第31話 七週目③
自分で言いながら、あれ、と思う。町田君も首をかしげる。
「なにを話したんだっけ? よく覚えてないな」
「たしか、タミさんっていう名前の三毛猫が家にいて、町田君によく懐いているって話だったような?」
「タミさん、ね」
愛猫がさんづけで呼ばれたせいか、気持ちがほぐれたように見える。
「うん、そうだね。詳しく覚えてないけど、そう言われてみると、したかもしれない。どんなこと話したんだっけ?」
「タミさんが、すごく頭のいい猫さんだって言ってた気がする」
「そんなこと言ってたのか、僕は。まあ、僕の言っていることを実は全部わかってるんじゃないかって思うことはよくあったよ。猫を飼っていない人からすると疑わしいだろうけど、猫って本当に、いかにも人の話を聞いてるように見えるんだ。仮に誰かが、就職や恋愛の話とか、職場の人間関係の相談を猫にしていたとしても、僕は驚かないな」
「ふうん。町田君も、そうやってタミさんに色々話してたの?」
「まあ、そうだね、数学の問題の解き方についてとか、歴史の年号の暗記方法についてとか、よく相談してたよ」
「そうすると、タミさんがいい知恵を貸してくれるんだ」
町田君は「馬鹿にしてるでしょう」と苦笑した。
「それは冗談にしても、僕が勉強を怠けないように、いつも後ろでじっと見守ってくれてた。タミに厳しく監視されてたから、勉強をさぼれなかった。タイマーかけて、『タミ、これから一時間勉強するからね』っていうと、タミはずっと僕の後ろにいたんだ。でも、どうやらタイマーの音を聞くまでは寝てたらしいんだよね。一度、タイマーが鳴る前にトイレに行きたくなって後ろを振り向いたら、すやすや寝てた」
いかにもあの猫らしいエピソードに、笑いがこぼれる。
「こんな話を安藤さんにしてたんだっけ?」
「多分ね」
少しずつ、思い出してきた。やはり私は猫の話を聞いた覚えがあった。
私はそのときタミさんのことなんて知らなかったし、動物に興味はなかった。クラシック音楽に興味がない人は、ベートーベンの交響曲について延々と述べられていても、あまり意味はわからない。そんな風に、聞いてはいたけれど、内容はほとんど頭に入っていなかったと思う。でも、私は見たこともない猫の話を延々と聞いていた。訳の分からなかった数学の授業を義務で聞くように、彼が猫の話をするのを真剣に聞いていた。なんでそんな義務を自分に課していたのか。今更になってその理由に気づきつつある。
そして私は高校生のころ、密かにこうして、みんなでではなく二人だけで喫茶店へ行くことに憧れていた。気づいたらコーヒーを十杯お替りしてしまうくらい、ずっと話し続けることを夢見ていた。今ここにいるのも本人ではなくNo2だとわかっていながらも、本物ではないのがうそのような気がする。
町田くんが加奈子さんと交際することもなくずっと一人でいたら、私は、高校を卒業するときに、なにか言ったりしたのだろうか。違う大学に通うようになってからも仲良くしたいね、というような話をして、それからもだらだらとあのころのような間柄が続いたのか、それとももう一歩踏み込んだような、そんな間柄になるような奇遇な出来事が起こるなど、そんな世界もあったのだろうか。
気持ちが通じたのではないか、と思った瞬間があった。多分一度だけでなく、幾度となく、そんな瞬間があったのだ。そんなことがなければ、今こうして悩む必要はなかったのだろうか。
お互い世間話を続けるのは昔よりも上手になっていて、話は続いた。もっと他に話さなければいけないことがあるような気もして、しかしそれが見えなかった。話しながら、それはなんなのだろうとずっと考え続けていた。
「そういえば、友達の猫は元気にしてるの?」
なんの猫だ? と思ったが、すぐに自分で作った話のことを思い出す。
「最近あんまり元気がなくて」
「そうか、寒いの嫌いだからね、猫は」
「暖房入れたら元気になってくれるかな?」
「毛布を入れてあげたらいいかもよ」
私たちは、結局こういう会話を通してしか、歩み寄って行く術はないのだ。内容云々ではなく、話をするという行為を通して、近づき、様子を探って行くしかない。
「町田君は、かくれんぼするときにどういうところに隠れるのが好きだった?」
「なにそれ、心理テスト?」
「まあ、そんな感じ」
「僕は、どちらかというと、かくれんぼはあまり好きじゃなかったな」
一瞬彼の表情が曇った気がした。
「ずっと隠れてて、気づいたら忘れられてて、出て行ったらみんなが違う遊びをしていたことがあったんだよな。それ以来虚しくなってね」
「ふうん、でもさ、友達の子供にせがまれたりして、どうしてもしないといけないとしたら、どこに隠れたい?」
町田君はしばらく考えてから、
「そうだなあ、弟がかくれんぼ好きで、親戚が遊びに来たときなんかに一緒にやらされてたけど……僕は乗り気じゃなかったから、鬼の人の背後にいたりして、すぐに見つかってやったよ。『真面目にやってよ』って怒られたけど」
町田君は軽く微笑むと、カフェオレを飲み干した。
「この後待ち合わせがあるんだ。悪いけど、僕はそろそろ」
「じゃあ、私も出る」
会計をすませ、外に出た。駅の方向へ向かい、彼は改札前へ行き、私は本屋へと向かった。
駅ビルの二階にある本屋からは改札がよく見えた。特に狙っていたわけではないのだけれど、ちょうど視界に町田君が入っている。誰と待ち合わせしているのかな、そう思った次の瞬間、相手が現れた。
見なければよかった、と思う。美人、というほどではないけれど、身だしなみにはけっこう気を使っている人だった。メガネの下もきっとしっかりアイメークをしているのだろう。ストレートパーマをかけたセミロングの髪が、いかにも清楚ですといわんばかりだ。、ぴったりではないにせよ、それなりに体の線がわかるワンピースを着ている。落ち着いていて派手さはないけど、隙もない。
一定以上ずれることのない人、とでも言うのだろうか。私の苦手なタイプだ。飲み会で盛り上がっていても、「明日用事があるから」と時間になったらきっちり帰っていきそうだ。徹夜で本を読んでしまい、一限に出られなくなるようなことはまずなさそうだ。常にいい子でいられて、本当の自分を出さざるを得ないラインまで追い詰められることがない、要領の良い人に見える。加奈子さんと同じ類の空気を感じる。
こういった状況では、仮に普段の私が好ましく思うような人が現れたとしても、好意的には見られないだろうけど、直感的に、なんだか違うと思った。二人がどういう関係なのかよくわからないけど、休日に待ち合わせて会うくらいだから、それなりに親しくて、今後も仲を深める予定だという可能性が高い。少なくとも、私たちは二人で約束して出かけたりすることはなかったし、今後もない。
こういう場面では、誰しも一時的に普段よりも物の見方が厳しくなるのが常である。落ち着きたくて、寒い中ではあるけれど、一駅分歩くことにする。
なぜ、私なのだろう。私ではなく、あの人を巻き込めばよかったのに、と思う。最近、この一連の出来事が終わったら、私はもう彼と関わることはないような気がしている。だから私なのか。秘密を持ったまま生きるのが好きな彼は、秘密を知られてしまった人とはもう関わる気になれない。だから敢えて、今後の人生に関わりがなさそうな私が選ばれたのだろうか。尋ねられる人も答えてくれる人もいないまま、ただ目の前で枯葉が舞った。
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