一緒に御飯と味噌汁の朝食を出す。
「いたたぎまあす!」と俺は腹を空かして言い、牡蠣のバター炒めに齧りつく。
「お母ちゃん、牡蠣美味しいね」
「美味しいねえ」
俺には朝御飯と夕御飯の食材を、毎日、海や山に獲りにいく役目がある。山に山菜や茸を採りにいけば、母がそれをてんぷらにしたり、色々と工夫して朝食や夕食のおかずにする。父ちゃんは漁師で、月の内、ほとんど日本にはいない。母は日中工場で蒲鉾を作り、収入を得ている。
俺は黒いランドセルを背負い、「行ってきまあす!」と玄関で大きな声で母に言うと、学校に向かって走っていく。
「翔太!」と俺の後ろから男の子が大声で俺を呼び止める。
「よう!啓司!」と俺は立ち止まって振り返り、後ろから駆けてくる友達に挨拶をする。
田沢啓司は俺の幼馴染みで、同じ小学校に通っている。啓司は一張羅の黄色い半袖のTシャツを着て、デニムの半ズボンと白い靴下を穿き、青いスニカーズを履いている。啓司は俺と同じ丸坊主で、背は小柄、眉毛は特徴なく、目鼻立ちのはっきりとした顔をしている。啓司は町の商店街の下駄屋の末っ子で、啓司の上には姉三人兄六人がいる。啓司の家には両親の祖父母までが同居している。
「翔太、今日の八幡神社のお祭、一緒に行くよな?」
「行くよ」
「あ、里美ちゃんだ。可愛いなあ」と啓司が話を逸らし、前を歩くクラスメイトの女の子の話をする。
「好きだって言えや良いのに」
「馬あ鹿!そんな事言ったら、振られるに決まってるだろ!」
「じゃあ、俺が行って、伝えてきてやる!」
「わあ!馬鹿!止めろ止めろ!」と啓司は俺の前に立ち塞がり、手を上げ下げして壁を作り、酷く慌てる。
「冗談だよ(笑)」
「焦ったよ、ほんと。俺、里美ちゃんには振られたくないんだよ」
俺達の前を歩くクラスメイトの鶴田里美が振り返る。黒く長い髪をした、眼の大きい、ほっそりとした体つきの美少女である。
「あ、振り返った!聞こえちゃったじゃねえかよ、翔太!」
「嬉しい癖に!」
啓司と共に教室に入ると、皆、今日の祭の話をしている。近頃は『ゲーム・ウォッチ』が流行り、何人かの生徒が東京に行って、『ゲーム・ウォッチ』を手に入れている。全く新しい音楽としてYMOと横浜銀蝿に夢中になり、テクノ・ポップとロックン・ロールが同次元で競う合う。俺は早速鉛筆でノートに漫画を描く。それをずっと啓司が隣から覗き込んでいる。
「ちょっと!顔が近いんだよ、啓司!鼻息煩いし」
「翔太、漫画上手いよなあ」と啓司があっけらかんとした顔で俺の描く漫画に見惚れて言う。
「俺は将来、必ず漫画家になる。必ずなるから見てろよ。啓司は将来、何になりたいんだ?」
「アントニオ・猪木みたいなプロ・レスラーになりたい」
「プロ・レスラー?」
「うん」
「へええ、意外な夢だな」
「翔太のプロレス漫画、面白いな。きっと将来、漫画家になれるよ」
「お前、もしかして、俺の漫画観て、プロ・レスラーになろうと思ってんの?友達が描いたプロレス漫画を観たら、俺も漫画描いて、漫画家になろうじゃねえのか、普通?変わってんな、お前」
「それだけ翔太の漫画が上手いって事だよ」
啓司は俺以外の人間とはほとんど話をしない。いっつも俺の側にいて、俺の遣る事を見ている。それでいて特別退屈している訳でもない。自分の人生は自分が主役であるべきだと思って、「お前も何か自分の事をしてろよ」と俺が言っても、啓司は遣りたい事を自分では見つけられない。遣りたい事がないなら、それ以上言っても意味がない。要は啓司のしたいように時を過ごせれば、それで啓司らしい人生になる訳だ。
俺は学校の図書室から週に二、三冊ずつ本を借りては読書をしている。俺は偉人の伝記を読むのがとても好きだ。父はよく俺に、小説や童話なんて作り事や嘘に過ぎないんだから、もっと本当にあった話を読めと言う。俺は読書に関しては父の影響をとても強く受けている。
父は勉強のよく出来る学生時代を過ごし、中学を卒業すると、直ぐに漁師になった。俺は父の事は父の事として父を尊敬している。だからと言って、父の後を継いで、漁師になるつもりはない。
学校が終わり、夕方、啓司が俺の家に俺と祭に行くために迎いに来た。夕食は山菜のてんぷらと御飯と若布の味噌汁で済ませた。母はお祭に行く俺に、「じゃあ、特別にお小遣いあげるわね」と三〇〇円くれた。
「里美ちゃんも来るかなあ」と啓司が祭に行く道を歩きながら、夢見るように呟く。
「そんなに好きなら、好きだって言えよ。好きだって言われて嫌な気持ちになる人間なんて一人もいないんだぞ」
「翔太は里美ちゃんの事、どう思う?」
「綺麗な子だと思うよ。好きだとか、そういう事は特に思わないけど」
啓司は歩きながら目を瞑り、口先を尖らせて、「里美ちゃんと、チューッと、こう、したいんだよ」と言う。俺は腹を抱えて笑う。
「じゃあ、俺がチューッとしてやろうか」と俺が啓司の前に回り、啓司の両肩を掴んで言う。
「うええ!」と啓司は腰を屈め、視線を地に向け、顔を顰めて言う。
神社に近づくにつれ、浴衣姿の小学生の女の子達が沢山前を歩いているのが見えてくる。
「さあ、里美ちゃんは何処にいるかなあ」と啓司が目を輝かせ、キョロキョロと周囲を見回しながら言う。
祭の敷地に入ると、祭囃子が人だかりの間を抜けて賑やかに聞こえる。強烈な照明と色彩で小空間を陣取った出店がなかなか前に進まない行列の両側に建ち並んでいる。俺と啓司はそんな混み合う道を何度も行ったり来たりしては、親から貰った三〇〇円を何に使おうかと視線を泳がせている。
俺は母から貰った300円で綿菓子を買い、射的をする。射的では救急車のミニカーを獲った。啓司の方は親から貰った三〇〇円で水飴を食べ、金魚掬いをする。啓司は金魚掬いで黒い出目金を獲った。
祭りを楽しみ、お金が尽きると、そろそろ家に帰ろうかと啓司が俺に言う。俺達は祭の入口の方に引き返す。祭りの入口付近で学校のクラスメイトの女の子達が各々ヨーヨーや風船を手に持ち、楽しそうに話している。その中には啓司のお目当ての鶴田里美の姿も見える。そこに俺と啓司が通りかかると、「ああ、海原君!」と鶴田里美が俺を見つけて声をかける。
「ああ、里美ちゃんの浴衣姿が見れたよお。可愛いなあ」とうっとりした様子で鶴田に見惚れた啓司が呟くような小声で言う。
「よう、鶴田、浴衣似合ってるぞ」と俺は鶴田に話しかける。
「そう?ありがとう。嬉しい。ああ!田沢君もいる!」
啓司は鶴田に声をかけられると、「あっ、こっこっ、今晩は」と極度に緊張し、吃音で答える。
帰り道はクラスメイトの女の子達と一緒に家に帰る流れになる。
「あっ、あの、鶴田さんは、今日、お祭では何を食べたんですか?」と啓司が鶴田に滑稽な程緊張しながら、何とか話しかける。
「水飴とチョコバナナを食べたわ」
「僕も水飴を食べました」と啓司はでれっとした間延びした口調で言うと、「チョコバナナは美味しかったんですか?」と訊く。
「とっても美味しかったわ」と鶴田は言って、微笑む。啓司はその微笑みを見ると、真っ赤になる程顔が火照る。この夜の暗がりでは啓司の赤面した顔は鶴田には見えない。
「あのう、僕、鶴田さんの事好きなんです。僕と付き合ってもらえませんか?」
「あたしも田沢君の事可愛くて好きよ」
「ほんとに!やったあ!あっ、あの、今度、デートに誘いに、鶴田さんの家に迎えに行っても良いですか?」
「何時?」
「今度の日曜日なんて、どうですか?」
「良いわよ」と鶴田が明るい笑顔で答える。
「やったあ!あの、里美ちゃんって呼んでも良いですか?」
「良いわよ。じゃあ、あたしも、啓司君って呼ぶわね」
啓司は顔を上向きにし、硬く目を閉じると、「はい!そう呼んでください!」と喜びを噛み締めるように言う。
「それじゃあねえ」と鶴田は女の子達と一緒に言うと、十字路を左に曲がり、啓司と俺と別れる。
「里美ちゃん、最高だよ!」と啓司が鶴田の後姿に向かって言う。鶴田は振り返り、啓司に笑顔を見せる。
俺は女の子達と別れると、真っ直ぐ道を歩きながら、「やったな、啓司」と啓司の肩に左手を回し、お祝いの言葉を贈る。
「俺、信じられないよ」と啓司が涙声で言うと、「だって、あの里美ちゃんがだよ、俺の恋人になってくれるなんてよ」と言い、日焼けした右腕で涙を拭く。
「お前の事可愛いんだとよ」と俺は啓司の坊主頭を荒々しく撫ぜ回して言う。
「俺は幸せ者だあ!」と啓司が夜空の涼しげに輝く満月に向かって叫ぶ。俺も啓司に恋人が出来た事を心から喜ぶ。
商店街の手前の坂道の下で俺と啓司は別れ、俺は坂を駆け上って家に帰る。
「お母ちゃん、ただいま!」
「お帰り。お祭り楽しかったかい?」
母は電気も点けず、食卓の脇に横たわったまま、暗がりから言う。
「楽しかった。お母ちゃん!啓司に鶴田里美って言うガール・フレンドが出来たんだよ!」
「あら、恋人って事かしら」
「そうだよ」
「あら、良いわねえ。あんたは学校に誰か好きな子とかいるの?」
「いるけど、まだ一回も話した事ない」
「同じクラスの子かい?」
「隣の六年二組の子」
「今の年で好きになった子はね、年を取っても、ずっと好きな人になるのよ」
「お母ちゃんが小さい頃好きだった人って、お父ちゃん?」
「さあ、どうでしょうねえ。秘密よ」
「お父ちゃん、何時帰ってくるのかな?」
「もう、そろそろねえ。翔太、お母ちゃんに今日描いた漫画見せて」
「ああ、今、持ってくる」
俺は部屋から漫画を描いたノートを持ってきて、母に手渡す。母と啓司は俺の漫画の熱心な愛読者だ。
部屋に戻った俺は、月明かりが射し込む窓辺に近づき、四角い影のように見えるレイディオに手を伸ばし、電源を点ける。俺は月明かりだけの暗い部屋の中で、机の前の座布団の上にどっかりと腰を下ろす。俺は電気スタンドの灯りを点け、早速宿題に取りかかる。
俺の部屋は四畳半の和室である。窓の外の風鈴が夜風に揺れ、涼しげな小さな音を立てている。ノートから顔を上げ、夜空を見上げると、沢山の星々が輝いている。コオロギや、蛙や、鈴虫が、夜の闇の中で楽しげに鳴いている。
『次の曲は、東京都の寂しい大学生さんからのリクエストで、スティーヴィー・ワンダーの『聖なる男』をお贈りします』
宿題を終え、ノートと教科書を閉じると、黒いランドセルの中に忘れずに仕舞う。俺は図書館で借りてきた南方熊楠の伝記の続きを、電気スタンドの灯りで読む。
一つ前に読んだ牧野富太郎の自伝と言い、偉人の自伝や伝記を読むと、俺も頑張ろうと思えるような、強いパワーを貰える。
読書によって広がる世界観とその喜びに、俺はもうすっかり魅入られてしまっている。一日中読書をしようと思えば、出来ない事もない。俺には読書以外にも、漫画の創作という楽しみもある。朝夕のおかずを山や海に獲りに行く一人前の男として役割りもある。レイディオから毎夜流れる様々な音楽にも強い興味がある。
音楽の授業では既に作曲も習っている。ポップスやロックも確かに嫌いではない。それ以上にクラッシックや映画音楽の雄大さに他の音楽とは比べ物にならないくらいの迫力を感じる。表現力においてもクラッシックや映画音楽には群を抜いて豊かな感性が感じられる。音楽の授業時間に、音楽の林先生が、時々、クラッシックのレコードをかける。林先生は音楽の魅力を熱く語り、全生徒に音楽鑑賞の機会を与える。この辺の田舎町にはクラッシックなんかを聴く高尚な趣味のある人は林先生ぐらいしかいない。林先生は東京から転任してきた人で、とても繊細な心の持ち主でもある。或時、授業中に生徒達が騒音を立てたり、お喋りをしていると、先生はピアノの鍵盤を思い切り叩き、生徒達を黙らせた。先生が怒ってピアノの鍵盤を叩くと、それさえも俺には音楽に聴こえた。そういった俺の感受性は純粋にクラッシックだけを聴いて育った人間とは違う、軽音楽的な影響がある。レイ・チャールズや、ジェリー・リー・ルイスや、ビリー・ジョエルなどが弾くピアノ。ザ・ビートルズや、ザ・ドアーズや、ディープ・パープルの音楽で聴くピアノやオルガン。そういった黒人音楽やロックやポップスからの、まだ何者にも染まっていない真っ白な心が受けた影響力は、騒音の中にも音楽的な要素を見出してしまう程の、とても荒々しい感性を知らずと自分の心に培う。音楽は様々なジャンルに区別される。その音楽を年代順に連続させて聴いたら、果たして人は音楽の神我に目覚めるのか。
翌朝五時に起きて、洗面と歯磨きを終えると、俺は山に山菜を取りに出かける。腐葉土の濃い土の匂いを嗅ぎ、雑木林の間を通るひんやりとした涼風を楽しむ。服はカブトムシの絵のTシャツと、白い靴下を着ている。おかずになる食べ物を手に入れるのに、山に行くか、海に行くかは、俺の気分次第で決める。従って、今日は山に行くのである。
夏に山に行く時は虫篭を持っていき、カブトムシやクワガタ等、昆虫採集をし、母に渡す。カブトムシやクワガタを近所の松川さんの家に持っていくとお金に換えてもらえるのだ。生きた昆虫をお金に換えにいくのは母の役目だ。俺は昆虫と交換に幾らお金をもらえるのかはよく知らない。
今朝はカブトムシの雄十二匹、雌七匹、クワガタの雄三匹、雌七匹を捕り、椎茸五つと、紫蘇の葉十枚を採って家に帰る。
「お母ちゃん、ただいま!」と俺は大きな声で家の中の母に声をかけ、家の玄関に入る。
「お帰り!」
俺は母に虫篭を手渡し、「今日は椎茸と紫蘇の葉を採ってきたよ」と言う。
「それじゃあ、椎茸と紫蘇の葉はてんぷらにしましょうかね」
「うん」
「随分沢山虫捕ってきたわね」
「うん」
「手洗って、学校に行く支度しなさい」
「うん」と俺は返事をすると、部屋に行って、学校に行く支度をする。俺は洗面所に行って石鹸で手を洗うと、何も置かれていない食卓の自分の席に腰を下ろす。朝食は椎茸と紫蘇の葉の天ぷらと、椎茸のお吸い物と、白米の御飯である。
「紫蘇の葉のてんぷら美味しいね」
「美味しいわね」
朝食を食べ終えると、俺は黒いランドセルを背負い、「行ってきまあす!」と玄関から大きな声で母に言い、学校に向かって走っていく。
「翔太!待ってよ!」と俺の後ろから啓司が大声で俺を呼び止める。
「よう!啓司!おはよう!」と俺は走りながら振り向いて、啓司に挨拶をする。俺が鶴田里美を追い越し、駆け抜けていくと、後ろで啓司が鶴田に挨拶をする声を聞く。俺は走りながら振り返る。啓司は走るのを止め、鶴田と並んで歩いている。俺は学校まで一挙に走る。正門を潜り、誰もいない校庭の端を走り、下駄箱で上履きに履き換えると、猛スピードで階段を駆け上がる。
教室に入ると、クラスメイトの坂家良子が窓際の一番前の席に唯独り座っている。坂家一人が作り上げた教室の空気が俺一人加わる事で変化するのは当然の事だ。それが存在感と言うものである。俺が加わる事で二人になった教室の空間で何かに集中している坂家の様子には何の変化も認められない。
「おはよう!」と俺は坂家に声をかける。坂家は前を向いたままの俯いた顔で、背後をそっと窺うように、少しだけこちらに傾ける。坂家は何も言わない。坂家は艶のある黒く長い髪に、銀縁眼鏡をかけ、赤いTシャツを着て、紺のキュロット・スカートと、白の水玉模様の赤いニー・ソックスを穿いている。坂家が毎朝早く学校に来て、ノートに書いているものは何なのか。俺はずっと前からそのノートに関心を持っている。
「坂家、いつも何書いてるの?」
坂家は顔を上げ、さっ背を反り返らせると、胸元に開いたノートを当てる。
「勝手に覗いて観たりしないから、何書いてるのか教えてくれよ」
坂家は背筋を伸ばしたまま、身動きもせず、何も答えない。まるで俺の関心が自然と自分から逸れるのを待っているような沈黙である。
「言いたくなけりゃ別に良いけどさ。俺は毎日ノートに漫画を書いてるんだ」
「小説」と坂家は距離も気にせず、一言隣にいる人にでも言うように、少し緊張した小声で答える。
「小説。へええ、坂家は小説を書くのか」
坂家はさっとこちらを向くと、「他の人には言わないで」と銀縁眼鏡の奥の力の籠もった眼で俺を見て言う。
「うん。判った。秘密だね」
坂家の口許に笑みが表われる。
「今度さ、見せっこしないか?」
「これはまだ完成してないから、他のなら良いけど」
「坂家の小説、何作あるの?」
「今のところ五作。どれもまだ短編なの」
「良いよ。それで良い。俺のは大長編だから、完成作品はまだない。何時読ませてくれるの?」
「明日持ってくる。皆が来る前に必ず来て」
「うん」と俺は返事をし、真ん中の通路の左側の、一番後ろの席に腰を下ろす。俺は黒いランドセルの中から教科書を取り出し、机の中に仕舞うと、ランドセルを椅子の背にかけて、漫画用のノートを机の上に載せる。早速、俺は鉛筆で漫画を描き始める。俺は何か視線を感じて顔を上げると、坂家の方を見る。坂家はちゃんと前を向いたまま、また何かノートに書いている。相手をいつまでも意識してるのは自分だけだと知り、堪らなく恥ずかしくなると、カーッと顔が熱くなる。
啓司が鶴田里美と一緒に何時の間にか教室の中にいる。もう教室の中には何時の間にかほとんどの生徒が来ている。俺はそんな事にも気づかず、夢中になって漫画を描いていたようだ。いつもなら啓司が鼻息を荒くして、側から俺の描いている漫画を覗き込む。何時の間にか啓司と話をしながら漫画を描く習慣が付いていた。
結局、啓司はこの日、一日中俺のところには来なかった。啓司は休み時間の度に鶴田のところに行き、鶴田とばかり話す。
学校が終わり、「帰るぞ」と啓司に言って、啓司と一緒に教室を出ようと辺りを見回したら、啓司は何時の間にか教室から去っている。坂家はまだ教室にいる。俺は坂家の席に近づき、「坂家、家、どの辺なの?」と話しかける。
「家は山の方よ」
「じゃあ、夕飯のおかずを取りに山に行くから、一緒に帰ろう」
「夕食のおかずを山に取りにいくの?」
「うん。山には天ぷらにしたり、煮物にしたりして、美味い料理になる素材が沢山あるんだ」
「ああ、家もお母さんがたまに思いつきでやるわ」と坂家がにっこりと口許に笑みを見せながら言う。銀縁眼鏡の奥の坂家の眼はとても澄んだ綺麗な眼をしている。俺は気軽に話せる良い女友達が出来たととても喜んでいる。
「家の畑に一杯大根が出来てるから、何本か持っていかない?家だけじゃとても食べられないの」
「家は貧乏な家だけど、乞食みたいに人から物を貰ったりしちゃいけないって、お母ちゃんに厳しく言われてるんだ。気持ちは嬉しいけど、遠慮しておくよ」
「じゃあ、私も一緒に山に夕食のおかずを採りにいくわ」
「うん」
坂家と俺は学校の正門に向かって一緒に並んで歩いていく。
「坂家は昨日、お祭には行ったのか?」
「行ったわよ。明るい内に妹と弟を連れていったの。帰りは一番下の末っ子の弟を負んぶして帰る羽目になっちゃったわ。帰り際になると、弟がおねむになってぐずぐすし始めたから、仕方なく負んぶして帰ったの」
「大変だったね」
「でも、可愛いのよ。弟が生まれて本当に良かったと思ってるの。海原君はお祭には行ったの?」
「行った。田沢啓司と一緒にね。帰り際に啓司の奴、お祭に来てた鶴田里美に恋の告白をしてさ、何と二人が付き合う事になったんだよ」
「ああ、里美ちゃん、可愛いもんね」
「鶴田は鶴田で啓司が可愛いんだってさ」
「海原君は好きな子とかいないの?」
「ああ、いやあ、いるって言うか、まあ」
「付き合ってる子はいるの?」
「いっ、いないよ、そんなの!いる訳ないじゃないか!」
坂家は俯いて微笑む。横から顔を見ると、坂家は意外と可愛い。
「坂家、一寸こっち向いて、眼鏡外してみてくれないか」
「良いけど」
坂家は立ち止まり、眼鏡を外して俺を見る。眼鏡を外した坂家の素顔は、眼が大きく、眉毛もはっきりとしていて、睫毛も長い。それに鼻筋の細い形の良い鼻と、はっきりとした大きな口が加わり、それらが卵型の小顔一杯に納まっている。
「可愛いな、お前」
「ありがとう。海原君もカッコイイわよ」
何だか坂家の眼に釘づけになり、胸がドキドキする。
「お前、眼鏡かけないと見えないのか?」
「黒板なんかの小さい字が見え難いの」
「このくらいの距離で俺の顔は見えるか?」
「見える」
「なら、俺といる時は眼鏡を外してくれよ」
「うん、良いよ」と坂家は俯いて言う。「あんまり見ないで。恥ずかしいわ」
「ああ、ごめん」
坂家のパンツ、何色かなあ。二人並んで歩いていると、二人共相手の方に引きつけられるように何度も手が触れる。その中、二人の脚が同時によろめき、二つの体がぶつかる。
「何か、真っ直ぐ歩けなくて」と坂家が恥ずかしそうに笑いながら言う。
「はは、俺もだ」
坂家は何もないところで躓き、俺の右腕を掴む。
「はっはっは、大丈夫かよ」
「何か、恥ずかしい。あたし、ドジだから、直ぐ転ぶの」と坂家は言い、一人で大笑いする。
「じゃあ、歩いてる時は眼鏡を嵌めるのを許す」
「ええ、本当?あたし、眼鏡外してるのすっかり忘れてた」と坂家は言いながら、眼鏡を嵌める。その時、大学生達の運動場から、坂家の方にサッカー・ボールが飛んでくる。俺は咄嗟に坂家の上に覆い被さり、坂家と俺は地面に崩れるようにして倒れる。ボールを取りに来た大学生が、「大丈夫か?」と俺達を見下ろし、心配そうに訊く。
「大丈夫です」と坂家の上に覆い被さった俺が言うと、大学生はサッカー・ボールを民家の庭の中に取りにいき、運動場に駆け戻っていく。
「痛あ・・・・」
「あっ、坂家、脚から血い出てる!」と俺は言い、坂家の脚の血を吸い、「坂家、ハンカチーフ貸せ」と坂家に言う。
坂家は紺のキュロット・スカートの右ポケットから白い花柄のハンカチーフを取り出し、俺に手渡す。俺は坂家の脚の傷口にきつくハンカチーフを縛りつける。
「よし、これで大丈夫だ。立てるか?」
「うん。ありがとう」と坂家が伏目がちに微笑んで言う。俺は坂家に手を差し伸べる。坂家は俺の手を掴む。俺は坂家の手を引いて起き上がらせる。
「歩けるか?」
「別に痛くはない」
「そうか」と俺は言い、坂家の柔らかく細い手の感触を手に感じながら、男友達に対する想いとは少し違う何かを感じる。その想いは恋であってはならない。俺には別に好きな子がいる。俺が本当に好きな子は六年二組の吉野麗子だ。俺にはその子への想いで恋心は残っていない筈なのだ。坂家は確かに可愛いけれど、自分が好きになった女の子を情に流されて代えるのは良くない。俺は坂家の柔らかく細い手の感触をいつまでも思い出すのは良くないと、ジーンズの右のポケットの上で念入りに坂家の手の感触を拭い去る。
「歩けるか?」
「歩ける」
「山に行くの止めて、家に送ってってやろうか?」
「あたしも一緒に山に行きたい」
「そうか、なら着いてこい」
山の中に入り、小さな傾斜を上がると、「ここ、滑らないかしら?」と坂家が傾斜の下で訊く。
「ほらっ、俺の手に摑まれ」と俺は坂家に手を差し伸べ、坂家の手を引っ張りながら、坂家が傾斜を上るのを助ける。
「あっ、上れたあ!」と坂家が嬉しそうに言う。
女って、宇宙人みたいだ。男なら大して気にも留めない小さな事に喜んだり、自分の弱さや頼りなさを隠そうともしない。坂家の手の感触にはすっかり慣れてしまった。
俺は夕食のおかずを選び取る。
「坂家、誰にも言わないって約束するなら、俺の隠れ家に案内する。まだ啓司にも教えてないんだ」
「隠れ家?」
「うん。約束するか?」
「うん、約束する」
「来い」
俺は山小屋に坂家を案内する。
「こんな山の中に小屋なんかあったのね」
俺が扉を閉めると、小屋の屋根の上に小豆を沢山零したような音がし始める。小屋の扉を開け、外を見ると、大粒の雨が降っている。
「雨だな」
「うん。遅くなる前に止むかしら」
「通り雨だろ。大丈夫。心配するな。俺がついてる」
「うん」と坂家は言い、木製の長椅子に腰かける。「良い隠れ家ね。あたし、独りでここに来ても良い?」
「良いけど、独りじゃ来れないだろ」
「ああ、そうだね」
「気に入ったのか?」
「うん。本読んだり、何か小説の事静かに考えたりするのに丁度良いかな。この辺、もしかして、猪とか出るのかしら?」
「さあ、どうかな」
「海原君、猪とか出たら、私の事助けてくれる?」
「うん。まあ、助けるだろうな。でも、ここらで猪に出遭った事はないな。それに助けるって言っても、避けるタイミングとかを教えるぐらいだろう」
坂家が小さな声で笑う。
「何かおかしいか?」
坂家がまた笑い、今度は笑いが止まらない。
「何だよ、何がおかしい?」
「だって、海原君、何でも真面目に答えるから」と坂家が笑って言う。
「好きなだけ笑ってろよ」と俺は言って、腹を立てる。
坂家はしばらく笑っている。
「ああ、おかしい。ごめん。笑っちゃって」
また坂家が笑い出す。
「腹空いて、笑い茸でも食ったんじゃねえのか」
「食べてないわよ、笑い茸なんて!はっはっは」
「絶対、笑い茸食べたよ」
「食べてない!」と坂家が楽しそうに否定する。
坂家が笑い終わると、しばらく沈黙が続く。
「海原君の好きな子って、誰?」と雨音が続く中、坂家がぽつりと訊く。
「お前は誰が好きなんだよ?言ったら、俺も言う」
「あたしも好きな人はいるの」と坂家が俯き、少し力を込めて答える。
「ふううん」と俺は少し嫉妬し、不満げに突き放すように言う。
「海原君の好きな子って、家のクラスの子?」坂家が悲しげな顔で訊く。
「いや、違う」
「あたしの知ってる子かな?」
「多分ね」
「誰だろう。家の学校、可愛い子が一杯いるから判らない」
「誰にも言わないか?」
「言わなくていい」と坂家が左右に首を振りながら、目を瞑って言う。
坂家も女だ。女の訳の判らなさは坂家にも例外なくある。自分の好きな子を坂家に打ち明けようとは先まで全く考えてもみなかった。うっかり打ち明けるところだった。何が災いとなって、好きな子に嫌われるような事になるのか全く判らない。あの子の事は自分だけの秘密にしておきたい。人の噂にでもなったら、吉野麗子に迷惑がかかる。坂家と一緒にいるところを吉野に知られるのも嫌だ。坂家は創作友達に過ぎない。自分の中で坂家への想いが募ってくる。俺が本当に好きなのは吉野麗子の方で、坂家ではない!
「あたし、もうそろそろ帰らないと」と坂家が俺の眼を見て言う。
「ああ、じゃあ、・・・・」
「海原君は帰らないの?」
「もう少ししたら帰るよ」
「じゃあ、あたしももう少しここにいる」
「・・・・」
TVでやってた大人の映画の中で、裸になった男女が抱き合うシーンがあった。俺は坂家を見て、坂家とそんな風な事をするのを想像する。俺は思わず生唾を飲み、その生唾を飲む音が坂家に聞こえたのではないかとハラハラドキドキする。
「坂家、じゃあ、帰ろうか」
「うん。雨も止んでるし、帰るなら今かな」
「うん。じゃ、行こう!」
俺と坂家は夕飯の食材を持って山を下りる。山から程近い、坂家の家の方へと続く上り坂の手前に来ると、「それじゃ、ここで」と坂家が俺に言う。
「じゃあ、また明日学校で会おう」
「うん」
「小説持ってこいよ」
「うん。持っていく」
「それじゃあな」
「うん、それじゃあ」
坂家に手を振って別れると、俺はそのまま坂を下っていく。日の長い夕刻の、日没前の家路を辿りながら、俺は坂家の事をずっと想っている。心の中で俺は坂家にキッスをする想像をする。もう坂家の事以外何も考えられない。何だか胸がキュンと苦しくなり、今別れたばかりの坂家に今直ぐまた会いたくなる。明日の朝までの我慢!明日になれば、また坂家に会える!明日、学校に行けば、坂家の小説も見せてもらえるんだ!俺はそう自分に言い聞かせるようにして、坂家の事ばかり考える頭を他へ逸らす。坂家の事ばかり考えていたら、本当は吉野の事が好きなのに、その本当の気持ちを吉野に信じてもらえなくなる。
「お母ちゃん、ただいま!」
「お帰り」と母が暗い部屋の中から言う。「今日は遅かったね」
「うん。坂家って言う、同じクラスの女の子と一緒に山に行ってたんだ」
「坂家さんって、あの勉強のよく出来る子?」
「うん、そう。坂家は小説を書くんだよ。明日、持ってきて、見せてくれるってさ」
「へええ、あんたに女の子の友達が出来るなんてねえ。女の子には乱暴な話し方しちゃダメよ」
「乱暴な話し方って?」
「まあ、あんたはそのまんまで良いのかもね」
俺は夕食の食材を台所に置き、「夕食のおかず、台所に置いておくよ」と母に言うと、ランドセルを自分の部屋に置きにいく。
「今日は何を採ってきたの?」
「台所に置いといたから、自分で見て!」
いつもなら、採ってきた夕食のおかずを母に手渡す。この時は頭の中が坂家の事で一杯で、母にその喜ぶ顔を見られると、坂家への恋が本当の自分の恋だと決めつけられそうで、母から顔を背けるようにして台所に置いてきたのだ。
「翔太、今日描いた漫画見せなさい」と居間から母が俺に言う。
「ああ、そうか」と俺は言い、ランドセルから漫画ノートを出して、母に手渡す。
俺は窓辺に置いたレイディオを点け、机の前の座布団の上に座る。
『次の曲は、東京都の寂しい大学生さんからのリクエストで、テンCCの『アイム・ノット・イン・ラヴ』をお贈りします』
俺は机の上に肘を突き、頭を抱えている。勉強をしようと思っているのに、坂家の事ばかり考えてしまう。何だか病気になったみたいだ。ずっと胸が苦しい。俺は座布団に座った姿勢から後ろに倒れる。天井を見上げながら、俺は堪らなく溜息を吐く。坂家の好きな人って、一体誰だろう・・・・。
翌朝、俺は海に潜り、朝食のおかずを獲って、駆け足で家に帰る。今日は坂家が小説を持ってきてくれる日だと、俺は海に潜っていた間もずっと坂家に会うのを楽しみにしていた。
「お母ちゃん、ただいま!」
「お帰り」と食卓の前で算盤を弾いていた母が顔を上げて言う。
「今日はタコ一杯とハゼ四匹と若布だよ」
「じゃあ、それをおかずに朝食を作ろうかねえ」
「どんなおかずにする?」
「タコは御刺身と唐揚げ、ハゼは焼き魚、若布はお味噌汁にしようかね」
「やったあ!」
「朝から御馳走になるねえ。あんたが一生懸命獲ってきたもんは美味しく料理して食べないとねえ」
「うん!」
「じゃあ、学校に行く支度しなさい」
「はあい!」
俺は部屋に入り、学校に行く支度をすると、食卓の自分の席に座って、朝食を待つ。
「さあ、出来たよ。じゃあ、食べようかねえ」
「いただきまあす!」と腹を空かした俺は言って、早速食べ始める。
「いただきます」と母も言い、一緒に朝食を食べる。「美味しいね」
「うん。タコの唐揚げが一番美味しい」
「お母ちゃんは御刺身が美味しいわ。山葵付けてあげようか?あんたももう大きくなったからね。ほい!」
俺はたこの刺身を生まれて初めて醤油山葵に付けて食べる。
「辛い!辛いよ!水水水!」と叫びながら、俺は走って台所に行くと、水をグラスに注いで、急いで飲む。
「辛いのが美味しいのよ。その内、山葵なしじゃ御刺身が食べられなくなるわよ」
「ああ、辛かった」と食卓に戻ってきた俺ははぜの焼き魚を食べる。
「一寸、初めてにしては、山葵の量が多過ぎたかね。これくらいなら良いだろう」
「ああ、一寸、ぴりっとして美味い」
「そうだろう。最初のは山葵が少し多過ぎたんだよ。こうして味覚が段々と大人の好みになってくるのよ」
俺はすっかり山葵が気に入ってしまった。
「行ってきまあす!」と俺はランドセルを背負い、玄関から母に元気良く言うと、勢いよく家を飛び出す。
俺が学校まで一挙に駆けていこうと走り出すと、「翔太!待ってくれよ!」と啓司が後ろから大声で俺を呼び止める。俺は走りながら振り返り、「よう!啓司!おはよう!」と言って、学校まで止まらずに駆けていく。俺は前を歩く鶴田を追い越すと、後ろを振り返る。啓司はまた鶴田と並んで歩く。俺は学校まで全速力で走り、教室に駆け込む。
俺は教室の後ろから坂家がたった一人で自分の席に座っている後姿を見る。
「坂家!」
「ああ!海原君、おはよう!」
「小説持ってきたか?」
「うん」
俺は坂家の座る前の方の席へと歩いていく。
「これ、ここで読まないでね。他の人には小説書いてるの知られたくないの」
「判った」と俺は言って、坂家のノート三冊を受け取ると、肩に背負ったままのランドセルに急いで仕舞う。
「海原君の漫画も観てみたいな」
「ああ、今日の分描いたら、帰りに渡すよ」
「うん。それじゃあ、楽しみにしてるね」
「プロレス漫画なんか女が喜ぶかなあ」
「あたし、タイガーマスクが好き」
「プロレス観るの?」
「時々、観てる」
「へええ、珍しいねえ。女の子がプロレス観るなんて」
「そうかなあ?」
俺は返す言葉も浮かばず、椅子に座って俺の顔を見上げる坂家の眼をじっと見つめる。坂家が笑顔のまま、ずっと視線を逸らさないので、俺は坂家と見つめ合っているのが急に恥ずかしくなり、「ああ、眠い眠い」と言って、欠伸をするふりをしながら、坂家から視線を逸らす。俺は坂家の右隣の列の一番後ろの席に向かう。「それじゃあ、漫画でも描くかな」
「じゃあ、あたしも小説の続き書くね」と言って、坂家が前に向き直る。
「また一緒に帰ろうな」
「うん」と坂家が少し横顔をこちらに向けて言う。
四時間目は体育の時間である。俺は体操着に着替え、階段を下りて行く。六年二組の吉野麗子がゆっくりと階段を上ってくる。俺は心臓が破裂しそうなくらいドキドキしている。何か眼に見えない光が吉野麗子の頭から空間一杯に輝いているような感じがする。擦れ違いざまに俺はさっと吉野麗子の俯いた横顔を見る。薄く赤い唇が美しく真横に大きく広がり、睫毛の長い黒い眼が奥深く輝いている。眉は滑らかに左右に延び、茶色がかった黒い髪が同じ長さで肩まで真っ直ぐに伸びている。すらり背が高く、手足はしなやかに長く、胴体は既に女らしく膨らむべきところが丸く膨らんでいる。擦れ違い様に吉野が俺の眼を見て、にっこりと歯並びの良い白い歯を見せて微笑む。俺は吉野の後ろ姿を振り返り、階段の途中で呆然と立ち尽くす。俺は吉野麗子の姿が見えなくなると、眼に焼きついた吉野の微笑を呆然と見つめる。
吉野は俺とは違う。何か気軽には接近出来ないような、人間存在の階級的な違いを感じる。吉野を前にすると、緊張して一言も話しかけられない。吉野ににっこりと微笑んでもらえただけでも幸せだと思うべきだろう。その点、坂家は全くの人間だ。吉野と坂家は学年で一、二を争う勉強のよく出来る生徒として知られている。身長や体型もとてもよく似ていて、二人共痩せ型である。坂家は運動が今一だ。吉野はその点、運動でも成績が良い。
もしも、本当に女神様が存在するのだとしたら、きっと大人になった吉野のように美しい方だろう。
俺は学年一身長が高く、女子には何れも俺より背の高い生徒はいない。吉野麗子は絵も上手く、四年生の頃から二年連続で学校代表に選ばれ、コンクールに出品された二作品が二年連続金賞を受賞している。
吉野は俺が四年生の時に東京からこの学校に転校してきた。吉野とはその一年間だけのクラスメイトだった。女の子達にいつも囲まれ、ほとんどの男子はお調子者の一名を例外として、話す切っかけすら掴めなかった。成績優秀な生徒でありながら、容姿は容姿でとても賢そうな、個性的な顔立ちをした美少女だ。吉野は他の女子よりずっと大人っぽく見え、落ち着いた感じがする。
下校の時間になり、吉野の事を想いながら、正門に向かって歩いていると、後ろから坂家が、「海原君!待って!」と走りながら声をかけてくる。後ろを振り向いた俺は、「おお、何だ、坂家か」と素っ気なく坂家の呼び声に答える。
「一緒に帰るって約束してたのに酷いよお、一人で帰っちゃうだもん」と坂家は息を切らし、両膝に手を当てて、屈んだ恰好て言う。
「坂家は人間らしくて判り易いな」
「えっ?」と坂家は片目を開け、荒い息を吐きながら問い返し、「何の事?」と俺の顔を見上げるようにして訊く。
「今日、俺、好きな人に微笑みかけてもらえて、それでさ」
「それで?」と坂家が姿勢を正しながら、乱れた呼吸で寂しそうな顔をして訊く。
「いやあ、お前に話す事じゃない」
「何でよ、言ってよ!」と坂家が俺の眼を睨み、乱れた呼吸をしながら言う。
「いやあ、この世には女神様みたいな輝きのある人が現実にいるんだなあって思った訳さ」
「ふううん。それって、もしかして、六年二組の吉野麗子?」
「いやっ、え?何で?俺が吉野さん、じゃなくて、吉野なんかを」
「誤魔化さなくてもいいわよ」と坂家は冷静に言うと、足早に先を歩き始める。
「おい!お前の好きな人も教えろよ!」
「大っ嫌い!」と坂家はどんどん先を一人で歩いていき、俺はその後を追いかける。
「坂家の好きな人って、俺の知ってる人?」と俺は海沿いを歩きながら、俺の前を足早に歩いていく坂家の背中に訊く。俺の足が長い分、普通に歩いていても坂家との距離は変わらない。坂家が突然振り返り、俺の眼を見て、「鈍感!」と怒鳴ると、坂家はまた足早に前を歩いていく。ええ!もしかして俺かよ!参ったなあ。
正直なところ、坂家への俺の恋心は、坂家を殴りつけて、めちゃめちゃに壊してしまいたいような激しい恋心なのである。坂家に対する想いは親しくなれば誰にでも抱くような、人間に対する恋心なのである。本当の事を言うと、坂家の存在が邪魔なのだ。俺が本当に好きなのは吉野麗子だ。その俺の純粋な恋心を壊そうとする坂家に対し、俺は逆らい難い自然の力を感じている。坂家も確かになかなかの美人ではある。それは認める。恋する女の子は一人で良いのだ。坂家は創作の友達で良い。吉野麗子がいなければ、本当はもっと坂家に優しくしていただろう。二人の美人に優しさの差を付ける事なしには、これ以上坂家に恋心なしで接する事は出来ない。俺は二人の美人に心が引き裂かれるような思いをしながら、今はまた坂家と一緒にいる。怒っている坂家を後ろから見ているのにもうんざりしてくる。ああ!面倒臭い!俺は港の堤防に上がって腰を下ろし、遠ざかる坂家を眼で追う事さえも止める。
俺はランドセルの中から坂家の小説を出して読み始める。
坂家の字は何と美しい事だろう!文章も宝石のように輝いて見える。坂家の小説を読む前は、漫画だけでなく、場合によっては、小説の創作でも負かしてやれるような自信があった。坂家には確かな才能がある。俺は自分の漫画の子供っぽさに気づく。
坂家は小説の登場人物の好きな人のモデルを、全部、俺にしている。女が男と口づけすると、必ず物語が終わる。俺は坂家の小説から口づけの意味を教わり、三作目からはずっと坂家との口づけを思って読み進む。小説の中での俺は何度も何度も坂家と口づけをする。そのため俺の顔はずっと燃えるような熱さで火照っている。
坂家の小説を全部読み終わると、もう夕方の六時だった。
俺は今、坂家の小説を手に持ち、坂家の家に向かって歩いている。俺は坂家に口づけをしに会いにいくのだ。坂家と口づけをしたなら、俺達は結婚した事になり、俺と坂家の子供が生まれる。まだ小学六年生でありながら、俺にはもう父親になる自信が十分にある。坂家は俺の奥さんになる女なのだ。
坂家の家は小さな古い木造家屋で、玄関の灯も既に消えている。灯の点いた家の中を窓から覗くと、坂家の両親がTVを観ている。その居間に坂家の姿はない。庭を通って、裏庭に回ると、電気の点いた部屋がある。そっと窓から中を覗くと、窓の真ん前に坂家が書き物机の前に座り、何かを書いている。俺は軽く窓を叩いてみる。坂家が何気なく顔を上げる。俺が窓に顔を近づけると、坂家は俺に可愛い笑顔を見せる。坂家は立ち上がって窓を開け、サンダルスを履いて、俺のいる裏庭に出てくる。俺は坂家に、「坂家、俺、お前の小説に物凄く感動したよ。良い小説だった。お前には小説を書く才能があるよ」と言って、坂家に小説のノートを手渡す。「一寸、目を瞑ってくれないか?」
坂家はノートを胸に抱き、素直に目を瞑る。俺はゆっくりと自分の唇を恐る恐る坂家の唇に近づけ、坂家に口づけをする。坂家は一瞬驚いて目を開ける。坂家は俺の顔が間近にあるのを見ると、また目を瞑る。俺は坂家の唇の例えのようのない柔らかさを自分の唇に感じながら、再び吸い寄せられるように坂家の唇にキッスをする。あんまり口づけが長かったせいか、坂家は突然さっと離れると、ゆっくりと目を開けた俺の目の前で、突然笑い始める。俺は坂家の笑いの意味が判らず、その笑いに釣られて、坂家と一緒に笑い出す。二人してしばらく笑いが止まらなくなる。
笑い終えた俺は心を落ち着け、「それじゃ、また明日。赤ちゃんが生まれるのを楽しみにしてるよ」と言って、家路に着く。
俺は坂家と別れた後、夜のおかずがない事に気づき、山に行って山菜を採ってから、くたくたに疲れて帰宅する。
「お母ちゃん、ただいま!」と俺は家の中にいる母に声をかける。
母が玄関まで来て、玄関に腰を下ろして一休みしている俺に、「どうしたのよ、こんなに遅くなって?」と心配そうな声で訊く。
「坂家の小説を全部一挙に読んだ後、坂家の家に行って、坂家に小説のノートを返しに行ってたんだ、明日の朝、俺達の赤ちゃんの姿を見るのを楽しみにしながら、家に帰ろうとしたら、夕食のおかずがない事を思い出して、真っ暗な森の中で何とかこんだけ採ってきたんだよ」と袋に入ったおかずを母に差し出す。
「もう、心配するじゃないの」と母は言うと、おかずの入った袋を受け取り、「じゃあ、これで今から晩御飯作るから、部屋に鞄置いて、手え洗ってきなさい」と言って、暗い居間の奥の台所へと向かう。
俺はへとへとに疲れた体を何とか起こし、部屋にランドセルを置きにいくと、熱く火照った顔を冷ましに洗面所に向かう。俺は冷たい水で手を洗ってから、顔の熱が冷めるまで根気良く顔を洗う。
食事が済むと、俺は自分の部屋に入り、書き物机の前の座布団の上に腰を下ろし、窓辺のレイディオを点ける。
「翔太、お母さんにまだ今日の漫画見せてないわよ!あなたの漫画の一番の愛読者を忘れてるんじゃないの?」と居間から母が大声で俺に言う。
「ああ!漫画ね!今出す!」
俺はランドセルの中から漫画用のノートを出すと、居間にいる母に漫画用のノートを手渡す。ノートを母に手渡すと、俺は直ぐに部屋に引き返す。俺は再び書き物机の前に腰を下ろす。部屋の中で俺はまた独りになる。何だかやたらと独りになりたい。誰にも自分の考え事を邪魔されたくない。
「あんたの漫画読むのがお母ちゃんの一日の一番の楽しみなのよ」と母が突然背後の方から言う。
俺は机の前に座った体を捩じって、後ろに振り返り、部屋の入口に立っている母の顔を見上げる。母は俺の部屋を眺めると、黙って去っていく。俺はその母の後姿を最期まで見届け、書き物机の方に向き直る。
「次の曲は東京都の寂しい大学生さんからのリクエストで、ハリー・ニルソンの『ウィズアウト・ユー』をお贈りします」
俺はレイディオを消し、机の上に肘を突いて頭を抱えると、眼を瞑って坂家との口づけを思い出す。顔がまた熱く火照る。
「口づけ・・・・」と俺は敢て声に出して呟く。明日、学校に行ったら、坂家が俺達の赤ちゃんを抱いて登校してくるんだ。
俺は国語のノートを開き、赤ちゃんの名前を考えては、ノートに書きつける。海原勇気。海原大将。海原・・・・と、赤ちゃんの名前を一つ一つ書き出していったら、あっと言う間に一頁全部が埋まった。俺達の赤ちゃん、あれ?女の子かもな・・・・。俺はノートの頁を捲って、女の子の名前を考えては、思い付くままにノートに書きつける。海原美波。海原美風。海原・・・・。女の子の名前もノート一頁分書くと、俺は一仕事終えたつもりで風呂に入る。
風呂から出て寝巻きに着替えると、俺は歯を磨き、母が敷いてくれた床に入る。
翌日、俺は朝から海に潜り、朝食のおかずを獲る。海に潜りながら、俺はずっと坂家が学校に連れてくる我が子の事を想っている。
朝食のおかずを持って港を通ると、大きなマグロ船が港に着いている。俺は漁師達が集まり、楽しそうに話をしている中に父ちゃんの姿を認める。俺は全速力で父ちゃんの方に駆けていく。
「父ちゃん!」
父ちゃんがこちらを振り向く。俺は全力で父ちゃんの胸に飛び込む。
「おお、翔太!また少し大きくなったなあ!」
「父ちゃん、お帰り!一杯マグロ獲った?」
「ああ、獲ったよ。大量だ」
「俺の息子が今日生まれて、学校に奥さんが俺達の赤ちゃんを連れてくるんだよ」
「ほう。好きな女の子にチューでもしたのか?」
「うん!」
「翔太、チューしたぐらいじゃ子供は生まれないんだぞ」
「そうなの?」
「子供を作るのはまだ早い。子供を作るような事を若い内からあんまりすると、人間は馬鹿になるんだ」
「ふううん・・・・」と俺は言って、赤ちゃんが生まれてこない事を残念に思う。
俺は父ちゃんの肩に荷物のようにを背負われ、「じゃあ、俺はもう早速家に帰らしてもらうよ」と父ちゃんが漁師達に伝える。父ちゃんの漁師仲間達が、「おう!それじゃあな、玄さん!」と大声で返事をする。俺は父ちゃんの頑丈で温かい肩の上で父ちゃんの言葉を誇らしげに聞いている。
俺は父ちゃんの肩に背負われ、家への坂を上る。俺は父ちゃんの体の温もりと匂いを目一杯体中に染み込ませる。俺は何も言わずに父ちゃんの肩の上で揺られながら、家へと帰っていく。
「ほれ!」と父ちゃんは言って、俺を家の玄関のところで下ろす。俺は家の中に駆け込みながら、家の中にいる母に、「父ちゃんが帰ってきたよ!」と大声で伝える。母は薄暗い居間に横になっている。母は暗がりでゆっくりと体を起こし、立ち上がる。母と俺は玄関から射し込む眩しい陽の光で逆光になった大きな真っ黒な影のような父ちゃんがゆっくりと家の中に入ってくるのを黙って見ている。父ちゃんは母の真ん前に来て、大きな体で力一杯母を抱き締める。
「ただいま、慶子。元気だったか?」と父ちゃんが野太い低い声で言う。俺は両親の近くで父ちゃんの大きな体が細っこい母の体を力一杯抱き締めるのを幸せな気持ちで見上げている。
「今回の漁は長かったわね。無事に帰ってきてくれて嬉しいわ」と母が父ちゃんに抱き締められながら言う。父ちゃんは母の眼元を大きな右手の太い指で拭うと、「ああ!腹減ったなあ!」と笑顔で言う。父ちゃんは食卓の長く誰も座らなかった座布団の上にどっしりと腰を下ろす。
「父ちゃんの分のおかずがないよ、お母ちゃん」
「もうそろそろトラちゃんがトラックでマグロ持ってきてくれるからお前達のおかずを俺に食わせろ」
「翔太!朝食はマグロのお刺身よ!獲ってきたおかずを全部お父ちゃんにあげなさい」
「やったあ!刺身だ!」
「じゃあ、お母ちゃんは朝食の支度をするかね。翔太、手え洗って、学校に行く支度しなさい」
「はあい」
俺は洗面所で手を洗い、ランドセルに教科書やノートや筆記用具を入れると、残り数頁で読み終える南方熊楠の伝記を急いで読み終え、ランドセルに入れる。
「玄さん!魚、ここ置いとくよ!」と玄関から父ちゃんの仲間の柳瀬のおじちゃんが大声で言う。
「おお!トラちゃん、どうもね!」
マグロが届いた!俺はランドセルを持って居間を通り、玄関まで駆けていく。俺は玄関でマグロの切り身を手に取ると、食卓で父ちゃんが朝食を食べるのを見ている母に、「お母ちゃん、マグロだよ」と言って、母に手渡す。
「今日は朝から御馳走ねえ」と母は言い、マグロの切り身を台所に持っていく。俺は食卓の席に座り、父ちゃんが朝食を食べるのを黙って眺める。
「翔太、最近はどんな本読んでるんだ?」と父ちゃんが牡蠣フライを食べながら、俺に訊く。
「牧野富太郎の自伝を読んで、先、南方熊楠の伝記を読み終えた」
「ああ、牧野さんに熊楠、どっちも本当の偉人だ。翔太、捻くれた生き方はするなよ」
「捻くれた生き方って、何?」
「それは自分で生きて知る事だ。何でも彼でも自分で経験する前から人に答えを求めちゃいけないよ」
「うん、判った」
「はい、マグロの刺身よ!」と母が食卓に俺と母の朝食を運んでくる。
「翔太、腹一杯食え」
「うん。いただきまあす!」
「いただきまあす」と母も言って、嬉しそうにマグロの刺身を食べ始める。
「俺、もう、マグロ船を降りようかと思ってるんだ」と父が母に言う。
「マグロ船降りて、何をなさるの?」と母が刺身を食べながら訊く。
「長編小説を三作書き溜めたから、それを東京の出版社に持っていってみようと思ってるんだ」
「まさか小説家になろうとしてるんですか?」と母が眉間に皺を寄せて訊く。
「そうだ」
「私達、それで食べていけますか?」と母が不安げに訊く。
「本が出版されるようになったら、これからバリバリ小説を書く。雨のようにアイディアが降ってくるんだ。それで俺も漸く時期が来たと思ってるところなんだ」
「作家ですかあ・・・・」と母が暗い顔で刺身を噛みながら、俯いて言う。
「心配するな。食っていけるようになるまでは別の仕事もする。ただマグロ船はもう降りる。お前には随分と苦労をかけたな。これからはいつも一緒だ」
「それは嬉しいですけど、ああ、作家ですか・・・・」と母が困ったような顔をして言う。「ああ!そうそう!あなた、翔太の漫画読んでみてくださいよ。なかなか面白いのよ」
「ほう、翔太、まだ漫画描いてるのか?」
「僕は将来、漫画家になるよ」
「親子してよく似てるのよねえ。あなた、マグロ美味しいわよ」
「お前も腹一杯食っとけ」
「はいはい。食べたいだけ有り難くいただきます。翔太、美味しい?」と母が明るい顔で訊く。
「美味い!」
「翔太、一寸漫画見せてみろ」
「今日、学校から帰ってきたら見せるよ」
「おお、そうか。じゃあ、父ちゃん、お前が帰ってくるのを楽しみに待ってるからな」
朝食を食べ終えると、俺はランドセルを背負い、「父ちゃん、お母ちゃん、行ってきまあす!」と言って、学校へと駆けていく。
「翔太!待ってくれ!」と俺が走っている後ろから、啓司が大声で俺を呼び止める。
「啓司!おはよう!」と俺は走りながら振り向いて言うと、また前を向いて全速力で駆けていく。前を歩く鶴田を追い越して振り返ると、啓司はまた鶴田と並んで歩いている。
俺は正門を潜り、下駄箱で上履きに履き替えると、教室へと階段を駆け上がり、教室に駆け込む。
教室には坂家一人しかいない。
「坂家、おはよう!」
「ああ、海原君、おはよう」
「坂家、口づけしたくらいじゃ赤ちゃんは生まれないんだってよ」と俺が言うと、坂家は笑い出し、「そんな事知ってるわよ(笑)」と言う。
「何だ、知ってるのか」と俺はがっかりして呟く。
「あたし、昨日から、未来に生まれてくる私達の赤ちゃんのために童話を書き始めたの」
「ほう。どんな話?」
「まだ途中だから、書き終わったら見せるわね」
「うん。じゃ、俺は漫画でも描くか」と俺は自分の席に座る。俺はランドセルから漫画用ノートと筆記用具を机の上に出すと、前の方に独り離れて座っている坂家の後姿を見つめる。坂家が俯いて何かをノートに書きながら、「海原君、あたし達、付き合ってるのよね?」と訊く。
「付き合ってる?」
「海原君はもうあたしの恋人よね?」と坂家が振り向き、真剣な眼差しで俺を見て訊く。
「ああ、えっ、まあ、そうだよ。坂家も俺の恋人だろ?」
「うん、そうよ。あたし、嬉しいわ」と坂家が笑顔で言う。
「口づけは一回しかしないものなのかな?」
「結婚したら、何回しても良いんだって」
「そうか。それじゃあ、早く坂家と結婚しないとな」
坂家が俺の様子を黙って見ている。俺は心の中まで見られているような気持ちになり、酷く動揺して、視線を机の上の漫画用ノートに逸らす。
「ああ!そうだ!」と俺が叫ぶと、坂家が振り返り、「どうしたの?」と訊く。
「昨日、お前に俺の漫画見せる約束してたよな?すっかり忘れてたよ。父ちゃんが今朝、漁から帰ってきてさ、帰ったら、父ちゃんに見せる約束してるから、学校終わるまでに読んでくれるなら、今渡す」
「うん!読みたい!」
坂家は席を立ち、俺の座っている席の方に歩いてくる。何だか坂家が物凄く緊張している。坂家は俺の席まで来ると、「海原君、いつもここで漫画描いてたのねえ」と言う。坂家が突然泣き出す。
「どうした、坂家?」
「海原君にここまで来て話しかけられるようになったのが、何だか物凄く嬉しくて」
「泣くなよ、そんな事で」と俺は言って立ち上がり、坂家の頭を優しく撫ぜる。「はい。俺の漫画」
坂家は溢れる涙を拭きながら、ノートを受け取る。坂家はノートを左手で胸に押しつけながら、拭いても拭いても流れる涙をずっと俯いて立ったまま拭いている。
「毎日、少しずつ観て良いかなあ?」と坂家が涙声で訊く。
「ああ、良いよ。それじゃあ、これから毎日、その日の分を描いたら、一番に坂家にノートを渡すよ。漫画は学校にいる間に読んで、下校する時に返してくれれば良い」
「うん、判った」と坂家は涙を拭きながら、笑顔で言うと、ノートを持って自分の席へと戻っていく。俺は坂家の後姿を見ながら、また坂家との口づけを思い出している。口づけの事を思い出す度に顔が燃えるように熱くなる。坂家の唇の異様な柔らかさが忘れられない。例えるなら、美味しい食べ物より好きな感触だ。俺は坂家の後姿を見つめながら、坂家に聞こえないように生唾を呑む。その時、俺の漫画を読んでいる坂家が突然振り返り、にっこりと俺に微笑む。俺は生唾を飲む音が聞こえたのかと、一瞬、胸がドキッとする。坂家はまた前を向いて俺の漫画を読む。坂家へのこの想い、この胸にめり込む程強く抱き締めていたい。
下校の時間になり、皆が教室を去った後から俺と坂家が二人で教室を出る。
「海原君、漫画一旦返しとくね。ゆっくり大切に読もうと思ってたんだけど、面白くてもう三話まで読んじゃった」
「おお、そうか」と俺は言い、ノートを坂家の手から受け取る。
階段を下りながら、坂家は下を向いたまま何も話さない。俺は坂家の横顔を見る。坂家の眼鏡の奥の顔立ちの美しさ、赤い形の良い大きな口、鼻筋の細い高い鼻、長く黒い睫毛、整ったはっきりとした黒い眉、卵型の顔の細く尖った顎、艶やかな黒く長い髪、長く細い頸・・・・。
俺は左隣にいる坂家の右手を思い切って握り、一段一段ゆっくりと坂家と階段を下りていく。
下駄箱の前で俺達は立ち止まり、坂家が靴を取るため、俺の左手に握られた右手を離そうとしている。俺は下駄箱を見つめながら、坂家の右手を硬く握ったまま立っている。坂家は何やらそわそわし始め、俺の横顔と下駄箱を交互に見ている。俺が黙って立ち止まったまま何もせずにいると、坂家は大きな口を開けて大笑いする。笑った後、坂家は再び俺の手から自分の手を離そうとし、俺はまだその細く白い指の手を硬く握り、下駄箱を前にして立ち尽くしている。俺がどうしていたいのか、漸く判った坂家は、俺と同じように下駄箱を見つめる。それを二人で噴出して笑う。
正門を出て、俺達は海沿いの道を港の方に向かってゆっくりと手を繋いで歩く。坂家は沢田研二や西条秀樹や桑名正博など、流行のロックやポップ・ミュージックの話を楽しそうに話している。俺も大好きな原田真二やチャーや世良公則&ツイストやジョー山中や矢沢永吉の話をし、坂家と音楽の話で盛り上がる。
港に来ると、地平線のうんと上に輝く熱い陽の光が宝石を鏤めたように青い海を輝かせている。俺達は白いコンクリートの船着場に腰を下ろし、足をぶらぶらと揺らしながら、将来の夢について熱く語り合う。
「俺は将来、絶対にプロの漫画家になって、漫画の神様の座を手塚治虫から奪い取ってみせる」
「あたしもね、実はプロの小説家を目指してるの。でも、もっともっと勉強しないといけないわ。ブロになるのに勉強し過ぎるって事はきっとないと思うの。沢山小説を読んで、一杯言葉を憶えて、その言葉を自分の物にして、言葉を自由自在に操れるようになりたいの。知識だって沢山必要だし、得意な分野の知識をどんどん広げていきたい」
「漫画はさ、絵だけ描けても、ストーリーが書けなきゃ漫画を描いたとは言えないんだ。漫画に必要なのは想像力だよ」
「小説も本当は想像力が鍵なのかなあ。人生経験が少ないと、良い小説は書けないってよく言われるけれど、もっと想像力を使って書けば、子供でも良い作品が書けるのかもしれないわね」
「漫画は何より根気だよ。手塚の凄いところは、ストーリーのスケールの大きさと、それを書き上げる根気が普通じゃないんだ」
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