第30話 七週目②
笑って誤魔化そうとしつつも、私はかなり動揺していた。私だけが覚えていると思っていた過去の出来事を、彼女も未だに覚えていた。自分ではもっとさり気なく避けたつもりでいたのに、「堂々と無視した」などと思われていたとは。確かに知っている人なのだから、いくら驚いたとはいえ、会釈くらいするのが当然だったのかもしれないが。
「涼子先輩は、町田先輩のどこが好きなんですか?」
今日は本当にびっくりするようなことばかり言うな、この人は。
「いいじゃないですか、この際話しちゃいましょうよ。もうこんな機会ないですよ」
「ううん、なんだろう、最初はとっつき難そうな人だなあって思ってたけど、なんとなく話してるうちに、思ったよりいい人じゃないかって気がしてきたような。なんか、いつもどこか危うくて、気になって……。気のせいかもしれないけど、私のことを特別だって思ってるんじゃないかって、錯覚を抱かざるを得ないようことが……。あと、猫の話をしてくれたり、うーん、やっぱよくわかんない」
「私、猫の話なんて聞いたことありませんから。やっぱり涼子先輩のほうが親しかったんじゃないですか」
「でも、町田君は加奈子さんを選んだんでしょう?」
「それは私がはっきり好きだって言ったからですよ。あの人は、そういうの苦手なんです。家族から可愛がられないで育ったから、他人から関心を持たれると、断れないんですよ」
「へえ、家族から可愛がられてなかったの?」
「はっきり言ってたわけじゃないですけどね。肝心なことはなにも言ってくれないので、こっちはただ、こうなのかなって推測することしかできないんですよ。それに対しても、結局明確な意思表示はしてくれないし。そのときの反応を見てイエスかノーか察する、みたいなことばかりで」
そういえばNo2も、「あなたが訊かなかったから言わなかったんです」というようなことを、当然のような顔して言っていた。
ふと、加奈子さんのバッグが揺れた。彼女は、ごめんねと言いながら、バッグの中から白い猫を取り出す。以前大沢さんに写真を見せてもらった、あの可愛い猫にそっくりだ。加奈子さんは、すっかり言葉を失っている私にそっと猫を向けて、可愛いでしょう? と微笑んだ。
「涼子先輩、あのときなんであんなことしたんですか?」
猫に対しての混乱と、彼女の言葉に対しての混乱で、情報処理が追いつかなくなる。
「あんなことがなければ、今ごろはもっと違う展開になっていたのでは……」
「あんなことって、なんのこと?」
加奈子さんは、白猫に向かって「なんでしょうねえ」と囁いている。どうしよう、段々怖くなってきた……。
電話の着信音に、はっと飛び起きる。発信者は、加奈子さんだった。
「もしもし」
――もしもし。あの、すみませんけど、今日の午後、突然主人のお母様が来られることになってしまって、申し訳ないんですけど……
「ああ、大丈夫。全然気にしないで。連絡ありがとう」
電話を切り、二度寝していたことに気がついた。全部夢だった。しかし、なんとも恐ろしい夢だった。夢だったことに感謝して、すぐさま起き上がった。
日曜日の朝になっても、当然のように猫は現れない。他にすることもないので、以前通っていた高校を訪ねてみることにした。
行こうと思えば、そこには電車で一時間半、徒歩二十分程度でたどり着いた。駅から学校までの道のりにも、さほど変化はない。十年という月日はなんだったのか。
高校にたどり着くと、一般人は進入禁止になっていた。用事があれば入ってもいいようだけど、目的などを記載する際に“懐古のため”と書くのも気まずいので、塀の周りをぐるりと回るにとどめた。十数分もすれば回れてしまう外周、私たちの過ごしていた空間のなんと狭かったことか。三年足らずしかいなかったわけだけど、今では、どんな人たちがどんな暮らしをしているのだろう。
紅葉の季節は過ぎ去り、もはや、落葉と格闘する日々になりつつある。暖房が入るのは十二月からだから、この時期は寒さに震えていたことを思い出す。
休日ではあるけど、部活のためなのか、相変わらずそれなりの生徒たちが出入りしている。
かつて、この建物のどこかで、私がなにかを見過ごしたらしい。疎遠にならざるを得なかったのは、彼に恋人ができたからだけではなかったのかもしれない。
あのとき、この場所で、同じときを過ごしていたはずなのだけど、あの人は当時の私にとってなんだったのか、未だによくわからない。なにが原因で、私はこうして今あの人のことを探しているのか。
帰り道、卒業した直後にオープンしたドーナツ屋に入った。この店が開店準備をしていたころ、ここに入れるようになるころには、もう自分たちはこの町にはいないのだと思いながら、日々出来上がっていく店を眺めた。そんな店も今では十年が経過して、新しそうな雰囲気は、もはやどこにもない。
コーヒーと、オールドファッションとチュロスを頼むと、贅沢をしているようで、うきうきしてくる。
席を探していると、誰かの視線を感じ、そちらを見ると町田君がいた。
一瞬タイムスリップしたのかと思ったけど、どう見ても相手は高校生ではない。なにが起こるのかと思いながら、テーブルに近づくと、自然と向かいに座ることになった。
「珍しいね」
「うん、最近なんだか無性に甘い物が食べたくてね」
町田君のトレイにはドーナツが二つ載っているが、既に何個か食べた形跡があった。
「それもあるけど、住んでるとこ、この近くじゃないでしょう?」
「安藤さんこそ、けっこう離れてるよね?」
「ちょっと探し物があってね」
「なにを探してるの?」
「本当の……じゃなくて、ええと」
「無理に答えなくていいよ」
これもまた夢の続きなのだろうか。一瞬、本当のことを言いそうになってしまった。しかし、本当のことはなかなか言えない場合が多い。どうして言えないのだろう。言ってしまったが最後、色々問題が浮上しそうな気配が濃厚だからではないか。なんで色々な問題が浮上するのか。そもそも、なんで隠さないといけないことがあるのか。みんなおおっぴらにしてしまって、なにがいけないのだろう。そう言う私も、日々様々なことを隠しながら生きているのだが。
「町田君ってさ、いつもなにを隠しながら生きてるの?」
さり気なく尋ねるつもりだったのに、上手くいかない。彼は、黙って首を傾げる。
「なにを隠してるって言われてもな……、そんなになにもかもさらけ出すもんなの? 他の人は。安藤さんだって、そうじゃないだろう?」
「隠さないといけないことって、表に出すと日々の平穏な生活が壊されるから、隠されてるんだよね、きっと。そのことを口に出したり誰かに勘づかれたりすると、もう元には戻れないって、そう思うから隠すんだよね」
「急にどうしたの? 本の読み過ぎ?」
「ううん、夢のみ過ぎ」
町田君は店員さんを呼ぶと、カフェオレのお替りを頼んだ。
「でも、それって自分がそう思ってるだけで、実際には大したことじゃないかもよ?」
「自分がそう思ってたら、大したことなんじゃないの?」
これはNo2が言っていることなのか、それとも本人の意見なのか。
しかし、夢の中で加奈子さんが言っていたように、この人は高校生のころだって、私の前では言いたいことをそれなりに言っていたように思う。このひとことは余計だったんじゃないかと思うことがあったり、ほかの人には言わないようなことをなぜか私だけが言われ、私にだけきつく当たっているのだと腹立たしく思ったこともあれば、なぜか嬉しく感じられたこともあった。そうかと思うと、「え、そんなことまで気にしてくれるの?」とびっくりするようなことまで心配してくれることもあった。相手が私だからそうしてくれたのか、単に同じサークルの仲間であったがゆえに近しい人に分類されていたからなのかは、けっきょくのところわからなかったのだが。
しかし、昔の記憶なんてもう感覚程度にしか残っていない。あんたの記憶違いでしょうと言われれば、否定はできない。
「高校生のとき、猫の話をしてくれたよね」
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