第21話 五週目②
ある日書庫へ向かう途中で、大沢さんのスカートに紙屑のようなものがついているのが目に入った。「ゴミがついてますよ」と呼びかけ、
「不思議な形の紙屑ですね。なんかのパーツですか?」
と尋ねると、大沢さんは顔をしかめた。
「これ、知らないの?」
「すみません、私世間の流行に疎くて」
「猫トイレの砂だよ」
そう言い残すと、彼女はカウンターへと去っていった。
私が猫を飼っていると嘘をついてなにかメリットがあるわけではないので、単に不思議に思っているだけなのだろうけど、すべての人が猫のトイレとしてまったく同じ製品を使っているわけではないことを知りつつも、彼女の頭の中では、大量のクエスチョンマークが回っていそうだった。
そもそも、あの存在のことを猫と呼んでしまったのが間違いだったのだろうか。幽霊、というカテゴリーで考えていたほうがよかったのかもしれない。外見は猫だけど、餌も食べなければ排泄もしないし、触れられもしないのに憎まれ口はたたく……。そして冷静に考えてみれば、あの猫が幽霊として存在していると証明してくれるものはなにもない。
疲れ切って手遅れになる前に、昔のことを、そろそろ真面目に思い出してみるべきなのか。なにせ、穴を掘って埋めてしまったので、最も重要な部分に到達できるかどうかはわからないけど、端っこを掠るくらいはできるかもしれない。
今ではすっかりそんなことはしなくなってしまったけど、当時は、私たちはそれなりにまじめに原稿を書いていた。年に四回ほど締め切りを設け、冊子にまとめて何十部か刷って発行するというのが我が部の活動だった。自分の言葉を発信したいと思いながらも、自分の世界に踏み込まれるのは嫌だったのか、暗黙の了解でそれぞれが書いた物について意見を述べ合うことはなかった。今のようにブログやSNSなどもなく、自分の書いた文章を発表する機会は、紙に刷って配るときくらいだった。気軽に「いいね」のボタンを押したり、コメントを書き込んだり、そこからなにかが発展していくような仕組みはなかった。
彼が好んで書いていたものは、当時流行っていたアニメかなにかのパロディで、まったく面白くなかった。一応一通り読んだけど、特に感想も浮かばなかった。敢えて言うなら、読んでみても彼がどんな人なのかまるで伝わってこない文章だったというくらいだ。「文章を書くのは面白そうだけど、オリジナルの話を創れるほどアイデアがないから」などと言い訳していた気がするけれど、今から思えば、自分を見せないよう、あえてオリジナルなことを書かないようにしていたのではないかと思わなくもない。
昼休み、食事を終え、お茶を飲みながら携帯電話をいじる。宛先に町田君を入れて、“昼下がり、まだ持ってる?”と入力する。『昼下がり』というのは、高校のころ、文芸で出していた部誌のことだ。こんなメールを突然打ったらどう思われるだろうかと打ってみてから考えていると、大沢さんに声をかけられ、思わず送信ボタンを押してしまった。
「あ、ごめん、なんかやってた?」
「いえ、大丈夫です」
「これ、あげる」
なぜか、チロルチョコの詰め合わせをもらってしまった。
なんて素晴らしい先輩なのだろう。極上の笑顔でお礼を言い、さっそく一個頬張る。打ったメールのことなどすっかり忘れ、全力でチロルチョコを味わっていると、
――持ってるけど。安藤さんは持ってないの?
なんと、返事がきてしまった。
――多分、もうないと思う。
間もなく昼休みが終わり、それ以上の返信はなかった。
本を棚に戻しつつ、先ほどのやりとりが気になってくる。彼は一人暮らしをしていて、しかも何度か引っ越しを経験しているのに、昼下がりがまだ手元にあるらしい。そんな人に対して軽々しく「もうない」などと答えてしまってよかったのだろうか。自分は大切にしていた物を、共に時を過ごした仲間は既に捨てていた。特に意見はしないだろうけど、快くも思わないはずだ。
そうやって全部抱え込んで、「僕が我慢すればいいんだ」などと言いながら今までやってきたのだろか。その気持ちはわからないでもない。しかし、そんなスタンスでこれからもずっとやっていけるほど、世の中察しのいい人ばかりではない。いい加減気づいてよ、と言いたくもなる。
もしくは、私はああやって、「私にとってもう昼下がりはそんなに必要じゃないから」とアピールすることによって、なにか波紋を投げかけたい、もしくは優位に立ちたいとでも思っていたのだろうか。そんなことのために、敢えてあの人を選んで「昼下がり持ってる?」などと尋ねてみたのだろうか。送信ボタンを押してしまったのは、大沢さんに驚かされたからだった。しかし、ボタンさえ押せば送信できる状態にまで作り上げたのは私だった。
真っ直ぐ帰る気になれず、パン屋に寄ってコーヒーとパンで夕食をすませながら、現状をノートに書き出してみることにした。私の家には特に机らしきものはない。長年の学校教育で培ってきた習性なのか、考え事をするには、やはり椅子と机があるほうがその気になる。
甘く煮た栗と生クリームの入ったデニッシュを食べながら、なにから書けばいいか思いを巡らせる。私がもし、今回のこと、猫やNo2のことを書きとめずに何年か経ったら、全部忘れてしまうのだろうか。以前猫は、「夢をみても一緒にその中で過ごしたことを共有した者がいなければ、ただの夢だと思って忘れてしまうと」いう趣旨のことを言っていた。当然ながら、「こんなことがあったんだよね」と誰かに話してみたところで、信じる人などいるはずがない。だったら、これはきっちり書き留めておくべきなのか、もしくは来たるべき日が来てすべてに片がつけば、きれいさっぱり忘れたいと思うのだろうか。
パンを食べ終えて、手帳を取り出す。最近、筆箱などわざわざ持ち歩かないので、書く用事にはもっぱら手帳に差してあるペンを使っている。しかし、こんなときに限ってペンはない。仕事中、珍しくメモを取る場面があってそのまま机の上に置いて来てしまったのだ。書くかどうか迷う前に、初めから、今日ここで今までのことを書き起こすという選択肢はなかったのだった。
自分の意思で書かないことを決めたのと、他の要因(結局自分のせいだとしても)で書けないのとでは思いが違う。これも、選んだものが間違っていたということになるのか。
今日ではなく、明日このパン屋に寄ることにしていたら、書けたのだろうか。もしくは昼間、メモを取るほどの用事ではないと暗記するに任せていたら、今ペンがないという状況は起こらなかったのだろうか。
もし、なにかが違っていたら。その時々で、選ぶ扉が少しずつ違ったのなら、私の迷路とあの人の迷路とが一時的にでもつながることもあったのだろうか。もし横着せずに、その時必要だと思うアイテムをきっちり手に入れていたら、話すべき人と話をしていたら……、しかし、今となってはなにがすべきことだったのかなんてわからない。コーヒーを飲み干し、店を後にした。
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