3月11日 桜坂 八重
「ふぬぐぅおぉぉぉぉ」
「がーんばれ、がーんばれ」
外から女性のうめき声と軽い調子で励ましている弟の声がする。
昼間なのにきっちり閉めているカーテンをちょっとだけずらし、隙間から眼下を覗いてみた。
玄関前に置かれた大量のダンボールを二つ重ねて軽々と持ち上げる弟。……と、悪戦苦闘している女性。
大きめのダンボールを持ち上げようとしているが、想像以上に重かったようで踏ん張りながら「とやあああぁ!」「どりゃあああぁ!」という威勢のいい声だけが響いている。
「あの服……」
ポケットがいっぱい付いているズボンに長袖のシャツ。ぴったりと肌に張り付くようなサイズなのが……あざとい。でも、悔しいけど似合っている。
スタイルは細身なのに胸が無駄に大きいし、顔も悪くない。というか、美人さんだ。
「ジンちゃんに馴れ馴れしくしてっ! でも……楽しそう」
生で見たのは初めてだけど、彼女のことは知っている。紹介された日にネットで調べて動画もいくつか観たから。
元気で明るくて、声も大きくハキハキしていて……眩しく見えた。
今の私とは正反対。それでいて……少しだけ昔の自分に似ている。自信満々で怖い物知らずで天真爛漫だった、あの頃の私に。
今は、その面影なんてどこにもないけど。
こんな引きこもりで根暗でなんの役にも立たない女より、彼女のような人に惹かれるのは当然。
「…………」
なんか、落ち込んできた……。
あ、あの子の性格はわからないけど、もし、もしも、弟が気に入って付き合うことになるなら、姉として応援してあげないと。
「ちょっと、陣! 儚げで可愛い女の子が困っているんだから、手を貸してあげようとか思わないわけ!?」
「儚げ? 可愛い? ちょっとわからないですね」
睨みつけられた弟は素知らぬ顔で肩をすくめる。
「うがあああぁっ」
ダンボールから手は放さずに、その体勢のまま噛みつくように歯を鳴らしている。
威嚇しているつもりなのかもしれないけど、子犬がじゃれているようにしか見えない。
そっとカーテンを閉めて、窓に背を向ける。
これ以上見ていたら、もっと嫉妬しそうだから。
「どうするつもりなのかな」
今のところはあの子……ディヤさんに夢の内容を明かしていない。
本当のことは何一つ知らない状態で家の補強をやってもらっている。
お金は払っているけど、四月に起こる大惨事については何一つ知らない。一ヶ月も経たないうちにあんなことになるのを事前に知れば、色々とやっておきたいことがあるはず。
それこそ身内や友人に危険を知らせることも可能だから。
「でも、それが逆にネックなんだよね」
弟は「あのゾンビパニックが仕組まれたものだとしたら、元凶である連中は情報の漏洩を異様なまでに警戒しているはず。もし、そいつらの目に触れたらどうなるか」真剣な顔で私を諭した。
ゲームや映画やマンガなら、元凶は国家絡みか巨大な組織。本物のオカルト系だったらもっとヤバい。そんなところを敵に回したら、私たちに勝ち目はない。
「敵の悪巧みを事前に察知して一般市民の主人公たちが解決しました。……なんてのは、創作物の中でしかあり得ない」
わかっている。そんなのは言われなくてもわかっている。
慎重に慎重を期して行動しよう、という弟の判断は正しい。自分たちだけでも助かりたいなら、何も間違っていない。
「他人は怖い……はずなのに」
私は――偽善者だ。両親の事故の一件で人間嫌いになったはずなのに、それでも助けられる人は助けたい、そう願ってしまう。
でも、自分や弟の命を天秤にかけたら、どちらに傾くかは明白。
だけど、でも、だって、それでも――。
その言葉がリフレインしている。
「もう、やめやめ! ゲームでもしようっと」
PCの前に座り、いつものゲームを起動させる。
そして、ゲームパッドを握り……机に置く。
「何やっているんだろ、私」
弟とディヤさんは一生懸命に働いている。
期限の日が近づいているから、やるべきことは山積みのはずなのに。
日持ちする食料品の注文はネットで済ました。他にも今後の生活で必要そうな本も既に手に入れている。
サバイバル、農作業、植物図鑑、その他諸々。パンデミック後の世界で役に立ちそうな本を手当たり次第購入した。
先々日に届いたそれを寝室の本棚に収納したところ。
「何もしないのも気持ち悪いし」
誰が訊いているわけでもないのに言い訳じみた言葉を口にして、椅子から立ち上がる。
ディヤさんは一階だけを使う約束なので、この階にはこない。
それがわかってはいるけど、そーっと扉を開けて忍び足で両親の寝室へと向かい、静かに扉を開けて滑り込む。
家具のほとんどを捨てた寝室にはいくつかのダンボールがきちんと整理して置かれている。
ダンボールの側面には『食料』『日用品』『飲料』でかでかとマジックで書かれていた。
「性格よね」
これをやったのは言わずもがな弟。几帳面な性格が出ている。
本棚から農作業用の本を取り出し、ページをペラペラとめくり目を通す。
探していた内容の記載があるのを確認してから小脇に抱え、屋上へ繋がる階段を小走りで進む。
「ふはぁー」
扉を開け放つと、少し肌寒い風と温かい日差しが私を襲う。
普通なら心地いいのだろうけど、引きこもりの私には少し刺激が強い。
「絶好の日向ぼっこ日和だけど……今日は我慢」
屋上に置かれているキャンプ用の椅子が目に入ったけど、それを無視して扉脇に設置した物入れの蓋に手をかける。
開くと中にはスコップや肥料、植物の種、等の家庭菜園に必要な物が揃っていた。
「えっと、何から手を付けたらいいのかな」
丸形や大きめのプランターがいくつも屋上に並べられている。ここに食べられる野菜を植える手はずになっているが……屋上の片隅だけプランターはなく、レンガで囲われた花壇のような物がある。
「もう、完成していたのね。さすが、仕事が早い」
ここは「プランターじゃ、足りない!」と断言した弟が自ら手作りした。何を植えるかは既に決まっている。
「あのサツマイモにかける情熱はなんなのかしら」
好物であるサツマイモだけは大量に育てたいそうで、その為の専用スペース。
……私も嫌いじゃないから別にいいんだけど。
「さーてと、まずはこの季節におすすめで簡単な野菜選びから」
持ってきた本で春にかけて育てる野菜を調べる。
「結構いっぱいいけるんだ。うーん、キャベツ、ほうれん草、トマトあたりかな?」
他にも候補はあったけど、使い勝手が良さそうなのはこの辺りだと思う。
悪戦苦闘しながらも、なんとか種植えと水やりを終えた。
本だけではピンとこないところもあったので、農業系の動画で調べながら頑張ってみたら思ったよりもスムーズにやれた、と思う。
まあ、想像以上に時間がかかったのは気にしない。
腰を伸ばしながら、屋上から周囲を眺めると少し暗くなっていた。昼間に比べると風も肌寒い。
「もう、夕方なんだ」
こんなに集中して長時間体を動かしたのなんて何ヶ月……何年ぶりだろう。
そーっと屋上の縁に移動して、恐る恐る庭を覗くと弟もディヤさんもいない。耳を澄ませてみるが声も聞こえない。
「二人とも何処で何をして……まさか、ナニをしてないでしょうね!」
慌てて家の周りを注意深く観察するが、何処にも姿がない。
屋上の扉を開けて二階まで駆け下り、勢いで一階まで行きそうになったが足が止まる。
嫉妬や心配で胸がいっぱいなのに、他人と会うかもしれない、という恐怖が足を鈍らせてしまう。
結局、自分自身が一番大切なんだ、私は。
そのままじっとしていると、階下からかすかな音が流れてきた。
「……ダメ……もう……今は」
あの声はディヤさん!?
息づかいが荒く途切れ途切れに聞こえてくる声は妙に色っぽい。
一瞬、頭に血が上りかけたが深呼吸をして冷静になる。
「なんてね」
ふっ、普通ならここで勘違いをする場面なのだろうが、そこまでバカじゃない。
声の発生源はたぶんリビング。だとしたら家に私が居るのを知っていて、リビングでいちゃこらする勇気なんて弟にはない!
「ほらほら、ガードが甘いぞ。おっと、もう逃げ道はないみたいだけどぉ?」
「きいぃぃぃぃ! いやらしいことしてんじゃないわよ! ちょっと、今のハメでしょハメ! 手を抜きなさいよ!」
聞こえようによってはエロさを感じる内容だけど、時々、打撃音と他の人の悲鳴や必殺技を叫ぶ声がする。
「ほーら、やっぱりそういう、べたべたなオチだった」
ゲームで熱中している二人が少し羨ましいけど、私は踵を返し自分の部屋へと向かう。
もし、妄想通りの関係だったとしても、姉である私に弟の自由恋愛を咎める権利はない。私だってわきまえているつもり。
……大切な弟を奪われる悔しさはあるけど。
大丈夫。もし一緒に暮らすことになっても、ちゃんと応援出来る。
共同作業で二人の距離が縮まり、ゾンビに襲われるかもしれない過酷な状況下。吊り橋効果で親密になり、毎日この家でイチャつき始めて……。
――あれ? 私……我が家で居場所なくない?
極限状態で、毎日カップルを眺めて暮らすの?
私だけ独り身で?
「生き地獄!?」
大切な弟奪われ、それを歯がゆい思いで見ているだけなんて。
「寝取られの性癖なんてないわよ!」
「んー? 今、声がしなかった? もしかして、お姉さん?」
ディヤさんの訝しげな声が聞こえたので、口元を押さえ慌てて部屋へ逃げ帰った。
しばらくして冷静になったから部屋でゲームを始めようとしたけど、このオンラインゲームもあと半月ちょいで接続不可能になる。それがわかっている状態でやる気が起こらない。
「本当に四月になったら……」
弟の能力は疑う余地がない。
嘘を言って騙している、なんてこともあり得ない。それは断言できる。
このまま放置していたら大勢の人が死ぬ。でも、情報を流出させて諸悪の根源に伝わり弟が殺されたら……そう思うと怖くて怖くて行動に移せない。
「別に私たちが殺すわけじゃない」
ただ、見て見ぬ振りをして――見殺しにするだけ。
ベッドにうつ伏せで寝転び、枕を後頭部に押しつけもがく。
あの日から、ずっと、ずっと、葛藤が続いている。
弟は完全に割り切っているように見えた。
私たちが助かるために全力を尽くしてくれている。そのことに対して不満を口にする気は毛頭ない。
「同じことを繰り返してる」
午前中も同じことで悩んで、今もまた。
「八重姉、晩ご飯できたけど……一人で食べる?」
扉の向こうから気遣う声がする。
もう、夕ご飯の時間なんだ。
「ごめんね。まだ、他の人と一緒に食べるのは無理かも」
「いいんだよ。じゃあ、八重姉の分を持ってくるから」
「ありがとう……ジンちゃん」
顔を合わせる勇気もないくせに、助けたいと願う。自分の偽善っぷりに泣きそうになる。
勇気を出さないと。
ディヤさんが大丈夫な人間か、見抜けるのは私だけ。
自分のために、弟のために、一歩踏み出す勇気が欲しい。
意を決してドアノブを握った瞬間に浮かぶのは、あのマスコミと親戚の顔。
同情を装った仮面を貼り付け、欲望まみれの薄汚い心を隠し接してくる。
アレを思い出すだけで、全身が震え、足の力が抜けていく。
「情緒不安定すぎて笑える……」
今日一日で感情がどれだけ揺れ動いたのか。
「変わりたいなぁ」
深夜にスマホのアラームが鳴る。
念のためにセットしておいたけど、普通に起きていた。
スマホを手に取り、そーっと扉を開けて一階に降りていく。
ディヤさんはキャンピングカーに戻っているのは確認済み。だけど、それでも、警戒してしまう。
一階にはリビング、ダイニング、水回り、客間が設けられている。
冷蔵庫からお茶の入ったペットボトルを取り出すと、自分の部屋には戻らず奥へと進んでいく。
直ぐに行き止まりとなって、右手にトイレの扉と風呂場への扉が並んでいる。
左手には私の身長よりも高い両開き扉付きの棚がぽつんと置いてあり、右側の扉だけを開く。
そこにあるのはぎっしりと詰まったCDケース。洋楽から邦楽、ジャズ、クラシックとジャンルに統一性がない。
小さくため息を吐き、手を伸ばす。
「これって父さんの趣味よね」
下から七番目の棚の右から七個目のCDケースを傾けると、ガコンッ、鈍い音がした。
すーっと本棚が左にずれると下に繋がる空洞が現れる。
ここは地下室に繋がる隠し階段。
無駄に凝ったこのシステムは男のロマンらしい。ちなみに弟もこのギミックが気に入っている。私にはさっぱりわからないけど。
「さーて、今日もストレス発散しますか」
防音が完璧な地下室は気兼ねなく大声を出せる空間。
たまには息抜きしないと、ね。
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