第20話 五週目①
いつにも増して、疲労感が半端ではない土曜日の朝。カーテン越しの日差しがいつもの七時ごろのそれと比べてやたらと明るく、そろそろ九時ごろだろうかと思って布団から出ると、十時半だった。
フルタイムで働いていたころだったら珍しいことではなかったけれど、この体たらくはなんだろう。猫が、ようやく起きた私を、呆れたような顔で見ていた。
「……昨日はお疲れ様でした」
――あなた、疲れてますね。外へ行ってリフレッシュでもして来てはいかがです。
「そんなひま、ありません……」
特になにもすることのない私は、周りから見たら、ひまで仕方ないように見えるのかもしれない。しかし、私は私なりに、既にはち切れそうなのだ。昨日だって、なんの収穫もなかったどころか、貴重なチャンスをまた一つ失ってしまった。
――屋外でリフレッシュするひまがなければ、室内でしたらいかがですか。ほら、あれらの本は、あなたがリフレッシュするために持ってきたものでしょう。
そう言って、床に置かれたエコバックを指す。そこには、とっくの昔に返却期限が切れたシリーズものミステリー、全五巻が入っていた。
「ええ! あれ職場で借りた本なんですよ。信じらんない……」
――過ぎたことを悔やんでも仕方ありません。あれらの本でも読んで、しばし現実の世界のことを忘れてみてはどうでしょう。
私が忘れたいのは、現実ではなくむしろ夢の世界のような気がするのだが、猫に言っても仕方がない。
鏡を見ると、顔の輪郭がちょっとふっくらしている。疲れると、私は痩せるのではなく浮腫んで太く見えるタイプなのだ。そういうわけで、疲れていてもあまり気づいてもらえないことが多いのに、猫はよく気づいたものだ。
「私が疲れてるの、よくわかりましたね」
――だってあなた、生気が感じられませんもの。猫は言葉がわからない分、気配に敏感なのです。
「じゃあ、誰かがうそついていてもわかるんですか?」
――ええ、もちろん。だってあなた、猫として生きている間は、言葉自体ははっきり理解できなかったものですからね。その人がなにを思っているかは、結局のところ様子を窺って判断するしかなかったわけですから。
「じゃあ、No2がうそを言っているかどうかもわかるんですか?」
――珍しく話が早いじゃないですか。
猫は満足気だ。
――そう、タミとあなたとが一緒にいれば、あの者はあなたにうそをつきにくいのです。なにせ、タミは言葉の意味はよく理解しないまでも、嘘をついているかどうかはすぐにわかりますから。
「昨日監禁されていた、というのは本当のことですか?」
――真っ赤な嘘です。あのときタミは、あなたの目につかないところに誘導されて、好物だったキャットフードを食べていました。
「食料はいらないのではなかったでしたっけ?」
――肉体を維持するためには必要ありませんが、目の前にあれば食べたくなってしまうのが、猫というものなのです。
とりあえず頷こうとするが、ため息が出ただけだった。
――とにかくあなたは、この週末は一切のことを忘れて、リフレッシュに励んで下さい。
「わかりました。そうしてみます」
口に出してみると、全力で息抜きしたくなってきた。
準備をして外に出ると、肌寒い空気が心地好い。
これらのボリュームは本気を出せば二日間で読み切れるだろうけど、この落ち着かない時期に読んでも集中できずに中途半端で終わってしまう。それに、仕事がある日に期限切れの本を返すのは気がひけるので、とりあえず返却することにした。
いつもの道をたどり、普段は職場である図書館に、今日はお客として入る。列に並んでいると、ちょうど大沢さんが座っているカウンターが空いた。
「すみません、かなり過ぎちゃったんですけど」
苦笑いしながら本を差し出す。
「はい、次回から気をつけてね。休みの日にわざわざありがとう」
何事もなく返却作業は済んだ。一件落着だ。
帰り道、いつもは寄り道せずにまっすぐ家に帰ってしまうのだけど、近くにあるショッピングモールに立ち寄ってみた。比較的値段の安い喫茶店に入ってから、時間を費やせるものをなにも持っていないことに気づいた。仕方がないので、道行く人をぼんやり眺めた。
私と同年齢らしき人たちが、赤子を連れて歩いているのが目に入る。世間では男性も子育てに参加する流れになっていて、年々赤子を抱えた男性が増えている。先日の夢が正夢になる日も近いのかもしれない。
こんなにたくさんの人がいるのに、私が知っている人なんて、多分この建物内に数人程度、いるかいないかだ。名前は知っているのに、顔は知っているのに、それだけで知っている人と言ってもいいと思っていたのに。肝心なことはなにも知らない。猫の方がよほどよく知っているのが現状だ。
「知らなくてもいいことを知って、考えなくてもいいことを考えるようになった」って、どういうことなんだろう。彼にあの曲が入ったCDを貸したのは、知り合って間もないころだった。
放課後、なんとなく部室にいるのに慣れてきたころ、珍しく上級生がいなかったので、持ってきたCDをかけていた。当時谷山浩子さんの曲が好きでよく聴いていて、ほかにも何曲か流れていたのだけど、この曲が終わった瞬間、町田君は「今の、なに?」と言った。
「ああ、これ? そっくり人形展覧会だよ」
「なんなの、その、そっくり人形展覧会って」
「だから、歌の題名だよ」
「それ、もう一度聴いていい?」
プレイヤーのボタンを押して、もう一度聴いた。終わってからも、町田君がもう一度聴きたそうだったので、もう一度再生した。「貸そうか?」と言うとうれしそうな様子を見せたので、CDを貸して、一週間後に返してもらった。それがすべてだ。
こうして三十年近く生きていると、「あの時の選択は本当に正しかったのか」と、ときの流れの要所要所で思うことはある。当時高校生だった私には、そういうことは全然ピンときていなかったのだけど。
火曜日の夜、家に帰ると、いつまで経っても猫の姿が見あたらない。
ふと、昔縁日の金魚すくいでもらった金魚のことが思い出された。金魚は翌日水槽から姿を消していて、慌てて探し回ると、水槽からジャンプして飛び出したらしく、部屋の隅で乾燥し始めていた。
途端に、怖くなってくる。いくら幽霊とはいえ、いつも寝床で丸くなっていたのが突然いなくなったのだ。まさか、しびれを切らして他のもっと頭の良さそうな人の所へ行ってしまったのか。もしくは駄目で元々と、町田君の元へ再び向かったのだろうか。彼に電話してみたほうがいいいのか、しかし電話したところでなんと言えばいいのか。
「タミさん、いないんですか?」
部屋の中心に向かって呼びかける。
――どこにいるんですか、と言うべきではないですか? いなかったら、返事はできないでしょう。
きょろきょろ辺りを見回すと、猫はやはり寝床にいたようで、すーっと姿を現した。
――お帰りが遅いので、すっかり気を抜いておりました。最近あっちへいく時期が近づいてきたせいか、以前より少し踏ん張っていないと、姿を見せるのも厳しいのです。この際だから言っておきましょう、タミの姿が見えなくても、例の件に片がつくまで這ってでもこちらに残りますので、心配しないで下さいまし。
「わかりました」
もしかして、週末私に外出するように言ったのは、私に姿が見えないことを悟られないようにするためだったのか。
猫がいる空間が煩わしく思えていたのに。常にいたはずのものが視界に入らなくなってくると、それはそれで心細くなる。
――そんなおかしな顔しないで下さい。世話の焼ける方ですね。
「そんな、おかしな顔なんてしてないですけど」
――そうですか。では生まれつきなのですね。申し訳ないことを言いました。
この猫は、どうしていつもこう一言多いのだろう。なにが、人間の言葉がよくわからない、だ。いなくなったら寂しく、いたらいたで煩わしく、猫というものはなかなか難しい。
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