第19話 これが永遠の別れとも知らずに

 真愛はすくすくと育った。

 慣れない育児も、子供の失敗も、すべてが新鮮で楽しかった。

 笑いの絶えない家族。愛情に満ちあふれた生活がそこにはあった。

 真愛の初めての寝返りに感動し、四つん這いでハイハイする姿に興奮した。

 初めて歩いた日のこと、言葉をしゃべりはじめた日のこと、すべてがキラキラと輝いていた。

 初めての動物園、初めての遊園地。

並んでいる最中にトイレに行きたいと言い出して、ぜんぜん乗れなかったことも、ふたりにとっては笑顔になる理由でしかなかった。


「娘って本当に最高なんですよ!」

 金田は興奮気味に津愚見に言った。

「いや、桃果と結婚した当初は、俺の嫁最高! これ以上の存在はいない! ってすっげー盛り上がっていたんですけど、娘はヤバいっす。恋愛の駆け引きなしに、『パパ大好き』って言ってくるんですよ! 生まれた時点で俺の事を一番に愛してくれる存在がいるなんて、こんな幸せがありますか!?」

「それ以前に、なんで俺にそんな話をする?」

 津愚見は心底迷惑そうな顔をした。

「いや、一応会う人みんなに言ってるんですけど」

「そこじゃなくて、どうして俺に言う? 関係ないだろ?」

「また家にきてくださいよ。最近ご無沙汰じゃないですか。最高に可愛くなったうちの娘を見せたいんですよ!」

「梶原さんから写真を見せてもらっている。だいたい分かる」

「いや、写真じゃ伝わらないですよ。マジで将来が楽しみです!」

「ほらほら、翔平。仕事場に来ないの。そろそろ幼稚園に迎えにいく時間でしょ?」

 事務所に戻ってきた桃果が、シッシと金田を追い払う仕草をした。

「マジか。今日もまた、真愛ちゃんに会えるのか。ああ~、幸せだなぁ」

 金田はスキップしながら事務所を出ていった。

 その後ろ姿をじっと見つめていた津愚見がポツリと言った。

「疲れないか? あいつの相手は?」

「え? どうしてです? 微笑ましいじゃないですか?」



 金田の娘は6歳になっていた。

もう、それほどの時間が過ぎていたのだ。

時の流れは残酷だ。

無慈悲に無関心に、止まることを知らずに進んでいく。


 津愚見の中に焦燥感が生まれていた。

 もう何回、少年法撤廃のための分科会に参加したことだろう。

 当初は手ごたえを感じていたが、今では暖簾を押すように手ごたえを感じなかった。

 なんとか細いコネを伝って、園木法務副大臣とつながることができた。

 次の法務大臣になる可能性が高い男だ。

 高学歴のキャリア官僚という経歴に漏れず、弱者に対する理解が薄い。過去にイジメを受けたことも、理不尽な経験もない、生粋の強者だ。

何度、被害者の想いや少年法の理不尽を伝えても、他人事のような態度。最近は、忙しい中、無駄な時間を取らせていると、苛立ちすらみせるようになっていた。

 夢がもう少しで掴めそうで、蜃気楼ように遠くにある。


「おい、津愚見。わかってるな? あんまり焦るなよ。性急に事を進めようとして、相手を怒らせでもしたら、すべてが水の泡だぞ。この世は理屈じゃないんだ。偉い人の感情で物事は動く」

 志を同じくする弁護士の笹原が忠告してきた。

「ああ、大丈夫だ。…そういや笹原。おまえには娘がいたな。可愛いか?」

「はぁ? なんでこのタイミングで? すんげえ可愛くて毎日トロトロになってるぜ」

「そうか。よく分かった」

「いや、おまえには娘の可愛さは理解できない。今度うちに来い。自慢してやる!」

「そのパターンには飽きた」



 分科会には、いつもと違うメンバーがいた。

 ウェーブのかかったショートヘアの若い女性だ。

「私の娘の茉莉花だ。T大の法学部の院生だが、人権団体『キズナ』の代表を務めている。少年犯罪の更生についても専門家顔負けの知識があるんだ。わっはっは」

 いつもは仏頂面の副大臣が、目尻の垂れ下がった表情で自慢する。

 嫌な、予感がした。


「では、少年犯罪における再犯率と更生内容について説明いたします」

 いつものように津愚見が少年法改正の必要性を訴える。

 だが、この日は違った。

「それは、あなたの感想ですよね?」

 園木茉莉花が食ってかかってきたのだ。

 嫌な予感は的中した。彼女は更生肯定派で死刑反対派の筆頭だったのだ。

「さすがは茉莉花だ。現役の弁護士を立派に論破している」

 副法務大臣が満足げに言った。揚げ足をとったり論点をズラしてくるだけで、ぜんぜん論破なんてされていないのだが、彼の目にはそうは映らなかったらしい。どうやら、この強者である副法務大臣の唯一の弱点が、茉莉花という愛娘のようだ。


「少年法の改正は厳罰を与えることが目的ではありません。犯罪をする前に、踏みとどまらせるために厳罰化が必要なんです」

「厳罰化をすれば未成年の犯罪が減るというエビデンスはあるんですか?」

「茉莉花ちゃん、最高!!」

 津愚見はぐらりと風景が歪むのを感じた。この茉莉花という女の中身のない反論を、徹底的にぶっ潰してやろうかという気持ちになる。

「津愚見、我慢しろ。今日は日が悪い」

 笹原が小声で忠告した。

 今日は…か。

 本当にそうだろうか? 副法務大臣が少年法改正について後ろ向きなのは、この娘がいるせいではないだろうか? しかも、こちらは数カ月に一度しか進言できないのに、娘ならば、いつでも進言することが可能だ。さらには、その娘を溺愛していると来ている。

 ここにきて、すべてが水の泡に帰そうとしていた。


「そういえば、津愚見先生は、凶悪な少年犯罪者は絶対に更生しないと考えられているそうですね?」

「極めて厳しいと思っております」

「それは、絶対に無理って意味ですよね?」

「誤解ですよ。言葉のまま受け取ってください」

「では津愚見先生は、金田翔平のことをどのようにお考えですか?」

 ガツンと頭を殴られたような気がした。

 全身の産毛が粟立った。

 なぜ、その名前が出てくるのか?


「先生のことは調べさせていただきました。殺人を犯した金田翔平の弁護をなされていましたよね? しかも、あなたが意味がないと言っている『家庭環境や漫画やゲームの影響で彼は犯罪をするに至った』と弁護なされています? 今の主張と矛盾していませんか?」

「人は成長するものです。私も弁護士として自慢できるほどではございませんが、成長したと思っております。そのときの弁護がきっかけで、私は少年法の改正が必要だと強く思ったわけです」

「津愚見先生が少年法に疑問をもたれたのは、検察時代だと聞いておりますが?」

 この女…。

どこまで知っている?

 津愚見先生は警戒を強めた。大学院生とはいえ、津愚見にとってはまだ子供だ。その割には準備が良すぎる。

何人か心当たりがあった。

敵対する輩の存在。

津愚見に金田の国選弁護人をするよう仕込んだ、あの男が絡んでいるのだろう。

もう20年近く経つというのに、まだ根に持っているのだ。その情熱を社会の為に使えば良いものを。

義憤ではなく私憤で、被害者たちの切なる願いを潰そうとしている。


「確かに疑問はもっていました。ですが、弁護士の仕事を真摯にこなしていく過程で、より理解を深めていったのです」

「なるほど、では最初に質問に戻りますね。津愚見先生は金田翔平のことをどう思っていらっしゃいますか? なんでも、今はプライベートでも交流があるとか?」

 津愚見は言葉に詰まった。

 嫌な空気がヒリヒリと内臓を溶かしていく。

 

自分の信念に間違いはない。

 故に揺らぐこともない。

 いつものように言ってやればいいのだ。

 クソガキは、ずっとクソガキのままだと。

 だが…

「どうしたんですか? 津愚見弁護士?」



「え? クビですか?」

 桃果はまじまじと津愚見の顔を見て言った。

「言い方は悪いがそんなところだ。急で申し訳ない。梶原さんに非があるわけじゃない。俺の都合だ。お詫びと言ってはなんだが、知り合いの弁護士事務所を紹介する。そこで今までどおり働いてくれ」


 夕方。家に戻った桃果は、解雇されたことを金田に伝えた。

「え? クビだって!? なんで?」

 金田は素っ頓狂な声をあげた。金田の肩には真愛が乗って遊んでいる。

「わからない。どうも昨日、分科会に出てから様子がおかしいの」

「ちょっと電話してみる」

 しばらくして津愚見は電話に出たが、どうも酒を飲んでいるみたいだった。喧騒がうるさくて、会話にならない。やはり様子が変だった。津愚見はいつも静かな高級店で酒を飲む。

「ちょっと会って話してくる」

 なんとか店の名前を聞き出した金田は、タクシーを走らせた。


 津愚見が飲んでいた店は、有名なもつ鍋の店だった。

 一応は壁で仕切られて個室になっていたが、隣にやけに騒がしい集団がいるようで、額を寄せないと声が聴きとれないレベルだ。

 そこには津愚見以外にも弁護士がいた。確か笹原といったはず。金田が津愚見の事務所を初めて訪ねた際、忘れた封筒を桃果が渡しに来た相手でもある。

「桃果から聞きました。解雇されたって。先生のことだから、何か理由があると思うんですが、教えていただけませんか?」

「おまえの所為だ! 馬鹿野郎!!」

 津愚見が珍しく呂律の回っていない声で言う。

「お、俺ですか?」

「なんで、更生なんかしやがったんだ! 馬鹿野郎!! クソガキのくせに俺の夢の邪魔をするんじゃねぇえ!!」

「え? どういう意味ですか!?」


「金田くん。俺から説明するよ」

 まだあまり酔いのまわっていない笹原が、津愚見に起こった出来事を金田に伝えた。

「俺の情報が洩れてるんですか?」

 金田は心臓を掴まれるような痛みを覚えた。不安で眩暈がする。

 もしも犯罪者だと周囲にバレたら、今の幸せはどうなるのだろう? 桃果は? 真愛は? 一度は覚悟したはずなのに、不意にやってきた恐怖に、頭が真っ白になった。

「その点は大丈夫だよ。向こうは更生肯定派だからね。君の情報が外に漏れる可能性は低い。だた最近の動向も知られていたから、尾行とかがついているのかもしれない」

「はぁ。それなら、まあいいですけど」

 不安は消えなかったが、金田にはどうすることもできないだろう。

「よくねえだろ! 馬鹿野郎!! なんでおまえはいつも、俺の邪魔をするんだ! クソガキなんだから、あの茉莉花って女をレイプしてぶっ殺してこい! そしたらブチ切れた副大臣が少年法を撤廃してくれるからよぉ!」

「おい津愚見。冗談でも言うな。今の発言はゲスの極みだぞ」

「俺は絶対にそんなことはしませんよ」

「黙れ、クソガキが! 真人間みたいなこと言いやがって!」


 こんな不格好な津愚見をこれ以上見たくはなかった。

 けれども、その要因の一端が自分にあると知って、金田は複雑な気持ちになっていた。

 津愚見はある意味、恩人だ。そして今は、おそらく友人でもある。

 そんな津愚見の夢の邪魔はしたくなかった。

「金田くん。君が悪いわけじゃないが、もう津愚見には会わないでいてほしい。今は大事な時期なんだ」

「…そう、ですね」

 ちらりと津愚見の横顔を見る。彼は無言でカシスオレンジを口にした。

 これは津愚見の意志でもあるのだ。

 桃果をクビにしたのが、何よりの証拠だろう。

 津愚見は自分との関係よりも、夢を選んだのだ。

 金田の中に、ぽっかりと大きな穴が空いた。

それは、男なら一度は経験する、夢へと突き進む為の、喪失だ。

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