第11話 三週目①

 日曜日までふらふらしているのはさすがにちょっとと思い、静香さんをランチに誘ってみた。二人の家の中間の駅で、十一時半に待ち合わせる。私は二十分前に着き、静香さんは十五分前に到着した。

 私は普段通り、ジーンズとカットソーに、古びたスプリングコートという、学生時代から大差ない服装だけど、静香さんはボルドーの薄い生地のセーター、紺色のひざ下丈のプリーツスカートに灰色のコートという、よそ行きの恰好だ。プリーツスカートだなんて、着るたびにクリーニングに出さないといけないような代物は、私には縁のない衣服だ。実家暮らしで余裕があるんだろうかなどとつい思ってしまうのは、私の悪い癖なのか。

 そんな彼女は、私が既に来ているのを見ると、目を見開いた。

「もしかして安ちゃんって、いつも待ち合わせにはこんなに早く来てるの?」

「まあ、たまたまだよ。静香さんこそ早いね。嫌なことでもあった?」

 静香さんは「え」という顔をする。

「安ちゃんこそ、なんかあった?」

「とりあえずお店入って、食べながら話そうか」

 近くにあったカレー屋さんに入った。ランチメニューが税込み八百五十円、ナン、サラダとヨーグルト、ドリンクもついている。

「誘ってもらってよかった。そう、あんまり家にいたくなかったんだよね」

 連絡したのは朝の八時過ぎだった。彼女のことだから、返事が来るのは早くても十時ごろかと思っていたら、予想に反してすぐに返信があった。

「面白くないことでもあったの?」

「うん。母親に早く結婚しろって言われた」

「相手いたんだ」

 彼女は首を横に振る。

「婚活しろだとさ。私もとうとう、家を出るときが来たかなあ」

 私は大きく頷いた。

「私は実家と距離を置いてるから、今はいいけど、そういうの、なんだかなあって思うよね。ほら、親の世代って、二十五歳までに結婚して、女性は仕事を辞めて、家事をして子育てするのが人としてあるべき姿だったらしいじゃない。だから、こうして娘が独身のまま仕事しながら一人でいるのが、異様なことに感じられるんだよ」

「私も、そうなのかなって思ってたんだけど」

 静香さんはちょっと間を置いてから、

「実際言われてみて、感じたことはちょっと違うんだ」

 そう言って、水を一口飲んだ。

「うちの母親は、自分の育て方が間違ってたから、私がいつまでも結婚できないんだと思っているみたいなの。自分たち夫婦が平均より円満じゃなかったから、私を世間並みの考え方をする大人に育てられなかったから、自分がどこかで間違った育て方をしたから私がいつまでも独身でいる。誰かと手に手をとって協力して生きて行くっていうごく普通の考え方ができない人間に育ってしまったって。

 実際にどうかは知らないんだけど、近所や親戚から、そんな感じで非難されているように思ってるらしいんだ。だから、私に『どこで育て方を間違ったのかしらね』って愚痴って、私がむっとしているのを見て、ストレス解消してるの」

 今更気づいたの、と言うべきか、今まで気づかなくて幸せだったね、と言うべきか。どちらも嫌味になってしまいそうだけど、私は今、静香さんの言うことに心から頷いた。

「じゃあ、この後、物件探しに行こうか?」

「いいね、家賃の相場くらい確認しておくかな」

 やがて運ばれてきたカレーを、私たちは、無言のままひたすら食べた。

 そう、親と自分とは生きている世代も、立場も、考え方も違う。親に育てられたからといって、同じ考え方をする人間にはならない。結婚する、しないが見えやすい問題だから大きく取り扱われがちだけど、それだけじゃない。実家にいる間は、常にあの感じから逃れられないでいた。「なんでこの子は私の思う通りにならないのかしら」「なんで周りを見てみんなと同じように無難にできないのかしら」云々。随所に隠れた無言のプレッシャーは、「やってらんない」の一言に尽きるのだ。 

 カレー屋を出て、しばらく街をぶらぶらして、そうしてまた違う喫茶店に入った。壁もテーブルも椅子も白い。北欧風とでもいうのだろうか、私一人だったらあまり選ばないような店だけど、静香さんの今日の雰囲気には似合っている。運ばれてきたカップはどちらもカラフルだったけど、色も模様も形も違って、そこがまた面白い。おしゃれなカップに入ったコーヒーをすすると、けっこうあっさりした味だった。

「私、親には転職することも言ってないよ」

 静香さんは「今ならわかるかも」と言った。

「べつに、私のすることなすこと全てを認めて欲しいなんて言ってるわけじゃないよ。でも、目の前で『育て方を間違えた』なんて言われたら、じゃあそうして間違えて育てられた私ってなんなのって一瞬思っちゃうじゃん? 単にちょっと八つ当たりしてみたくて言った言葉だったにしてもねえ。『じゃあ産まなきゃよかったんじゃない』って言い返すような年齢でもないけど、『そこまで言うなら、ちゃんと自分の思い通りになるように育てればよかったんじゃない?』くらい言いたくなってしまう……ううん、この怒りの矛先はどこに向ければいいんだ……?」

「そうそう。間違えられない育てられ方をしていたら、もっと違う人生送れてたんじゃないか? とか思っちゃいそう」

 自分の言ったことに、一瞬「?」が浮かぶ。

 間違った育てられ方をしたから、間違えられない育てられ方をしていたら……?

 しかし、話題はいつの間にか静香さんの職場の同僚の愚痴になっていた。それがあまりに私の嫌いな人に良く似ていたので、一緒になってわいわい言って、そうしているうちに浮かびかけた疑問はどこかへ行ってしまった。

 話しているうちに五時になっていたので、結局物件は見ないまま解散することになった。

 大学生のころは、なんだかんだ言って残り物くらいは用意してもらえていたので、家事にとられる時間を気にすることもなかった。結局、文句を言いつつも、親にほぼすべての家事を押しつけていたのも事実だった。台所も洗濯機も一つしかなくて、お互い夜寝て昼間活動する生活様式だと、違う時間帯にそれらを使い分けることは難しくて、結果、母親がすべてを担うことになっていた。手伝おうにもそれぞれ流儀が違うので、分担するのもままならなかったのだ、と言い訳すればできないこともないけれど。

「あのさ、立ち入ったこと訊いてもいい?」

 静香さんが言う。

「安ちゃんも、親御さんとうまくいってないの?」

 しばらくの間、言葉が出なかった。

「あ、ごめんね。安ちゃん、高校生のころはよくお母さんのお話とかしてて、楽しそうな家族なんだなと思ってたんだけど、仕事だって家から全然通えるのに、どうして一人暮らしなんだろうとか、前から疑問だったんだよね」

「私、家を出てから親とは一度も連絡とってないんだ」

「え? もう一年経つよね?」

「引っ越したのは去年の十二月だから、まだ一年ではないんだけど」

 静香さんがなにを訊いたらいいのか迷っているようだったので、こちらから言う。

「母親が勝手にお見合いを設定したの。私の了解も得ずに」

 静香さんは納得したようだった。

 話が中途半端だったけど、詳しく話そうとするともう一軒行かなければいけないので、この話はまた今度ということになった。

 電車に揺られていると、当時の腹立たしい思いがぶり返してきた。とっさに気を静めたものの、気を抜くと、目の前の窓ガラスを叩いてしまいそうだった。

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