第16話 犯罪の遺伝

 月曜日。津愚見法律事務所に、桃果の姿はなかった。

 ざわざわとした不安が、津愚見を襲った。

 まさか、と最悪の状況を想定する。

 すぐに桃果に電話した。

 長い呼び出し音が、焦燥感を煽ってくる。

 やがて、電話がつながった。


「梶原さん!? 無事なのか?」

「はい、先生。無断で休んですみません」

「無事なんだな?」

「はい。特には大丈夫です」

 津愚見はゆっくり息を吐いた。

 最悪の事態は避けられたらしい。


「わかった。なら、いい。今日は休暇ということで─」

「待ってください」

 電話を切る気配を感じたのか、桃果が制止してきた。

「夕方、終業後にお話をしたいんですが…」

「…わかった」

 津愚見は電話を切った。

 ふぅ~っと長い息を吐く。

 おそらく金田がすべてを告白したのだろう。出社していないと知ったときから、その予感はあった。

 その場合の最悪のケースは、逆上した金田に桃果が殺されているパターン。

 けれども杞憂だったみたいだ。



 夕方。事務員たちが帰社したタイミングで、桃果が津愚見の元へやってきた。

「今日はすみません。無断で休んでしまって」

「いや、状況は理解しているつもりだ」

「…先生は知ってらしたんですよね?」

「そうだ。と言いたいところだが、念のため、説明してほしい」

 認識に誤解があって、金田が伝えていない事実を伝えてしまっては元もこうもない。


 けれども、桃果の口から伝えられた内容は、津愚見が想定したものと同じだった。金田は逃げることなく、自分の罪に向き合ったのだ。

「本当なんですね?」

「そうだ。資料のコピーは俺が渡した」

「先生。私はどうしたらいいですか?」

「…何を迷っているかによる」

「正直、見損ないました。一緒にいるだけでも気持ち悪いと思いました。一瞬でもあんな男を好きになったことを後悔しました」

 津愚見は何も答えなかった。じっと、桃果を観察していた。


「…でも、ふと翔平との思い出を思い返してみて、どうしても別人にしか思えないんです! 本当にあの資料にあった金田翔平は、翔平なんですか?」

「そうだ」

「…私はずっと騙されていたんですか?」

「──いや」

 思わず、津愚見の口から否定の言葉が飛び出していた。

 自分でも驚いた津愚見は、とっさに自分の口を押さえた。

 けれどもすぐに平常心を取り戻し、言葉の続きを告げる。


「奴は確かに最低最悪の犯罪者だが、梶原さんを騙してはいなかった。君に嫌われるのが怖くて、黙っていただけだ」

 嘘は言っていないはずだ、と津愚見は自分の言葉を確かめた。

「…私の知っている翔平は、優しくて思いやりがあって、真面目で温厚で、決して人の悪口を言わないような好青年です」

「……」

「今の翔平を、どう判断したらいいですか? 先生はどう思います?」

「…俺が何の活動をしているかは知っているな?」

「少年法の改正ですよね? クソガキは更生なんてしない。社会の害悪でしかない。…翔平はどうですか? 更生していますか?」


「……」

「先生!」

「…さあな」

 津愚見はうめくように答えた。これは津愚見にできる最大限の譲歩でもあった。

「もしも更生しているとしたら、私はどうしたらいいですか?」

 その質問は、もはや桃果の心が、ある決意を示しているように思えた。


「奴のことは忘れるべきだ」

「それはそうかもしれませんが…、更生した人間を受け入れるのは、私たちの義務じゃないでしょうか?」

「違うな。社会が更生した人間を受け入れるのは、自分の身を守るためだ」

「どういう意味です?」

「刑罰の基本はハムラビ法典だ」

「目には目を、ってやつですよね?」

「軽い罪には軽い罰を、重い罪には重い罰を。その考えに理不尽さはない。当然の思想だ。その考えだと軽い罪をした者は社会に返す必要がある。だが、前科があるせいで就職できなければどうなる?」


「お金を得るために犯罪をすると思います」

「そうだ。死ぬよりもマシだからな。刑務所に入りたくて再犯する連中も多い。更生肯定派は刑務所の暮らしはつらいと決めてかかるが、実際はそれよりもつらい生活を送っている者がいるということだ。その意味で、犯罪者が迫害を受けるのは自業自得だが、社会の安全を守るために受け入れざる得ないというわけだ。だが今は、この前提が忘れ去られ、金田のような殺人犯やレイプ魔にも同じ考えが適用されている。金が目的の犯罪とは大きく特性が違うのに、だ」

「性犯罪の再犯率は高いっていいますもんね」

「実際はドラッグ絡みも多いんだが、少なくとも『レイプ魔の性欲を受け入れましょう』なんて言えば、頭がおかしい発言だ」

「そりゃそうですよ」


「だが、更生肯定派は、レイプ犯も刑罰を終えたら社会に戻すように主張している」

「……」

「殺人犯もそうだ。奴らは俺たちとは似て非なる生き物だ。受け入れた結果、殺されでもしたら目も当てられない」

「翔平もそうだと?」

「もしもヨリを戻すつもりなら、真っ先に殺されるのは君だぞ。猛獣は所詮、猛獣でしかない」

 津愚見の考えに嘘偽りはない。暴力などの粗暴犯と出所後同棲していた女が、粗暴犯に暴力を振るわれる事例を何度も見てきた。身近にいる人間は危険なのだ。


「…大学のときに聞いたことがあります。動物園でクマやトラが人を襲わないのは、お腹いっぱいだからって。誰かがずっとお腹をいっぱいにしてあげてれば、猛獣でも人を襲わないんじゃないですか?」

「梶原さんはもっとニュースを見た方がいい。動物園で従業員が食い殺されているケースはいくつかある。数が少ないのは、決して出会わないように、仕切りなどで管理しているからだ。その考えは幻想だ」

「でも──。私には翔平が悪い人には思えないんです。休みの間、ずっと悩んでました。何度も事件の資料を見て、絶対に無理って思って…。でも、私の知っている翔平は別人なんです! 何か理由があるんじゃないですか? 家庭環境が悪かったとか? 犯罪者になった理由が!」

「家庭環境の所為じゃない。金田翔平の母親は親としてまっとうな人間だった。少なくとも俺はそう思っている。──問題は父親のほうだ」


「父親の教育がおかしかったんですか?」

「いや、違う。俺が今から言うことは現代では差別となる。だが、あえて言ってやる。遺伝だよ」

「遺伝? それって…」

「金田の父親は性犯罪者だ。まだ中学生だった金田の母親を拉致してレイプした。そのときの子供が金田翔平だ」

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