第12話 三週目②
幼少のころは二言目には「自分で食っていける人になりなさい」と言っていた母親は、父親とそりが悪く、毎日のように言い争いをしていた。茶碗が飛ぶまではいかなかったし、冷え切った家庭よりも争いが表面化していた分だけましではあったが、私は日々うんざりしていた。自分の部屋にこもる機会も増え、自然と勉強するようになった。そういう生活を経た結果、なんとか大学にも行けて、就職もできた。気の合わない人と暮らすくらいであれば、一人で気ままに生きて気ままに死ぬのがよしと思うようになった。つまり、私は親に育てられた通りの人間に育った。もう充分親の要求は満たしたはずだった。
家を出る前までのことを思い返し、自分で選んだこと、親の意見を取り入れたこと、どちらが多かったのか考えてみると、なんとなく親の反対を押し切ってまでなにかをしたという記憶がない。私が親に合わせていたのか、ひょっとしたら親が先回りして私に合わせていたのか、たまたま意見が一致していたのか。
高校も大学も就職も、自分で決めたと思っていたけれども、実は陰で母親に操られて、入れ知恵されて、自分の意志とは反するところを選んでしまったのではないかと疑うようになってしまった。母親が「あのお宅の子はここに入ったんですって」とか、「運よくあの会社に就職できてうらやましいわ」などと言うのが耳に入り、無意識のうちに影響されてしまったこともあったかもしれない、そう思うと、腹立たしさと同時に恐怖を覚えた。このままこの家にいたら、これからもうまく丸め込まれて親の思う通りの人生を歩まされる。たとえそれが世間一般のあるべき姿だとしても、私には無理だった。
お見合いを設定されたその翌週、有休をとると、私は一人で引っ越しをした。客観的に見て、それなりに自己中心的な行いをしていることは承知しているが、一切の悔いはない。
家に帰り、寝ている猫に「ただいま帰りました」と言ってみる。
――お帰りなさいまし。
「起きなくていいですよ。タミさんもお疲れでしょうから」
私が出かけてからずっと寝続けていたのだろうか。大丈夫なのだろうか。四十九日経つ前に消えてしまうのではないかと心配になる。
――普段こうしてあなたの前にいるときは、これはこれで疲れるのです。世を忍ぶ仮の姿であるとはいえ、もうタミはこの世界のものではありませんからね。
心の声が聞こえかのごとき返答に、どきっとする。
――なぜかあの場所へ行くと元気になるのですけどね。あの世に近い場所なのかしら……。
「今日、町田君と共通のお友達と会ってきたんです」
――さようでございますか。なにかお坊ちゃまのお話をされたのですか?
「特にしなかったですけど……そういえば、町田君って、『間違ったもの』とか『本当に必要なもの』とか、やけに気にしてましたよね」
猫の耳がぴくっと動く。顔をあげて、私をじっと見た。意外と目力が強い。
――それについては、長く悲しいお話があるのです。
「なんですか? それ。話して下さいよ」
――プライベートなことですから。本人の了解を得ないでお話しするわけには……。
「でも、知らないと、これからも色々困ると思うんですけど」
――そう言われましても……。
「あの、タミさん、タミさんはなんのためにここにいるんですか? タミさんがここに来たのって、もしかして、そういう町田君に関する情報を私に知らせるためなんじゃないですか?」
猫はそっと目を伏せ、考えさせて下さいと言った。猫の脳みそでどの程度のことが考えられるのか予想もつかないが、今はじっと待っているしかなさそうだった。
たとえるなら、普通の記憶は、その辺に落ちた石ころにそっと埃や土が被さって目立たなくなっていくようなものだとする。それに対して町田君に関する記憶は、深い穴を掘って石ころを埋めた後、その上からしっかり土を被せて両足でジャンプし、すっかりなかったことにしたものと言えるのかもしれない。
でも私は、どういうわけか、その深くに埋めてしまった石ころを掘り起こさなければいけない状況に陥りつつある。今となっては、石ころをどこに埋めたのかなどすっかり忘れてしまっている。その周辺には既に灌木すら生えているかもしれない。
休みが明け、またせっせと本を棚に戻す日々が続く。
この図書館では、本の三分の二が書庫に保管されているらしい。なにも知らない人は、全体の三分の一だけを見て、その中からしか必要な本を探せない。ある本が欲しいと思ったときに、コンピュータで特定のキーワードを入力した人のみが選び出せる本が半分以上なのだ。検索するキーワードがわからない人は、それらの本をいつまでたっても探し出せない。また、一字でもキーワードが違えば、その事柄に関する本とは永遠に出会えない。
返却する本が乗せてあるワゴンを取りに一階に戻ると、「安藤さん、ちょっと今こっちの本が多くて。お願いしていい?」と言われ、久々に地上で働くことになった。
こうして見ると、昼間なのにそれなりに若い人もいる。子供を連れて来ている若い女性もいれば、一人で来ている若い男性もいる。ずっと立ち読みしている人もいる。
一時間ほど経ち、「こっちは大丈夫になったから、また地下お願いします」と言われ、地下に戻ることになった。短い娑婆だったが、地上だといつ話しかけられるかわからないので、地下の方が気が楽だ。自然とまた、最近いつも考えていることを考え始めている。
部活のみんなといるときの町田君、私と二人でいたときの町田君は微妙に違い、クラスのみんなといるときの町田君はまた違って見えた。あまり怒ったりしないけど、あまり笑ったりもしなかった。いつも人の好さそうな笑顔を見せていたけれど、その下で、本当はどんなことを考えていたのだろう。一人の人間が色々な面を持つのはごく自然なことだけど、私は彼の他人に見せる顔のバリエーションをどれくらい見ていたのだろう。そうして、その大元にある彼自身について、どれくらいのことを知っていたのだろう。
仕事からの帰り道、最近では、道端で猫の姿が目につくようになった気がする。みんな、ずっと前からここにいましたけどなにか? といった表情を浮かべている。
真っ暗な中、家の明かりの下で、門柱の上で、丸くなって体を舐める猫を見る。じっと見ていると、猫はやがて私の視線に気づき、じっと私の目を覗きこんできた。今にもなにか話しかけてきそうだったけど、待ってみてもテレパシーは伝わってこなかった。
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