第2話 プロローグ②
「は、はあ、まあ」
――どう思われましたか?
「え? まあ、普通というか、楽しそうっていうか、まあ、いいんじゃないですか」
誰とやりとりしていたのかは知らないが、携帯が揺れる度に真剣な顔でチェックしていた様子を思い出す。以前の彼は、あんな人ではなかった。
――楽しそう、ね。うわべだけ見ると、そう見えるのですね。
どこでこういうひねくれた言い方を覚えてくるのだろう、この猫は。
――あなたは、あの光景を見ても、まだそんな呑気なことを言っていられるのかしら。
途端に、猫の声色が変わる。
――猫には人の言葉は正確にはわかりません。しかしながら、その人の声や発する気配で、どういう状態でいるかは、大体わかってしまうのです。
今から思えば迂闊でした。生きていたときだって、気づいてはいたのです。お坊ちゃまが、表面的には平静を装いながらも、一皮剥けばいつも浮かない顔をされていたことを。ええ、わかっていましたとも。でも、あそこまでだったとは。
目の前に私がいることを忘れてはいないだろうか、と気になり始める。
「あの、話がよくわからないんですけど……」
口を挟むと、猫は我に返った。取り乱してすみませんとの謝罪もなく、淡々と続ける。
――私はお坊ちゃまよりも長生きしたわけではありません。しかし、あなたもご存知かと思いますが、猫は人よりも早く成熟するものです。最初は子猫だった私も、あっという間にお坊ちゃまよりも大人になってしまいました。そう、私はお坊ちゃまにとっては、子供でもあり、友人でもあり、そして乳母でもあったのです。
私が言うのもなんですが、お坊ちゃまは格別なお方でした。ちょっと気の弱いところはあるものの、私が近所の悪がきに絡まれていたときには、身の危険を顧みずに助け出して下さいました。自分の鉛筆を削るのも忘れて登校するような幼いころも、私のご飯とお水は欠かさず用意して下さいました。ご自身が寝込んで用意ができないときは、ご家族の誰かが自然に気づくのを待つのではなく、自らどなたかにお願いするような方でした。
よその家の猫と話すと、子供というものはまずそんな行動はとらないそうです。目の前にキャットフードの袋があるのに、水道があるのに、気づいてもらえるまで声を枯らして鳴かないといけないなんてことは、ざらにあるそうなのです。そんな話を聞くたびに、タミにはお坊ちゃまの素晴らしさが身に染みました。
タミって誰よ、と思う。この猫の名前だろうか。やけに渋い名前だ。
「それで、なにが問題なんでしょう」
猫はなにを言おうか考えてでもいるように、遠くを見た。それから一つ欠伸をすると、あろうことか、すーっと眠りに落ちてしまった。
「なんなのこの猫、話の途中なのに……、それにこんなでぶ猫がいたら、寝れないじゃない!」
猫を揺すって起こすことも考えてみるけど、触れなかったら怖すぎる。とりあえずそのまま放置することにする。
お風呂から出たのに水分補給もしていなかったことに気づく。もちろん髪を乾かす間もなかった。体は冷えつつある。そんなことも忘れて変な猫と向き合っていたとは、笑うべきか、心配するべきか。
生憎カフェインレスの飲み物がなく、お白湯を片手に今までのことを整理してみる。
猫が言っていた町田晋というのは、十年くらい前、つまり高校生のときに同じ学年にいた人のことだ。クラスはずっと違ったけど、同じ部活だった。卒業してからほとんど接点はなかったが、少し前に、部活の後輩の結婚祝いパーティーを企画する幹事会に誘われて、そこで久々に会ったのだった。
――うっかり寝てしまいました。私としたことが……。
猫の声に、突然現実に引き戻される。
――どこまで話しましたっけ?
「町田君が、猫さんにとってとても大切な存在だ、というお話だったかと思いますけど」
――タミです。
流れからして、これから猫のことは「タミさん」とでも呼ばないといけないのだろうか。気づかれないように、小さく首を横に振った。
その夜は、こんな猫と出会ってしまっただけで十分だと思っていた。しかし心のどこかでは、予感せずにはいられなかった、奇妙な猫が現れたのは、奇妙な出来事の前触れに過ぎないのだということを。まさか、このように化けてまで出てきた猫の用事が、「お坊ちゃまが、かつてお昼代として貸したまま未だに返してもらっていない五百円のことを懸念しておられて……」なんてことあるはずはない。
そうして猫が語りだしたのは、この猫の存在を超えるような、摩訶不思議な話だった。
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