第32話 七週目④

 気持ちが通じたのではないかと思った瞬間があったなんて、きっと私の勘違いだったのだろう。気持ちが通じたことなんてなかったし、もしかすると特別な人かもと思ったのもただの幻想だったのだ。同じ部活に入っていただけで、あとはなんら縁のない人だった、そんなこと、初めからわかっていた。なにかの間違いで猫が来てしまったから、なんだか誤解してしまっただけで、我々は今までも、これからも、真っ赤な他人だ。それ以上のなにものでもないのだ。

 翌日の月曜日も、また休日である。普段だったら休みの日はあっという間に終わってしまうのに、いつになく時間の流れが遅い。考えてばかりいないで、動いていたかった。雑用でもなんでも構わないから、歯車の一部としてなにも考えずにぐるぐる回っていたかった。一人でいるときは、否が応でも考えてしまう。なにが正しいのか、なにをすべきなのか。どこに答えがあるのか、到底解ける気がしない。

 町田君は、むしろ見つけてもらいたくないのではないか。だから、私のようにカンも悪いし、すぐにうっかりミスをしそうな人を選んだのだ。そうして、人選ミスは棚に上げて、「安藤さんが間違えたからいけないんだよ。仕方ないよね」などと言うつもりなのではないか。ああ、間違えた、私を選んだのは町田君ではなく猫だったか。

 地に足がつかないまま、時間だけが過ぎていき、そうこうしているうちに、木曜日になった。

 猫はいつ現れるのか。さっさとお風呂に入り、ご飯を食べながら部屋の中をきょろきょろ見回す。現れる気配はない。

 食事を終え、食器を片づけると、改めてなんの質問をしようか考えてみる。彼が一番隠れていそうなのはどんな扉なのか、今更ながらあれは全部普通に私が夢を見ているだけなのではないか。

 町田君は、本当は私のことをどう思っていたのだろうか、などという質問もないわけではなかった。しかし、そんなことは訊いてみたところで、もはや今更どうでもいいだろう。結局のところ、なにを訊くべきなのかよくわからない。こういうのは一人で考え込んでも、まず結論は出ない。話しているうちに、自然とわき出てくる質問をするしかないのだ。

 猫が初めて現れたのは何時ごろだったか。外食して、お風呂から上がって、ビールを飲むのにちょうどよい時間帯、九時前後だった気がする。

 果たして、九時を少し過ぎたころ、猫は現れた。

――お久しぶりです。

 気のせいか、さらに影が薄くなったようだ。とは言っても、もともと影はない。輪郭が薄くなったとでも言うべきか。

「タミさん、お元気でしたか?」

――タミの心配などよいのです。さあ、タミの力が残っているうちに、質問をして下さい。

「町田君は……、本当に自分のことを見つけてほしいと思っているのでしょうか」

 猫は、身じろぎもせずに、前を見据えている。

――本当は見つけて欲しくないと思っていながら、あの者やタミをこのように使って遊んでいるのだとしたら……、あなたはお坊ちゃまがそんな人だとお思いなのですか?

「いえ、そんなことはないんですけど、私がみつけても、本当にうれしいのかなって、今更ですけど、誰かほかの人に頼んだほうがいいのでは……」

――あなたはどう思っているのですか?

「え? 私?」

――あなたは、お坊ちゃまを見つけたいと、本気で思っているのですか? それとも、もうどうでもよくなったのでしょうか。

「そりゃ、見つかったらいいなとは思いますけど、町田君ががっかりしないかなって。なんだ、安藤さんか、ほかの人が来ると思ってたのに、なんて言われたりしても、ねえ」

 猫は黙ったままでいる。

「だって、この間見たんですよ。彼女みたいな人と一緒に歩いてて。高校のときの彼女と似たタイプの人でした。つきあってるのかどうかわかんないけど、あれ、絶対、町田君はああいう人のほうが好みなんですよ。どうせ私なんて……」

 最後まで言い切る前に、なぜか泣き出してしまった。

 声を出して泣きながら、最近あんまり泣いたことなかったな、などと思った。猫に弱みを見せているような気恥しさもありながら、そんなの今更という気もしつつ、町田君なんかのためにこんなに泣いていることが悔しくもある。しかし今は、とにかく泣くしかないらしい。自分でもびっくりするくらい長いこと、私は一人で泣き続けた。猫はなにも言わず、じっとそこで私を見ていた。

 ようやく気持ちが収まってきたので、洗面台で顔を洗ってきてから、また同じところに座り直す。

「今更ですけど、なんで私なんですか? タミさんの人選ミスなんじゃないですか?」

――ゲームには制限時間があります。

 猫は、すかさず話を反らす。

――私たちは、永遠に遊んでいるわけにはいかないのです。あなたがお坊ちゃまを見つけられなければ、それこそ終えるタイミングを逸したお坊ちゃまは、永遠に戻って来られないかもしれないのです。

「そもそも、こんなこと、なんのためにやってるんですか?」

 途端に、猫の影がぐーんと薄くなる。

――ではまた明日。

 最後の「た」が聞こえるか聞こえないかのタイミングで、猫はすーっと消えてしまった。

 質問に答えてもらえないまま、大した話もできず、時計を見ると二十分が経過していた。気のせいか、猫の話し方や間の取り方は、かなり遅くなっていた。やはり相当パワーがなくなってきているのだろう。

 時計はまだ九時半を指していたが、疲労がたまっているのかすぐに眠りについた。しかし、浅い眠りだったようで、何度も寝たり起きたりを繰り返した。そろそろ本当に起きていいかな、と時計を見てもまだ四時半だった。今起きると日中仕事ができなくなるので、だましだまし寝たり起きたりを繰り返し、出勤する直前まで布団の中でうだうだしていた。

 昼休み、大沢さんは鼻歌でも歌い出しそうな顔で、海の写真が表紙のガイドブックを見ていた。

「旅行ですか?」

「行くわけじゃないの、見てるだけ。猫もまだ小さいし」

「猫、元気にしてますか?」

「元気だよ。安藤さんちの猫は?」

「実は、そろそろ返さないといけないんです」

 大沢さんは「大丈夫?」と言って私を見る。

「やっぱり、けっこうな期間一緒にいたから、いなくなると思うと寂しいですよね」

 それ以上なにか言うと動揺しそうで、お弁当を食べるのに夢中になるふりをする。

 私はそんなに猫と別れるのが辛いのだろうか。それとも、町田君を見つけられないかもしれないというプレッシャーに負けそうなだけなのか。

「安藤さん、疲れてるよね? 午後、帰った方がいいんじゃない?」

「でも、休んだら給料減っちゃうんで」

 大沢さんは心配そうな顔をしながらも、それ以上なにも言わなかった。

 寝たのか寝ていないのかよくわからない状態なので、体を動かすとふらふらする。しかし、家に帰ってじっとしていても、不安に押しつぶされそうになる。適度に体を動かし、考えすぎないようにするしかない。体がめまぐるしく動いていれば、心の暴走はそれなりに抑えられる。午後も、ふらふらしてはいたものの、なんとか時間まで勤め上げた。

 とうとう金曜日の夜になった。

 猫は、出て来ない。向こうの世界で私が来るのを待っているのだろう。ろくに寝ていないので、すーっと眠れると思っていたのに、逆に疲れすぎて眠れなくなっている。早く寝ないと、と思えば思うほど、眠りは遠ざかって行く。

 時計は十時五十分を指している。いつもであればとっくに向こうへ行っている時間帯だ。もし、今日このまま寝つけなかったらどうなるのだろう。猫やNo2、そして町田君にも会えないまま、いつのまにか全部終わってときは過ぎていくのだろうか。その方が返っていいのだろうか。私が無理して頑張ってめちゃくちゃにするよりも、「あの人、来ないね」となれば、それはそれで新たな解決法が出てくるのではないか。

 私はどこかで逃げたいと思っているのだろうか? だから今日は眠くならないのか。眠りがやってきてくれないのは、私が心の底から眠りを望んでいないから……今は、そんな難しいこと考えている場合ではなかった。とにかく、なにがなんでも寝なくてはいけない。

 それが良い方法かどうかはわからなかったが、以前服用していた睡眠薬を一錠取り出すと、口に入れて、一思いに飲み込んだ。

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