刺客
「まだだぜ……!
焦るなよ……!」
傍らからイルにそう言われるも、ミヤとしては半狂乱の状態であり、心の余裕など存在しない。
水面で、激しく浮き沈みを繰り返すウキ……。
何より、釣り糸を通じて竿に伝わってくるこの引きが、今、一つの生命と格闘していることを雄弁に伝えてくれていた。
「ミヤ様!
がんばってください!」
同じく傍らに控えているピエールが、自らの竿は手放さないまま励ましてくる。
「そんなこと……言われても……!」
確か、釣りというものは、食いついた魚を手元に引き寄せるのだったか……。
頭では理解できていても、それを実行できるかは全く別の問題である。
そもそも、ろくに運動などしたことがないミヤであり、釣り竿を持っていかれないよう必死に両手で握り締めるのが精一杯であった。
だが、それは確かに効果があったらしい。
「いいぜ。
魚が大分弱ってきてる。
もう少しの辛抱だ……!」
自分自身も疲れているため、ミヤには全く知覚できなかったが……。
イルの言によれば、どうやら相手の体力は限界に近づいているようだった。
その後もしばし、釣り竿を手に格闘を続ける。
すると、ついにその時は訪れた。
「よし、いいぜ。
そのまま竿を引き上げてくれ」
言われるまま、最後の力を振り絞って竿を持ち上げる。
「――よっと」
すると、すかさずイルがタモですくい上げてくれた。
「……小さい」
釣り上がった魚を見て、まず驚いたのはその小ささだ。
全長は、おおよそ二十センチといったところだろうか。
かつてミヤが愛用していた桜の杖よりは大きく、今現在、腰に差しているとこやみの杖よりは小さい。
だが、こんな小さな生物が、つい先ほどまで釣り竿ばかりか、それを握るミヤ自信まで川の中に引き入れかねないほどの力を発揮していたのである。
生命というものが秘める力の、底知れなさを感じられた。
「紅鮎なら、大きさはこんなもんだ。
しっかりと脂も乗っているし、塩焼きにしたら美味いぜ」
一方、ミヤの言葉を勘違いしたらしいイルが、そう言ってビクに真紅の魚を放り込む。
「ようし!
ボクもミヤ様に負けてられませんね!」
一方、ピエールの方は、気合いを入れながら竿を振るっていた。
おだやかな……。
実におだやかな、一時である。
この忘れるべき森という場所は、魔獣や自らの意思を持つ植物も数多く、決して気を抜いていていい場所ではない。
しかし、今ばかりは……。
ごく当たり前の森で、休日に釣り糸を垂らしているような……そんな気の休まる空気をミヤは感じていたのだった。
静寂を破る声が響いたのは、そんな時のことである。
「なかなか、美味そうな魚じゃねーか。
オレにも、一匹分けてくれよ」
いつの間に、ここまで近づいていたのだろうか……。
茂みをかき分けながら、一人の男が姿を現す。
その右手には、箒を携えており……。
腰に杖を差していることから、魔法使いと見て相違ない。
だが、その他の格好は、これまでの人生で目にしてきたいかなる魔法使いとも異なるものであった。
まず、特徴的なのは、黒く染め上げた皮鎧に見を包んでいることだ。
それらは、見るからに硬くなめしてあり……。
おぼろげながら魔力を感じることから、素材として用いているのは尋常な生物でないことが知れる。
染料で染めたらしい金髪は、油でも使っているのか天に向かって逆立っており、見る者へ威圧感を与えずにはいられない。
両の耳には、ジャラジャラと音を立てそうなほどピアスが付けられており、それもまた攻撃的な印象を高めていた。
総じて、まともな……。
少なくとも、魔術学院のような機関で、正統な教育を受けた魔法使いのそれではないのである。
「おお、さっきから妙な気配を感じると思ってたけど、人間のもんだったのか!
しかも、あんたは俺と同じ男だろう?
今度こそ合ってるよな?」
こんな森へ、突然姿を現した頓狂な格好の男……。
警戒心を抱いたミヤと正反対に、笑顔を浮かべながらそう言ったのがイルであった。
「ああん? 見りゃ分かんだろうが?
つーか、お前、何だ? その変な仮面は?」
箒を投げ捨てた男が、舐め回すような視線をイルに向ける。
「あー、やっぱりこれ、変なのかな?」
仮面のふちを指でなぞったイルが、苦笑いを浮かべてみせた。
「まあ、仮面のことは置いといてさ。
あんたも紅鮎の塩焼き食ってみたいのか?
なら、釣り竿の予備があるから貸してやるよ。
そんで、釣り糸を垂らしながら、こんな森まで何の用で来たのか教えてくれ」
だが、次の瞬間には笑顔を取り戻し、そう提案したのである。
「釣りかあ。
釣りは、しばらくやってねえなあ……」
男は意外にも、思案げな顔をしてみせたが……。
「でもまあ、いいや。
おめえらを殺して奪うことにするわ。
その娘が持ってる、とこやみの杖もろともなあ」
すぐに凶悪な笑みを浮かべながら、腰の杖を引き抜いたのだ。
長さはおおよそ、四十センチといったところか。
赤を下地に黒い稲妻が走るような模様を描かれており、持ち主にふさわしい攻撃的な雰囲気を感じる杖である。
それが、六芒星を描くような動作で振るわれた。
「――え?」
――まさか、攻撃してくる人間がいるとは。
おそらく、イルはそのような思いを抱いているのだろう。
この森で育ち、人間の悪性というものを知らない少年からは、普段の俊敏な反応が失われていた。
「――ブレンサ!」
男の魔法――闇の攻撃魔術が完成し、杖によって描いた六芒星から漆黒の稲妻が放たれる。
「――テメリカ!」
それを阻んだのが、ミヤの展開した魔術だ。
初歩的な防衛魔術は、イルの眼前で青き光の盾を生み出し……。
――バッヂイイイイイッ!
そのまま、男が放ったブレンサを受け止める。
手にしたとこやみの杖が、いつもの鼓動を発しながら熱さえ持ち始めた。
まるで――戦いへ興奮するかのように。
――しゅううううう。
おそらく、空気の中に含まれている水気が、今ので蒸発したのだろう。
もうもうと漂う水蒸気を残し、攻撃と防御……二つの魔術が共に消え去る。
「おいおい、テメリカごときでブレンサと相殺しただあ?」
これに驚いたのが、正体不明の男……。
いや、闇の魔法使いである。
「とこやみの杖、聞いていた以上の代物じゃねーか。
だがまあ、それを持ってるのが小便臭いガキじゃあ、宝の持ち腐れだなあ」
「ミヤ様に対して、小便臭いとは何ですか! 失礼な!」
釣り竿を投げ捨てたピエールが、憤慨しながらどこかズレた抗議の言葉を言い放つ。
「今、攻撃してきたのか……?」
一方、イルの方はしばしぼう然とした様子でいたが……。
「そうか……。
お前が、ミヤの言う悪い人間ってやつなんだな。
お前みたいな奴がいるから、ミヤまで悪者扱いされて、学院を追い出されたってわけか。
今ので、よーく分かったぜ」
そう言うと、普段の温厚さが嘘のように消え去った顔で、油断なく前に踏み出したのである。
これは――狩りに挑む際の顔だ。
「おーおー、やる気か?
いいぜ。逃げ回って殺されるか、抵抗して殺されるかの違いだけだ」
そんなイルたちを見ても、闇の魔法使いは余裕綽々といった様子であった。
「とこやみの杖とてめーらの命、このヒルデス様がもらい受けるぜ」
そして、威嚇するように舌を出し、両手の中指を突き立てながらそう宣言したのである。
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