第3話 一週目①
猫がかつての体を離れたのは、ある秋のよく晴れた昼下がりだった。
仕事へ行くとき以外は猫につきっきりだった町田君は、ほんの少しコンビニへ出かけたばかりに、猫の死に目に会えなかった。
その日の朝、猫は自分は間もなく他界することを察していたので、今がチャンスとばかりに、いつになく晴れやかな笑顔で彼を送り出した。
――それは、お坊ちゃまに看取ってもらえたらどんなに幸せかと思わないではなかったですけど、目の前でタミが死んでいくのを見せるだなんてねえ。やはりあなた、猫にもプライドというものがあるではないですか。だからタミは、お坊ちゃまが出かけるのを見届けると同時に、さっと庭木の茂みに身を隠し、そのままそこで息絶えたのでございます。
「家の敷地内だったら、どうせすぐに死体が発見されますよ」
猫は「せめて亡骸とおっしゃい」と非難のまなざしを向けた後、
――それが猫の美学というものです。
と、うっとりした様子を見せた。
しかし、猫の不在を知らされたときの町田君の狼狽ぶりは、猫の想像を超えていた。いつになく穏やかな猫の様子を見て気が抜けたのか、二十分程度だった外出が二時間を超えて、家に戻ってきたころには昼になっていた。
「タミが……いない……? なんでだれも気づかなかったんだ!?」
町田君は狂ったように家中を探し始めた。間もなく灌木の陰で猫が息絶えているのを目にすると、黙って亡骸を自分の部屋に運び込み、一晩そこから出てこなかった。
ある程度自由がきくようになると、猫は町田君の元へとまっしぐらに飛んでいった。ときは昼で、町田君は仕事中だった。てきぱきと仕事をこなしてはいたが、目の下にはクマができ、またあまり生気が感じられなかった。
彼が家に帰ってくると、猫はその足に縋りつこうとしたが、どんなに頑張っても、数えきれないほど戯れてきた飼い主に触れることはなかった。食卓の上に乗ってみても、彼は猫に気づきはしない。猫は途方に暮れて、部屋の隅で丸くなった。
やがて彼が眠りに着くと、生きていたころのように「にゃあん」と鳴きながら布団に入ろうとした。ふと、彼の寝顔が安らかでないことに気づく。自分の死がこんなにも彼を追い詰めているのかとも思ったが、そればかりでもなさそうである。
そっと枕元へ移動すると、愛しのお坊ちゃまの寝顔をじっと見つめる。そうして気づいたときには、彼の夢の中にいた。
晴れと曇りのちょうど境目のような天気は、薄明るい午後を思わせる。どこからともなく、音楽が流れてくる。それは、町田君が以前よく聴いていた曲だった。
可愛らしいメロディに乗って流れる不思議なポエム。猫の体を離れたせいなのか、猫はここで初めてその歌詞を聴き取り、内容を把握した。
「タミ?」
懐かしい声で呼ばれて顔をあげると、そこには町田君がいた。
「お坊ちゃま?」
「ああ、タミ! 夢の中だと、タミとも話ができるのか……」
「話ができるのは、夢の中だからではなく、タミが他界して、猫の体を離れたからですよ」
猫の言葉を聞くと、町田君はとそっと目を伏せた。
「お前が死んでしまって、僕はもうどうしていいかわからないよ……」
彼は屈むと、静かに猫の背を撫で始めた。猫はごろごろいいながら、しばらくじっとしていた。
「お坊ちゃまは、この歌がお好きなんですか?」
背を動いていた手がぴたっと止まる。
「タミにはよくわかりませんが、なんだか大変なことについて述べているように思えるのですが」
手がすっと猫の背を離れた。猫が顔を上げると、彼はとても遠くを見ているようだった。
「本当の僕は、どこにいるんだ?」
「ここにいらっしゃいます」
「本当に、そうなのかな」
町田君の視線はまた猫の目に戻る。微笑んでいるものの、焦点が定まっていない。
「今の僕は、幸せに見えるかい? まあ、ある意味幸せではあるんだろうな。経済的に安定していて、意地悪な上司がいるわけでもなくて、親の介護の必要も今のところないし、借金があるわけでもない。
でも、前から思ってたんだけど、僕の人生って、本当はゼロ階から百階まであるビルの、四十五階から五十五階付近をずっとうろうろしている、そんなふうになりつつある気がするんだよ。悔しいことに、起きているときの僕はそのことを忘れてしまう。まあ、安定した生活とはいえ日々の雑務に忙しいからね。
夢の中に来るとそのことを思い出して、起きるとすっかり忘れる。その繰り返しだ。いい加減、自分が嫌になってくるよ。どうしたらいいんだろうねえ」
「いいじゃないですか。起きたときに覚えていないのでしたら、たかが夢の中で考えたことなんかにこだわらなくても」
町田君は猫を見つめる。その視線は、間もなく別の物を捉えたようだった。
「珍しいお客さんですね」
猫は耳を疑った。背後から聞こえるその声は、目の前にいる町田君の声とまるで同じ声だった。振り返ると、そこには、町田君と瓜二つの人物がいた。
「あなた、誰ですか?」
「誰だっていいでしょう。猫なんかには関係ありません」
「猫なんか、ですって? いくらお坊ちゃまの真似をしたところで、タミを知らないだなんて、偽物もいいところですよ」
町田君によく似た人物は、冷ややかな笑みを浮かべる。
「君のことならよく知ってますよ、タミ。子猫のころ、近所の清美ちゃんに可愛がられ……というよりもいじめられて、誘拐されて服を着させられ、必死の思いで逃げようと清美ちゃんをひっかいて、当時モンスターペアレンツのはしりだった清美ママに処分されそうになったのを、私が身を粉にして助けてあげたタミ」
彼の言うことは、そっくり本当だった。
「タミは知らないだろうな。私は子供のころ、周りの子供たちはおろか、先生にすら挨拶できない内気な子供だったんですよ。そんな僕が『猫殺しっ』と叫んでいるから、近所の人たちが興味を持ってわいわい集まって来たんです。『もしタミがいなくなったら、おばさんがヤミニホウムッタハンニンダッ』とろくに意味もわからないまま叫び続けた、その結果、さすがの清美ママもタミに手出しはできなくなったんです。
その後、うちの母親は相当嫌味を言われたらしいですけどね」
猫がそっくりな男を睨みつけていると、町田君がなだめるように、
「実はあのとき、彼が助けてくれたんだよ」
と言った。猫は大きな目を、さらに大きく見開いた。
「僕一人ではどうしていいかわからなくて、途方に暮れていたんだ。彼が言ったように、僕はとても内気な子供だったからね。だけど、もしタミに万が一のことがあったら、生きてはいかれないだろうと思った。どうせ死ぬなら、なんとしてでもおばさんに立ち向かうべきなのではないかと考えた。
なにか言うよりも、黙っておばさんの頭に向かって石を投げる方が簡単かもしれない、そう思って石を拾おうとしたそのときだった。頭の中で声がしたんだ。『ちょっとだけ、任せてもらってもいいですか?』って」
「あのときは私も慌てました。あの年で犯罪者扱いされるのは、後々不便が多そうですからね。それに、あんな人でも清美ちゃんにとっては母親ですから、入院でもしようもんなら、タミがますます恨まれていじめられる危険がありました」
どちらの言うこともなんだかおかしいと思いながら、猫は口を挟めずにいた。
「まあ、そういうわけで、彼をあまり責めないで欲しいんだ」
「お坊ちゃま、そうは言っても、この者はいったい何者なのですか」
口を開こうとした町田君を、よく似た男は制した、
「そんなこと、どうでもいいじゃありませんか。タミはひまそうですけど、彼は明日も早起きして、朝から晩まで働かないといけないんですよ」
「しかし、お坊ちゃまは今の生活に満足されていないだとかで、だからタミは……」
「今の生活に満足しきってる人なんていませんよ。猫と一緒にされても困ります。これ以上、彼を混乱させないで下さい」
猫は思った、自分は混乱させるようなことは一切言っていないはずだと。しかし口を開く前に、町田君によく似た人物に首根っこを掴まれて、ぽーんと放り投げられた。そうしてあれよと言う間に、はじき出されてしまったのだった。
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