猫の夢
高田 朔実
第1話 プロローグ①
秋の夜のつるべ落としとは、よく言ったものである。最近、駅から家までの道のりがやけに暗いと思ったら、いつの間にか十月に入っていた。 日々寒さを増して、きりきりと締め上げられていくような、追い詰められていく感覚。嫌いではないけど、つい身構えてしまう。 アパートのドアを開けると、適度に散らかった、一人暮らしの部屋が待っている。私を迎えてくれるのは、知人からもらった多肉植物、星の王子様くらいだ。実家に比べたら、台所もお風呂もおままごとみたいにこじんまりしているけど、煩わしさはない。 私、安藤涼子は、数週間前に数年間勤めていた会社を辞めて、現在は隣の市にある図書館で日銭を稼ぎながら日々過ごしている。新たな職を得てからはや二週間。金曜日の夜の解放感はたまらない。自家製ロコモコがおいしい喫茶店でちょっと豪華に夕飯を済ませて、珍しく缶ビールも買い、部屋に入るなり、思わず鼻歌を歌ってしまう。 普段よりゆっくりとお風呂に入り、出てきたときのことだった。タオルで髪を拭きながら部屋に入ると、ベッドの上に猫がいた。 よく肥えた三毛猫だった。美しい毛並だが、あまりの貫録に「可愛い猫ちゃん」と言うのは躊躇われる。辛口の人なら、はっきり「でぶ猫」と呼ぶことだろう。 当然ながら、あまり新しいとはいえない木造アパートにも、鍵というものはついている。夏場は窓をうっすら開けて出かけることはあるにせよ、今はさすがにそんなことはしていない。アリやクモ、せいぜいゴキブリくらいは間違えて入ってしまうにせよ、どでんとした哺乳類が入って来られるような隙間など、どこにもないはずだ。 よく、山の中でクマに遭ってしまったら、決して目を逸らしてはいけないと言う。動物というものは、背中を見るとつい追いかけたくなるらしい。ばっちり目が合ってしまっている今、逸らすのはかえって危険だろうか。しかしそれ以前に、目の前にいるこれは、動物といっていいものなのか、あるいは別のものとして認識すべきなのか。 混乱しながらも、一方で冷静に考えている自分がいる。一週間の仕事を終え、幸福な気分で冷蔵庫からビールを取り出すはずだったのに。車で猫を轢いたこともなければ、公園で嫌がらせをしたことすらない。そもそも猫なんかにまったく興味はない、そんな私の元に、なぜ猫のお化けが現れる必要があるのか。なにを勘違いしているのか知らないけど、どうか自分の過ちに気づいて……猫に目で訴えてみる。――いつまでそうして突っ立っているおつもりですか。 猫が言った。猫が、言った……? いや、言うはずがない。だけど、私の耳は猫の声を聴き、脳はその言葉を認識している――、いや、そんなこと納得できるはずがない。今のは空耳、あるいは幻聴、そう思ってみようとする。――あなたはいつもそう。そうやって、なにもしないで黙って見ているだけ。だから男にも逃げられるんですよ。 なんとまあ、これが猫の言葉なのか。なぜ見ず知らずのでぶ猫に、こんなことを言われないといけないのだろう。しかも、男に逃げられたりなどしていない。「なんであなたがここにいるのか知らないけど、私はあなたに恨みを買うようなことは一切してません。はっきり言って猫なんて興味ないし」 猫は値踏みするように私を見る。――会話のキャッチボールになってないわ。 やがて発したのは、なんとも失礼な言葉だった。猫は、息を吸い込む私を制し、続ける。――まあ、それはいいとして、今はあなたと無益な言い合いをしているひまはないのです。私がどういった素性で、なんのためにここにいるのか。あなたが知りたいのは、そういうことじゃないんですか? やけに筋の通ったことを言うお化けだ。簡潔に「はい」とだけ答える。猫は、もう一度自分に心当たりはないかを尋ねた後で、なんとも奇妙なことを口にした。「私はススムお坊ちゃまに可愛がられていた者です」 ススムという名の知り合いはそう多くはない。その中で、ある人物が真っ先に思い浮かんだ。もし猫の言っていることが本当で、今浮かんだ人物とこやつの飼い主が一致するようであれば、私はどうしたらよいのだろう。素知らぬ振りして話を聞き出すべきか、それとも即刻追い出すべきか。「町田君の猫が、私になんの御用でしょうか」――御用というほどのものではありませんが。 やはりそうだ。訂正しないところをみると、猫の飼い主はあやつ、町田晋のようだ。――あなたにお尋ねしたいことがあるのです。「なに?」 猫はちょっと間を置いてから「なにをですか」と言う。敬語を使え、ということらしい。面倒な猫だ。「なにをですか」――実は私、つい先日寿命が尽きたのです。 せっかく言い直してあげたのにあっさりと無視される。しかも思った通りの展開だ。――あなたもご存知かもしれませんが、生き物は、魂が体を離れてから四十九日経つと、魂もまた完全にこの世から離れることになります。私はおかげさまで、家猫としてのんびりと満ち足りた日々を過ごすことができて、思い残すことはなにもありませんでした。 とは言っても、住み慣れた家、慣れ親しんだ人々とこれからずっと離れるかと思うと、やはり名残惜しさはあります。他界してからの細々とした手続きを終えると、私は真っ先にお坊ちゃまの元へと飛んで行きました。 聞いてますと示すために、軽く頷く。――ところで、あなたは最近、お坊ちゃまにお会いしましたね?
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