第19話 未定稿2

 小学生のころ、「ポーカフェイスだね」と言われることが度々あった。新しい言葉を覚えるのが楽しいころだったので、どういう意味だろうとわくわくしながら辞書を引いてみると、「無表情な顔、内心を顔色に表さないこと」と書いてあった。あのときのずしんとお腹に響いた衝撃は今でも忘れられない。 

 そうは言っても、感情を表に出さないということは生きて行くためには必須だ。続けるしかない。逆に、喜怒哀楽をはっきりさせても生活に支障を来さない人たちは、恵まれてるだけなんじゃないかと思う。

 みんなが正直に「こんなのやりたくねーよ」なんて言いながら掃除をさぼったりできるのが、うらやましかった。確かに僕は嫌な顔一つせずに、細々とした雑用を引き受ける。嫌だって言っても義務なんだから、やらざるを得ないだろうと思う。嫌いな人と同じ班になっても「こいつと同じ班なんて嫌だ」なんて言えない。相手が無理なことを言えば、自分が我慢する。思ってることと行動することを切り離せるのは便利だ。でも、損だと思うこともある。

 失敗を恐れてはいけない、とは言うものの、人間は今みたいな暮らしをする前には、常に危険と隣り合わせで生きていたのだ。常に自然の脅威にさらされていた。失敗することは死を意味していた。だから、堂々と失敗できるようになったのはつい最近なのだと、どこかで読んだ。僕は古いタイプの人間なのかもしれない。だから失敗するのは怖い。だけど、周りの人たちはもう少し気楽に過ごしている気がする。僕もそうしたくないわけではないけれど……どうしたらいいのかよくわからない。

こういうのを、何食わぬ顔して冊子に載せたら、みんなどう思うんだろう。おそらく面と向かって感想を言われることはないだろうけど。それとも案外、出してみたら、みんな多かれ少なかれ思っていることだったりもするのだろうか。

 タミも僕に似ている気がする。子供のころ、近所のやんちゃな女の子に誘拐されて以来冒険には懲りたのか。でも、じっとして家の中にいるだけなのに、お局様のような貫録がある。母親には少しも懐こうとしない。父は猫に興味はなく、お互い干渉していない。弟のことは自分より下だと思っているようだけど、母性本能がそうさせるのか、気が向いた時には猫らしい態度をとってあげている。

 最近、新たに勉強に意欲を燃やす目的ができた。とりあえず、大学進学を機に、家を出ることにした。家を出ざるを得ない動機を考えないといけない。例えば、どうしても行きたい研究室があるから京都大学へ行きたい、とか。……ちょっと無理があるかな、京都大学は。地方の国公立大学へ行けば、生活費も安くて、都心の私立へ通うのと大して出費が変わらないということをなにかで読んだ。大学の寮に入れば、そうかもしれない。もう少しよく調べてみよう。この家を出たら、またなにか考えられるようになるかもしれない。

 僕が本当にしたいことはなんなのか。ポーカフェイスの下にどんな表情があったのか、もうよくわからない。鏡を見て試しに笑おうとしても、そこには作りものの笑顔しかない気がする。本物の笑顔は、どこに行ってしまったのだろう。

 他の人を見ていると、不安になることがある。僕は、なにかをしたいという自然な思いが、人並みに湧き上がって来ないのではないかという気がする。なにをすべきか、なにを求められているかはわかっても、なにかをしたいという気持ちがよくわからなくなりつつある。

目の前においしそうな食べ物があれば食べたいと思うし、図書館で面白そうな本を見つけたら読みたいとは思うけど、自分からがんがん、楽しいことを探そう、面白い人に会おうと思ったり、してみたりすることはない。日々の生活を淡々とこなすことはできるけど、人から頼まれたことはそれなりにこなすけど、自分はなにをどうしたいのかと言われると、イマイチわからない。

 いつも面倒そうに寝てばかりいるタミだって、目の前に欲しいものがあれば、僕よりもよほど本気を出す。たまに意地悪して目の前にある餌を取り上げたりしたら、僕にさえも反抗するし、たまに紐で遊んでやると、正気を失うのではないかと思うくらい、遊び狂うことだってある。僕もあれくらい、我を忘れてなにかしてみたいものだ。

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